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Thank you for the Music (6)

 その声をきいた瞬間、シャルはほんのひととき自分の感触を失った。
 深みと艶のある声が、重厚な楽団の演奏を背景に響きわたる。おそらく、音響効果を考えてつくられた劇場内できけば、そのすばらしさは今の比ではないだろう。薄汚れた排気管横の壁で聴いていてさえ、力強く身体のうちに浸透してくる歌声に、シャルはうっとりと溜息をついた。
 ナタリー・ウィンズの声を聴いたのははじめてだったし、顔を直接見たこともない。けれど絵姿で見たナタリー・ウィンズは、別名を「昼と夜の歌姫」といって、長い黒髪に明るい空色の目を持った背の高い女性だった。
 彼女には、貧民街でうたっていた娼婦あがりの女性を母親に持ち、子供に責任をもたない母親のもとで、多くの子供たちがそうであるように物乞いや掏りなどでかろうじて食いつないでいたという経歴がある。それが王立劇場の看板女優にまでのぼりつめた経緯についてはさまざまな憶測が飛びかっている。さる貴族の男の愛人だというものからもっともまともで信憑性が高いのが、劇場のごみ捨て場へ食べ物を漁りにきたところで、二十年ほど前に今のナタリーと同じ位置にいた大女優が彼女を見初め、自分の養女にしたのだという話である。
 シャルは今まで、その噂のどれもを信じていなかった。というよりも、下卑た噂は信じたくないというのが正直なところだったのだ。しかし、今ここでナタリー・ウィンズの歌を聴いてみると、歌の実力で現在の地位を手に入れたことは明らかで、それにはやはりごみ捨て場で養母に目をとめられたという万に一つの偶然がなければいけないだろうかと思うのだ。それがなければ、どんなに才能があってもナタリー・ウィンズは実母と同じただの下町の歌うたいにしかなれなかっただろう。王立劇場に下積みでも入るのは、強い発言力と豊富な資金を必要とするものであるからだ。
 その点で見れば、シャルとて歌姫の座から遠いことに変わりはないのだ。ナタリーと同じような幸運、たとえば今ここにナタリー・ウィンズが通りかかるような偶然――それがなければ、道はけわしい。発言力と資金力といえばグラバートの力をたのむのも手のひとつではあるが――グラバート卿のお気に入りとの発言を、彼女はまだ忘れてはいない――、やはり自分の力で這い上がるのはフラッセアにごまんといる庶民の夢なのだ。
 隣で同じように目を輝かせるジェフに気づき、シャルはそっと微笑んだ。彼と、ふたりだけの客席。それがとても心地良くで暖かで、泣きたくなる。
 悩んでいたことすべてが溶け出して流れて、ただ音と一体になる。シャルはジェフの腕に手をかけ、甘くやわらかに響く独唱に耳をかたむけた。
――その、夢見心地の幸せな時間のことだった。
 身体が火照り、意識がふわふわと浮きだす。音は明確な強さを失って漂いはじめた。視界が狭まる――たったひとつ、ジェフの腕だけ荒くれた海の孤島のようにシャルのなかでかたちをなしている。
 それはつい最近、シャルが経験した不快感だった。倒れる、そう思って踏みとどまる。せっかくナタリー・ウィンズの歌を聴くことができたのに、ここで意識をうしなってはあまりにもったいない。
 すさまじい執念で壁に爪を立てるが、直後気が遠くなった。薄れていく意識の中で、シャルは思う。
(……ああ、もったいない)
 だってナタリー・ウィンズのみならず劇場の関係者は皆舞台の真っ最中で、ナタリーに起こったような奇跡はシャルに訪れないだろうから……。


「――あらよかった、気がついたみたいよ。……きゃぁ、目を開けるとさらに美人」
 目が覚めると、冴えた空色の瞳がシャルをのぞきこんでいた。
 二十すぎくらいの、若い女だ。抜けるように白い肌、花より赤い唇。あでやかだがしっとりと落ち着いた雰囲気を持っていて、ことに目を細めて微笑んだ表情が美しかった。
 この特徴の持ち主に、あきらかにシャルは心当たりがあり――けれどここにいるはずのない人物だっただけに、混乱の度合いも大きかった。
「ナタリー・ウィンズ……」
「そうよ」
