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風の太陽の章、三 |
リフィナはしばらく、友人の血溜りに手をついて必死に吐き気を堪えていた。 これだけの出血で、さらに動かされたとなれば、ナーネの生存は絶望的だろう。 神殿の奥の奥、出入りを禁じられているわけではないが滅多に人の出入りがない場所でナーネを見つけ、部屋に連れ帰ろうとしたところだった。どうしてこんなところにいるのか、本人も分かっていない様子だった。 ぼんやりとしたナーネの手を引いて幼い見習いが暮らす大部屋を目指した。ナーネは途中から何かに怯えるようにしてリフィナを引っ張るように先を歩いた。 そして――何者かに、刺されたのだった。 あのままナーネの前を歩いていたのが自分だったらと思うと、ナーネに申し訳ないと思いつつもリフィナはほっとした気持ちを……隠せなかった。 自分の判断は間違っていなかったと、自信を持って断言できる。あの場に自分がいても、ただ冷たくなっていくナーネを見送ることしか出来なかった。稽古を見学していた客人、彼は応急処置に関する知識があると言っていた。自分よりも、ナーネを救える確率は高かった。だからあの場をいったん去り、ハルヴァと名乗った客を連れてきたのは間違いではなかった。 しかし……リフィナが恐怖ゆえに逃げ出したのだと、それを否定することは、出来ない。 自分は、指導を必要とする巫女達の最年長として、少女達を任されていたというのに。 もしもあのときリフィナの教師――サリティナがその場にいたら、どのようにナーネを助けようとしただろう? 中位巫女はまだ女神の術を伝授されていないのかもしれないが、少なくともリフィナよりは迅速な救助活動を行えただろう。あの、優しい巫女も、きっと教え子の息も絶え絶えな姿を見れば血溜りに恐怖を感じることもなく冷静に対処方法を考えることが出来るに違いない。指導教官を任されるには、ただ女神に捧げる芸が美しいだけでは足りない。責任感が強く、いざというときに未来の巫女達を護れるほどの人間でないと教官の任に就くことは出来ない。 そういった意味で、自分はまだまだ未熟なのだとリフィナは理解していた。いくら実家の人間に将来は優秀な巫女になるよう期待をかけられていたとしても、自分はその期待に応えられるかどうか自信がない。 サリティナの持っているような優しさが、彼女には足りないのだと分かっていた。 「先生……」 サリティナの居室の扉を叩く、しかし返答はなかった。誰かにナーネとリフィナが部屋を出て行ったことを聞いて、探しに出ているのかもしれない。 リフィナはサリティナの部屋は諦め、次に巫女姫が寝起きする棟に向かった。サリティナならば、何をおいても巫女姫達への報告を優先するだろう。少女達の探索を後回しにしているのではなく、それがリフィナとナーネを発見するためには最良の方法だと知っているから。 リフィナは下位巫女とはいえまだ見習いに近い入りたての身であり、巫女姫棟への立ち入りは許されてはいないが、入り口の守衛にサリティナの行方を尋ねるだけでもいい。客人はよくサリティナの教官室に出入りしていた。ハルヴァの名を伝えるだけでも、十分なはずだ。 リフィナが巫女姫棟への廊下に辿りついたとき、前方からぼんやりと全身を浮かび上がらせたサリティナが歩いてきた。リフィナは息を整え、うつむいて歩くサリティナに声をかけた。 「先生」 「……リフィナ……! ねえ、リフィナ、ナーネは見つかったの? 他の人は、ちゃんと寝ているかしら? レリアに、あなたのかわりに消灯を頼んだけれど」 「私は、部屋には戻っていませんから……それよりも。先生、ナーネが、不審者に刺されました。稽古を見学していらしたお客様が通りかかって、ナーネの救助の手助けを引き受けてくださいましたが、戻ったときにはナーネはその場から消えていました。お客様はハルヴァ様と名乗られて……おそらくナーネを探しに行かれました。私は部屋に戻りますか、それとも何かお手伝いできることはありますか」 リフィナはだんだんと青ざめていくサリティナに負けないような顔色で、それでも簡潔に救援を求めてからのあらましを報告した。手伝いを申し出たものの、体力、気力ともにもう限界だ。サリティナもリフィナを見て首を振り、 「あなたはもう休んで。……その前に、身体を洗う? 血の匂いが残ったら困るものね。音は立てないようにね」 「分かりました。