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Thank you for the Music (5)

「シャルさん……お加減はどうですか?」
「あ、リルイースさん」
 他人の手によってととのえられ、常にそれに潜り込めばいいだけの状態が保たれている大きな寝台の中、枕に背をあずけたシャルは引きつった笑みを浮かべた。
「とても――とてもいいです。だからその……薬はいらないんですけど……」
 丸薬ならばまだかわいげがあるものを、リルイースが持ってきた椀の中ではとろりとした深い緑色の液体が揺れていた。本来あまり体調を崩すことのないシャルは当然薬にも慣れておらず、また風邪のひとつやふたつでわざわざ薬師が煎じた薬湯を飲むというのも、苦い苦くないという問題よりも先に贅沢の範疇に入るものだった。
 けれども、そこはやはりフラッセアでも指折りの名家である。当主にも気に入られている客のために、腕の良い医師を呼んで診察させ、その医師が連れていた薬師ともども泊り込ませてシャルの健康に気をつかっている。
 リルイースも、本来の職務であるアルディラン・グラバートの世話もそこそこにシャルについてくれていた。
「だめですよ、まだ熱が下がってないんですから」
「微熱じゃありませんか。わたし、家ではこれくらいの熱で寝込んだりしませんでしたよ? 畑にも出てました」
「シャルさんはグラバートの大切なお客様ですから。王都の冬はとても乾燥していて、たちの悪い風邪が多いんです。熱はなくても、まだ腹痛があるでしょう?」
「……ときどき、です」
「これはお腹の薬湯ですからね、ちゃんと飲んでください」
 柔らかい、けれどもきっぱりとした口調で言い切ったリルイースから薬湯を受け取り、シャルはあからさまに顔をしかめた。鼻をつく苦いにおいが立ちのぼり、喉の奥から吐き気すらこみ上げる。
 まるで薬を厭い、寝台に縛り付けられることにあっという間に飽きてしまっていた子供のころに還ったようだった。風邪をひいて寝台に追いやられた最初は弟や母親が自分のぶんの仕事まで分担してくれるのが嬉しかったが、一日寝て腹痛や頭痛、吐き気といった直接の不快感がやわらぐとたちまち退屈を持て余しはじめてしまったものだ。
 今はそんなに落ち着きのない人間ではないし、ジェフが書庫に潜り込んで探してきてくれた何冊かの書物もある。読み書きの初歩は教会で教わったのだが、さすがにすらすらと読めるというわけにもいかず、一冊の本が手元にあればかなりの時間をつぶすことができた。
 シャルの田舎では、読み書き算術は教会や家の中で教わるものだったため、初級の読本しか終えていないのだ。それにひきかえ都では勉強を教える専門の学び舎があり、そこで働く大人は教えることで生計を立てており、よほどに貧しい家の子でなければある一定のところまでは学問を修めることができた。ジェフもそこへ通っていたようで、その点で彼はシャルよりも頭が良い。
 数ある学問所の中でもっとも権威のあるのが、レイルシュが奨学金をとって学ぶ王立の学院で、主に貴族や裕福な商人、上流の暮らしをする家庭の子息が通い、かつてアルディランや兄のカルファールも学んでいたところだった。シャルにとっては本家の跡取息子であるレイルシュも、そこでは奨学金制度の下限からこぼれ落ちないように日々努力をかさねる苦学生とみなされるのだ。
「う……不味い……」
 鼻をつまんで一息に薬湯を飲み干したシャルは、いつまでも口の中に残ってしまう苦味にかるく咳き込んだ。リルイースが差し出した白湯をゆっくりと飲み、苦い感触を洗い流す。
 リルイースはそんなシャルに苦笑して言った。
「不味いのはわかりますよ、わたしも飲んだことありますから」
「それなら飲ませないでください。……お腹も風邪も、放っておいたら治るって言ってるのに」
「普段めったに体調を崩さないなら、やっぱり都に慣れていないせいで風邪を引き込んだんですよ。新年も近いですし、完全に治るまで起き上がらないでくださいね」
 若年ながら屋敷の跡取りであるアルディランの世話を一手に引き受け、当主にも信頼されているだけあって、リルイースがやんわりと言った言葉には逆らえない。そもそも、リルイースはシャルの身体を気遣ってくれているのであって、シャルが暇だ暇だとさわぎたてているのは子供じみたわがままにすぎないのだ。
