サイト案内螺旋機構「太陽の迎え子」目次 / 前頁次頁



雅の民の章、一

 女神の風はサリティナに優しかった。今までご苦労様とでも言うかのように彼女を包み、衝撃すべてから柔らかな身体を護りとおす。暖かい風に長い髪の毛を巻き上げられて、思わず笑みが零れた。
――めがみさま、くすぐったい。
 気分が高揚し、頬が火照るのが分かった。こんなにも近くに風の女神の存在を感じる、それは自分がまだ生まれていないからなのだ。今から彼女は生まれ落ちようとしている。母なる女神の胎内から、風の吹き渡る大地に。不安はなかった。キリサナートーは、世界のどこにでもいる。どこからでも、サリティナを見守っている。だから……怖くなんてなかった。
 ゆっくりと落下していく。女神の腕に抱かれて、静かに……音もなく……ただ柔らかに。
『生まれる』ってどういうことだろう。冷たいんだろうか。怖くはないけれど……でもずっとここにいたい。
――耳元で鳴る風の音色が変わった。今度は視界がきく。緑の霞かかったようなぼんやりとした景色――自分は女神の上に生まれ落ちた。
 記憶の中でサリティナが成長し、黒い影の塊が少女の形をとり始めた。見慣れた髪の毛、手、足、輪郭。サリティナの大好きな人。記憶がつながり始めるずっと前から一緒にいたという。
――ディア、まって。
 手を伸ばして初めて、自分の身体の存在を実感した。確かにこの世界で生きている自分。
 そして――――もう生きてはいない、ディア。
――ディア、いかないで。ティナもつれていって!
 心が瞬間凍りつき、その事実を弾き出す。認めたくない。完全な拒否。ずっと側にいて欲しい人、それなのに……彼女の命が潰える瞬間を、自分は確かにこの目で見たのだ。
――めがみさま、ディアをたすけてください……
 ディアはいつでも女神様のために一生懸命だったから。
 いつだって、女神様のためだけに生きていた人だから。
 わたしはそんな彼女が大好きだった……。
――それがむりなら、わたしをディアとおなじところにはこんでください。
 あなたの、風で。

――行くべきところは在らぬのか。

 ざっと……風は、激しく打ち鳴らされた。サリティナの身体の芯を揺さぶる、低い声。風が声に呼応して蠢く。喉と胸を締め付けられるような、力に満ちた声だった。緑の霧の向こうから、サリティナに道を指し示す大きな手のひら。
――ディアと一緒にいたいんです……ずっと。
 声の主――キリサナートーは、サリティナの言葉をあざ笑うかのようにくすくすと声を上げた。強い落下――大地に逆らう女神の力が身体を離れたのだ。

――巫女、お前の、行くべきところは。あの……私の息子の腕ではあるまいか。

――息子?
 風の女神キリサナートーが持つものは、ただ彼女に仕える清らかな巫女のみ。息子はいない。孤高の女神と呼ばれ、気ままに大地を駆けるキリサナートーに子はいないのだ。
 それは神殿で暮らしてきたサリティナが良く知るところだった。それとも、キリサナートーが巫女たちに明かしていない事実があるのか。

――私が置いた太陽の息子よ。存在しないとは言うまい。

――太陽の息子……ということは、ハルヴァ殿下ですか?
 女神の最初の創造物である太陽の王、ハルヴァはその弟だ。
 サリティナはぼんやりと、ずっと自分を護っていてくれた腕を思い出した。力強い、ただ王弟として宮の内に暮らすだけでは持ちえない身体だった。兄王と同じように――と言っても、彼女は王の姿を仰いだことなどない――整った顔には、いつも優しい笑みを浮かべていた。深い夜の海の色をした瞳で、まっすぐに相手を見つめて話すその姿が頼もしいと思った。サリティナに対してもその態度は同様で、あまりの恐れ多さに逃げ出したくなることもしばしばだった。
 その人が傷つくのに耐えられなくて、腕を差し出したのだ。飛来する石塊から彼を護るために。
 そしてサリティナは思い出した。先刻の慈愛に満ちた風とは対照的な、まるで世界すべてを吹き飛ばしてしまおうとでも言うような荒々しい暴風を。サリティナの身体など簡単に吹き飛んだであろうその嵐だったが、ハルヴァのおかげで彼女はどうにか大地に足をつけて立っていることが出来た。
――女神様……どうして……

――息子が、どうかしたのか?

