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鋼の民の章、一 |
頭の痛みがひどかった。眠りと目覚めの合間をたゆたう意識が認識しているのはそれだけで、真っ暗な視界に鋭く切り込む痛みに閉じたまぶたの裏が深い紅に染まる。 荒い呼吸を繰り返し、どうにか脳内に反響するような頭痛が収まったところで、リーシャはようやく目を開くことができた。 ――その瞬間は、視界に映るものは空虚な闇と変わらないように見えた。 のっぺりとした一枚の布のような黒い空間。けれども徐々に、おぼろげな輪郭と影の濃淡とわずかながら光が見えてきた。 それは、神の作った未完成な人間には侵されたことのない原初の木々の重なりあいと、厚い黒布に針で穴を開けたようにちらちらと輝く星々の輝きだった。 目覚めた瞬間の驚きとはうってかわって、神の手が触れたままの色を残す風景にリーシャは安堵の息をついた。自分を傷つける者のいない、優しい大地だった。横たわっているのは固い地面だったが、湿った土のにおいにくるまれるともう一度眠りたいとさえ思う。 まだ少しだるさの残る身体を動かそうとはせずに、リーシャはその空気を身のうちに刻み付ける。ざわざわと鳴る風と葉の音は決して不快などではありえず、まるで子守唄のように静かに耳の中へ滑り込む。 ここはどこだろう――と、一瞬そんな疑問が浮かんだが、疲れの抜けない身体は真の休息を必要としていて、その疑問を追及するまでにはいたらなかった。 見知らぬ場所にひとり取り残されているにも関わらず、こんなに安心しきっているのはなぜなのだろう。 自分はなぜ、ここにいるのだろう―――― 数々の疑問が浮かんでは泡のように弾けて消えた。何もわからなかった。疲弊しきった頭では、何も、思い出せなかった。 リーシャは無意識のうちに、目に見えない暖かな腕に身体を摺り寄せた。 穏やかな風が身体の表面を撫でるのが、まるで包み込まれているようでなんとも心地良い。 自分は何を求めているのだろうかと思う暇もなく、彼女はまた眠りに落ちていった。 次にリーシャを待っていたのは、よみがえった記憶とそれに伴う冷水を浴びせかけられたような頼りない感覚、つまり失ってしまったものすべてを思い出したという冷酷な事実だった。 震える身体を起こし、太い根が地上に姿を見せている大樹の幹に身を預ける。津波のように押し寄せてきた記憶をひとつひとつ辿っていくにつれ、リーシャの顔から血の気が引いていった。 サノア、あの正気を失った目でリーシャを睨んでいた女性。彼女はリーシャの父親である人の妻だった。 リーシャの母親が、殺したのだという――父親を。罪を重ねてきたのは今まで思っていたように『両親』ではなく、母親ひとりだけだったが、それでも呪われた血筋にリーシャが生まれついたことは否定できない。 男に身請けされてはまた罪を犯す、救いがたい人々。神殿に拒否されても文句など言える身分ではない。 サノアの罵りはまったく的を外したものではなく、現実とそれに対する憤りの間で揺れ動いていたリーシャの心に染み渡る。 罪人の娘は罪人ではない、と信じてきたが、今の彼女の前には罪人の娘が罪人となった事実がある。リーシャは、自分が見たことのない母親に似ているであろうことを確信していた。アイザルの証言だけではない、心が、騒ぐのだ。自分はいつかきっと、取り返しのつかない過ちを犯してしまう――と。 それは根拠のない確信で、ラサイアやフィーダルに話したらきっとばかなことを言うなと叱られてしまうだろうものだった。けれども、その思いが膨れ上がっていくのを止めることができない。 たったひとりで明らみはじめた空を見上げ、リーシャは自分をまるごと飲み込んで、押し潰してしまいそうな不安をきつく目を閉じて撥ね退けた。 とりあえず、自分の知っている場所を探すよりも先に、山をおりなければ話にならない。山をおりたらおりたで知らない人里に入っていけない自分が見えるようで気が滅入るが、都市で――というよりも人生のほとんどをラサイアの屋敷で過ごしてきたリーシャは大地に直に横たわるのは平気でも、山奥で食べ物や飲み水を探して生き延びていけるかということに関しては自信がなかった。 リーシャは立ち上がり、空の明るいほうを見て方角の見当をつけると――もっとも、どちらへ進めばいいのかもわからなかったのだが――辺りを見回して一歩足を踏み出した。 できれば、フィーダルと再会したい……。 