サイト案内
前へ│目次次へ
――――――― I still... ―――――――
chapter 1 - still love you

(1)

 ふと彼女が視線をやった窓枠の中は、秋の訪れをもてなす色鮮やかな風景に満たされていた。夏の終わりの気だるい空を初秋の涼やかな空気が掃き清めて、いくらか呼吸のしやすい気候にしつらえてくれたようだ。
 ほのかなぬくもりへと昇華された気だるさをまとい、一点の曇りもなく輝く空の色は、目の端に滲んでやがて消えてゆく、マリセラのもっとも愛する色だった。
 ようやく訪れた秋を感じて、マリセラは安堵のため息をついた。
 マリセラは夏が嫌いだった。この夏から、大嫌いになったのだ。肌にまとわりつくような不快さは、彼女がこの夏経験したもっとも苦しい、けれども不思議なほどの幸福と酩酊感に満たされた日々と結びつき、生涯忘れ得ない不治の病のように胸の奥に刻みつけられてしまった。
 窓際に寄せられた文机に頬杖をつき、マリセラはぼんやりと窓の外の秋を見つめた。小さな形に切り取られた海――金色の稲穂が風にひるがえって美しい。
 あの人はもういない。
 けれど、あの金の海の向こうの丘の上、あの人が眠る楽土がある。
 彼はそこに冷たい体を埋め――そして新たに、マリセラの一部へと生まれ変わった。マリセラと彼は、一つなのだ。それがわかったから、寂しくて少しでも息をゆるめたら死んでしまいそうな夜でも、越えてゆける。