――どうして、急に御機嫌を損ねられたのですか? あの風はいったい、何があったというのでしょうか?
 跪き、礼拝の時とまったく同じ姿勢でサリティナは問い掛けた。気まぐれのようなあの嵐。

――血が猛る……私の、血が。あの巫女のせいでな。

 声はいっそう低く、寒気が走るような獰猛さを加えて続けた。ふっと風が止むその間隙がサリティナには視界が暗く落ちるほど恐ろしい。手を組んで懸命に祈り続けると、女神は一転して優しい調子のかすれ声で囁いた。

――私の寵愛を受けた巫女姫、あの娘、私の猛々しさも受け継いだと見える。よりにもよって私の愛しい娘たちを次々に屠るとは。

――ディアは優しい人です……本当はとても優しい人。あなたへの祈りもかかしたことがありません。
 人を庇える強さを持つ人。人を護る、その一番大切なことを見失ったことなどなかった人だった。
 ディアが巫女たちを殺したのだと知った後もそれは変わらない。ディアが幼い頃からの友人だからという理由だけで信じ続けるのではない。ただ――彼女は、いつもサリティナに優しかった。

――庇い立てしたくもなるだろう。すべて、お前のためだったのだから。お前のために私の娘は幾人も命を落とした。

――……どういうことですか……?
 サリティナがそっと首を傾げると、女神は彼女を哀れむような声音で言った。

――愚かな私の娘。知らないということはなんと幸せなのだろうね。良心の呵責をおぼえることなく安穏と暮らすというのか……。

 悪意が、地面を這い上がる。
 人を超えた存在の、愛が転じた憎しみが、サリティナの身を焦がす。覚えのない痛みに顔をしかめ、サリティナは声を張り上げた。
――知らないのはわたしの罪です、それでも誰も教えてはくれなかった! ディアは何も言わずに亡くなってしまったし、聞く暇はありませんでした。あなたが教えて下さらなければ……わたしには分からない……。

――ああ、口にするのもおぞましい……喪われた私の娘たち、永劫に救われぬ娘たち! それがすべてお前のために殺されたなどと――愚かなお前を思う娘のゆえに!

 ディアの真意を、彼女は知らない。
 しかし、彼女が自分のために人を殺めた、などということは……容易に信じられることではないのだ。
 女神の風は、地面をも揺らした。
 敬愛するキリサナートーの怒りに触れて、涙さえこみ上げた。
――女神様、わたしを哀れみくださいますよう! わたしを娘とお思いならば、わたしをまだ巫女としてお認めならば……!
 声を振り絞るが、返答はなかった。何も知らなかったのに、すべて自分の預かり知らぬところで行われていたことなのに……突き放す女神の態度はあまりにも苦しすぎた。
 今まで心のよりどころだったのは、自分の仕える女神の存在。
 その貴い風に見放された自分は、どこまで流されていくのだろう?
――おゆるし、ください……わたしの罪を……いえ、ディアの罪を……。ディアがわたしを思っていたと仰るならば、罰はわたしが背負いますから――
 だって人を思った暖かな気持ちを知っているから。
 そのために女神に捨てられるのは……あまりにかわいそうだから。
 だからたった一人の人にでも思われたわたしが、女神の腕から零れ落ちて行きましょう。

