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雨の太陽の章、三(前編)

 絶え間なしに人が出入りし、騒音が響く大きな台所で、少女はひっそりと包丁を研いでいた。彼女は台所の料理人としてはほんの見習いに過ぎず、この包丁も忙しく立ち働いている年輩の料理人のうちの誰かが使うのだろう。しかし鍛冶屋の娘として生まれた彼女は、父の後を継げない自分がこの刃物の手馴れた扱いを活かせる仕事に就けたのを嬉しく思っているし、もともと料理は得意ではない。台所だけではない、屋敷中の人間が彼女のところへ刃物を持ってくる。最近主に雇われて屋敷に滞在するようになった傭兵も、何人かやってきた。最初は、これが人を傷つけるための刃かと思うと手が震えたが、思えば父の作る武器もそうやって使用されているのだ。確かに傭兵には粗野な言動が目立つが、理由なく暴力をふるったりはしない。主人だって彼らの力が必要だから大勢の傭兵を雇ったのだろう。その理由は少女のような下働きには知らされていなかったが、主の判断を否定するような人間も屋敷にはいなかった。
「ちょっと――ユマ、おいで!」
 少女、ユマは甲高い女の声に顔を上げた。包丁を傍らに置き、立ち上がる。女の横に、おそらく自分に用があるのであろう人物の姿があったからだった。
「はい! なんでしょう」
 ユマは一日に何回も、切れ味の鈍った短剣や包丁を持った人間に呼ばれる。今回も、そのうちの一人がやってきたのだと思った。
「今私暇ですから、すぐに研げます」
 ユマはにっこりと笑ってうなずいた。父――そして兄いわく営業用の笑み。
 客は、背の高い侍女だった。彼女は手ぶらでユマの前に進み出ると、わずかに首を傾げて微笑んだ。
「そう、暇なの。それはよかったわ。あなたにやって欲しいことがあります。こちらへ来て頂戴」
 かすかに皺のある白い顔を見上げ、ユマは戸惑って台所役の女性を見つめた。彼女は叱責するように、
「行きなさい。急ぎの仕事はないのでしょう」
 ユマの背中を押すと、前掛けで手を拭いてまた忙しない仕事に戻っていった。
「……あの……私、何を――」
「いえ、単に人手の足りないところがあるので、あなたに手伝って欲しいの、それだけよ」
 ユマは首を振って言った。
「私は実家から手伝いに出されているだけですし、刃物の扱い以外に出来ることなんて……」
「鍛冶屋は刃物、料理人は台所。そのような区別を、お嬢様は好みませんよ」
 女性はユマを見下ろして、不鮮明な表情で呟いた。
「なにせ忌人を側で使われるラサイア様なのですから」

 街の大商人の一人娘の部屋にしては、ラサイアの私室はあまりにも質素だった。扉を入ると、奥の壁三方にまた扉が見える。開け放たれたその扉の向こうには、壁一面を覆う書棚があった。つまりは四部屋のうち二部屋は書物に占領され、一部屋を寝室とし、もう一部屋で普段は過ごしているのだ。噂に違わぬラサイアの読書家ぶりに、ユマは目を見開いた。
「ここ、は……」
「もうすぐラサイア様がお帰りになります。それまで、ここに座ってお待ちなさいと言うのがお嬢様の仰せです」
 女性は無表情にユマに言い、素早く身を翻して扉をくぐった。広さは充分な部屋に一人残されて、ユマは落ち着かない様子で辺りを見回した。こんなに広い部屋なのに、家具は少ない。もちろん四つの部屋はそれなりに埋まっているのだが、家具の種類が大きな机、長椅子、書棚、寝台、衣類棚――それくらいしかないのだ。装飾品の類は一切置かれていない。しかし、その中で小さな花瓶とそれに活けられた瑞々しい開きかけの花が目を引いた。
――ラサイア様は、ご自分で花を飾るような方ではない――
 屋敷の中でのラサイアの評判を思い出す限りでは、そうだ。時には食事を摂ることさえ渋るという勉学魔。新たな知識を得ることが何よりの喜びと言って憚らない、変わり者のお嬢様。少し微笑んで見せればどんな条件のいい婿も見つけることが出来るのに、その無愛想さと並外れた――度が過ぎて周りのことが目に入らない集中力で片っ端から男性を追い払う。
 しかし、ラサイアの欠点はそれだけではなかった。
