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土の太陽の章、三 |
限りなく黒に近い茶色の毛並みは、一筋の乱れもなく、しかしべったりと重い血をまとわりつかせていた。 部屋中を満たす血の匂いに、ハイネもディスタも思わず顔を背けた。違う――この程度の惨状ならば、二人とも見たことがある。 問題なのは、それがシスと祖父のものであるということだ。 『お祖父さん…………シス…………』 ハイネの声に反応するように、獣が低く吠えた。 ハイネが抜いたままだった剣を構え、獣に切りかかる。 『ハイネ、怪我!』 『そんなことどうでもいい!』 ディスタに向かって叫ぶハイネを、彼は後ろから羽交い絞めにして引きとめた。まだ血が流れている、手当てのなされていない傷を抱えて、大型の肉食獣に切りかかるなど自殺行為だ。 『ハイネ! やめろ!』 ディスタはハイネを突き飛ばし、獣と向かい合った。どうやって追い払えばいいのかなど見当もつかないが、とりあえずあまり興奮させてはいけない。 獣は、つい先刻人を噛み殺したとは思えないほど落ち着いた様子だった。彼らが部屋に入ったときよりも、ずっと穏やかだ。 黒い目がじっとディスタを見つめ返す。 頼むから、早く立ち去ってくれ――と、ディスタは内心獣に向かって懇願した。そうしてくれないと、ハイネの傷の手当てができない。 その願が通じたのか――黒い獣は、静かに立ち去っていった。 『……今のは……』 ハイネがそっと呟いて、二つの骸に向かって這っていく。 もう、シスも祖父も体温を持ってはいなかった。 『何だったんだ……おい、ハイネ、傷』 『うん……』 ハイネは祖父の横に座り込み、ディスタの声にも顔を上げなかった。やっと会えた祖父。父のように、妻を裏切ったりはしなかった。異形の娘を妻にし、ずっと、ずっと愛していた人。 やっと会えたのに、母を喪った哀しみを理解してくれる人だったのに、言葉も交わさないうちに息絶えてしまった。 『今のは……何? どうして……あんな……』 『ハイネ! 手当て!』 再度、ディスタは叫んだ。これ以上傷を放置していたら、大事になる。 ディスタがハイネに手を伸ばした瞬間――――再び、地が揺れた。 「ディスタ! 外に――」 初めて聞いたハイネの肉声に、ディスタが動きを止める。精神波よりも、幾分高い声。少女らしい、細い声だった。 『ハイネ……』 『何やってるの、外に出なきゃ……』 ハイネは長剣を杖にしてふらつきながらも立ち上がろうとした。ディスタは荷物を投げ捨て、ハイネの手からも剣を剥ぎ取った。 呆気にとられるハイネを担ぎ上げ、階段へ向かう――が、二度の地震に、木製の段は崩れ落ちていた。 『なんだよ、これっ……ハイネ、大丈夫か? いいか、飛び降りる。窓から、飛び降りるからな』 『無理だよ、私がいたら! 自分で降りられるから、ディスタは先に行って』 『傷に響くだろ! おまえは無理だ!』 『大丈夫!』 『意地張ってるんじゃない』 叫びながらも、ハイネは苦痛に顔をゆがめている。ディスタはハイネを無視し、窓枠に手をかけた。 飛び降りても、助かるかどうかは分からない。特にハイネの傷。彼女が落下の衝撃に耐えられるかどうかは分からない。たいした高さではないが、それでも多少の加速と、衝撃。 オルテツァ神、最後の異形の民を護り給え。 ディスタはかすかに呟き、覚悟を決めた微笑とともに壁に沿って地面を目指した。 独りだった。 宿の二階から脱出し――地面に叩きつけられた……そのはず、だ。 ディスタが一緒だった。ハイネを抱えて飛び降りてくれた。傷を気遣って。彼の負わせた、傷だから。 一緒だった。そのときは、一緒だった。 ハイネは手探りで地面を叩いてまわった。人の熱が感じられない。そんなに、離れてはいないはずなのに。一緒に、飛び降りたのだから。 ディスタはいない。それどころか、地面さえないように感じるのは傷のせいなのだろうか? 砂と土で少しざらついた、大地があるはずだった。ハイネは、そこに横たわっているはずだった。それなのに、どうして、こんなにふわふわとして頼りない空間に身体を支えられているのだろう。 起きなければ。起きて、ディスタを探さなければ。 その思いで、ハイネは脇腹を庇って起き上がった。 『何――』 べったりと血に濡れた布の衣服。ただでさえ汚れていた衣が、さらにみすぼらしさを増している。 しかし――そんなことは、どうでもよかった。 傷は……いつの間にかふさがっている。血は、流れていない。立ち上がるが、貧血症状もない。 