 ◆

 マリセラはフラッセアの南、海岸沿いのディングスに漁場を数多く持つ富豪スール家の次女として生まれた。家族は豪気な父と父にそっくりな兄、少し病気がちな母。そして、少女時代のマリセラにもっとも強い影響を及ぼした、快活で美しい姉のアリシアだった。
 三つ年上の姉アリシアはマリセラとは性格も趣味もまるで合わなかったが、幼い頃から内向的で、自分の殻に閉じこもってばかりいたマリセラをたびたびまばゆい光のあたる場所へ連れ出してくれた。
 マリセラは姉の機転の利く性格や誰をもひきつける魅力的な表情に憧れ、羨みもしたが、決して憎みはしなかった。
 そう――マリセラはアリシアが好きだった。とても無邪気な、あるいは無心なものとは呼べない愛情ではあったが、複雑な方向へ曲がりくねった感情を持ちながらなお、彼女は姉を深く、深く敬愛していた。
 アリシアはマリセラの体に絡みつく蔓に実った葡萄のようなもので、たとえ強靭な蔓に雁字搦めにされて身動きがとれなくても、マリセラはその甘い匂いを嗅ぐだけでうっとりと酔うことができた。葡萄を食べたいなどとは、思ってもみなかったのだ。
 姉のようにはなれない。たとえ葡萄を貪り尽くしたとしても、自分は決して姉のようにはなれない――マリセラは、そのことをよく知っていた。それは諦めにもならない当然の事実で、マリセラが悲しむことなど何一つないのだった。
 マリセラとアリシアのスール家は、もとは地元漁師の中の有力者で、ディングスのあたりでとれた魚介類を出荷する際の煩雑な事務を一手に引き受けているうちに力をつけた家だった。姉妹の父は、今ではディングスでも一二を争う名士で、漁師たちからの手数料だけでかなりの収入があり、その他広大な海沿いの土地を所有しているということで、王都にも名の知られた富豪となっている。
 新興の富豪であるため官爵こそ持たないものの、スール家は多くの貴族とつき合いがあった。海沿いの土地を貴族たちの避寒地や療養地として貸し出し、あるいは切り売りしていて、特に冬の時期にはスール家の社交は華やかだった。
 冬季のディングスに出現するにわかサロンとでも言うべき集まりでは、アリシアはいつも花形だった。
 都の大貴族は、別荘とはいえかなり贅を尽くした屋敷を建てていたが、マリセラが子供の頃に大々的な増築を行ったスールの屋敷には敵わない。
 多くの場合、貴族の若者が集まるのは彼女たちの屋敷であり、加えて紳士たちとは違って田舎者でありながら垢抜けした美貌で人気を誇るアリシアに何の興味も――少なくとも表向きは――持たない令嬢たちは参加しないとなれば、自然集まりの中心はアリシア・スールということになる。
 誰もがアリシアはじきにあまたの若者たちの中の一人と結婚し、スールも貴族の端に名を連ねることになるのだろうと踏んでいた。
 そんなアリシアに縁談が持ち上がったのは、アリシアが十八、マリセラが十五の冬だった。
 三年ほど前、成人してもいっこうに病弱な体質の改善されない長男の保養のために、さる大家が海辺の土地を買い求めた。フラッセアとリネの国境近くの広大な領地は富み栄え、代々の功は国王の覚えもめでたく、その家柄に誰もが一目置くフラッセアの重鎮――ウェルフリー家である。
 その話を幼いマリセラは意味もわからず聞いていたが、父が何かを非常に喜んでいることだけは理解した。父はウェルフリーが別荘を建てる際に幾つもの貴族の別荘をディングスに建てた腕のいい職人を手配し、都にいるかの家の当主やその息子の手を煩わせないで無事に療養が必要だという長男をディングスに迎え入れた。謝礼も相当されたという話だし、何よりスールにとっては、ウェルフリーという名門とのつながりができたことが何よりも喜ばしかった。
 父はその縁を決して途切れないよう握りしめ、あの器用とは言えない人がどううまく立ち回ったものか、三年の年月をかけて病弱なウェルフリーの長子カザレスとアリシアとの縁談を纏め上げた。
 父は二人の婚約が決まったことを躍りあがらんばかりに歓んだ。傍らで見ていたマリセラが不安を覚えるほどの興奮だった。
 しかしその横で、名家への嫁入りが決まった張本人のアリシアは、終始浮かない顔つきだった。
 それもそのはず、カザレス・ウェルフリーという青年はアリシアより七つ年上の二十五歳、妻を迎えるには遅すぎるくらいな年だが、生来病弱で一年のうち床に伏している時間のほうが長いのだった。噂では余命いくばくもないと言い、さすがにそれは誇張しすぎの感があるものの、ウェルフリーの家名を継ぐにはあまりにも頼りないとの見方がスールの家の中でも通っていた。
 事実、カザレスとアリシアの婚姻が内約を得た後、まるで長男の厄介払いを待っていたかのように次男アヴィー・ウェルフリーとかねてより約束があったという娘との婚約が正式に発表されたのだ。アヴィーの婚約者はリネの貴族の娘で、身代に見合った多額の持参金を用意しているということだった。
「……馬鹿にしてるわよね」
 マリセラの前ではめったに弱った姿を見せなかったアリシアは、一度だけ端麗な顔に不快げな表情を浮かべて言ったことがあった。
「いくらなんだって、リネの貴族と比べて恥ずかしくないだけのものをうちが用意できるわけがないでしょうに。……それでも私はリネから来る姫様の兄嫁になる身で、ウェルフリーでは肩身の狭い思いをしていかなきゃならないんだわ」
「でも……カザレス様は、ディングスに住むかもしれないわ」
 なぐさめ半分でマリセラは言った。それくらいの言葉しか、彼女は姉にかけることができなかった。
 アリシアがウェルフリーへ入った際の苦労は、マリセラにも容易に想像できた。それでも、この縁談をまとめるために奔走した父のことを考えると、いかなアリシアでも我意を通すわけにはいかなかったし、マリセラも父の味方にならなければいけなかった。
 しかし、アリシアとカザレスの縁談が冬に決まって以来カザレスはずっと病床の身で、式の日取りも結婚してからの暮らしについてもまったく決まっていない。スールとの婚姻を積極的に喜んでいるふうではなかった先方も、アヴィーのためにも早く兄の結婚式を挙げてしまわなければと焦っているようだったが、肝心のカザレスはそれが可能な状態にはなかった。
 カザレスの夫人にアリシア・スールを迎えると決まった――それは長子カザレスにウェルフリーを継がせることはないという宣告だった。けれどもスールにとっては、十分すぎるほどの僥倖だったのだ。
 マリセラはそれまで欠けることのない月のようだった姉の人生が、二十歳近くになって逃れようのない瑕を抱えこんでしまったことに気づいた。善良な父がそんなことを考えていたとは思わないが、アリシアはまさに家のために幸せとは言えない結婚を強いられたのだ。あまりの身分の違いに気後れして、後を継ぐ見こみのない長男と結婚せずとも、アリシアはスール邸に集まってくる男性たちの中から、もっと健康で精悍な、家格の違いも気になるほどではない人を選べたのだから。
 マリセラが幼い頃からこの人以上の人間はいないと思い、その無欠さを慕い続けてきたアリシアには幸せになってほしく、カザレスという青年の人となりを知る前からマリセラはこの結婚を自分が代わってあげられたらどんなにいいだろうかと思っていた。けれどウェルフリーがアリシアとカザレスの結婚を承知したのは、アリシアが美しさと聡明さを兼ね備えた女性であったからで、それがとりたてて目立つところのない、美しくも賢くもない妹のマリセラだったならば、たとえ将来のない病気の息子が開いてであろうと、同じ家の娘で、名前だけ見たときにはたいした違いがなかろうと、嫁には迎えようとしなかっただろう。
 今まで十五年間生きてきて、まさか自分がアリシアのことを哀れむ日が来るなどとは思ってもみなかったマリセラだったが、手放しで喜ぶことのできない縁談が決まってしまったアリシアはその瞬間、いつも姉の影の中に隠れているばかりだったマリセラよりも不幸ではないかと思われたのだ。