 この、広い、書物で溢れそうになりながら、きちんと整頓されているこぎれいな部屋。ラサイアが唯一側に置く少女が隅から隅まで掃除をしているのだ。そして――その少女は、人殺しの親を持った忌人の少女。ラサイアは、忌むべき罪人と二人だけで普段は生活している。
 ユマはじわじわと這い登るような不快感に顔をしかめた。主のたった一人の娘の側にいるのが呪われた人間だけなどと言うことが許されるわけがない。
 案外、自分が呼ばれたのもラサイアが忌人を側に置くことを忌避し始めたからかもしれないとユマは思った。
 信じられない。字の書ける人間は少ない。書物を書くのは、主に大きな街の神殿に住む神官達だ。一冊一冊神官が手書きで作っていくそれはとても高価なもので、庶民にはまず手が出ない。それを飽きることなく求めるほうも求めるほうだが、与えるほうも与えるほうだとユマは飽きれる。そして、それを無造作に忌人の手に委ねておくラサイアの無頓着さにも。あの一冊で、忌人の少女の身請け金くらいならば作れるだろう。一冊、たった一冊盗み出して、むやみに忌人を蔑んだりしない人間――たとえば、傭兵に売り渡せば、彼女はもう自由の身だ。
 そこまで考えて、ユマは弾かれたように立ち上がった。
 今屋敷には多くの傭兵が滞在している。鋼色の短い髪の毛をした少女が彼らの宿舎に出入りするのを見た人間は何人もいる。もしも少女が彼らと取引をして忌人身分から自由になろうとしたならば。
 ラサイアに全幅の信頼を寄せられている少女ならば、それが可能だ。
「嘘……」
 ユマが呆然と呟いて、ふらふらと歩き出した。
「嘘……嫌だ」
 思いついてしまったことの醜さに、自分で顔を背けたくなる。これが真実ならば、あの誰に対しても公平なラサイアがあまりにもかわいそうだ。
 嘘ならば目上の人間から叱られることになるという思考はユマの中にはなかった。少女はそっと扉を押し、室内よりもわずかに明るい廊下の光に目を細めた。
「どうしたの? 何か忘れていたことでも?」
 ユマは細身の人影に光を遮られ、思わずその人物を振り仰いだ。
「お嬢様――」
 屋敷の人間ならば知らないはずはない整った顔立ちが影の中に浮かび上がる。
 ユマはラサイアを見上げ、怖れを伴う震えた声で囁いた。


「リーシャ、傭兵のところへ行ってきて欲しいんだけれど」
 ラサイアは、書物から目も上げずにリーシャに向かって呟いた。書物の内容に夢中になった小さな声、しかし少女はそれも聞き分け、静かにうなずいた。
「分かりました。どんな御用ですか」
「これを、届けてきて欲しいんだ。アイザル殿に」
「フィドのお父さんですね? じゃあ、すぐ言ってきます」
 リーシャはラサイアから小さな包みを受け取り、今にも駆け出しそうになりながら頭を下げた。そんな少女にラサイアは苦笑し、
「急がなくてもいいからね。お茶ははいっているでしょう? だったらしばらく用事はないから、フィーダルと話でもしてくればいい」
「いえ、でもラサイア様を放っておくなんて……」
「本当に、何も用はないの。フィーダルやアイザル殿と会うようになってから、リーシャはよく笑う。私はそれが嬉しいから。いくらでも、あの人達のところへおいで」
 ラサイアの言葉にかすかな影を見て、リーシャは眉を寄せた。
「本当に、いいんですか?」
「私ももう子供ではないんだから。夜になったら戻ってきてくれればいい。また、食堂に連れて行ってもらいたい」
 本当は、食堂や礼拝堂といった立ち入りを禁止されている場所の名前を出すとリーシャは自分を責めるように口唇を噛むのだ。それを知っているから、ラサイアもなるべくそのことを口にしないようにしていた。しかし、二人の間に残された時間は少ない。もうすぐ、自分は神殿に向けて発たなくてはならない。雨の神、トラリフーシャの神殿へ。忌人の立ち入れない、神域へ。
 アイザルは、もう息子にリーシャのことを話しただろうか。彼らに引き取られて髪の毛が伸びれば、リーシャがラサイアに面会を求めることもあるいは可能かもしれない。何も、永遠の別れというわけではない。ラサイアは毎日のように自分に言い聞かせていた。……たった一人の少女を失うことを怖れている自分が不思議だったのだが。