これで、心置きなくディスタを探しに行ける。ハイネはそう思ってなんとなく気分よく立ち上がった。知らない間に傷がふさがっているというのは、幸運だ。 と――――麻痺した頭で考えて……ハイネは何かに気づいたようにおそるおそる上衣を捲り上げた。 そして気味の悪さに呻き声をあげる。 ――傷の痕は、何も残っていなかった。 自分は、そんなに長い間気絶していただろうか? そんなことはない。身体が、彼女が意識を失っていたのはそう長い時間ではなかったと告げる。しかし、どうしたことだろう、この肌の滑らかさは。掠り傷さえ見えない、日に焼けていない白い肌。 おかしすぎる。 この尋常でない回復は――――おかしすぎる。 ハイネは何の支えにも頼らずに立ち尽くし、目を閉じて考え込んだ。 まず、ここはどこだ? この、足元が頼りない、それでもしっかりとハイネの存在を支えてくれる床と、何もない、白い霧がかった空間。ディスタも見えない。ハイネの異形の目が見渡せる範囲にはいるはずだというのに。 そして……どうして、ディスタに斬られた傷がこうも早くふさがっているのか。 確かに、そう深い傷ではなかった。練習で打ち合いをしていて、ディスタの剣が掠ったというだけのことだ。しかし――おかしい。痕も残さず、綺麗さっぱり消えうせるとは。迅速な手当てをすることができず、かなりの痛みがあった。少しずつ流れ出た血は、大地に点々と痕をつけていた。それなのに、なぜだ――――? ハイネの顔から血の気がひいていく。怪我による貧血ではない。ただ、純粋な怖れ。 独りだ。 得体の知れない空間に独りで放り出された恐怖に、ハイネは再び倒れこんだ。 ディスタが見つけたとき、ハイネは蒼白な顔で地面に倒れていた。 怪我によるものかとも思ったが、ハイネはすぐに起き上がり、ディスタの衣の端を掴んで叫んだ。――傷が、ふさがっている、と。何も、何の手当てもしていないのに、いつの間にかふさがっている、と。 『どうしてだよ! 何でそんな、いきなり、その傷が……!』 『分からないよ! 私にも、分からないの! 気がついたら、ふさがってたんだから。痕も残ってないんだよ、おかしい!』 ディスタはハイネの手をそっと振り払うと腕を組んだ。痕も残っていないとなると、人間業ではない。いくら異形の回復力が尋常ではないからといって、そう短い時間にふさがるわけはない。それに――ディスタは今まで失念していたのだが、ハイネは純粋な異形ではないのだ。少し蛇の異形の血が混ざっただけの、混血に過ぎない。 『……ここが、どこか、だよな……場所が、特殊だ。聞いたこと、あるだろう? 力を持った、『場』のこと。神域、神の支配する場所って呼ばれることが多い。多くは神殿の祭域だ』 『それがここだって? だって、ここはどう見たって神殿なんかじゃない』 『……だったら、神のおわす場所だ』 ディスタ自身も、それを口にするのには抵抗があった――しかし、ハイネはさらに衝撃を受けたようだった。 『神のおわす場所……って、どういうこと!? どうして? どうして私達ここにいるの?』 ――落ち着きなさい、神の愛し子達―― ディスタがいち早く声に反応して何もない頭上を見上げた。ハイネにもその声は聞こえていただろうが、彼女はそれどころではないらしい。ディスタは溜息をついてハイネの肩を叩いた。 『ハイネ、聞こえたか』 『何が!?』 ――異形の娘、私の声を聴きなさい。土の世界、最後の愛し子達―― 声の主はわずかな笑いを含んだ声音で言った。天から響いてくるような、大きくはないが心に染み渡る声だった。巨人達の精神波での会話の根源は、この声にあるのではないかと思ったほどだ。 『……誰、ですか』 ディスタが緊張を孕んだ声で呼びかける。ハイネは緑の目を見開いて黙り込んでいた。 ――私は、あなた達の導き手。最後の愛し子である者を、新たな天地へ運ぶ者―― 最後の愛し子、という言葉に、ハイネが恨めしく呟く。 『どうして……最後なの? どういうこと? 新たな天地ってどこ? ……私はもう疲れた。どこにも、行きたくない。誰も、残ってない。私もお母さんと一緒に死にたかった』 『ハイネ!』 確かに、彼女には何も残っていないのかもしれない。母も、祖父も。家族は、誰一人。しかし、最後の愛し子という言葉を、オルテツァの世界最後の住人というように解釈すれば、それはディスタも同じだ。つまり――二人しか、残っていない。 『だってそうじゃない!? 誰も残ってないのに生きてて何の意味がある? 面倒なだけだよ、生きてることが面倒になるだけでしょう!』 『おまえ、そんなこと言っていいと思ってるのかよ!』 