……申し訳ありませんでした」 疲れた顔で頭を下げたリフィナに、サリティナがゆっくりと歩き出しながら首を傾げる。 「あなたのせいなの? そうではないでしょう? 気にしてはいけないわ。分かっていると思うけれど、このことは口外しないでちょうだいね。眠れないかもしれないけれど、起き上がっていては駄目よ」 リフィナも、一歩足を踏み出し――しかし、瞬間視界が閉ざされて身体から力が抜ける。床に手をついたリフィナをサリティナが助け起こし、たった今出てきたばかりの扉を開け放つ。 「私のところで寝たほうがいいわ。そのままで歩いていたら、倒れてしまう。まだ、ナーネを襲った人がいるかもしれないでしょう? 鍵をかけておいて。……リフィナ! 大部屋のほうには、鍵は掛かっているの?」 「……私が持っています。中から誰かがかけているとは思いますが……」 「そう? ……まあ……今はあちらまで見回りに行く余裕はないし……殿下は、どこにいらしたの……あ……」 サリティナはわずかに顔をゆがめて口を押さえた。と言っても、リフィナならばハルヴァという名前を聞いてすぐに現王の弟と結び付けただろう。少女はたいした反応を示すこともなく、サリティナにしがみついていた。 「心配……しないで、リフィナ。殿下なら、きっとナーネを見つけてくださるし……キリサナートーがお護りくださるはずだから」 サリティナは子供を寝かしつける母親のようにリフィナの頭を撫で、小走りで部屋を出ていった。 目の前に点々と続く赤い血の痕に、ハルヴァは少々の眩暈を覚えて額を押さえた。 明らかに、誰かを誘き出そうとしているような痕跡の残し方だ。その人物がハルヴァであるかどうかはさておいて、このまま血痕を辿っていくことには抵抗を覚える。 一番いいのは、いったん部屋まで戻り、シャグを連れてくることだ。シャグはハルヴァよりも早い時間には決して眠りにつこうとはしない。腕も立つ。もちろん、ハルヴァがこっそりと抜け出して神殿内をうろついていたことを知ったら、彼はいつものように口うるさく小言を言うことだろう。しかし、一人より二人、そしてそれがシャグならばもっといい。 しかし、それをしていては少女の発見が遅れてしまう。彼らが寝起きしている棟はここからだと一般の参拝客に開放されている棟をぐるりと半周しなければならないところにある。 つまりは、巫女の少女の命をとるか、自分の身の安全をとるか、ということだ。そして、ハルヴァは常に、誰を楯にしてでも生き延びろと言われていた。兄に子がいない今、彼が死ぬことは許されないと言い聞かせられてきた。 それならば、彼一人で怪しい血痕を追うことに危険はないのかと言うと、ハルヴァには大抵の危険なら一人で潜り抜ける自信があった。戦場で小隊に囲まれては勝ち目はないが、いくらなんでも神殿に大量の人員を入れることは不可能だ。 要するに、巫女を助ける義務はないが、巻き込まれてしまった以上迅速な行動が求められるということだ。それに、今回の惨事が彼の本来の任務――巫女の失踪、そして殺人に絡んでいないとは言い切れない。サリティナによると行方不明になるのはいつも中位巫女以上の者だということだったが、犯人が『巫女』という人種を求めている限り、下位巫女であろうが見習いであろうが被害者になる可能性はある。 それに――サリティナの教え子である少女を見捨てたら、きっと彼女は哀しむ。 不要な感情は切り捨てろと教えられてきたというのに――やはり、シャグのようにある程度気持ちに余裕、遊びを持たないと駄目らしい。 人は絶える。 人は常に、他人の血で身体を潤しながら生きている。だから、この平和な世界、何の苦労もなく生きていける世界は、消える。人は絶え、地が割れ、空が落ちる。 避けるには、ただ血のみ。もとの、人が愚かな飾りで身を覆う前の、人が最も生を感じる血の時代を再び呼び出すしかない。 しかし多くの人間は、それに気づいていないから……だから、自分が代わりに幾らでも人の血を捧げてみせる。 人は堕落した――その血を絞り取ることに、何の抵抗があろうか? 女神の僕が女神に贄を捧げることを、何故に躊躇う? 少しでも、多くの血を。出来うるならば、汚れない血を。そう考えることは、間違ってなどいないはずだ。 しかし、それは人間であることを捨てねばなしえない所業だ。 多くの同僚を、友人を、殺め……そして捧げた。そんな自分は、もはや人間とは言えないのではないか。そんな気がしてならない。 それが、哀しいとは言わないけれど。思わないけれど。 