 しかし、身請けがかなえばいつでもリーシャと一緒にいることの出来る傭兵に彼女を預けなければ神殿へ発つ準備も出来ないとは、悔しいこときわまりない。そして、今まで主従関係に甘んじていた自分のことも、不甲斐ないと感じる。父からリーシャの身柄を引き取る、それは簡単なことではない。ラサイアの生活のすべては父の稼ぎでまかなわれており、彼女の自由になる財産はないのだから。しかし、不可能ではないはずだった。一人娘の懇願と忌人の身柄、父がどちらを取るか、それは明白なことだ。なのに、自分は逃げていた。父から自由になったリーシャがラサイアのもとを離れていってしまうかもしれないと思うと怖かった。リーシャはラサイアが止めればいつまでも彼女のもとに留まっていてくれるだろう、しかしそれも止められればの話だ。ラサイアには、リーシャの意思を縛ることは出来ない。そんなことは、したくない。
「リーシャ、行ってらっしゃい」
 ラサイアは有無を言わせずリーシャを追い出し、拒絶するように扉に背を向けた。
 リーシャはおそらく、ラサイアの機嫌が悪いと思っただろう。八つ当たりに、見えたかもしれない。
 しかし、それも仕方のないことだ。ラサイアは大きく息をつくと、廊下を通りかかった侍女を呼び止めて台所への使いを頼んだ。
「――台所で、いつも刃物を研いでいる女の子。その子を呼んで頂戴。頼みたいことがあるの」
 侍女はもちろん、ラサイア自ら少女のもとへ行くよりは少女を呼びつけることのほうが自然だと認識していた。彼女はあっさりとうなずくと、ラサイアに礼をとって早足で台所に向かった。

――父上、それならば土産としていただきたいものがあります――
 そのとき、ラサイアはためらう顎を強引に縦に振って父にうなずいて見せた。彼女の頭脳は、一瞬でその答えを導き出していたにも関わらずだ。つまり――神殿に、リーシャは連れて行けない。離れ離れに、なる。
 父の言うことは絶対なのだと、ラサイアも理解していた。彼は娘に無理な縁談を進めるよりは神殿に入れることのほうが容易なのだと知っている。確かにその読みは当たっていたのだが……唯一の誤算は、ラサイアが予想以上に忌人の娘を手放しがたく感じていることだった。
――リーシャの安全を保障していただきたいのです。彼女を引き取ろうとする者がいたならば、その者を父上の目で見定めてリーシャを手放すかどうか決めてください。どこぞの馬鹿者にあの子を売渡などしたら、私はすぐさま家を出ます。もう一つは、彼女の血縁関係を辿ること。忌人が集まり、生活共同体を立てている例はいくつもあります。リーシャの縁戚が見つかったら、彼らを保護してやってください。要は、私の代わりにリーシャを愛せる人を見つけていただきたいということです。神殿に、リーシャは連れてはいけないし、髪の毛が伸びきったとしても濃すぎる罪人の血は神域に拒否される可能性があります。私は、諦めてトラリフーシャの神殿へ向かいましょう。ただ、リーシャのことだけ、よろしくお願い申し上げます――
 それ以上を言う必要など感じなかった。
 心残りは、リーシャのことだけなのだ。彼女が幸せに暮らせればいい。自分は、どうせいつかリーシャと離れなければならないのだから。神殿に入らなければ、いつか結婚というものが待っている。そのとき、リーシャとともにいられるだろうか? そんなはずはない。忌人は普通、主人の側近くに仕えたりなどしないものなのだから。
 ラサイアは、リーシャを幸せにしてやらねばならなかった。今まで束縛してきた分、すべて。父や母の犯した罪に生まれたときから道を決められていた少女を、ずっと、解放してあげることが出来なかった。
 自分には、できない。フィーダルやアイザルといった、自由な者――忌人と同じく蔑まれながらも自由を失わない人々にしか、彼女を救うことは出来ないと、そう思う。ラサイアに出来ることは、リーシャをフィーダル達に委ねること。それだけだ。その先、幸せを掴むことを祈って。
 今、父に向かって言い放った言葉を訂正するときが来たのかもしれない。
 一人うなずくと、ラサイアは父の部屋へ足を向けた。


 小さな包みを胸に抱えて、リーシャは慣れた歩道を黙々と進んでいた。屋敷の本館からだいぶ離れた別館との間をつなぐ歩道は緑が濃く、風と光は易々と木々の間を通り抜けていく。リーシャはここが嫌いではなかった。少なくとも、普段使われていない別館への道など利用するのはわずかな掃除係だけで、人と会えば目を背けられる立場にいるリーシャにとっては居心地の良い場所だった。