『だって、ディスタだって私だけしかいない世界で生きていて楽しいの? 駄目だよ、人は一人じゃ駄目なんじゃない、二人だって駄目なんだから!』 ――少し落ち着いて、私の話を聞きなさい。確かにあなた達の言うとおり、オルテツァの創りし世界はもう滅ぶ。ここにいては分からないかもしれない、それでも確実に滅びの道を辿っている。あなた達は残された。しかしそれは人の意思には関係のないこと。それは謝りましょう。確かに、知る者の誰もいなくなった世界で生きるより、死を選んだ方がましという者もいる。あなたもその類の人間なのですね。しかし選ばれてしまった。もう後戻りはできません。いいですか、遮らずに聞きなさい。これが最後の言葉です。私はあなた達を新たな世界へと運ぶ。それは私の世界、癒しの満ちた世界であるはずの場所です。そこで時を過ごし、出会いに辿り着いて欲しい。すべてに出会ったとき、分かるでしょう。……土の世界最後の愛し子達よ、私の……私の愛し子達を、頼みます―― 声の主は、最後少し哀しげな響きを孕ませて静寂を引き寄せた。頼みます、と言われても困る、と抗議の声を上げかけたハイネを、ディスタが鋭く制した。 『ハイネ、俺は生きていたい……死にたくないよ。この人が俺達を生かしてくれると言うなら、どんなところでも行く。そこで生きる。それだけだ。おまえもさ、少し考えてみろよ。生きてたほうが楽しいだろ? 『楽しい? だから、楽しくないって言ってるでしょう?』 『死ぬのなんて、いつだっていいだろ? 一回死んだら、もう後がないんだからな。もし本当に死にたくなったら、俺が殺してやるから、今はとりあえず生きてろよ。新しい世界っていうのも、見てみたいし』 殺してやるから。 薄笑いさえ浮かべてその言葉を発したディスタを、ハイネはじっと見つめた。 おそらく、本当に容易く、一瞬で、痛みもなく、自分を殺してくれるのだろう、この男は。そうできるだけの過去を持っているのだろう。本当に死にたい人間を楽に死なせてやるだけの優しさを持っているのだろう。 『本当に、私のこと殺してくれる?』 『本当だって』 『……じゃあ、どうして今は駄目なの? 今じゃいけないの?』 あくまでも死を望むハイネに、ディスタが低く唸って頭を振った。 まだ、出会って間もない少女。見たこともない異形の瞳を持つ、強い少女。 確かに惹かれていた。死なせるのは嫌だった。自分の目の前で、彼女が命を絶つのを見過ごせるわけが、ない。 『……今は、駄目なんだよ。今おまえを死なせるのは嫌だ。今は殺せない。俺が、殺したくない』 『そんなのおかしい』 『おかしくたっていい。だったら、自分で自分を突いてみろ。それで、刺してみろ。そうすれば、いいんだ。最初から、そうすれば』 怖いのだろう。 心が死にたいと叫んでも、身体はそのとおりには動かない。誰だって、死にたくないのだ。心の、一時の気の迷いを、身体は黙殺する。誰だって、死なせてはくれない。一つ一つの命を、悲鳴を上げながら地上に繋ぎとめようとする。そしていつか、心はそれを受け入れるのだ。 『……分かった、死なない。今は死なない。生きて、みる』 ハイネの答えに、ディスタは満足したように微笑んだ。 その瞬間をとらえて、二人の意識の中が真白な光で満たされた。視界も、脳裏も、すべてが白く、薄く淡く光っている。 優しい、柔らかな――しかし二人の意識を奪おうとする力に襲われて、ハイネもディスタも目を閉じた。 ――ハイネ、お母さんはちょっと具合が悪いんだ。静かにして、こっちへおいで―― ハイネは、静かな声に引き寄せられるようにして足を踏み出した。両親と自分の寝室だ。彼女はいつでも真ん中だった。父と母とに囲まれて、どんなときでも何の不安も感じずにぐっすりと眠り込む。今では考えられないような、無防備な寝姿だった。 ――お母さんは病気なの? ハイネお母さんの側にいたい―― ――お母さん、とても苦しそうだろう? そこにいてはいけないよ。お父さんと、薬草を採りに行こう。お母さんが早くよくなるように、薬草を採ってこようね―― 父の呼びかけに応え、ハイネは精一杯の歩幅で父のところまで走っていった。小さい頃、彼女は他の子供に比べても身体の小さい少女だった。 男性の異形の嫁を、集落の人間達はあたたかく迎え入れ、彼らの一員と位置付けた。異形の特徴を色濃く受け継いだ女の子が生まれたときも、祝福を惜しまなかったという。 ――お父さん、花が咲いてる!―― ――ハイネ、あんまり深いところに行くと、髪の毛が絡まるよ―― ――大丈夫だよ、昨日、お母さんがずうっと梳かしてくれてたの―― さらさらになったのよ、と、ハイネは母と同じ色の髪の毛を翻した。