彼女は哀愁を込めたような息を吐くと、装飾が過剰ではないかとも思える華奢な短剣を振り上げた。 苦しい息に喘いでいる少女に、それを振り下ろそうとし――手が、止まる。 幾度となく、繰り返して来た行為だ。今さら、怖れなどしない。これは女神の世界を存続させるための手段、女神の怒りを買うことなどないのだから。 それでも、あのひとが……哀しむ。 怯えるのではなく……哀しむ。 馬鹿げた話だ。女神の怒りよりも、たった一人の少女の哀しみを怖れるなんて。 そして彼女は再び剣を振りかぶる。 その瞬間に、荒い息を弾ませて彼女を呼ぶ声がした。 「……巫女姫!」 彼女は、慌てもせずにゆっくりと声の主を振り返る。短剣は構えたまま、巫女にふさわしい、キリサナートーの愛し子と言われた清らかな笑みを浮かべて言った。 「殿下、まだ起きておられましたの?」 「そんなことは……どうでも、いい。私は兄に与えられた命に従って動くのみ。やはり、あなたは――」 ハルヴァ・ディルシオン、彼が巫女の失踪についての調査に来たことを、巫女姫であるディアは当然知っていた。彼がまだ神殿内に滞在しているときにことを起こせば、王都からの客達が容易に任を終えることが出来るであろうことも、誰にでも分かる結末だ。ハルヴァ達はやがて都に帰る。王弟が、戦でもないのにそう長いこと兄のもとを留守にしていいわけがないのだから。それまで、待てばいい。そうすれば、すべて思い通りになる。女神の世界の崩壊も、食い止めることが出来るというのに。 それなのに、巫女の中でも特に優秀、賢き女神の子と称えられるディアが無謀ともいえるナーネの殺害をやってのけたのは、ハルヴァの、サリティナの青瞳に揺れていた恋慕の情を見たからだった。 ずっと、大切に、自分が。自分が護ってきたはずの少女。優しく、それゆえに臆病で、誰にも好かれる穏やかな気性をしていながら誰にも心許すことはなく、ただディアにのみ本当に美しい微笑を見せていたはずの少女。彼女が……初めて、ディア以外の人間に笑ってみせたからだった。 離れていってしまうことに耐えられなかった。 いつかサリティナの心が完全にこの青年に傾き、青年に攫われていってしまうだろうと考えると――耐えられなかった。 「私が。私が殺しました、殿下」 忍び寄る世界の滅びを防ぐために。女神のために。何よりも……サリティナのために。 「だからどうしたというのです? 私のことを裁かれますか、太陽の王の代理として」 「巫女姫が、何人の人間を殺したかによるでしょう。もしも一連の事件には他に犯人がおり、あなたが殺したのがその娘だけだというならば、斬首にまではならない」 ディアはあくまでも――あくまでもにこやかに、そして丁重に、ハルヴァに向かって言った。 「私を罰したいならばそのようになさいませ。ただ、その場合は、私だけではなく、殿下も、ティナも、皆死に絶えることになるでしょう」 「それはどういうことでしょう?」 さりげなく、腰に下げた剣に手を添えてハルヴァは尋ねた。 「だって、私の他に女神のお怒りを鎮めることが出来る人間はおりませんもの。皆、気づいていないのです、滅びの足音に。世界は血を欲している、だから私が贄を捧げる。そうすることで、また世界は生き長らえるでしょう」 酔ったような口ぶりに、ハルヴァは目を見開いた。 巫女姫は狂っている――――。 確かに、ハルヴァのもとにも国の各地から異常な報告が届けられていた。それはごく一部の人間にしか知らされていないことだが、その中でも特に迷信深い連中は、滅びの予兆を見たと言って騒ぎ立てている。 しかし、女神に血を、巫女の血を捧げれば滅びが回避できるなど、馬鹿げたディアの思い込みに過ぎない。それで、数々の巫女を引き裂き、風の女神に捧げるなどという行為は――もはや女神のためでも、巫女の所業でもなんでもなく、ただの狂態だ。 「そんなことは、ない。女神が怒り、世界を見放したのならば、なぜ他の巫女はそれに気づかないのです? 彼女達は、未だにキリサナートーの恩恵を信じ、また女神に仕えている……」 「平和に、慣れてしまったのです。女神の加護が無条件で与えられるものだと、誰が断言できましょうか。かつて戦乱の時代、王は女神に生贄を捧げて勝利を授かった。今、巫女は女神に祈りなさいと説いていますが、民が平和に慣れ、加護を当然のものと受け止めるようになってしまえば、女神は人の祈りなどという不確かなもので人を護ろうとはしません。