語り伝えられる創世の大洪水に匹敵するような大水の中でしっかりと自分を抱え込んでくれていた義兄を思い出し、リーシャは思う。 彼は唯一リーシャと血のつながった肉親であり、ラサイアと離れることが決まった今ではトラリフーシャよりもリーシャを愛し慈しんでくれる存在だった。 ずっと、ずっと抱きしめていてくれた腕、リーシャを庇って負った傷をかえりみずに縋りつかせてくれた背中が、リーシャには何よりも頼もしく、優しいものだったのだ。 あれだけの傷を負ったにも関わらずフィーダルの身体は力強く、暖かかった。彼になら安心してすべてをまかせることができる。 ひとりでいることへの不安が、どうしようもない強さでフィーダルの存在を欲していた。 「フィドは……どっちにいるんだろう」 顔をしかめて、とりあえず東へ向かう。自覚はしていなかったが、リーシャがその方向を選んだのはラサイアの向かう神殿が屋敷から見て東にあったからに違いない。 考えていても始まらない、と歩き出したリーシャは、獣道にもならない未開の木々草花を手で振り払う。棘のあるものを避けて慎重に踏み出す身体はなかなか前に進まなかった。 しばらく歩いていったところで日が昇り、色鮮やかな花々がそこかしこで開き始めた。もしかしたらもといた場所から遠く離れたところまで運ばれてしまったのかもしれないが、それでも季節は同じ――世界がいっせいに色を取り戻す春のさなかだ。 見覚えのある花はほとんどなかった。花に接することがなかったわけではないが、リーシャが野生の花を目にする機会は少なく、多くの場合がラサイアの私室に飾る人の手によって改良され、栽培されたものなのだから仕方がない。 見慣れたものよりも小振りだが色味が強く、通り過ぎていく先々で花の残影が目に焼きついた。 美しいところだが、リーシャにはやや静かすぎると思えた。常に雑然とした屋敷の中で育ってきた耳に今は静寂が響く。 よく耳をすませば草の鳴る音や虫の羽音、鳥のはばたきなどが聞こえるのだが、それも屋敷の中で生み出される最低限の雑音のように無意識下を流れていく。 「少し怖い……」 この空間は確かに自然をそのまま残した尊い空気を持っていたが、そこに存在するもの、今リーシャを取り巻いているものは彼女とは明らかに異質だった。認めたくないが、怖い。 まるで穢れた血を、神にかたどられた人間の出来損ないを排除しているかのように、強くリーシャを圧迫する自然のざわめきがある。 フィーダルがいたら、どれだけ変わっただろう。 きっと、何も心配せずにいることができた。 だんだんと足が、心が急いていく。乱暴に行く手を遮る蔦や下ばえを払い、泣きそうになるのをこらえながら歩いていった。 不安にならないわけがない。こんなに広い世界は知らない。誰もいない、たったひとりだ。こんなに――こんなに広い場所にひとりきりでいて、寒さを感じずにいることができるだろうか。 飢えと乾きからくる不機嫌も手伝って、リーシャは癇癪を起こした子供のようにがむしゃらに進み続けた。 身体を捻るようにして立ち上がり、あと少しで身体から外れてしまうところだった剣を支えにして前のめりに一歩踏み出す。リーシャを庇って負った傷はまだずきずきと痛み、痛み止めの薬草が見つかるのが先か傷口が開くのが先かといったところだった。 もともと、手当もろくに済んでいない状態であの豪雨の中を走っていったのだ。下手をしたらリーシャを守りきれずに死んでいたかもしれない。――いや、あの雨の中では、リーシャとともに死んでいた、か。 「ほんっと、あのときは死ぬと思ったんだけどなあ……」 けれども今、自分は生きている。 それならば生き延びる努力をせねばならないし、離れ離れになってしまったリーシャを探さなければいけない。 大水の中で、リーシャが命を落としたかもしれないという考えは、フィーダルの中から故意に抹消されていた。 彼女は必ず生きている、だからそれを探し出す――そんな図式が、彼の中ではできあがっていたのだ。 傷口を片手で押さえ、ふらつく足取りで慎重に歩き出す。周りに目をやると、重なり合った緑が懐かしさを連れて迫ってくる。 思えば彼らはいつも、この景色に似た環境の中で生活していたのだ。 リーシャと出会ったラサイアの父親の屋敷での生活は、フィーダルやアイザルたち傭兵の仲間にとって、妙に居心地の悪いものだった。外敵はいない。