 だから、ディアをゆるして。


 彼女を包んでいたのは、暖かな裏地の当てられた大きな外套だった。ぼんやりとした頭で持ち主を考えてみる。都で作られた高価な外套。サリティナが身体を丸めるとすっぽりと収まる大きな外套。こんなものの持ち主を、彼女は他に知らない。
 ざらざらと冷たい地面が頬をこすり、サリティナは慌てて身体を起こした。身体のあちこちに付着した砂を払い、複雑に絡み合った髪の毛を手で梳かす。
 真正面で、群青の目と視線が合った。サリティナは一度頭を振って姿勢を正し、背筋の伸びたその姿に頭を下げた。
「サリティナ……?」
 ハルヴァは深ぶかと下がった金の頭に、木の幹にわずかにもたれていた背を起こして立ち上がった。巫女の側まで歩み寄り、膝をついて、
「どうかしましたか?」
「いえ……! あ、あの、殿下は……お怪我は……」
「それはあなたの方だ。腕を……傷つけたでしょう」
 大きく裂けた袖を睨んで、ハルヴァは手を差し出した。
「見せてください、こんなところではどんな傷になるか分からない」
 棘の多い下生えと苔の生えた地面。光は一応は射すが、どうにか相手の輪郭を識別できるくらいだ。傷口からの菌の侵入が恐ろしくてたまらない。
「大丈夫、です、痛くなんか……」
「痛みの問題ではありませんから」
 しかし、サリティナの腕をとりはしたが、消毒の手段も包帯もここには存在しない。どこまでの手当てが出来るのか分からないが、放っておいて雑菌にでも入られたら、体力のないサリティナはあっという間に重病人である。
 途切れ途切れのサリティナの悲鳴を努めて無視し、どうにか手当てを終えて、ハルヴァは座り込んだ。とりあえず火をおこしたいのだが、あいにく乾燥した枝がまったく落ちていない。
 サリティナは地面に正座し、じっとうつむいていた。申し訳なさそうに外套を返してから、一言も喋っていない。彼女の性格からして無理ないことだとは思うが、沈黙が耐えがたいのも確かだった。
 金色の髪の毛は埃まみれでくすみ、顔は真っ青で、今にも倒れてしまいそうだった。思いつめた目をして地面を睨む青い瞳、引き結ばれた口唇。やはり早急に火をおこしたほうがよさそうだ。
「サリティナ、何か燃やせそうなものを探してきます。ここから動かないで」
「え……? いえ、殿下、わたしが行きます。お座りになっていてください」
 ハルヴァはすっと目を細め、顔をゆがめてサリティナを見つめた。ぱっとそらされる視線を追いかけて、言った。
「何を言っているんだ?」
 厳しい口調と、眼光。サリティナが怯えをいっぱいに含んだ視線を返す。しかし身体に負担をかけてまで忠を貫かれても、困るのはこちらだ。
「サリティナ、あなたは一刻も早く傷を治すことだ。傷を抱えていては人里に降りるにもとにかく時間がかかる」
「で、も……」
「私はあなたよりずっと慣れている。……下手に動かれて迷われでもしたら、足手まといだ」
「……分かりました」
 泣くのをぐっとこらえた表情でサリティナはうなずいた。
「寒いかもしれませんが、ゆっくり休んでいてください」
 ハルヴァは口調を和らげ、再び外套でサリティナの背を覆って足を踏み出した。
 サリティナが何か言いたそうに外套を掴んだが、そのまま背を向けて走り出した。