だから私は先例にならい、巫女の血を捧げて女神の腕を取り戻そうとしているのです。それの、どこがいけないことなのですか?」 心底不思議そうにハルヴァに問い返すディアに、ハルヴァが剣を抜く。 ――判断はおまえに任せる。狂っていたら、斬れ。都まで運ぶのが、一仕事だからな―― 兄に……誰よりも敬愛する兄に、言われた。犯人が狂人であったならば、迷わず斬れ。暴れられては困る。 そんなハルヴァに、ディアが笑みを絶やさず叫んだ。 「私を、今斬りますか? それはいけないわ、ティナが泣くでしょう! 私の、誰よりも大事なティナが! あなたに斬れますか、サリティナを泣かせることが出来る? 許さないわ、ティナが泣く……!」 「あなたが罪を重ねることのほうが、シリア巫女にとっては哀しいことでしょう」 「ええ、それでもいいのよ。だって世界が壊れてしまったら、サリティナも何もないでしょう? サリティナを護るために私は人を手にかけたのよ。ティナのために! あなたにそれが出来るの? 私は自分よりもティナをとった、私が汚れることよりもティナを護ることをとった! でも、あなたは私を……犯人を殺せという命のほうを優先したのね。ティナが、泣くかもしれないことなんて、どうだっていいんでしょう!? どうしてそんな人にティナをとられなくてはいけないの?」 ディアが……サリティナのことを大切に思っていることは、確かに、伝わってくる。ただ一人の少女を護るために、何人の巫女を殺めても構わないという、哀しい、愛情が。 しかし……ナーネを、生徒を手にかけたディアを、サリティナが受け入れてくれるかどうかは分からないとハルヴァは思う。 「……彼女は、あなたのことを思って泣くでしょう」 ハルヴァの言葉に、ナーネを放り出してハルヴァに向かい合ったディアが訝しげに目を細める。 「サリティナは、泣くでしょう。あなたが私をどうするのかどうかは分からない。けれど、泣くでしょう。あなたが私を殺しても、私があなたを殺しても。そしてそれは、あなたのための涙だ。私のためでは、ない。サリティナは、あなたのために泣くでしょう。あなたの罪に泣き、あなたの死に泣く。私がサリティナを奪ったというのは考え違いだ」 「……そんなことはないわ……」 もう、自分だけを見ていてくれたサリティナはいない。 「そんなことはないわ……今はもう、殿下がいる。私だけじゃない、殿下がいる。サリティナにとっての唯一が私でない以上、私のために泣くなんてありえない……あの子が、泣くなんて……」 ディアは唐突に顔を上げると、先刻ナーネに向けていた短剣をかざした。泣きそうな、ゆがんだ表情でうめく。 「殿下ぁ……っ! 殿下!」 驚きに近寄ろうとしたハルヴァに、ディアは嘲笑うような面を見せた。そのまま――自らの、胸を……刺す。 ハルヴァの背後で土が滑る音が上がった。 金髪を乱し、あちこちに傷をつくり、疲れきった蒼白な表情のサリティナが、たった今、物陰から顔をのぞかせたところだった。 ――確かハルヴァ殿下は、ディア様のことに興味を持っておられる様子だった―― サリティナはリフィナと別れて走り出した直後に、そのことを思い出した。 そして、彼女がいつも暇さえあれば座り込んでいる、神殿裏手の石山に向かったのだった。彼女はその話を客人にした。ハルヴァが、石山へ行った可能性は高い。 彼女は、その石山へは行ったことがなかった。その場所へたどり着き、たいした高さはない石の積み上げられた山を見上げる。 どこから、どうやって登ればいいのだろう? 階段のようなものもない。ただ大きな石が積み重ねられ、道らしきものも存在しようがない。 かといって、自分にここが登れるかどうか……サリティナは途方に暮れ、それでもやはりここを登る以外に道はないのだと考え直して石の隙間に手をかけた。 ある程度の突起や窪みはあるものの、ひとつひとつの間隔が大きい。あっという間に巫女の柔らかな肌には傷がつき、爪は割れ、衣が破れ始めた。 今思えば、ディアに傷があったことなどないのだから、どこかに必ず入り口があるはずだ。しかしそのときのサリティナにはそこまで考える余裕もなかった。時間もなかった。無謀とも言える登山でも、それしか方法がなかった。 そして――気が遠くなるほどの時間をかけてようやく頂上に辿りついたとき、ディアの悲鳴が聞こえたのだった。 サリティナはがくがくと震えの止まらない足を引きずり、どうにかディアの姿が見えるところまで身体を持っていった。 ――そこに居たのは、目を見開き、胸から血を流した二つの身体――ディアと、ナーネの。 