「こんにちは、あの、お訊ねしたいんですけど、――」
「ああ、お嬢様のところの。今、フィーダルを呼んできてやるから。フィーダル、フィド!」
 リーシャが近づいていって声をかけた傭兵は、彼女の言葉の終わりを待たずに立ち上がり、大声でフィーダルを呼ばわりながら別館……傭兵達の宿舎へと入っていった。もうすっかり、リーシャも彼らと顔なじみなのだ。
「あ……の、今日はフィドじゃない、のに……」
 リーシャは呆然と男を見送り、それから我に返って小走りで建物の中へ滑り込んだ。フィーダルにも、帰りがけに会うつもりではいた。しかしあくまでもラサイアの用事が最優先だ。
 扉をくぐってすぐの広間で、フィーダルが男と向き合っていた。彼はリーシャの姿を認め、いつものように首を傾げる。用事はなんだ、というふうに。
「フィド、あのね、あたしはラサイア様の用事で来たの。アイザルさんはどこ?」
「なんだ、アイザルか」
 男は何故だかがっかりと肩を落として言った。
「アイザルなら、奥で何か読んでる。ここのお嬢様に借りたんだってな」
「ラサイア様に?」
 リーシャの高い声が被さった。アイザルがラサイアのところを訪れているところなど見たことがない。そして、ラサイアが別館まで出歩いているところを見た記憶も、リーシャにはないのだ。
「ああ……相談じゃあないのか?」
「相談って、何のだ」
 フィーダルがリーシャにならって首を傾げる。男は晴れ晴れとした口調で、
「どうしてだ? アイザル、この子を身請けするんじゃないのか?」
 その言葉に、フィーダルもリーシャも表情を凍りつかせた。
 引きつった笑いを浮かべてお互いを見つめ、同時に叫ぶ。
「どうしてだよ!?」
「誰がそんなこと!」
 男は年齢に不釣合いな、曖昧な表情を浮かべてひょいと肩をすくめた。
 その様子にフィーダルは男を突き飛ばし、リーシャはフィーダルを追いかけるようにして走り出し、あっという間に奥の廊下に消えて行った。

 短い廊下を即座に駆け抜け、リーシャとフィーダルはアイザルが書を読んでいるという部屋にたどり着いた。男の言葉から与えられた衝撃に、リーシャはともかくフィーダルまでも息を切らしている。
「……フィド、開けてよ」
「おまえがやればいいだろ」
「嫌だよ。フィド、やって。お父さんの部屋でしょ」
 互いに押し付け合い、どちらからともなく顔を見合わせた。改めて、男の言葉の意味をゆっくりと解きほぐす。――身請け。リーシャを。アイザルが。
「開けて」
 リーシャが扉から離れてフィーダルに言った。フィーダルは扉に手をかけ、ゆっくりと力を込めて取っ手を引いた。
「……親父」
「アイザルさん」
 フィーダルとリーシャが控えめに声をかけた。アイザルは床に直に座り込み、片方の膝を立てて分厚い書物をその上に乗せていた。どうやらラサイアと同じような人らしい、とリーシャは見当をつける。いったん書に熱中すると周りが見えなくなってしまうのだ。
「アイザルさん、アイザルさん。ちょっと、いいですか?」
 フィーダルが驚くほどの冷静さでリーシャはアイザルに近づき、そっと肩をゆすった。
「……? ああ、リーシャ、フィド。何だ?」
 アイザルはやや眠そうな表情で息子を振り返った。
「ええと、あの……今度はおまえが言えよ」
 フィーダルはリーシャに向かって囁いた。扉は自分が開けたのだから、用件はリーシャが話すのが順当ではないか。
「えー……嫌だ……アイザルさん、あの、さっきそこで、あたし……」
「身請けの話だろう? ああ、まあ、俺じゃあなくてフィドだけどな」
 無造作なアイザルの言葉に、フィーダルは一人目を見開いた。
「俺……? なんで……そんな話、全然――」
「悪いな、忘れてた。前にお嬢様に頼まれたんだよ。リーシャをよろしくってな」
「どうしてですか!」
 リーシャが噴き出すような感情とともに叫んだ。自分は、何も聞かされていない。フィーダルも何も知らない。アイザルの言うことが真実なら、当事者はリーシャとフィーダル二人のはずだ。それなのに、どうして何も言われていない?