飢えることも凍えることもない、そんな生活――けれども自然の恩恵にあずかって生きてきた彼らにとっては、それは不自然にすぎたのだった。 「見たことない場所、だな――ワイドウのさらに西か、リマタヤを越えたか……」 アイザルのその知識の広さ深さには及ばないものの、フィーダルも今まで自分が通った場所、経験したことがらのほとんどを記憶していた。それは旅から旅、自分の腕ひとつで生きていく傭兵たちにとってはあたりまえのことで、特に土地の気候や風土と、それに付随して食用になる植物や動物の種類、気候に合わせて発達し森を支配する猛獣の特徴や弱点など、都市を一歩出た山の中でのことならば地元の猟師にも負けないほどに詳しかった。 けれどもリーシャは違う。 彼女は『外』には出たことがない。確かに過酷ではあるが、敬意を払って接しさえすれば優しく、人間のように口さがない言葉で忌人である身をことさらに傷つけるような真似は決してしない自然と、触れ合ったことはないに等しい。 そのような場所で、いきなりフィーダルにもここがどこなのだか検討のつかない山奥に放り出されて、いつまで無事でいられるかどうか。 早く見つけ出さなければいけない。 けれども、フィーダルの今の状態では自分自身を守ることすらおぼつかない。屋敷にいるうちはまだよかったが、この傷を抱えていつまでもこんなところをうろついていたら目も当てられない惨状ができあがるだろう。 「リーシャの居場所どころか、自分の現在地すらわかんねえんだもんな、くっそ……とりあえず水だ水、違う火だな――」 呟きながら、とりあえず比較的歩きやすい足場をつたっていく。今の自分はなぜこんなにも独り言が多いのだろうとふと疑問に思った。 答えはすぐに出た。 日常的に彼がこのような場所を進んでいくとき、大抵は隣にアイザルや他の仲間がいる。会話は彼の前や後ろでも重ねられており、そこ一帯では笑い声や会話が絶えることがない。 つまり、このような静けさはめったに経験することがないということだ。 自分では決して脆い人間ではないと思っていたが、とんでもない。峻厳な自然に圧倒されて、何か口に出していないと不安でしかたがないのだ。 常に彼の周りは賑やかで少しうるさいくらいだった。 本当の静寂と孤独を知っているのは――他ならぬ彼の異父の妹、同じ母親から生まれながら決定的に立場を異にしたリーシャなのだ。 忌人の血筋に生まれた母親を持ちながら、フィーダルは父親のアイザルのゆえにその道を辿ることを免れた。一方リーシャはといえば――母親に父親を殺され、母は処刑され、生まれたときから忌人として生活し、その自由を奪われてきた。 自分の今までの気楽さはどうだっただろう。 死と隣り合わせではあったものの、自分で選択し勝ち取った自由を思う様堪能していた。いつ死ぬかわからないぶん、いつでも陽気に騒ぐのがフィーダルを含め仲間たちの常だった。都市で最下層の仕事に従事する人々のことは、知識として知ってはいても実際接する機会は少なかった。無論、人里を外れた土地を移動することが多かった彼らだからだ。 どうしても考えの薄いところはあるし、彼らとは身体的に正反対の生活を送っている忌人のことまで慮れるわけもない。 ――リーシャを身請けするだけで、またフィーダルという義兄……家族ができたというだけで、彼女を守れると思っていた自分が愚かだったのだ。 自由にならない身体に、溜息が零れる。家畜用の大きな刃物で抉られた傷を抱え、そのうえ見ず知らずの土地に放り出されたのだ。運が悪すぎる。 うつむいたところで、フィーダルの視界に細く流れてくる水の道が目に入った。勢い込んでその流れを辿り、源と思われる小さな川を見つける。 せせらぎとの合流地点ではその周りがひどくぬかるんでいたのだが、少しさかのぼると乾いた地面が姿を現した。気力も限界を迎え始めていたため、手ごろな石と季節が季節であるためほとんど落ちていない枯れ枝を集めて座り込む。 「これで火が着くか……」 石を擦り合わせると小さな火花が散った。野宿はしょっちゅうだが、まったく何もない状態から火をおこせと言われてもそう簡単にできるわけがない。なるべく乾いた葉をかき集め、何度も火花を散らした。 弱々しく燃え始めた茶色い葉から火を移すと、火は枝に燃え移り徐々に育っていった。安堵の溜息をついたフィーダルだったが、湯を沸かそうにも容器がない。 思っていたよりも冷え切った身体に感じる熱にほっと一安心しながらも、持ち上がった問題に再びげんなりと肩を落とした。 