 ご明察、とつぶやいて、ナタリーはシャルの背中を支えて抱き起こした。唇のところへ水差しをあてがわれ、乾ききった喉を潤す。
「あの……どうして、あなたが」
「ジェフが、あなたが倒れたって顔色変えて駆けこんできたから。あなたの噂は聞いてたしね」
「わたしの……?」
 肩をすくめていたずらっぽく笑った歌姫に、シャルはひといきついてから問いかけた。なぜ、ナタリー・ウィンズが自分を知っているというのだろう。ほんの数か月前に都へ出てきたばかりの小娘を。
 くるくるとよく変わる表情が魅力的なナタリーは、とても最年少の王立劇場看板女優という名声を背負っているとは思えなかった。美人だとは思うが、驕ったところがみじんも見られない。貧民あがりの歌姫に反感を持つ人々のなかで暮らしているのだからあからさまに得意げな顔をしてはならないのはわかるが、だとすると今度は鬱々としたところがなさすぎる。
 ナタリーはシャルの金髪に手をのばし、指の間をこぼれおちる光の糸を引っ張った。初対面の相手にいきなり触れて、無礼だとは思わないのだろうか。けれども常のシャルならそのふるまいに怒りをおぼえていたはずだが、この歌姫のしぐさをとがめる気にはならなかった。それくらい、人をひきつける魅力があったのだ。
「あたし、昔はこんな色の髪の毛が欲しかったの。だって目立つでしょう。今は黒髪以外の自分なんて考えられないけど」
 その空色の瞳とあわせて「昼と夜の歌姫」と呼ばれているくらいだ。その艶やかな黒髪がナタリー・ウィンズの特徴なのだから、金髪ではおかしいだろう。
「あなたのうたっている酒場がある界隈は、あたしの縄張りに近いのよ。あたしは生まれ育ったところを忘れたわけじゃないし、そこには大切な人がたくさんいる。あなたの歌を聴きに来るお客の中にも、あたしの知り合いがいたはずよ。それにアズレイも――」
「……アズレイ? って、ジェフのお兄さん?」
「ええ。だから、ジェフがあなたをここへ連れてきたって――あら、ユーディウス、アズレイ」
 ナタリーは扉を開けて入ってきたふたりの青年を見て朗らかに声をかけた。赤みの強い金髪に橙色の目を持つ、やたらと明るい印象を与える長身の青年と、ジェフの兄であるアズレイだ。
 その後ろからジェフも姿を見せ、シャルはほっと顔をゆるめた。
「シャル……倒れないって言ったくせに」
「仕方ないでしょう、倒れたものは」
 口をとがらせると、ジェフはむっとした表情で黙りこんだ。兄の後ろに再び引っこみ、口をつぐむ。
 シャルにはもう、なぜ自分がここにいるのかがすっかり理解できていた。
 ジェフの兄、シャルの歌の些細な間違いを発見して指摘したアズレイは、王立劇場でうたう俳優であるのだった。


「……知らなかったわー」
 公演後のわずかな時間を利用して様子を見にきたというナタリーとアズレイが出て行くと、シャルは背中にあてがわれたやわらかい枕に身体を預けた。短い言葉で彼女の意を察したジェフは、ちょっと眉を寄せて申し訳なさそうに言った。
「シャル、驚いたろ?」
「あたりまえじゃない、目がさめたら目の前に『昼と夜の歌姫』の顔だもの。これで驚かない人間っている?」
 いまさらながらに興奮と驚きが胸を襲い、シャルは紅潮した頬を叩いた。あんなにも憧れていたナタリー・ウィンズ、フラッセアが誇る大女優。「昼と夜の歌姫」その人に逢う日がこんなにも早くくるなど、夢にも思っていなかった。もちろん今回の邂逅はシャルの不養生が引きおこしたものであって、シャルがナタリーにならびたてる実力を持っているのではない。けれども、あこがれのひとに親しく声をかけられたこの日を、シャルは一生忘れないだろうと思った。
「黙ってたわけじゃないんだ、言う機会がなかっただけで。シャルが歌をうたうって知ったとき、このことを話したら喜ぶだろうなとは思ったけど」
「そりゃあね、喜ぶわよ――でも、ただそれだけだわ。ほかには、何もない」
 自分には、ナタリー・ウィンズにおとずれたような幸運はめぐってこない。だからといって、自分の力を磨かずに周りの人間ばかり頼っていてなにになるだろうか。――だから彼女は決めていた。どんなに時間がかかっても、自分で少しずつ前へ進んでいこうと。
