サイト案内螺旋機構「太陽の迎え子」目次 / 前頁次頁



風の太陽の章、一

 中位巫女サリティナの神殿での役目は、幼い巫女達の指導である。彼女は神殿に入ったばかりの巫女達に神殿での作法や祈り方、舞や歌や楽器など、様々なことを教え込むのだ。こういった仕事が割り振られているサリティナは、中位の巫女とはいえ、上位巫女にも劣らない発言権と人脈を持っていた。下位巫女の指導教官には、巫女に要求されるすべての条件において優れている者が選ばれるためだ。
 神殿都市と呼ばれる、大神殿を中心とする都。ここの神殿はキリサナートー信仰の中心であり、王都の神殿よりも規模が大きい。巫女の数は約二百人。そのうち先輩巫女の指導を必要とする――つまりサリティナが面倒を見なければならない巫女は十五人あまりだ。多い数ではない。昔から、小さな子供達の面倒を見ることには慣れている。
 サリティナは、十でこの神殿に入った。もう七年になる。彼女がまだ新米の巫女だった頃に教官をしていたのは、イーリスという名の巫女だった。彼女は教師としての才能は充分だったものの、巫女としての能力は足りず、サリティナと同じ中位巫女に留まっている。
 イーリスとは反対に……というか、むしろ彼女を追い越して上位の巫女姫の地位を獲得したのが、サリティナと同じ時期に神殿に入ったディアだった。ディアはサリティナの同郷であり、幼い頃からの友人だ。ディアの巫女としての才能はめざましいものがあった。キリサナートーの愛し子と呼ばれ、わずか四年で巫女姫と呼ばれるまでになった。姫という尊称をつけて呼ばれるのは、上位巫女の中でも特に選ばれた者だけだ。ディアは数々の奇跡を起こし、神殿内でも一、二を争うほどの知名度も持つようになった。
 しかし、サリティナは巫女として名を売ることや高い地位を手に入れることには興味がなかった。神殿の巫女の出入りが激しいのは、王都に住まう貴族達が、霊力の高い巫女を手に入れたがるためだ。高い金と裕福な暮らしに目が眩み、神殿を出る巫女が後を絶たないのだ。ディアが神殿内での地位をどんどん高めていけたのも、上位巫女達ですら貴族に引き抜かれてしまうためだ。神殿は堕落している、とサリティナは考える。豪華な暮らしを交換条件として、貴族個人のために霊力を使う巫女。寄進の金額が多い貴族に有利なようにキリサナートーの神託を操る巫女。いつ風の神の天罰が下るか分かったものではない。
 さらに、王都でも政治の腐敗が進んでいた。キリサナートーが舞や歌を好むことを口実に、政務も忘れて舞踏会や詩歌音曲にかまけ、民からは容赦なく搾取する王族や貴族達。サリティナはそんな人間のために風神に仕えているのではない。民の平安を祈り、この平和が末永く続くように日々祈っているのだ。
 しかし、今の状態はどうだろう。高い税に民は苦しみ、都の大通りには浮浪者が溢れている。本来なら貧しい民の救済に努めなければならないはずの神殿も、何も救いの手を差し伸べようとはしない。既に民の心はキリサナートーを離れ、ただ運命を呪うばかりになっている。民の心が荒み、神殿や政宮が腐敗してしまえば、後に待つものは世界の破滅だけだというのに。
 だが、サリティナが何の力も持っていないことも事実だった。彼女には、ただ後輩達が清らかな心のまま育ってくれるように愛情を傾けて教育することしか出来ない。
 神殿に絶望するサリティナにとって、唯一の救いは長年の親友ディアが下位巫女だったときと何も変わっていないことだった。ディアは変わっていない。ただキリサナートーの御前に跪く心を持っているのみだ。それだけが、サリティナの希望だった。
 それでも、最近神殿内では思わしくないことが続いている。サリティナが直接知っているわけではないが、ディアに聞いたところによると、巫女の失踪が続き、ただでさえ神殿を出る巫女が多い今、巫女の数が激減しているらしい。新しい巫女を入れなくてはならないから、あなたの負担も増えるかもしれない、とディアは言った。
 サリティナはいっこうに構わなかったが、行方不明者が多いというのはおかしなことだ。