何でもいい、どこかに水を入れて火にかけられる容器はないものか。 動くのが億劫なため、軽く首をめぐらせて辺りを見回したが、そんな都合のいいものが転がっているわけはなかった。 「やばいな……水が」 普段ならば人に汚されていないであろう清い水なので飲んでしまうのだが、今は傷口もすすがなければいけないし身体がかなり弱っている。できればきちんと煮沸してから口にしたかったが、その容器になるものは見当たらない……。 けれども長い間意識を失っていた身体は乾ききり、どうしようもなく強く水分を欲していた。 大水前、かろうじてアイザルが応急手当をしてくれていたのを思い出し、傷口は放っておいて流れにそっと指を浸す。 よく冷えた水滴を舐めると、今度は両手のひらに水を掬って口に含み、嚥下した。 「やっばい、美味すぎる……」 おそらく誰も手に触れたことがないであろう小さな川の水は、そのキラキラと陽光を反射して輝く姿からは想像できないくらいに清冽な感触をフィーダルに残した。 もう一度掬い上げて顔を洗い、袖の部分で乱暴に拭う。いったん水を与えた喉は限界まで乾きを訴え、フィーダルは手が思わず動きそうになるのを抑えた。いくら美味いからといって、あまり摂取しすぎては危ない。 時折、一瞬姿を見せる意識の白濁に危機感を覚えつつ、フィーダルは手近な樹に寄りかかってこれからの方策について考えを巡らせた。 「人里におりるのが先か、リーシャを探して合流するのが先かだな」 フィーダルの身体の状態からいって、人の住むところまでおりていって傷の手当を受けるのが最優先なのだが、彼の心はリーシャを探す方向へ、逸る。 どちらを選ぶべきなのか、それはなんの外的要因にも左右されず、彼が選択しなければならないものだった。フィーダルの身体も義妹を思う心も彼自身のものであり、それはフィーダル自身かリーシャか、二者択一の選択を迫っていたのだ。 その葛藤がフィーダルの中を荒れ狂い、怪我の痛みによるものだけではない汗を額につうと流す。 今彼に残されているもの両方を永遠に失ってしまう可能性がもっとも大きいのだと、気づいてしまえば悠長に座り込んでなどいられない。 進まなければならない。どちらへ――そんなことはわからない。検討もつかない。 けれども彼は、進まなければならない。 もう視界も定まらないままに立ち上がる。 彼とリーシャの未来がどちらの方向へ伸びているのはわからなかった。そのふたつの道が交わっているのかさえ。 ――それでも諦めたら、生き延びられても一生後悔する。 義務ではなく後悔と愛情に彩られた強いまなざし。 ――諦めたら生き延びても自分を殺したくなる。 だから――進むのだ。 一歩進むごとに、傷はじくじくと痛むけれど、自分の決断に迷いはなかった。 この状態が続いて限界がきて、自分が死んだらリーシャは泣くだろうけれど、罪悪感も持てないほどに心は飽和状態だった。 かすかに微笑んでゆっくりと大地を踏みしめる。身体がぐらぐらと揺れているのはわかるが、どうやって止めればいいのか――――。 次の瞬間、自分の身体が前にかしぎ、今にも地面と接吻を交わしそうになっていることに気がついた。 『危ない、ああ――倒れる!』 それを止めたのは、フィーダルには意味の汲み取れない甲高い叫び声だった。 くずおれる身体を支えてくれた腕は、すんなりとしていて柔らかさを存分に持った少女のもの。 天からの助けとも思えるような突然のできごとに動転しながらも、頭を振ってどうにかふたつの目を働かせる。 髪の毛のなぜか白い、リーシャと同じ年頃の少女、そしてその隣に立つしなやかな身体つきの少年。やや後ろに悠然と立っているのは、三十代後半かと思われる堂々たる体躯と褐色の肌を持った男である。 「誰だか知らないが助かった、簡単にでもいいから傷の手当をしたいんだ。あんたたちが住んでるとこまで案内してくれないか? あと、そこの子と同じくらいの、髪の毛の短い女の子を見なかったか」 息を切らしながら自分の伝えたいことすべてを口にした。けれども相手はフィーダルが彼らの言葉を理解できなかったように、とまどったような表情でフィーダルを静かに見つめ返す。 そうやって視線を合わせたまま、時間だけが過ぎる。 ……しばし経って、自覚なしに意識を失ったフィーダルの身体を支えたのは、三人の中で最年長の男だった。 |
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