「ディア……」 サリティナはそっと呟いた。何も、受け止めきれていない表情で。 「ディア! ディア!」 よろよろと立ち上がり、精一杯の早さでディアに駆け寄る。 「サリティナ!」 機敏に近づいてきたハルヴァが、サリティナを押しとどめた。サリティナには、ハルヴァの姿は目に入っていない。暴れ、ハルヴァを叩き、懸命にディアに近づこうとする。 「ディア……ディアが! 嫌、行かなきゃ!」 ハルヴァとディアが予想したとおり――本人は知らないところで、だが――、サリティナは……泣いていた。 ディアが死んでしまう、ずっと自分の傍らにいた人が、死んでしまう。もう、二度と戻って来ない女神の国へ行ってしまう。まだ早い。まだ、ディアと一緒にいたい。 「ディア、死んじゃ嫌よ! やめて、お願い、ディア!」 自分はまだ、ディアを癒せるほど高位の術は身につけていない。 「殿下、放してください! ディアが死んでしまう……ディアが」 自分を止めているのがハルヴァの腕だということは理解していた。自分に、血を見せたくない一心でサリティナを止めるのだと、分かっていた。 それでも……ディアのところに行かなければ。 ナーネを殺したのがディアなのかもしれないということは、頭にはなかった。ただ、ディアを喪うことに耐えられない、それだけだ。ディアは喪ってはならない人。大切な人。 だから行きたい。そう切実に求めているのに、なぜハルヴァがそれを止めるのか、サリティナは理解出来なかった。 サリティナがハルヴァを突き飛ばそうとしたそのとき――女神の風が、すべてを巻き上げていった。 そのときハルヴァがいなければ――彼の腕に抱えられていなければ、おそらくサリティナもディアと同じ道を辿っていただろう。それほどに風は強く……ディアの身体を、石の山から落としていった。 サリティナはますます恐慌状態に陥り、もう叫び出しはしなかった。求めていたディアの身体は、もう手に入らない。落ちていって、しまった。 ハルヴァは突風にあおられながら腰の剣を乱暴に取り外し、それを杖にサリティナを連れて大きな岩の陰に避難した。 「ディアは……」 「巫女姫はもう助からない」 驚くほど冷酷な声音に、ハルヴァ自身うろたえ、サリティナの反応を怯えるようにして待った。巫女は息を殺して啜り泣き、ハルヴァには顔を見せず、また暴れようともしなかった。目の前で、ディアの身体は山から落ちた。もう助からない、それは嫌というほど理解していた。 「……もう……申し訳ございません、殿……下」 サリティナは思ったよりも短い時間で起き上がり、顔を伏せて頭を下げた。 ハルヴァが首を振るところへ、再び尋常ではない強風が吹き付ける。 「これは、なんでしょう……?」 「分からない……とりあえず、今のところ、ここは安全ですが……移動しますか?」 「いいえ……」 サリティナがゆっくりと否定し、言った。見たところ、落ち着きを取り戻したようだ。 「移動するとなると、わたしは殿下の負担にしかなりませんから……」 「そんなことは、ありませんよ。ここが風の影響を受けるようになったら、また移動します」 風の唸りが声を掻き消す。サリティナもハルヴァも、声を張り上げて話していた。 しばらくは、風が荒れ狂い、一種の無音状態が空間を支配していた。 しかしそのうちに石や土が巻き上げられるようになり、二人のいる岩陰にもそれは飛んできた。そのたびにハルヴァはサリティナを庇い、サリティナはそれを固辞した。ある意味で緊張感のないその瞬間を見計らったかのように――サリティナの頭ほどもある石が、ハルヴァの背後を飛んできた。 サリティナは、ただ無言でハルヴァの頭に手を出した。 ハルヴァが振り返ったとき――そのとき、サリティナは腕に大きな裂傷をつくり、血を流していた。 「サリティナ……!」 ハルヴァの顔に、後悔と自己嫌悪の表情が浮かぶ。気づかなかった。自分が、サリティナを護らなくてはならなかったのに、反対に彼女に庇われ、傷つけた。 苦痛に顔をしかめるサリティナを嘲笑うかのように風は荒れ、とうとう数々の飛来物を受け止め続けてきた大岩が砕けた。 慌ててサリティナを抱きとり兄から賜った剣にしがみついたが、もはや女神の風は人を許しはしなかった。 このまま、死ぬのだろうかと思ったところで、女神の世界の記憶は終わった。 |
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