 ここだけの話、しばらくして命をなくした状態で見つかる巫女も多いのよ――というディアの言葉に、サリティナは身を震わせた。


「ティナ! 久しぶりね。教官の仕事は大変なの? 少し痩せたみたいに見える。ただでさえ細いんだから、ちゃんと食べなくてはだめよ」
「ディア様……巫女姫様方は会議中ではありませんでしたか? 抜け出していらしてよろしかったのですか?」
「ティナ、そういう問題ではないのよ。新しい巫女が増えたでしょう、だから教官の仕事がかなり増えたと聞いたの。だから心配になって来てみたのよ。案の定、細くなったわね。これ以上痩せたら折れてしまうわ」
 淡い金髪に碧眼という、儚げな容貌をした幼なじみに、ディアが細い指を振った。サリティナは小さい頃から色が白く、華奢な体躯をしていた。教官の激務はとても務まるまいと思ったものだ。しかしディアの不安とは裏腹に、サリティナはそこそこ楽しくやっているようだ。
 ディアの上位巫女への昇進が決まってからというもの、サリティナはディアに敬語を使うようになった。最初は躍起になってやめさせようとしたが、思えば故郷ではサリティナは両親にも教師にも年上の友人にも、いつでも丁寧すぎるほどの態度をとっていたし、年下の子供達に対しても声を荒げることはなかった。そして、ディアはサリティナよりも一つだけ年上だ。彼女に向かって普通に話していた今までが、サリティナにとっては異常だったのだ、と気づき、ディアはサリティナの敬語を容認することにしたのだ。
「そうですか? わたしは……痩せたのですか」
「ええ、とても。そんな身体でよくあの大人数を面倒見られるわね。……あなたにはあまり喜ばしくない話かもしれないけれど、会議で決まったことがあるの」
 それを知らせに来たのよ、とディアは微笑んだ。
「なんでしょうか?」
「近いうちに、王都から国王陛下の弟君がいらっしゃるの。最近の……巫女の行方不明について調査されるのよ。それで……」
 サリティナは柔らかい動きで首を傾けた。自分は王弟殿下を出迎えなければならないような高位の巫女ではない。王弟の来訪が自分にどんな関係があるのか、彼女にはさっぱり理解出来なかった。
「わたしに何か関係あるのですか?」
「あなたが小さい巫女を指導しているところを、殿下に見学していただこうと思っているのよ。巫女の失踪は一応機密事項だから……殿下も、神殿の視察という名目でいらっしゃるの」
 サリティナは白い頬に血を上らせて、
「そんな、わたしには無理です! そんな貴い御方の前で、子供達を指導するだなんて……」
 ディアにも、それはよく分かっていた。女神キリサナートーの神殿に警備兵以外の男性が立ち入ることは滅多にない。王弟殿下の来訪によって使者や供の者が神殿に出入りするのは仕方がないことだとしても、王弟がサリティナの授業を見学するという状況に、男性に接した機会の少ないサリティナが耐えられるかどうかは疑問視されている。
 しかし、子供達もなかなか繊細なもので、急に教官が変わっても慣れるのに時間がかかってしまうし、今現在神殿にサリティナ以上に幼い巫女の信頼を得ている巫女はいない。
「でもね……あなた以上に適任な人はいないのよ。子供達には何も知らせないつもりだから、あなたはいつもどおり授業をしてくれるだけでいいの。ほら、あの広間の吹き抜けの二階の回廊。あそこから見学していただこうと思っているのよ」
「そんな……」
 子供達に知らせてもいいから、自分にだけは黙っていて欲しかった。と、サリティナはディアに無言で訴えかけた。何も知らされないままに見学されるなら、まだ普通の状態でいられる。しかし、いったんその存在を知らされると、どうしても意識せずにはいられないのだ。
「どうしてそれを仰るんです……」
「だって、指導後に殿下はきっとあなたにお言葉をかけてくださるわよ。そのときにいきなり殿下のことを知ったら、あなた、倒れてしまうわ」
 ディアの冷静な指摘に、サリティナは頭を垂れて考え込んだ。確かに、貴人が何かの演習を見学したときには終了後教官に言葉をかけるのが習いだ。そして、自分は王弟殿下を目の前にして冷静でいられる自信は持っていない。きっと、ディアの言うとおり、驚きのあまり倒れてしまうだろう。
