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Thank you for the Music (7)

 覚悟はしていたことだが、華奢な身体を震わせたリルイースが目の前で静かな怒りの炎を燃え上がらせているさまは、なまじ顔立ちが隙なく整っているぶん迫力があった。
「シャルさん、すぐに部屋に戻ってください。食事はいつもどおり運びますから、絶対に起きてこないように」
「あの、はい……すみません」
 どれだけ自分がリルイースや屋敷の者に負担をかけたか、想像できないわけではないのだ。グラバートはシャルの健康や安全を守る必要がある。今回は病み上がりにもかかわらずふらふらと出歩いたシャルがいけないのだが、そのような場合でもリルイースたちに責任は覆い被さる。
 今度は治ったと思ってもしばらくはおとなしくしていようと決心し、ひとまずシャルは部屋に戻った。
 それから――もう、半月になる。
 ジェフはあれ以来、毎日シャルのもとを訪れていた。ナタリー・ウィンズほどはなばなしくは知られていないが、やはり劇場ではかなりの出世株であるアズレイ譲りなのだろうか、ジェフの歌はあたたかみがあって音も正確だった。はれて自分の恋人となった少年に『ダルメニィ』をうたってもらいながらうとうとするのが、今のシャルにとってもっとも贅沢な時間のすごしかただった。
 そのときのえもいわれぬ至福を思い出しながら、ジェフに教わった『ダルメニィ』を口ずさむ。
 それは彼女にとって、十番目の子守唄だった。
 ジェフがうたったものが、都へ来たばかりのころに道端ですれちがったものかどうかはわからない。けれどもシャルは、ようやく十の子守唄をおぼえたことに奇妙な満足と安堵を覚えていた。
 依然としてグラバート家のお客様でしかない今の身分にこころもとなさを感じることはあるが、身体がリルイースのお墨付きで全快したら、遅くとも春までに働き口を見つけようと思っている。さすがにグラバートの名前を出すと話がおおげさになるだろうが、レイルシュやリルイースは王都でもそれなりに信頼のある後ろ盾を持っている。フラッセア最高峰の学び舎然り、楽師の組合然りだ。保証人については心配していなかった。
 シャルはいつのまにか客間としての整然とした、こぎれいな空間をうしないつつある部屋を見回し、生活感あふれるその空気に苦笑した。
 リルイースに頼み込んでグラバートの使用人による部屋の世話をやめてもらって以来、シャルは自分で部屋をすみずみまでみがきあげていた。洗濯物は籠にまとめて裏庭の洗濯場まで運んでいき、屋敷の洗濯女に任せるものの干された洗濯物は日が暮れる前に自分で回収していく。グラバートに仕立ててもらったドレスはシャルの手には負えなかったが、専門家に教えを乞い、少しずつ自分で手入れできるようになっていった。
 あいかわらず衣食住はグラバートにまかなってもらっているものの、心意気だけでも客人をやめられたシャルは、だいぶ気が楽になった。
 故郷に残してきた家族に申し訳なさを感じなくなったわけではないし、どこまでも美しい緑の広がる故郷が恋しくないわけでもない。けれど、歌で身をたてられるようになるまでは帰らないという決意のもと、旅費も頼らず都にのぼったシャルであったため、家族のことを考えるのはいったんやめにして追い続けてきた夢にだけ専念しようと決めた。
 今の生活は、とても快適だ。夢だけを見て、懸命に暮らしていられるから。
 もう、夢を夢としておくのはやめようと思う。強い意志と努力とで、それを実現させるのだ。
 そう思って立ち上がったシャルに、扉の外から控えめに来客を告げる声がした。顔見知りの侍女はシャルと同い年なのだが、もとは田舎育ちのシャルのことをどこかのお姫様のように思っていて、なかなか打ち解けようとはしない内気な娘だ。
 シャルは部屋を出て、もうすっかりその複雑な構造を理解したグラバート邸の廊下を抜け、告げられた客間へと足を運んだ。
 無造作に扉を開け、立ち竦む。
――そこには、艶やかな長い黒髪と透明な空のような瞳を持った、フラッセアでもっとも有名な歌姫の姿があった。
「こんにちは、シャル。もう身体は治って?」
「ええ、もうすっかり元気です。先日はご迷惑をかけてすみませんでした。……あの、今日はどうしてこちらへ?」
 権威の高い劇場の看板女優とグラバートとの間につながりがあってもおかしくはないが、それならばナタリーが訪ねてくるのはアルディランやリルイースではないだろうか。シャルはグラバートの居候にすぎず、たまたまこの間劇場の裏手で倒れてしまっただけなのだ。
 まさか、それがもとでナタリー・ウィンズと顔見知りになれるとは思ってもみなかったが……。
「あなたともっと話がしたかったから。……あたしは身体が丈夫なのだけがとりえだから倒れはしなかったけど、昔のことを思い出して」
 もとはシャルよりももっと貧しい暮らしをし、廃棄物さえ漁っていたナタリーの幼少時代は、シャルなどには想像もできない。けれど歌への情熱だけはありあまっているシャルが劇場の裏手で倒れていたことが、ナタリーにとって昔のことを思い出す引き金になったのだろう。
「あたし、ずっとあのきらびやかな劇場でうたってる自分が不思議だったの。だってあたしは本来、あんな豪華な場所が似合う人間じゃないんだもの」
「そうですか? そんなこと……」
 客間の椅子に腰掛けながら、シャルは首をかしげた。