「これから台所で菓子を焼いてきますから、シャルさんのお腹の具合が悪くなければジェフも呼んで食べましょう。それまでゆっくりしていてください」
「はぁい……」
 おとなしくうなずき、シャルは寝台に潜り込んだ。濡れたような光沢を放つ黒髪を背中で揺らし、リルイースが部屋を出て行く。
 その、こなす仕事の量にくらべてあまりにも細すぎるような背中をぼんやりと見つめていると、張りつめた疲労の影がうっすらと見える気がした。
 部屋の掃除や食事の支度は他の侍女が行っているとはいえ、アルディランやレイルシュの身のまわりのことに気をくばりながらシャルの面倒も見ているのだ。菓子作りとて趣味の一環だと笑って言ってはいたが、実質仕事と変わらない。
 ほとんど屋敷の外に出ないため、肌の白さがくっきりと浮かび上がり、華奢な四肢を強調している。実際にはかなりの力があるのだが、それもリルイースが無理をしているように思えてしまう。
(あのひと、いつ休暇とかとってるのかしら)
 そう考えて、シャルはかすかに顔をしかめた。ジェフもそうだが、屋敷で働いている者たちはたいてい、半月に一度丸一日の休みをとる。ジェフのように家庭のない者や故郷が遠い者は屋敷に残り、遊びに出かけたり買い物に出たりする。家が近いのであれば、一日を親兄弟のもとでゆっくりとすごすこともできる。ふるさとが遠い者も、休暇を貯めておいてたまに里帰りをしているという。
 しかしリルイースが休んだところを、シャルは見たことがなかった。
 休んだほうがいいと忠告することは簡単だ。リルイースはいつも見せる、花がほころびるような笑みをうかべて、ありがとうございますと頭をさげる。けれども実際に休みをとることはないだろう。
 リルイースとシャルの関係は屋敷の客とその世話をしている使用人、それ以上のものではない。シャルの言葉にも、真剣な説得力は欠けるかもしれない。けれど努力次第でその距離を縮めることはできる。
 屋敷の跡取りであるアルディランにも、当主に歓迎されている客人レイルシュにも大切にされているにもかかわらず屋敷の使用人と変わらない仕事をこなすリルイースの立場はひどく不透明なものだ。
 いつかそれを知る日が来るのだろうか……と、シャルはそう思いながら目を閉じた。
 鼻腔をくすぐる花の香りが、わずかに残った苦みをすっと鎮めて眠りを招きよせていた。


 いつの間にか彼女にとって側にいるのがあたりまえとなっていた少年が、グラバート邸の下働きであるジェフだった。
 赤みの強い茶色の髪の毛に栗色の目をしているジェフは、シャルよりもふたつ年下の十五歳である。彼女の弟と同じ年の彼は、年が明けてすぐに十六の誕生日を迎える。親を亡くし、フラッセア王都で兄とたったふたり生き抜いてきたにしては世間ずれしておらず、田舎から出てきたシャルも彼とは安心して付き合っていられた。
 あまり交流のない遠縁のレイルシュ・フィレット青年は彼女よりも七つ八つ年上で、しかも王立学院の上級最高学年だという。その、地方領主の息子にしては少しばかり華々しい経歴に気後れしているのも事実だったから、シャルにとって今都で一番気楽に話ができるのがジェフなのだった。
 ジェフは彼の目の前でシャルが倒れて以来、一日として見舞いをかかしたことがなかった。最初の一日こそシャルが目を覚まさなかったため戸口からそっと様子をうかがっていただけだというが、どうにか意識を保てるようになり、起き上がって食事をとるまでに回復すると一日に何度も何度も訪ねてきてはリルイースに叱られるまで話し込んでいったものだ。
 カーテンの開け放たれた窓から、高く昇ったあたたかな太陽の陽射しだけが射しこんでくる穏やかな昼時、普段よりもやや昼食が遅れて運ばれてきた部屋で、シャルは昼食をとっていた。
 一日を寝間着ですごさなくてもよいという許しがもう出て、それでも活動をはじめるには遅い時間に金髪を梳き、平時とかわらぬ装いをしたシャルはたったひとりの食卓を味気なく思っていたが、ジェフでもない召使に同席しろと言ったところで断られるのは目に見えている。あの、ジェフの物怖じしない態度はしかりつけるのではなくおおいに尊重すべきだとシャルと、そしてリルイースも考えているようだったが、他の者にまでそれを求めるのは酷というものだ。