 からりからりと車輪がまわる。窓を開け放した箱馬車の中で、マリセラは懸命に手を動かし、婦人扇で首筋に風を送っていた。
 晴天が続き、乾いて土埃の舞う道を揺られながら、アリシアがため息をついた。
「暑いわね。マリセラ、平気? 最近少し痩せたわよね」
「本当に少しだけよ。そんなにつらくないわ。姉さんこそ大丈夫なの?」
「まあね」
 うんざりとした様子で短い答えを返し、アリシアは黙りこんだ。カザレスのもとを訪ねる前のアリシアは、なぜかいつも少し憂鬱そうな表情をしている。不機嫌だというわけではないが、決して婚約者を見舞うことを楽しんではいない。
 そんな姉を少しでも慰めるために、マリセラは同行していた。それは彼女にとっても喜びだった。
 末っ子であり、またすぐ上の姉アリシアが手のかからない子供だったにもかかわらず、マリセラにはあまり両親に甘やかされたという記憶がない。母は病弱、父は多忙で子供たちに目をかける暇がなかったのかもしれないが、物心ついたときからマリセラの時間つぶしといえば姉のしたい遊びにつき合うか、人気のない裏庭の隅で一人過ごすか、しかなかった。
 けれどマリセラは、穏やかで誰も無遠慮に立ち入ったりはしない、一人きりの静かな時間に満足を覚えていた。書庫に山と積まれた詩集や歌劇本を捲ったり、姉とは違って何の楽器も上手く扱えないマリセラが唯一音楽を奏でる手段として歌ったり、そんな自分自身好きに過ごしていい時間はまさに至福の時だった。
 誰かと――信頼や好意をもつ相手と一緒にいるにも、マリセラはあまり多くを求めない少女だった。言葉や視線を交わすことに、彼女は執着しなかった。ただ近くに、同じ空間に存在してその人の息づかいを感じている、それだけで幸せだったからだ。
 母や父の近くにいるときにも、マリセラはまるでアリシアのおまけであるかのようにひっそりとそこにいた。ただそれだけで、彼女は幸せだったのだ。
 そのようなわけで、ウェルフリーの兄弟、カザレスとアヴィーを訪ねるマリセラは、その場合は正真正銘ただのおまけではあったが、それも彼女にとってたいしたことではなかった。
 アリシアの役に立てて、ひと目見て慕わずにはいられなかった人と同じ部屋に存在することができる、それは何よりも幸せなことに違いなかったし、姉のお供という立場は誰にも知られず、心ゆくまで彼を見ているのに好都合だったのだ。
 やがて馬車が止まっても、姉妹はすぐに動くことができなかった。自分はともかくとして、いつも機敏で迷うことのないような姉が到着に気づかないのは珍しいとマリセラは思った。
「……あら、着いたわね」
「ええ。……姉さん、最近考えごとが多いみたいね」
「あなたに言われたくないわ」
 マリセラでなければ気づかないような異変を指摘されたアリシアは、少しむっとした表情をしてもっともな言葉を返した。確かに、考えごとが多いといえばマリセラのほうで、しかもそれの多くはたいした意味を持たない空想夢想のたぐいであるのだった。
 アリシアは妹を置いてさっさと馬車から降り、堂々とした態度で守衛に声をかけた。病気療養のために建てられただけのことはあって、警備の人数も控えめで建物自体もさほど広くない。それでもウェルフリーの財力を惜しみなく注いで作られた別邸はさすがに立派で、彼女たちが持っていない気品と雅さにあふれていた。そのせいで、マリセラは門前に立つたび気後れしてしまう。
 姉だってそれを感じていないはずはないのに、明らかにおどおどとしてしまうマリセラと違って表にはまったく出していない。それは姉がウェルフリーに対して虚勢を張っているのだと、マリセラにはわかってしまう。そして、それが少し哀れでもあるのだ。
 以前ならば無条件で姉の強さに感服していただろう自分は、少しずつ変わってきているのかもしれない。
 耐えることと、制限されないことによって。

前へ│目次次へ
サイト案内

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送