 生まれ育ちはどうであれ、ナタリーの舞台映えする美貌とその歌唱力には誰も文句をつけることができない。
「あんなところにすました顔しておさまってる自分が苦痛だったの。お義母さんが望むからあたしはあそこにいたけど、でも本当はもっと違うことがしたいんだって思って。……ねえ、シャル」
 美しい顔を愛嬌のある表情にゆがめたナタリーは、少しためらってからその言葉を口にした。
「あなた、あたしみたいに王立劇場でうたいたいの?」
「いつかそれができれば、ですけれど。わたしはまだ、大きな劇場でうたえるほどの者ではないし」
「……あたしね、あそこはあんまりお勧めしないわ。だって、うたいたいものがうたえないし、自分が自分でなくなってくような気がするから」
「それ、どういうことですか?」
 抱いているイメージとはだいぶ違うナタリーの言葉に、シャルは思わず問い返した。今ナタリーのいる場所はこの国の誰もが焦がれてやまないもので、何よりも輝かしい舞台であるはずだ。
 それが、ナタリーにとっては負担だなどと……そんなことは、到底信じられるものではなかった。
「実際にあそこに身を置いてみないと、絶対にわからないことよ。事実、一番あたしに近いアズレイでも、あたしの気持ちを完全に理解することはできないと思う」
 打算と媚が行き交う舞台の裏。
 どうしようもなく醜くて、たとえ貧しくても人間の感情がまっすぐにぶつかりあっていたナタリーの故郷とは違う場所。
「あたしね、怖かったのよ。あたしはただうたっていられればそれでよかったのに、あそこではそれを認めてもらえないのね。名誉とか必要以上のお金とか、そんなもののために人の足を引っ張るの。あたしは、そんな人間と一緒にされるのがたまらなくイヤだったし、早くここから抜け出したいと思ってた」
「あの……」
 言葉とはうらはらにはればれとした表情のナタリーを見つめて、シャルは頭の中で徐々に確固たる形を為していく予感を面に出した。
 ナタリーが不安で揺れる湖水の色の目元に触れ、フラッセア中を虜にしている微笑を浮かべた。
「そうなの。……あたし、春の公演が終わったら、王立劇場をやめようと思って」
 その言葉を聞いて、シャルは思わず立ち上がっていた。
「本当ですか、本当にやめるんですか!」
「ええ」
 ためらいなくうなずいたナタリーに、シャルは蒼ざめた顔で詰め寄った。
 どうしてなどとは聞けなかった。それは今ナタリーがシャルに打ち明けてくれたことがすべてだからだ。
 ナタリーの心情は理解しているつもりでも、自分の心がそれを詰ってしまうのは止められなかった。シャルはナタリーにあこがれて都へのぼり、いつか彼女と同じ位置にまで上りつめるためにうたっていたのだから。
 これから彼女は、どこへ行こうというのだろう。
 視界が真っ暗に閉ざされ、シャルは腰をおろした。あらためてナタリーに問う。
「じゃああなたはこれから、どこでうたうんですか」
「どこででもうたうわ、あたしの隣にあたしを愛してくれる人がいて、目の前にあたしの歌を聞いてくれる人がいるなら」
「……それじゃあ、わたしもあなたの歌が聞ける日が来るんですか」
「あたりまえじゃない。あなたが望むなら、今ここででもあたしはうたうわよ。……あのね、あたし思うんだけど、あなたも同じ気持ちじゃないの?」
「何が、ですか?」
「どこででもうたう、ってことよ。あたしと同じように、ただうたってさえいられればどこだっていいんだわ」
 確かに、シャルはただうたうことを愛していて、一生涯をかけて打ち込んでいけるそれを見つけられた自分がどうしようもなくいとおしくて……たとえのどがつぶれても、うたうことだけはやめまいと思った。
 けれども今の彼女は、より多くの人に認められたいと思っている。高い評価を受けているナタリーのように、誰もに認められる歌をうたいたいと。
「歌はあんなところでうたうものじゃないわ。道端で、赤ちゃんをあやしながらうたうものよ。……そうじゃない?」
「それはそうですけど……」
 シャルの故郷でも、王都でも、変わらずにうたわれている子守唄。
 決して巧いとは言えないが、無垢な赤子が生まれてはじめて耳にする歌であるそれには、周りの人間の愛情がこめられている。
 すべての歌の根本であり、純粋で素朴な心からの愛。
 そんな歌をうたいたいとねがうナタリーは、王立劇場の看板女優という肩書きを捨ててひとりの歌い手に戻ろうとしているのだ。
 少し酒場でもてはやされるだけで自分がいつのまにか忘れてしまっていたものを、もっともそれからかけ離れた場所にいるはずのナタリーは追い求めている。
 それがまぶしくも悔しくもあり、シャルはいつのまにか頬に伝う涙を自覚していた。
 あふれでる清水のような涙を細い指先にぬぐわれ、ようやく口を開く。
「わかりました。わたし、自分を見失わないようにします」
「そうしてちょうだい。あなたに、王立劇場でうたうなって言ってるわけじゃないのよ。でも、あなたとあたしは似てると思うから、あなたにもあそこは似合わないと思うの。今あなたがうたっている場所は、とてもすばらしいところよ。だから、あそこを離れないで欲しいとも思う」
「……はい」
 わかっている。自分が今、どれほど恵まれた環境に置かれているのか。それがわからないほどシャルは子供ではない。
 いつか、ナタリーのような決断ができるようになるまでは、あの居心地の良い場所でうたい続けようと――シャルはそう、心に決めた。