 今の時間は、いつもならばジェフが自分の食事を終えて――あるいは、シャルのところで食事をとろうとして部屋を訪れているころだった。彼には彼の職務があるのだから、シャルがジェフの訪れがないことに不満や不審をいだくことはないのだが、それでも心のなかのわずかな隙間に座る人間がいないような気がして、シャルはどこか落ちつかない。
 そわそわと何度も扉を見やり、シャルはあからさまになげやりな様子で昼食を口に運んでいた。起き上がることは許されたといっても、いまだに病人食の感じが抜けきらないスープがもうすっかり冷めている。
 溜息をついて、シャルは匙を置いた。
 まったく、いいご身分になったものだ。出されたものにけちをつけ、自分とさして変わらない出自の者が一瞬たりとも気を抜くまいと働いているのを尻目に優雅に昼食を摂るとは。
 そもそも熱が引いたらすぐにでも家の仕事に駆りだされるのが今までの生活で、こんな、医者を呼んでその許しが出るまで寝台に独占されていなければならない暮らしは居心地が悪い。罪悪感とでも呼ぶのだろうか、分不相応なあつかいをうけている自覚があるだけに周りの視線に棘があるような気がしてしまう――おそらく、被害妄想が渦を巻いているだけなのだろうが。
 冷ましてしまったスープはかろうじてすべて飲みこんだ。食べ物を残すのは料理人と素材となった動植物とに対してのひどい侮辱で、シャルも自分の畑を故郷に持っているからこそその思いが強く、無理をしてでも腹の中に昼食を詰めこんだのだった。
 シャルの畑は、小作人を雇って大々的に経営している家の畑とはまた別の、家の裏手の家庭菜園にすぎない一画だが、家の台所の足しにはなっていた。今は誰が世話しているだろう。弟かあるいは祖母や母か……いずれにせよ、家族に多大な負担を強いていることは間違いない。
 自分がフラッセア王都の繁栄の結晶である屋敷で、惰眠をむさぼっている間に、家族は今も冬の寒さと乾燥に耐えうるものをできるかぎり作り出そうとしているのだ。
 自分の選択にも才能にも疑いを持っていないシャルだったが、家族への申し訳なさは確かに芽生えていた。都に来た当初はただ浮かれていただけだったが、季節が移ろうほどの時間をすごしてみると、望郷の念もきわだってくる。
 歌うたいとしての才覚だけでなく、うまく世を渡っていくだけの知恵も備えたシャルだったが、都での成功、ナタリー・ウィンズのような華々しい活躍だけが自分の求めていることなのだろうかと考えると、どうも首をひねってしまう。
 かつての自分は、ただうたってさえいれば幸せだった。この声をとりあげられないかぎり、自分は世界一の幸せ者だと思っていた。ひたむきで純粋な熱情が喉からほとばしり、それが人の心を打っていたのだ。
 今の自分の歌が嫌いなわけではない。けれども、あのころほど一途ではなくなった。歌のなかに打算の影が見え隠れするようになり、うたう喜びよりも先に人々の賞賛を求めていた。
 誰に尋ねても、シャルのそんな葛藤を言い当てられはしないだろう。おそらく、周りから見た自分はただ歌うのが楽しくてたまらない可憐な姿をした少女にすぎない。
 しかし、シャルにはわかっていた。自分自身のことだからこそ、どんな些細な変化も敏感にかぎとった。
――自分は、あの家庭的であたたかな雰囲気が満ちあふれる酒場でうたっているだけでは、満足できていないのだ。
 それは何か重大な裏切りのようにも思えて、シャルの背筋をひややかに駆け抜けた。ジェフやクリュー、そして三十なかばを迎えてもなお美しい女将のいるあの場所を、シャルはこよなく愛していた。けれど――そこでうたうという事実そのものは、決してシャルの欲求のすべてを満たすものではなかったのだ。
 酒場でうたうことに安らぎと満足をおぼえている一方で、もっと大きな舞台でうたってみたいというシャルがいる。貪欲なその一面は、かなわぬ夢を見て心のなかであがいている。
 ふいに、部屋の中の近景が暗い色彩をおびてシャルの眼前に突きつけられた。自分はどうすべきなのか、決断を迫られている。このまま王都で暮らし、夢を追いつづけていくのか、それとも故郷へもどって結婚するのか。それを決めることなしにグラバート邸に居座っていることはできないだろう。
 呼吸の音をたてるのすらはばかられて、シャルは息を詰めた。持てあましてしまうこの思い。答えが出ない。