「あの……イーリス様に代わっていただくわけには参りませんでしょうか?」
「だめよ。彼女も優秀な教官ではあるけれど、あなたには及ばないもの」
「そんなことはありません! イーリス様は、わたしなどより……」
「分かっていないわね、今はあなたが教官よ。王弟殿下が見学なさるときだけイーリスに代わってもらうというのは職務放棄だわ」
「それはそうですが……」
 サリティナはそっと青い目を伏せた。自信がない。王の弟御などという高貴な人に、自分が見下ろされると考えただけで身が竦む。
 ディアはそんなサリティナを見て軽く肩をすくめ、
「まあ……覚悟はしておいてちょうだい。私が話して了解を得られないようだったら、巫女長まで出ていらっしゃる騒ぎになるわよ」
「それは脅しです……」
 王弟の到着がいつだかは知らないが、それまで自分は無事でいられるだろうか、とサリティナは真剣に考えた。


 偉大なる太陽王の実弟ハルヴァは、豪奢に飾り立てられた赤い馬車に乗って街道を揺られていた。女子供じゃあるまいし馬に乗っていってもいいではないかと思ったのだが、従者達が承知しない。
 だいたい、兄も都を見て廻るときはいつも立派な黒馬に乗っているではないか。それなのに、どうして自分が神殿へ向かうときはこんな窮屈な馬車に乗らなければいけないのだろう?
 それを言うと、年上の乳兄弟は余裕の笑みではぐらかした。
「殿下、退屈そうにお見受けしますが」
「ああ、退屈だ。おまえ達が私をこんな狭い箱の中に閉じ込めようとするからな」
「しょうがないでしょう。最近は街道にも盗賊が出るようになって物騒ですから。殿下が馬に乗っていらっしゃると目立ってしょうがない」
「私が目立っておらずとも、馬車が目立っているだろう」
 真っ赤に塗られた馬車を指して言うと、乳兄弟であるシャグは不思議そうに目を見開いた。
「殿下は地味すぎます。普通の貴族ならば、旅行にはもっときらびやかな馬車を使います」
「私が馬に乗っても同じだろう!」
「違います。王弟殿下が馬に乗っているのと、貴族が派手な馬車に乗るのとでは大違いです」
 シャグの返事は素っ気ない。ハルヴァは不貞腐れて、黙って窓の外を眺めた。
 若葉の季節だが、陽射しは強すぎず理想的な光量だ。街道沿いに植えられた色とりどりの花が優しく目を引く。ハルヴァが知らない花も混じっていた。もとより彼はそんなに花に詳しいわけではないのだが。
「退屈だ……」
「もうすぐ着くはずです。……ああ、殿下、見えてきました。白い大きなあれが、キリサナートーの大神殿です」
 ハルヴァはシャグの言葉に閉じかけていた目を開いた。理知的な群青の瞳に、鴉の濡れ羽色をした黒髪。顔立ちは申し分なく整っている。長い黒髪を青い紐でくくっているのだが、顔の横に髪の毛が一房流れている。剣の腕前も磨いていて、肌はほどよく日焼けしていた。
「……大きいな。王都の神殿よりも」
「そうですね。巫女の数も多いようです」
「しかし、近頃巫女の失踪が相次いでいるのだろう」
 ハルヴァは声を低くして言った。これは彼とシャグしか知らないことだ。神殿でも、一握りの高位巫女にしか明かされていないという。彼らはあくまでも神殿の視察に出向くのである。秘密裏にことを運べ、と兄王にも命じられていた。
「そうですね。遺体で発見された巫女も多いと聞きました。……もっと大人数でくればよかったかもしれませんね」
 しかし、今さらそれを言っても始まらない。
 ハルヴァは眼下に広がる白い街並を見下ろし、そっと溜息をついた。


「サリティナ様、今日の午後は何の稽古でしたか?」
 自分の指導する生徒達の中の一人に問われ、サリティナは幼い少女達に神の使いのような、と形容される淡い笑顔を浮かべた。
「午後は聖歌の練習よ。リフィナ、他の人達を並べておいてもらえると助かるわ。……お願いしてもいいかしら?」
