―――――――――――――― I still... ――――――――――――――
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――――――― I still... ――――――― chapter 1 - still love you |
(2) 「……父が束ねている漁師の中でも、真珠を採っているという人はほんのわずかですわ」 アリシアは寝台の上で半身を起こしているカザレス・ウェルフリーに向かって言った。マリセラの目から見ても筋力の衰えている、痩せた体のまだ若い青年は、興味深げに婚約者の話に耳を傾けていた。 カザレスは透明な光をたたえた空色の瞳をしていたが、マリセラはそれが荒々しく輝くところなど見たことがなかった。ずっと床に就いていて、激昂するにも体力が足りないのかもしれないが、それ以前にカザレスはいつでも穏やかな笑みを浮かべていて、それだけを見てみれば何一つ叶えられないことなどない大きな家の長子でありながら、唯一自分の健康だけが思い通りにならない苛立ちなどはかけらも感じられなかった。 「確かにディングスの海は温暖ですが、三十年ほど前まではこのあたりで真珠ができるだなんて思っている人間はいなくて……初めて真珠を採った人がいたのが、二十五年前でしたかしら。それは父が買い取って、母への贈り物にしたと聞いています。ディングスの真珠は、都の方にもご贔屓にしていただいて。ウェルフリーの奥方様がこの前のお食事でつけていらしたものも、ディングスの真珠でしたね」 微笑む姉の姿は本当に美しいと、マリセラはそう思った。病み衰えてなお気品ある姿を失わない青年と、かいがいしくその世話をし、病人を飽きさせない会話を静かに続ける女性の姿とは、一幅の絵のように海辺の風景に溶けこんでいた。 そんな絵画を傍観していたマリセラは、視界の端に滲む光景に幸福を思いながら、ふと同じ室内にいるもう一人の人物に目をとめた。 背の高い、やや痩せ型だが兄に比べればはるかに逞しい体の青年――いや、少年だろうか。アヴィー・ウェルフリーは当年十七歳、まだアリシアより年下だが、事実上のウェルフリー家次期当主だ。秀でた額は兄と同じ、しかし体中に活気が満ち溢れており、マリセラは兄弟の父親が長男でなく弟のアヴィーに家を継がせたくなる気持ちが理解できるような気がした。 カザレスもそんな、自分よりはるかに健康で思うままの行動をすることができる弟の姿を、まるで直視できない太陽にでも接するかのように見ているのがわかった。それはマリセラが姉のおまけ、この部屋の中の異端であり部外者であるからこそ理解できるカザレスの思いだった。 多少の不満はあっても、アリシアとカザレスの婚姻は誰にとっても喜ばしいものであるように思われる。 しかし――部屋の中に漂うかすかな違和感が、それが幻想にすぎないことを証明していた。 マリセラは他人に気づかれない程度に眉を寄せ、内心で首をかしげた。 自分だけならばわかる。姉の結婚に寄せる思いは複雑で根が深く、到底短期間で整理のつくようなものではない。 けれどそれは胸の奥深くでひっそりと眠っているもので、表に出そうと思ったことはないのだ。 それなのになぜ、この部屋はおかしな空気で満たされているのだろうか。 考えすぎだったのかもしれないが、どうにも息苦しい室内に耐え切れず、マリセラは思わず立ち上がっていた。 姉の斜め後ろに置いてあった長いすからマリセラが立ち上がると、ふと口をつぐんだアリシアがこちらを振り返った。彼女はいつでも四方八方へ目を向けているようでいて、マリセラを見逃したことはほとんどない。マリセラが自分のことだけで精一杯で、周りを見ている余裕がないのとは正反対だ。 「どうしたの、マリセラ」 「ええと、あの……」 アリシアばかりかカザレス、アヴィーの兄弟たちにも注視され、マリセラは頬を赤らめた。 いきなり立ち上がったのは、いかにも非礼だった。自分がばかな真似をすれば姉の顔まで潰してしまうことは明白で、だから気をつけていたつもりだったのに。 ただ、カザレスもアヴィーも、特にマリセラを非難している様子はなかった。もとからこの兄弟は、彼らの両親に比べてはるかにアリシアとマリセラに好意的なのだ。 とにかくその場から退出することが先決だと判断したマリセラは、姉と、そしてこの場の主であるカザレスとに向かって言った。 「少し風に当たってきます。お庭を見せていただいてもよろしいですか」 「ええ、もちろんです。……結構ですよね、アリシア?」 カザレスが痩せた頬に穏やかな笑みを浮かべて頷いた。 「もともとマリセラは、私に付き添って来てくれたんですものね。散歩させていただいたら。ただし、気分が悪くなったらすぐに戻ってくるのよ」 「大丈夫。すぐに戻るから……」 頭のかたちですらも美しい姉にささやいて、マリセラは静かな調度に飾られた海辺の病室を後にした。 ◆ アリシア・スールの妹マリセラが部屋を出て行くと、室内の静寂と緊張はさらに高く、深くなった。