 あの日ナタリーは、最後の舞台を見て欲しいと言って一枚の券を差し出した。シャルではとても手の届かない値のついた、ナタリー・ウィンズの引退公演の券だった。
 もちろん、ナタリーの舞台を見てみたいという気持ちはあった。今の暮らしでは衣食住のすべてに金がかからないのをいいことに、クリューのところで働いて稼いだものはそのために貯めている。けれどもシャルは、自分の歌でその券を買いたかったのだ――旅費のすべてを歌でまかなって都へ来たときのように。
 それを告げると、ナタリーも花がほころぶように、心底うれしそうに笑った。正直なところ、自分がこんなにも『昼と夜の歌姫』に思われていることにとまどうこともあったが、あこがれのひとに認めてもらえたうれしさと誇らしさはなにものにも勝るものだった。だからこそ、彼女の舞台は自分の力で見に行きたい。
 寒さの厳しい冬から雪が解け、大通りの植え込みに花が咲き誇りはじめる春先までの間、シャルはずっと働きどおしだった。夜に酒場でうたうだけでなく、自分の歌が買ってもらえるのならばどこへでも行った。
――信じられないほど充実した毎日がめまぐるしく過ぎていく。それは夢のような時間だった。
 ナタリーが春の公演での契約切れを話したのはどうやらシャルが最初だったらしく、王都はしばらくの間その話題で持ちきりだった。クリューの母親の酒場ではナタリーの引退を惜しむ声が聞かれたし、反対にグラバートの屋敷では気位の高い人々が下町育ちの歌姫をこころよく思っていなかったことがわかった。
 ナタリーは、フラッセアでもっとも平民には敷居の高い劇場でうたっていながら、その経歴と不屈の精神で人々の支持を集めていたのだ。それを思うと、シャルはますますナタリーへの敬愛が深まるのを感じた。
 次の劇場の主演女優に決まった女性のことや、ナタリーが次にどこで仕事をするのかという噂話には興味がなかった。シャルはナタリーの思うところを知っていて、彼女がどんなに崇高な魂でうたっているのかを理解している。
 それだけで、十分だった。
 シャルは窓の脇に置かれた鏡を覗き込み、小さく微笑んだ。窓の外に薄紅の花びらが舞い踊っているのを見ると、ジェフと目があった。
 今まで少女の身支度に付き合ったことのなかったジェフは、鏡と向かい合っている時間の長さにうんざりとした表情を見せている。視線をあわせたシャルがにこりと笑ってみせると、彼は顔を寄せてやわらかな花弁のような唇にくちづけた。
「ジェフ、拗ねてるの?」
 朝顔をあわせてからこっち、恋人の顔よりも鏡を見ていた時間のほうが長かった歌い手に。
 高い声を立てて苦笑したシャルは、いつになくめかしこんだジェフの手を引いて立ち上がった。屋敷の外に出ると、薄紅の空気が甘い香をともなって目の前に立ち込める。
 歩こうかどうしようかと逡巡し、結局手をつないだままで大通りを歩き出した。暖かいし、治安もいい。グラバート邸は王立劇場にも近い。
 こんな穏やかな春の日なのだから、誰より大切な人とふたりで歩かなければ損というものだ。
 じきに王立劇場の屋根が見え、ややこわばったふたつの背中は壮麗な建物の中に吸い込まれていった。