 ハルヴァも言っていた。足手まといだと。
 彼を護りたくて差し出した手も、傷を負ってかえって負担になった。庇われてばかりの痩せた身体。ハルヴァがいなければ、自分は死んでいた。それなのに、彼を手伝うことも出来ずに座り込んでいるだけ。
 ハルヴァを石から護ったことなど、もう帳消しになっている気がする。
 それ以上の負担を、サリティナはハルヴァに強いている。サリティナがいなければ、ハルヴァは身軽に人里に降りていけるというのに。
 自分を大切にすることを、かつて友人に教えてもらった。そのときから、自分が大切に出来るような自分であろうと心がけてきた。自らを卑下することなどしたくはないし、誰かの役に立ちたい……ずっとそう思っていた。
 ただ、一度落ち込むと這い上がることは容易ではなく、どこまでも自分を価値のないものとしてしまうけれど。
 足手まとい、だけれど。
 それでもハルヴァが、サリティナを必要としてくれているのだと信じていたい。それさえ信じていられれば、まだ自分を捨てずにいられる。彼に置いていかれたら、自分は生きてはいけないだろう。ここがどことも知れない劣悪な環境で一人で生きていけるほどサリティナは強くはない。
「だけれどお側にいてもいいのだと思っていたいのよ……」
 小さく、声に出してみる。耳を澄ませば何か生き物が蠢く音や風の音はする、しかしやはり人の気配が極端に薄いのだ。大きな穴の中に一人取り残されたような恐怖、このままハルヴァが帰ってこなかったらという不安が頭をよぎる。信じられない自分が嫌ではあったのだが。
「……頼れるのは、殿下だけだもの」
 本当にそれだけだろうか、と疑問に思いはしたものの、今の自分は一人では満足に飛ぶことも出来ない雛鳥同然だ。心の支えであった風の女神キリサナートーには見捨てられ、呪いの言葉を吐かれた。覚えのない中傷に心が凍ったが、女神の言葉が間違いだと否定することも出来なかった。
 地面が乾いていることだけが救いのような中で座り込み、冬とは到底呼べないもののひんやりとした冷気に覆われて顔を伏せる。ハルヴァが残していった外套はサリティナの身体をすっぽりとおおえるくらいに大きかった。
 自分だって寒い思いをしているのだろうに、神殿の中位巫女に過ぎないサリティナの身体を第一に気遣い、不安を与えないよういつでも笑みを絶やさない――だから先刻ハルヴァが見せた厳しい表情は、なおさらサリティナにとって衝撃的なものだった。
 あれがサリティナの身を気遣っての言葉なのだとは分かっている。無理をおして立ち上がろうとした愚かな人間を叱るのは当たり前のことだ。それでも……人の、負の感情というのは怖くてたまらない。たとえそれが思いやりから出た言葉であっても、調子がきついだけで恐れを覚えてしまう。忌まわしいほどに臆病な性質は、幼い頃から変わっていない。
 いつも庇ってくれていたディアはもういない。女神の風に飛ばされて、今彼女の側にいるのはハルヴァのみ――だとしたら、サリティナを怯えさせるのもまたハルヴァだけなのだ。
 彼が怖いとは言わない。どんな時もサリティナを気遣ってくれる。しかしやはり、厳しい言葉は胸に痛い。いっそのこと、自分の殻の中に閉じこもってしまいたいとさえ思う。許されないとは分かっていても、逃げたいと思ってしまう。そんなサリティナを見て、ハルヴァはどう思うだろうか。
 サリティナの弱さを見て、そんな彼女を護ってくれようとする人間も確かに存在する。たとえば、ディアのように。しかしハルヴァがそのような人間であるという確信が、まだ、持てない。
 頼りきれない。それに申し訳なさを感じ……涙さえ、溢れる。
 頬が、熱い。滲んだ視界でうつむくと、涙は地面に零れて大きな黒い染みを作った。
 ハルヴァはそう遠くへは行っていない――こんな姿を見せてはいけない、と思うものの、一度流れ出た涙は止められず、サリティナは膝に顔を埋めた。