 ナタリー・ウィンズと話ができたのは嬉しい。けれどもナタリーはあくまでもシャルのあこがれの女優なのであって、シャルがうたうための踏み台では決してないのだ。それとおなじように、ジェフやアズレイを自分勝手な決意に巻きこんではならないと知っていた。
「あんたには迷惑かけたわね、大丈夫って言ったのに。……リルイースさんに怒られるわあ……」
 衝動で行動するのは、シャルにはめったにないことだった。それを呼びおこしたものが何なのか、今は頭が混乱していてよくわからない。
 自分ではすっかりなおしたと思っていた身体だったが、まだ外に出るのはおっくうだった。ジェフの姿を見つけておいかけてしまったのには、自分でも驚いたものだ。
「屋敷の人皆、シャルのことすごく大切にしてるだろ。それはリルイースさんも同じだし、――ううん、あのひとがいちばんすごいくらいだよ。だから」
「わたしって幸せ者よね、お屋敷で世話になってるってだけでもありがたいのに、こんなに心配してもらって」
 おそらく一生かかってもかえしきれないほどの負債を、たった数か月のうちにかかえこんでしまった。衣服も食事も寝るところも、すべてシャルがとまどうくらいに上等で、そして分に不相応なものだった。自分はもとはといえば田舎の農家の娘なのだという意識は洗練された都の人々を見るたびにふつふつとたぎらないではいられなかったし、それがおさまると今度はどんなにとりつくろっても、生まれながらにして優美で鷹揚な都の人間とは明確な境界でしきられているような妄想に襲われる。いくら道々士気をたかめてきたとはいえ、やはりフラッセア王のまします絢爛豪華な都の雰囲気はシャルを圧倒してやまなかった。
 最初に都へのぼってきたときには、グラバート家が自分を歓待してくれるとは夢にも思わなかった。細い縁をたよってきた田舎娘などやっかい者にすぎないだろうと考えたし、事実、大抵の家はそう考えるはずだったのだ。けれど――グラバートの主もその息子も、シャルをあたたかく迎え、もてなしてくれた。慣れない都で心ぼそく思っていたシャルにとってそれがどんなに心強いことだったか、きっと彼らは想像できないだろう。
「わたしは本来、あんたみたいに富貴な家に仕えてお給金を貰う立場であるはずなのよ。それなのにわたし、ご当主や若様みたいな人に目をかけてもらって、都で遊びまわって――本当にこれでいいのかしらね」
「だって、シャルはレイルシュ様の親戚なんだろ?」
「もうずっと遠い血縁よ。わたしの実家は、ちょっと大きいただの農場。ちいさい村では有力者だけど、たいしたことないわ」
 まだすこし青さの残る唇を引き結んで言うと、ジェフはまだあどけない顔をゆがめて寝台の上、シャルの足があるほうに腰をおろした。短いつきあいの中で、目にしたことのない表情だった。
「でもシャルにそんなこと言われたら、俺はどうしたらいいんだよ」
「……ん?」
「シャルには帰る家があって、それと夢とを秤にかけたんじゃないか。……贅沢だよ、俺から見れば。兄貴は俺がいるせいで芝居にも本気では打ち込めないし、俺もまだガキで、屋敷でもろくな労働力に思われてない。立派に生きてるとは言えないし、生きていくのは難しいって思ったよ」
 都での暮らしは、まだ年若い兄弟たちにとって冷たいものだったろう。シャルの漂う世界とはあきらかにちがう。いいかげんグラバートから独立しなくてはと思っても、シャルには手をさしのべてくれる裕福な後ろ盾がある。何者にもたよれず生きてきたジェフとはちがい、失敗して身も心も疲れ果てても、暖かく迎えてくれる人がいるのだ。
 けれどもジェフにとって、たったひとりの肉親である兄は自分すら養いかねている若年で、弟の面倒をみようとすれば芸の妨げになり、結局のところいつまでたっても暮らしは楽にならないという悪循環だ。なんとしてでも自分の手で食い扶持を稼がねばならなかった――まだちいさな、少年が。
 顔をすっと青ざめさせて、シャルはうつむいた。彼女は夢だけを追える立場にいる。夢への険しい道そのものすら持たない、足元のこころもとない人々と違い、ただまっしぐらに到達地をめざせばいいだけの地盤が定まっている。
 それがどんなに幸せなことなのか、知っていたつもりだった。けれどもそれは、誰よりも険しい道のりを歩いていかなければならないという事実に巧妙に覆い隠されていた。自分が恵まれていると、ジェフの言葉にあらためて気づかされる。