「どうして、身請けだなんて言うんですか? あたしはラサイア様のところにいちゃいけないの? どこにも行きたくない、ラサイア様の側にいたいのに!」
 激昂したリーシャを見つめて、アイザルは静かに言った。
「その包みは、お嬢様が俺に寄越したものだろう? リーシャ、貸してくれ」
 リーシャは目を吊り上げてアイザルを睨んだ。しかし、この包みがラサイアからアイザルへのものだということは事実だ。リーシャの手が差し出され、アイザルは包みを開いた。
「ああ、これだ。リーシャ、ありがとう」
 呑気なほどのアイザルの声に、再び口を開きかけたリーシャだったが、続くアイザルの言葉にその意気は挫かれた。
「フィド、ほら。おまえの母親の遺髪だ」
 光を弾く鋼を縒ったような細い髪の毛の束を指し、アイザルは包みをフィーダルに渡した。


 ラサイアが父の部屋から自室へ戻ると、わずかに開かれた扉の隙間から一人の少女が見えた。先刻自分が人をやって呼ぶように言った台所の少女だろう。ラサイアは一度、少女に仕事を頼んだことがある。護身用の短剣を研いでもらったのだ。そのときの誠実な仕事振りを、彼女は今でも覚えている。
「早いね、ええと――ユマ、と言ったかな」
 少女は長椅子から跳ね上がり、くるりとラサイアのほうを向いて深く頭を下げた。座って待っているように言ったとはいえ、主人の一人娘の部屋に呼ばれて長椅子でくつろぐ少女というのも珍しい。しかし、ラサイアはそのような豪胆な人間が嫌いではなかった。
「お嬢様……あの、私に何か御用でしょうか……」
「用があるから呼んだの。ユマ、私の荷造りをして欲しい」
 ラサイアが発した言葉に、ユマは一瞬戸惑いの表情を見せて目を細めた。
「荷造り……?」
「まだ一部の人間しか知らないけれど、私はトラリフーシャの神殿に入ることになったから。普段ならリーシャにやってもらうところだけれど、神殿に持ち込む荷物には忌人は関わってはいけないらしい」
「でも、どうして私が……」
 ラサイアが、たった一度短剣を研ぎに出しただけの自分を覚えていてくれたことは嬉しかったし、ラサイアの信頼は快い重みを伴ってユマにのしかかってきた。しかし、彼女の言葉はユマがリーシャ――忌人の少女の代わりに過ぎないということを物語っている。ラサイアが誰よりも信頼しているのは忌人なのだ。罪人の血を持つ者、ユマはその代わり。それを思うと屈辱で身が焼け焦げそうだった。ラサイアの前でそれを表に出すわけにはいかなかったが。
「私は、そういうことに慣れてませんし……」
「それでも、いいんだよ。きちんと働いて、期日までに荷造りを終わらせてくれれば。私はユマのような人は嫌いではない」
 柔らかな口調だが決してその信頼を裏切ることは出来ないような調子でラサイアは言った。ラサイアの荷造り、たったそれだけのことなのに、ユマの背に緊張感が走る。
 しかし、ラサイアの命を断るわけにはいかない。
「……分かりました。ラサイア様は、いつ神殿に発たれるのでしょう?」
「十日後かな」
「何をお持ちになられます?」
「とりあえず、貴重な文献は持っていく。神殿でも役に立つはずだから。あとはまあ、あの花瓶と着替えと……」
「――私が、旅に必要なものを見繕っておきます」
 そのうち、「書物以外は神殿で支給されるだろうからいらない」とでも言い出すのではないかという危惧を抱き、ユマはラサイアの言葉を遮った。自分も幼い頃から母の台所よりも父や兄の仕事場で遊んでいることのほうが多い子供だったが、ラサイアの生活力のなさはそれ以上だ。
「そうしてもらえると助かる。じゃあ、明日からはじめて」
 ラサイアの言葉に、ユマは問い返した。