 火をおこす。最近はそう過酷な遠征にも出ず、野宿からはとんと遠ざかっていたが、手は器用に、正確に動き、たちまち焚火がおこった。
 顔を上げないサリティナに、再び声をかける。寝ているのだろうか、返事は返って来ず、ただ少しの風に髪の毛がそよいでいるだけだった。
 巫女の前に手をかざすと、炎の熱は殆ど届いていなかった。肩を揺すり、わずかに袖を引くが、サリティナは顔を上げなかった。
「……サリティナ、もう少し近づいて――」
 うずくまった姿勢のまま、サリティナがずるずると移動して火に近づいた。限度を知らない移動に、髪の毛に火がつきそうなほど焚火は接近する。
「危ない! 起きているなら顔を上げてください、きちんと自分の目で確認……」
 ハルヴァの言葉に顔を上げたサリティナの片袖が、色が変わるほどに濡れていた。ぼんやりと腫れた目と幾筋も残る涙の跡、サリティナはすぐにまた顔を伏せて背を向けた。
「申し訳ありません……」
 くぐもった声で謝罪されて、ハルヴァは大きく嘆息した。
「どうしたんですか」
「何でもありません」
 なんでもないわけがない。心細いのは分かるが、それにしても一人きりになったからといって泣き出してしまうほど子供ではないだろう。
「何でもないと言われて信じると思いますか」
 サリティナはごく素直に首を振る。
「なにかあったのなら、それを話してくれないと困ります。泣かれているだけでは分からない。連れの状態が不安定だと先々不安で――」
 肩が、びくっと震えた。
 細い嗚咽の声……また、泣いている。その原因は明らかではない。なぜか……苛立つ。自分の言葉に何か棘があったのか、それともハルヴァが頼りないのか。なんにせよ、理由も分からず目の前で泣かれると、心が波立って仕方がないのだ。
「やっぱり、足手まといなんだと思って……」
「足手まとい……?」
 ハルヴァはあまりの唐突さに思わず繰り返していた。足手まとい――サリティナに対してそう思ったことは、ない。
 短い間だがサリティナを見てきて、必要以上に思いつめてしまいそうな少女だとは思っていた。サリティナの思考の唐突さに戸惑いつつも、やはりという気がする。
 しかし――サリティナは断じて、足手まといなどではない。たとえ物理的な力がなくても、実際その面ではハルヴァの負担になっていても、ただ一人で見知らぬ場所へ放り出される孤独に比べればなんのことはない。数多くの武勲を立ててきた王弟と言えども、女神の風を受けてなお心を強く持っていられるなどということはないのだ。
 それを、子供に言い含めるように根気強く説明する。青い目はいつものように優しげに潤み、真っ白な顔にも血の気が戻ってきた。
 だが、ハルヴァの言葉を聞いたサリティナは、大きな溜息をついて、喉から絞り出すように吐き出した。
「わたしは――わたしが泣いてしまったのはそれだけではなくて……わたしはもう女神の娘としての力は持っておりません、女神様がおっしゃいました、わたしのせいで娘たちが幾人も命を落としたと……」
「巫女姫、が……殺した巫女のことですか」
 狂った巫女の言葉を思い出し、ハルヴァは呟いた。
「わたしは女神様のどんな感情をも受けるような器の持ち主ではありませんのに。わたしのせいで……ナーネが、死んだ、なんて――」
 犠牲になった巫女の中でサリティナと面識がありそうなのは、見習でありながら命を落としたナーネだけだ。ハルヴァも見た血溜り、消えていた少女の身体。追いかけていったディアの血走った目。サリティナを思う、狂気。
 それを告げるべきだろうか。ディアは確かにサリティナを思うゆえに血を流したのだと、それはサリティナの意思とは無関係なのだと。
 巫女姫の名を口にすることは、彼女の傷を抉ることにつながらないだろうか。そんな危惧を覚えて、それ以上を口にすることをためらってしまう。
「サリティナのせいではありません」
「でも女神様は確かにそうおっしゃいました。わたしの、せいだと」
「確かに……」
 言葉を、切る。サリティナの目を見つめ、顔をゆがめて、続けようか続けまいかと思い悩む。
「確かに巫女姫は、あなたが大切だと、あなたを護るために殺したと、言った」
 サリティナがそれを望まないことは誰よりも熟知していたはずのディアが。
「けれどもそれは巫女姫の勝手。誰のために殺すのかなど、問題にはならない。人を殺めたその事実は、彼女の罪だ……サリティナのせいなどでは、ない」
「ディアが過ちを犯したことは分かります、道を踏み外したのはディアです。ただその理由はわたしがいたからだと……それは、本当の……ことです」
 そしてサリティナはまたうつむく。
「それならば罪を被るのはわたしでありたかったんです……」
 ディアをゆるしてほしかった。
 まもりたかったんです。
 そう言って、サリティナはハルヴァの外套を頭から被った。
 ハルヴァは炎の向こう側に回り、何を言っても無駄だと思わせる雰囲気の中、静かに目を閉じた。