 指導を受けるべき教官に言われたことを断る人物はあまりいないが、それでも確認を取るような口調で頼んでしまうのはサリティナの癖だった。そして、その物柔らかな態度が人気の秘密なのだが、本人はさっぱり自覚していない。
 それよりも今日のサリティナには、気の重い出来事があった。
 今日は、いよいよハルヴァ王弟殿下がサリティナの授業を見学に来るのだ。それを思うと、サリティナは呼吸の止まる気がした。
「どうしましょう……」
 サリティナは、楽譜を用意しながら無意識のうちに呟いていた。人が見学に来るということは、サリティナの歌も聞かれてしまうということだ。
 彼女は歌うことが嫌いではなかったし、客観的に見ても透明感のある澄んだ歌声をしているのだが、いかんせん人見知りが激しかった。さらには、目上の人物と話すことが苦手だった。それもあって、彼女と上位巫女との連絡には大抵ディアが使われる。
 サリティナは深い溜息をつき、巫女達を集めておいた広間に向かった。


 ハルヴァは回廊の手摺から身を乗り出し、下の広間に集まる幼い巫女達を眺めていた。よく統率がとれており、教官である巫女はいないものの、比較的年長らしい少女が仲間を並ばせている。
「シャグ、教官は何という巫女だ?」
 側に控え、しきりと椅子をすすめるシャグに、ハルヴァは問い掛けた。
 神殿に渡された資料をめくりながら、シャグが抑揚のない声で答える。
「サリティナ・シリア中位巫女です」
「おまえ、そういうときはその巫女がどういう人柄をしているか、資料をすべて読み上げるものだろう」
「ああ、そうですね。サリティナ・シリア、ええと……子供達にはよく慕われているようです。七年前に神殿に入り、教官職に就いたのは昨年のことです。来期の配置換えでは上位巫女への昇進が決まっていますが、本人は引き続き教官職を希望しています。幼い巫女の要望もあったようですね」
 シャグの言葉に、ハルヴァは満足げにうなずいた。しかし、なんとなくシャグに軽んじられているような気がするのは彼の気のせいだろうか?
「おまえ、もう少し気を利かせろ。そんなんだからいつまでたっても出世出来ないんだ」
「そんなことはありません。ただ、殿下のお側にいるようにとの陛下のお沙汰ですから」
 しれっとした表情で言ったシャグに、ハルヴァは眼下の広間に顔を向けた。扉のない入り口から、女性が一人入って来た。
「ああ、あれがシリア巫女のようですね」
「シャグ……聞いていないぞ、あんなに若い巫女だとは……」
 ハルヴァは呆然と呟いた。長い金髪をふわふわと揺らすサリティナは、まだ二十歳になっていない少女にしか見えない。少女達は隊列を崩さぬよう気を遣いながらサリティナに向かって頭を下げた。
 サリティナがふと窓の外を見つめると、白い横顔が回廊からも見えた。ほっそりとした顎と優しく潤んだ青い瞳。清楚という言葉がぴったりと当てはまるような少女だ。ハルヴァはなんとなく、シャグが彼女の年齢を黙っていた理由が分かったような気がした。
「そうですか? 申し訳ございません、申し上げるのを忘れていました。彼女は十七らしいですね」
「十七? 随分と若い教官だな」
 ハルヴァは現在二十二、彼の兄が王位に就いたのと同じ年頃だ。そのときハルヴァはサリティナと同じ十七だった。若い兄弟に周囲はおおいに気を揉んだらしいが、兄はよく国を治めているし、ハルヴァも優秀な王太弟であり政務官である。
「そうですね。異例とも言える若さですが……何よりも下位巫女の信頼と人気が絶大なものだとか」
「驚いた。おまえ、どうして言わない」
「いえ、本当に忘れていただけです。巫女の年齢などたいしたことではありませんし」
 どうせ自分を驚かせようと思っていたのだろうとハルヴァはシャグを睨んだ。彼はハルヴァを太陽王の弟とは思っていないようである。それでも、それを不敬とは思わないし、ハルヴァにはシャグが必要だ。
「そうか。……ああ、授業が始まったようだぞ。おまえも見ろ」
 ハルヴァは階下から響いてきたキリサナートーの聖歌に耳を傾けた。生徒達の声が二重に響き、天上に反響して返ってくる。幼い少女とは思えない技術と声量に、ハルヴァとシャグは顔を見合わせた。