「今日はもうよろしいんですか?」
「もうすぐ、リーシャが帰ってくるから」
 一瞬のうちにラサイアの表情が和み、慈愛の笑みが浮かぶ。
「リーシャと、顔をあわせて欲しくないんだ」
 自分以外の人間と会うことを、怖れている子だから。
 そう言ったラサイアはあまりにも優しく、まるで慈愛の女神のようで――ユマは顔を背けた。
 やはりラサイアにとって一番大事な人間は忌人のリーシャで、自分はその代わりに過ぎないのだと。


 フィーダルはたった今父に手渡された一束の糸を眺め、おそるおそるアイザルを見返した。
「母親……って、俺の?」
「おまえの」
 アイザルは憎らしいほどあっさりとうなずき、鋼の髪を手にとった。さらさらとした質感に、フィーダルは眉を寄せた。
「リーシャ……」
 隣でなりゆきを見守っていたリーシャがそれに誘われるように顔を上げた。リーシャの激情は思いがけないアイザルの言葉によって収まり、一転して傍観者の立場に立つことになっていた。しかし、フィーダルの言葉にリーシャはわずかに身構えた。何かが、襲ってくる。そんな予感がした。
「リーシャの髪の毛に、似てる」
 色と、髪質。低く呟いたフィーダルは大きく息をついたアイザルを見つめた。
「ああ、リーシャは顔も彼女によく似てる」
「もっと簡潔に、詳しく! 説明しろ」
 声を抑えて言ったフィーダルに、アイザルはこの上もなく簡潔に説明してみせた。
「おまえの母親はおまえを産んだあとすぐに姿を消した、そこまで話したろ? そのとき一緒に消えたのが、多分リーシャの父親だ。そのあと俺は二人が忌人に堕とされたのを知った。ずっと彼女の娘を探してた。そして見つけた。リーシャだ。それだけのことだよ。つまり、おまえの義妹だな。分かっただろ、身請けの理由」
 歯切れのいい言葉にやり場のない怒りすら覚えたフィーダルを面白そうに見つめ、アイザルは言った。
 リーシャはそんなアイザルを焦点の定まらない瞳で見つめ、心の中で呟いた。
――お母さんがアイザルさんと一緒にいたの? フィドを産んだのはお母さんなの? フィドはあたしのお兄さん? どうしてアイザルさんから離れたの? お母さんがそのまま傭兵団にいれば、あたしはもっと幸せだった――
 ラサイアに出逢わない代わりに、蔑みの目で見られることもなかった。
 疑問が溢れて止まらない。どうして、そんなに重大なことを、アイザルはいとも簡単に言ってのけるのか。
 目の前のアイザルは、リーシャと同じ色の髪の毛を心底愛しそうに眺めている。リーシャはその髪の毛がどこから来たのか、手にとるように理解できた。母が忌人に堕とされたときに切られた髪の毛だ。どうしてそれをラサイアが持っていたのかは分からないが。
「リーシャを見た途端に分かった。彼女の子供だって。彼女は処刑されたはずなのにどうして娘が生きているのかは分からなかったけどな。お嬢様にも頼まれた。リーシャを連れて行ってくれって」
「ラサイア様は……どうして、あたしを手放すんですか? あたしは誰よりもラサイア様といたいのに……お母さんのこともお父さんのことも覚えてない、ラサイア様しかいなかった……ずっと、一緒にいたいのに」
 アイザルは言いにくそうに顔を背け、取り乱すこともできないでいる少女に向かって呟いた。
「お嬢様は、トラリフーシャの神殿に入るんだ。神殿に、忌人は入ることが出来ない」
 特に、リーシャのような呪われた血脈に生まれついてしまった娘は。
 翳ったままに凍りついたリーシャの瞳を見つめて、アイザルは二人の若者の母親のことを思い出していた。



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