「あの、殿下……腕は、もう平気です。ですからその、あまりお手を煩わせるのも気がひけますし、わたしは大丈夫……」
 緩やかな下り坂の山道、サリティナの手を引いて先に下っていくハルヴァに、サリティナはそっと声をかけた。
 もう日が昇ってからだいぶ歩いている。そこかしこでサリティナの体重を支えるハルヴァの足にはかなりの負担がかかっているだろうと思われた。
 サリティナの引け目を理解してくれたのに、なぜまだ過保護なほど気を遣うのだろう。
「おそらく、もうあと少しで人の住んでいるところに出ますから。そこまで、注意を怠らないで行きたいと思いまして」
 にこやかにハルヴァは言い切った。
 彼の手は暖かくまた大きく、少し骨張っている指がすっきりと長かった。祭具なしの舞にはあまり栄えない自分の手を見下ろして、サリティナは溜息をついた。
 ハルヴァの手と比べること自体が間違っているのだとは分かっていたが、それでも小さな己の手はとても貧弱だった。
「はあ……」
 曖昧にうなずき、サリティナは再び無言で足元を見つめた。しょっちゅう足をもつれさせる運動神経の鈍い身体。だからこそ、ハルヴァはここまでサリティナに気を配るのだろう。
 そのまましばらく、双方何も喋らずに黙々と山を降りた。だんだんと開けていく頭上から、光の雨が降り注ぐ。
「……ああ、もうすぐだ」
 ハルヴァが黒い頭に手をやって言った。一つに括られた黒髪が、太陽の光を吸収して熱いくらいなのだろう。
「ここは……どのあたりでしょうか」
「さあ。まあ、少なくとも山中よりはましでしょう。きちんとした医師か、あるいは薬師を見つけて、腕を診てもらわなければいけませんから」
 サリティナは曖昧な記憶の中から王国の地図を探り出した。王都を中央に描いた中で、キリサナートーの大神殿はやや西方の台地に位置していた。そこから女神の力で運ばれ、目覚めた位置は山の中。一番近いのは西側の山脈だが、北の方に平行に走る山々の連なりの一つだという可能性もある。
 山の近くに住んでいたこともなく、生活範囲は神殿だけというサリティナには、判断の材料が少なすぎた。甘い樹液を出している高木や、美味しそうな赤い実(しかし毒があるという)のなる木など、その名称と生息地さえ知っていれば場所が特定できそうな特徴的なものは生えているものの、サリティナには知識が乏しい。
 ハルヴァの様子では、彼も位置の特定は困難と感じているようだ。
 どちらにせよ、人に会えば判明する話ではあった。太陽王の弟であるハルヴァを知らぬ者はいないし、風の女神の巫女であるサリティナがいれば、神殿で保護を受けることも容易いことなのだから。


 目の前にひらけた集落と家の間を行き交う人々に、サリティナはほっと力を抜いて崩れ落ちた。ハルヴァはそんな巫女に手を貸し、彼女が立ち上がるのを確認してから言った。
「どうしましょうか、これから」
「ええと、あの……あそこの建物は、神殿ではないでしょうか?」
 サリティナは、集落の中で一際目立つ石の屋根を指して言った。
「ああ、確かに。あそこで、保護を求めましょうか」
 ハルヴァは軽い足取りでサリティナを振り向いた。すっかり汚れた顔で微笑む巫女は、内心はともかくとりあえず平静を取り戻しているようだった。
 ハルヴァもまた、サリティナを安心させるために微笑む。
 見慣れない植物、見慣れない建物の群れ。それらへ対する疑問を心の中に押し込め、最後の下り坂を踏み出した。


 神殿は山の麓で見下ろしたものよりずっと小さかったが、それはサリティナが大神殿を見慣れているせいかもしれない。開かれた庭を抜けて本殿に足を踏み入れる。
 中にいたのは、扇を持って黙々と舞の稽古をする一人の女性。短い髪の毛が躍動する力強い舞に、サリティナは違和感を覚えながらも見惚れていた。
「あの……」
 舞が一区切りつくのを待って、ハルヴァが声をかけた。
 女性は怪訝そうに首を傾げ、美しい姿勢と足運びで近づいてきた。暗褐色の髪の毛に、黒く輝く瞳。ぼんやりとしたところのない、潔い美しさがある。
「あなたはここの巫女ですか?」
 ハルヴァの問いに、女性は二人には聞き取れない言葉で何事か呟いた。
 ハルヴァが表情を硬くし、ゆっくりと区切りながら言った。
「私は太陽王の弟、ハルヴァ・ディルシオンです。あなたがここの巫女ならば、王都に連絡を取っていただきたい」
 太陽王、そしてハルヴァ。誰もが反応するはずのそれらの言葉に、女性は無反応でもって返した。
「……あの、わたしはサリティナ・シリア、大神殿で指導教官を務めております中位巫女です。ここの巫女は、どこにいらっしゃいますか?」
 女性は難しい顔で腕を組み、二人を手招きした。どこへ行くのかと見守っていると、彼女は神殿を抜けて集落の大通りに出た。
「殿下、あの方についていきますか?」
「そうですね……それにしても、おかしい」
 ハルヴァは女性に負けず劣らず複雑な表情で眉を寄せた。
「言葉が、通じないとは……」



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