「巫女というのは、こんなに訓練されているものなのか?」
「さあ……? というよりも、キリサナートー御自身が舞や歌に優れた者を選ぶのでしょう。巫女は天性の芸術の才能を持っているといいますから。貴族達が巫女を側に置きたがるのも、それが理由の一つだと聞きます」
 ハルヴァ自身は、巫女を自分の屋敷に置きたがる貴族が大嫌いだった。巫女とは神殿にいて神に祈るものであり、政の場に居合わせるものではない、というのが彼の信条だ。
「そうか……」
「殿下、シリア巫女が」
 そっと囁いたハルヴァを、シャグが現実の世界に引き戻す。広間では、手本なのかサリティナの独唱が始まっていた。
 細いが、確かに聞き手まで届く柔らかい声だ。生徒達とは明らかに技量が違う。ひっそりと佇んでいながら、一度歌いだすと圧倒的な存在感を醸し出しているサリティナを見つめ、ハルヴァは息を呑んだ。
「たいしたものだな……」
「そうですね。教官にしておくにはもったいない」
 うなずきあう二人に、側に控えていた巫女がそっと声をかけた。
「殿下、シャグ殿、お飲み物をお持ちいたしました。殿下、どうぞお掛けになってください。……あとでサリティナに直接お褒めの言葉を下さいませね。きっと喜びます」
「このままで結構です。その方がよく見える。……あなたは? まだ随分と若いようだ」
「ディアと申します、殿下。ありがたくも巫女姫の末席に加えていただいております。……私の前任者も、失踪してしまいましたものですから……」
 ディアと名乗った巫女は恭しく礼をとり、にこりと微笑んだ。ハルヴァの言うとおり、巫女姫にしては若い。しかしそれも巫女の失踪によるものだと思うと少しばかり気が沈んだ。
「具体的に、何人の巫女がいなくなっていますか?」
 シャグの質問に、ディアは首を傾げ、
「ふた月ほど前から……二十人、でしたかしら……よろしければ、今ここで詳細をお話いたします。もちろんお二人がまだ授業をご覧になりたいのでしたらお待ちしますが……」
「せっかくですから見学させていただきます」
 ハルヴァの言葉に、ディアは顔をほころばせ、
「是非ご覧になってください。サリティナは私の幼なじみで……随分と小さい頃から知っておりますの。昔から恥ずかしがりやで、今日も緊張していたようですが……いつもと変わりありません」
「それは悪いことをしましたね」
「いいえ、お構いなく。サリティナの授業は……私どもが言うのもなんですが、驚くくらいに子供達に評判がいいのです。ですから、お客様がいらっしゃるたびにサリティナの授業を見学していただくのですわ」
「確かに……皆集中しているようだ」
 ハルヴァは再び真剣な表情で広間を見下ろし始めた。


 今、上からは王都からの高貴なお客人が授業をご覧になっている。
 新しい聖歌を歌いながら、サリティナは内心溜息をついた。おかしなところはないだろうか。音を外しているかもしれない。子供達がいつもよりも騒がしくはないだろうか……。考えればきりがなく、どんどん暗い気持ちになっていく。
「……音はだいたい分かりましたか? じゃあ低音部から出してみて。…………ヒース、音が外れていませんか?」
 右端に座っている少女に注意を呼びかけ、サリティナはゆっくりと微笑んだ。こういった場合、彼女は音を間違えた生徒と一緒に歌う。
「じゃあ、わたしとヒースとで歌ってみましょうか。三節からよ。はい……」
 サリティナは巧みにヒースの声に自らの高音を絡めて誘導していった。ヒースの喉が清音を流すようになり、授業を再開する。
「高音部、用意をして。合わせてみます。いち、にの、はい」
 サリティナの指が繊細に動き、指揮をとる。正確で狂いのない調子に、生徒達は安心して旋律を預けてくれるのだ。
 サリティナは満足そうな笑みを浮かべると少女達を解散させ、あらかじめディアに指定されていた場所で待っていた。しばらくしてディアが現れ、サリティナを先導する。
「ティナ、緊張するかもしれないけれど、殿下はとても気さくなお方だから。心配しないで」
「もう緊張しています……。本当に、わたしは一人で行かなければなりませんか?」