 ナタリー・ウィンズ、『昼と夜の歌姫』の声はよく、広大な大地を吹き抜けていく神の息吹のようだといわれる。
 シャルが敬愛するもうひとりの歌い手、マリセラ・スールが母性天使の歌をうたうと賞賛されているのと同じく、それは広い劇場いっぱいに響き渡る圧倒的な力を持っていた。
 それは今のシャルでは足元にも及ばないもので、歌劇の音の流れに包まれて恍惚とするとともに悲しくもなった。
 滑らかな絹のような、甘いぬくもりを持った声が耳に流れ込んだ瞬間、シャルは隣に座っていたジェフの手を握り締めた。爪が手のひらに食い込むほど強い力をこめ、押し流されてしまいそうな自分を支える。
 誰も、気づいていないだろう、シャルのほかには。
――ナタリーが、フラッセアの花としての最後にふさわしい歌を、渾身の思いをこめてうたっていることに。
 ナタリーはこの劇場を愛していた。自分が長く留まる場所ではないと知っていてなお、強い愛着を感じていたのだ。それを捨てる決断をしたナタリーの心情まではわからない。けれど……。
 どうして、これほどまでに美しく、のびやかにうたえるのだろう。
 どうして、他の誰でもない『昼と夜の歌姫』として、そこに立っているのだろう。
 ジェフとつないだ手に、熱い涙の雫が落ちた。こんなにも感情を剥き出しにした、みっともない顔で舞台を見つめているのは自分だけだとわかっていたが、零れ落ちる涙は止めることができなかった。
「……シャル、どうしたんだよ」
「だって、……だって」
 小声でささやきこちらを見たジェフとは視線をあわせず、シャルはナタリーを見つめたままで呟いた。
「わたし、あの場所を目指してたのよ」
 フラッセアにただひとつの、栄光の座を。
 幼いシャルには、それがどんなに苦痛を伴うことか理解できなかった。ただ大勢の人の前でうたい、拍手喝采を浴びることができればしあわせだと思っていた。
 ナタリーはいつまでもうたいつづけるために本当に必要なものを見つけ、それをつかんだ。シャルは彼女の姿に教えられただけだが、けれどこれからは迷うことはないだろう。

 すべて、誰のためにうたうのか心が知っているから。


 いつのまにか見上げなければならなくなっていたジェフを見つめ、シャルは思った。――いつまでもここにいよう、と。
 ナタリーがもうすぐ去ろうとしているあの場所のように、少年の手が届かない場所には行くまい。
 それが、彼女の夢みた幸福の実現なのだから。


 わたしには夢がある
 愛するひとと手に手をとって 夜毎に歌をうたうんだ
 いつか生まれるわたしの子供に
 優しい歌をきかせてあげよう

 わたしには夢がある
 あなたの幼い傷跡を 包み癒せる歌をうたいたい
 これからずっとそばにいると 今この場で誓いたい

 そうわたしには夢がある……

 
-----Thank you for the Music-----End



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