 蒼白な顔で眉を寄せたシャルは、微動だにせず膝の上で握りしめた拳をにらんでいた。次に我にかえり、その精巧にととのった顔に表情を浮かべたのは昼食を片付けに侍女が入ってきたころ。
 卓上を手際よく片付けていく物音に、シャルは優しい音をたてて流れ落ちる金髪を揺らして頭をあげた。風景が色をとりもどしたように、せきとめられていた流れが解放されたように、血の気のもどったシャルは立ち上がった。
 窓辺に歩み寄り、薄い硝子のはまった窓から外をながめる。なんとはなしの行動だったのだが、シャルはそこで見逃せないものを見た。
「……ジェフ?」
 たった今、客室の窓から見ることのできる使用人勝手口から、赤茶の髪の毛の少年が出てきたところだった。きこえるはずもないのにその名を呼び、シャルは衝動的に彼を追った。
 病み上がりで厚着をしていたのを幸いにケープ一枚だけを羽織り、部屋を飛びだす。廊下を疾走する少女の姿に召使たちが驚きの色を浮かべてこちらを見たが、止められる者がいなかった。シャルを寝台にとどめておいたのはリルイースの功績が大きいが、幸いなことにリルイースには見つからないで屋敷外へ出ることができた。
 シャルのように全力疾走していたわけでもないジェフは、まだ門番小屋の横にいた。門番の青年となにやら話しこんでくれていたのもシャルに味方した。
「ジェフっ、ジェフ!」
 走りながら叫んで手を振ると、ジェフと青年とがぎょっとした表情でシャルを見つめた。迷惑がられているというわけではないが歓迎されているとも言いがたい状況にシャルは立ち止まる。
「シャル、……出てきていいのか?」
「ううん、べつに誰にもいいとは言われてないわよ。でも、もう治ったから」
 けろっとした顔で言ったシャルに、ジェフはやや呆れ顔で、
「で、治ったからってどうして……」
「だって、ジェフが出て行くのが見えたから。あんたの行き先なんてどうせクリューのところぐらいだし、だったらわたしも顔を出しに行きたいなって思ったの。それで、どこ行くの?」
 シャルがずいと身を乗りだすと、ジェフは気のすすまない様子で答えた。
「……王立劇場に」
「王――王立劇場?」
 その答えにはさすがに意表を突かれ、シャルは深い湖の色をした瞳を大きく見開いた。
 王立劇場――フラッセアでもっとも権威のある劇場。そこでの花形はナタリー・ウィンズであり、彼女は七公演二百五十あまりの回数王立楽団と共演した記録を打ちたてた、若いながら養母とならぶフラッセアの大女優である。
 けれどもなぜ、ジェフがそこへ足を運ぶのか。
 もっともな疑問に、ジェフの横に立っていた門番の青年がかわって回答する。
「実は、俺の叔父が劇場の掃除夫でして、排気管を通して中の声がきこえてくる場所があるって言うんですよ。それをこいつに教えたら、観に行く、聴きに行くって――前からのことなんですけどね、今日から『ツェペリ』の公演がはじまるし、ちょうど午後は暇だから行ってくるって」
 上背だけは合格点かと思われる青年は、シャルの青い瞳をのぞきこみながらにこやかに言った。それをさらりとかわしながら、シャルはジェフの腕をつかんだ。腕を組むなどという夢のあるものではないが、門番の青年はわずかに顔をしかめた。
「ねえジェフ、わたしも行っていい?」
「いいけどさ……俺リルさんに怒られるのイヤだし、シャルが倒れても責任もてないよ」
「持たなくていいわよ、今走ってきたの見たでしょう? 平気よ。歩いていくのよね?」
 うなずいたジェフに、シャルは満面の笑みを浮かべた。
「わたし、リルイースさんが馬車でしか移動させてくれないから、都をゆっくり歩くのってはじめてなのよ」
 さほど年は違わないが、リルイースはシャルの都での保護者のような存在だ。いきすぎと思えるほどにリルイースは彼女に気を遣う。それが最近重荷に感じられるようになってきた自分は、わがままなのだろうか。
 シャルはジェフと連れ立って門を出た。門番に手を振ると、呆けたような顔つきで敬礼してみせるのが見えた。
 最近目に見えて背が伸びてきたジェフの手を、シャルは子供が母親のエプロンをつかむように握った。
 心の中の空席が埋まった。きっちりと隙間なく詰まった充実が身体のうちから熱を生み出し、寒さもあまり感じない。
 会えて嬉しい、その思いを、シャルは決して否定することがなかった。



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