「もちろんよ。あなた、これがどんなに名誉なことか分かっている? 殿下に謁見がかなうのよ」
 ディアは気楽に言って笑うが、ディアのように機知に富んだ会話が出来るならばともかく、人見知りをしてしまうサリティナにとって、名誉は名誉でも多大な苦痛と緊張を伴う謁見だった。なにしろ、男性と向かい合って話をする機会でさえ滅多にないのだから。
「さ、いってらっしゃい。がんばって。失礼のないようにね」
 ディアがにこやかにサリティナを送り出す。
 サリティナはディアを恨みがましい目で見つめて、重厚な扉をくぐった。


「失礼いたします、サリティナ・シリアでございます」
「ああ……どうぞ、入ってください」
 快活な声がサリティナを招き入れた。サリティナは太陽王弟ハルヴァ・ディルシオン・シャイラの端正な面差しを一瞬見つめ、すぐに目を逸らして俯いた。不敬は承知の上である。恥ずかしくてたまらないのだ。
「女神の祝福を受けたもう王弟殿下……お初にお目にかかります、下位巫女指導教官のサリティナと申します。このたびは……」
「はじめまして、ハルヴァ・ディルシオンです。あなたの授業を拝見しましたが……本当に素晴らしかった。あれだけの子供達を教えるのはたいしたものだ。それにあなた自身も優れた歌い手でしたね。美しい聖歌だった」
「お褒めに預かりまして光栄です」
 サリティナはどうにかしてハルヴァの面を仰いで感謝の言葉を述べようと努力したのだが、どうしても彼の顔を直視することが出来ない。王族など、今までは雲の上の人だったのだ。それが、急に彼女の歌を聴き、授業を見学し、今すぐ目の前に立っている。
 ハルヴァはそんなサリティナを見て苦笑し、立ち上がると入り口のすぐ近くに立っているサリティナの近くへ歩を進めた。
 わずかに身をかがめ、サリティナの顔を覗き込んだ。青い瞳が瞬き、サリティナはぱっと顔を上げた。
「殿下……」
 サリティナは慌ててハルヴァの足元に跪いた。彼と対等な高さにいるのは気が引ける。
「サリティナ。顔を上げてください。あなたはキリサナートーの巫女、俗世とは切り離された存在です。俗世権力の象徴である人間に額ずくことはありません」
 ハルヴァは言葉と同時に手を差し出した。サリティナは戸惑ったような顔でハルヴァを見上げる。白い頬には緊張のあまり血が上っていた。ハルヴァは強引にサリティナの手を掴む。サリティナが引き起こされるようにして立ち上がった。
 サリティナは思わず彼の手を振り払っていた。顔から血の気が引き、幽鬼のような顔色で、
「申し訳ございません! あの、あ……わたし……」
「いえ、構いません。不用意に巫女に手を触れた私が悪かったのです。お気になさらないよう」
 ハルヴァが気分を害した様子を見せないのを知り、サリティナはほっと息をついた。
「はい。あの、……それで、わたしは……」
「ああ、すみません。少し話を伺いたかっただけです。……歌は好きですか?」
「ええ、好きですが……?」
「それはよかった。舞は?」
「一応はたしなみますし、嫌いではありません」
 サリティナがわずかに首を傾げた。ハルヴァはサリティナを長椅子に座らせると白い陶器のカップを差し出し、温かな香草茶を注いだ。サリティナがばっと立ち上がり、ハルヴァの手からポットを取り上げる。
「わたしがいたします! 殿下はお掛けになっていてください」
「そうはいきません。あなたを呼んだのは私だ」
「そういう問題ではありません! お願いですから、お待ちになっていてください。わたしに……やらせてください」
 サリティナが頭を揺らして懇願すると、ハルヴァは小さくうなずいてサリティナの向かいに腰掛けた。
「分かりました。お願いします。……ところでサリティナ、あなたはあのディアという巫女姫殿と親しいとお聞きしましたが?」
 サリティナはやたらと丁寧な態度をとる王弟に戸惑いながらも、目を見開いてそっとうなずいた。



サイト案内螺旋機構「太陽の迎え子」目次 / 前頁次頁

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送