「あの……ごめん、ね、ジェフ」
「別に、いいよ。……責めたかったわけじゃない。自分でもよくわからなくて――シャルに、弱音を吐いてほしくなかったのかもしれない。俺は……はじめて兄貴が舞台に立ったとき、ほんの端っこの役だったけどすごく嬉しかった。シャルのこともさ、見てみたいと思うよ……だから」
 ジェフが口をつぐむと、静かな室内完全な静寂に満たされた。救護室のような場所だろうか、がらんとした部屋に大きな寝台と棚がひとつ置いてある。家具は少なくても調度は立派なもので、確かにここがフラッセアでもっとも格調高い劇場の中であることを感じさせられた。
 不思議な緊張感を感じて、シャルは視線をさまよわせた。なんだろうか、この空気は。とても親密で、けれどもすこしひんやりとしていて、彼との距離はとても近いのに目をあわせるのが怖い。自分でも説明のつかない気持ちがふとした瞬間に暴走してしまいそうで、おさえられないその感情を知りたい思いが募った。
「……だから、さ――あんまり、無理はしないで欲しいよ。俺、シャルは都に来てちょっと疲れただけで、それももうすっかり治ったと思ってたんだ。だからまさか、あそこでシャルが倒れるなんて考えもしなかった。何でだかわからないけど、すごく動揺しちゃって……目の前がまっくらになったよ」
「……どうして?」
 震える声で呟いて首をかしげた。
 わたしはあんたの何、と詰め寄りたい衝動にかられる。どこからか自分の思いのかたちが見えてきて、シャルは息が止まるほど驚いた。
 ジェフのそれは、いったい何なのだろう。
 シャルの『それ』は、ジェフの一挙一動に目が吸い寄せられ、また彼の視界に入る自分の仕草に多大な気をつかい、たとえ床に就いていたとしてもうつくしくありたいと思う健気な『それ』は……。
「どうして、なの」
 理不尽と思えるほどの強さで問いつめるように言うと、ジェフは困ったように微笑んだ。
「シャルが好きだから、いつもそばにいたいから、だから怖いんだ。今まで健康に見えた人がいきなり倒れたら、不安になっても仕方ないだろ? これきりシャルの声が聞けないような気がして、顔が見られないような気がして……怖くて、たまらなかった」
「あんたね、す……好き、って」
 あまりにもあっさりとした言葉に、シャルは湖の色をした瞳でジェフを凝視した。心の中の大時化ほどの動揺を、かろうじて顔には出さずに囁く。
 何か、大きなものに祝福されたように心は歓びの歌をうたっていたけれど、それと同時に負けたともシャルは思った。
 自分は、この年下の少年に負けたのだ。自分の中でとっくに出ていた思いの形、その結論を意地わるくジェフに言わせたことで。
 彼は自分を偽らず、思いを恥じることもなく、ただ素直にそれを口にしただけだ。拒まれることは怖れていない。清々しいその告白に、シャルは優柔不断な自分の言葉が恥ずかしくてたまらなかった。
「うん、その――ごめん。でも、ほんとのことだから」
 はれやかな表情でジェフは言った。シャルに答えを強いようとしないその姿勢は好感のもてるもので、いつのまにか大人びはじめていた少年の姿を垣間見た気がした。
「……ありがとう。怒ってるんじゃないの、あんたが謝ることなんてないのよ。……うれしかったの」
 それと同じだけ、悔しくもある。
 シャルは苦笑し、もうほとんど用をなさなくなっていた毛布をはねのけると、足元のほうにいたジェフの肩に腕をまわした。
「……うれしかったのよ」
 あふれそうになる涙をこらえて、シャルは見た目よりも逞しい肩に頬をすり寄せた。大きな手のひらが後頭部を覆い、柔らかな金髪をゆっくりと梳く。
 こわばっていた心と身体がぬるま湯に浸かってほぐれていくような安心感に、シャルは青い目を細めた。どこかうっとりとしたようなその顔をジェフがのぞきこみ、そしてもう一度笑った。
「好きだよ」
 その言葉に身体のすみずみまで幸福で満たされ、シャルはささやいた。
「ねえジェフ、わたしあんたに頼みがあるの」
 うたってほしいの、わたしだけに。
 愛の夢の欠片、『ダルメニィ』を。



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