母と同じ目、髪の毛。 ハイネは母マスリーが大好きだった。鏡に映った自分を、そのまま大きくしたような母親を見つめては、将来はマスリーのような女性になりたいと願ってやまなかった。父も好きだった。――絶対に、大きくなったらお父さんみたいな人と結婚するの。 お父さんと結婚するの、とは言わなかった。 ――ハイネは、自分と同じ人と結婚してね。お父さんがいけないわけではないけれど、人間がいけないわけではないけれど、でも『違う』ということはつらいことなのよ。自分と同じ人と結婚してね。同じ人を、見つけてね―― 母親に言い聞かせられていた。外見も、生活も、何もかも違う人形の巨人と結ばれると、きっと嫌な思いをする、と。 ――人間は……いけないの?―― ハイネは顔をゆがめてマスリーに抱きついた。人間は、優しい。ハイネに優しい。それなのに、いけないのだろうか。 ――ハイネ、違うのよ、違うのよ。あなたが思ったとおりのことをすればいいのよ。でも、好きとつらいを比べないでね。自分と違う人を好きになっても、お母さんは怒らないわ。でも、好きになったのなら、諦めてはいけないの。相手と自分が違うからって、つらいからって、諦めてはいけないの。好きっていう気持ちを大切にしなくては駄目よ。……それが、とてもつらいことだから。だから、ハイネにはなるべくなら同じ異形の人を好きになって欲しいの―― ――難しいね、お母さん―― ――難しいのよ。今は忘れていていいわ。いつかハイネが大人になったら、思い出して―― 母との会話を、ハイネは父に包み隠さず話した。父と交わした言葉にしても、同じことだ。父と母は、幼いハイネから見て完璧なほどに意思の疎通ができていた。ハイネも、なんでも両親に話さなければいけないと思っていた。 自分で振り返っても、本当に仲のいい家族だった。 今はもうバラバラになってしまったなど、信じられない。父はまだ生きているが、それはハイネの知っている父ではない。母親を裏切った、既に父と呼べなくなってしまった一人の男だ。 ――お母さん、やっぱり、人間はいけなかった―― ハイネは実感を伴わない意識の中で目の端に涙を滲ませた。 ――人間は裏切った。私達を、裏切った―― 信頼、できなかった。 ――でも、私は人間に殺される。人間とともに生きる。それしか、残っていない―― 意識の海の中、ハイネは高みに浮き上がり、そしておそろしいほどの速さで落下していった。 ――ディスタ、ごめんね。君を信頼していないわけじゃあ、なかったんだよ。でも……僕にとって、一番大切なのは彼女だった。誰にも、知られるわけにはいかなかったんだよ―― 異形の娘と恋に落ち、集落を捨てようとした青年。彼は、ディスタの一番の友人だった。 彼にとっての一番がディスタではなくなったことを責めるつもりはなかった。ただ、どうして何も相談してくれなかったのか……それが、どうしようもなく悔しかった。彼はディスタのことを、異形を蔑むような、あるいはそのような大人に娘のことを知らせるような、そんな人間だと思っていたのだろうか。本当に信頼しているのなら、隠さないで欲しかった。そのほうが、彼にとってもディスタにとっても楽だったはずなのに。 ――ねえディスタ、どうして皆異形を『違うもの』と見るんだろう? 異形っていうのは、そんなに僕達と違うもの?―― ――まあ、違うな。外見も、身体のつくりも多分違う―― ――ディスタ!―― 珍しく声を荒げた青年に、ディスタは笑って手を上げた。 ――でも、その違いを理由に『区別』するのはおかしい。そういうことだろう?―― そこでは、異形は排除されるべき存在だった。災いを運ぶ者として忌まれていた。長の息子がその異形と手に手をとって集落を出るなど、あってはならないことだった。 誰にも、言えなかったその思いは理解することができる。異形に惹かれた青年の気持ちも、手に取るように分かる。今ならば。 最後のオルテツァの愛し子、鋭い眼をした異形の娘と、ディスタもまた出逢ってしまったのだから。 ――いつか、ハイネを殺すかもしれない―― 自分は、異形を殺すかもしれない。殺意を持って為したことではなく、依頼されての殺人であっても、自分はハイネを殺すかもしれない。 そのときが来るのが、異様なほどに怖かった。ハイネに頼まれれば、自分の身体は意思に反して剣を構えるだろう。 心と身体とは、常に相反する存在なのだから。 |
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