残された三人の誰もがその原因を知っていて、けれどもそれを取り除くことはできなかった。 皆、怖かったのだ。あやうい均衡を保ったこの関係が崩れてしまうことが。 アリシアは寡黙な妹のうちに秘められた計算を知らない。彼女は、マリセラが姉のウェルフリー邸訪問につき合うのはたいした意味があってのことではないと思っている。 けれどアリシアもウェルフリーの兄弟も、いつも静かにそこに佇む少女の存在に救われていたのだ。 マリセラは三人にとっての緩衝材だった。彼女がいるから三人は、それぞれが持つひそやかな望みを満たすことができたのだ。 マリセラがいなくなった室内は、誰もにとっていたたまれない場所だった。 そのとき、この部屋から出て行く正当な理由を持つ唯一の人間――アヴィーが立ち上がった。 「庭をご案内してきます。気が利きませんでしたね、すみません」 「お願いできます? それなら……妹をよろしく」 花がほころぶように笑って軽く頭を下げたアリシアを見つめて、アヴィーは誰にも読み解くことはできないだろう複雑な表情を浮かべ、口の端をほんの一瞬ゆがめた。 姿勢の良い後ろ姿が部屋を出て行くのを見て、アリシアが深いため息をついた。 ◆ 部屋を出たはいいが近くに人も見当たらず、マリセラは廊下の分かれ道で立ち往生していた。 カザレスの部屋からは立派な中庭が臨めたが、まさか窓から庭に出るわけにもいかない。庭へひらかれた出口を探してうろうろと視線をさまよわせたマリセラだったが、突然、何かが彼女の肩に触れた。姉に良く似た亜麻色の髪の毛をひるがえして振り返る。 「あら……アヴィー様」 「ご案内しますよ。お邪魔でなければ」 「いいえ、とんでもない」 「ありがとう。こちらです、どうぞ」 差し出された手に手を預けて、マリセラは庭へ出た。今まで彼女は、このように丁重に扱われたことなどなかった。紳士たちの集まる会に顔を見せたことがないわけではなかったが、いつでもマリセラはアリシアの影へ引っこんでいたからだ。 このようにうやうやしく手をとられて、けれど決してよそ行きのものではない、おそらくこれがアヴィーのもともとの性格なのだろうやや無愛想な面を見せられると、なんとなく居心地が悪くなってしまう。 アヴィーだけが特に苦手というわけではないが、基本的にマリセラは他人とのつき合いが苦手だった。家族以外の人間とはほとんど会話することもない。 意図したことではないとはいえアヴィーを引っ張り出し、アリシアとカザレスを二人にしたのは、マリセラにしては上出来だった。本人たちの心情はどうであれ、他人にはそう言われるだろう。マリセラはアリシアのおまけなのだから。 そして彼女が義理の――彼のほうが年上だから兄だろうか、兄弟になるアヴィーと親交を深めるのも、あたりまえのことだった。 けれど――それと、マリセラの控えめで酷使に慣れていない心臓が、いかにも貴公子然としたアヴィーと向き合って無事でいられるかということは、また別なのだ。おそらくマリセラがアリシアの妹だからだとは思うが、アヴィーはいつでもマリセラに対して穏やかで礼儀正しい態度を崩さない。 マリセラなど、放っておいても誰に咎められることもないし、連れて歩いても嬉しいものではない。ひどく口下手で気の利かない、美しくもない――そんな娘。 アリシアを、マリセラを、そしてカザレスを――アヴィーがどう思っているのか、彼女は突然知りたくなった。 「……兄のことは、どう思います」 「え……?」 そんなときに問いかけられて、マリセラは気の抜けた言葉を返した。彼女は、姉のように好奇心の強い人間ではない。アヴィーの気持ちなど気にしても仕方がないことだと自分で思ったら、気になったことでも黙っておくことができる。聞く勇気はないし、聞いたとしても彼はきっと口にしない。そう思っていたのだ。 マリセラは一瞬息を詰めてアヴィーを見つめた。 アヴィーの兄、カザレス。アリシアの夫、マリセラの義兄になる人。床から起き上がった姿はめったに見ないが、いつでも温和な笑顔を浮かべている。 スールのような、たいした力を持たない家の娘を押しつけられて、事実上廃嫡の宣言をされたというのに、アリシアにもマリセラにもいつも優しい。 「カザレス様……は」 とめどなく溢れそうになる言葉を慎重に吟味し、マリセラは言った。 「とても、忍耐強い方ですね。闘病生活も長くていらっしゃるのにそれを見せることはないし……お優しい方ですし。姉さんは幸せだと思いますが」 「そうですか」 端正なつくりの顔が、ふと翳った。その理由は、マリセラにはわからない。 「あの……アヴィー様」 マリセラが声をかけると、アヴィーは立ち止まってこちらを振り向いた。わずかに眉を上げ、続きを促す。 「アヴィー様は、姉のことをどう思っていらっしゃいますか?」 アヴィーにされたのと同じ質問を返すと、アヴィーは虚をつかれたように黙りこんだ。おかしいほどにうろたえたその表情に、アヴィーはこの縁組に反対なのだろうかとマリセラは訝った。 「美しい人ですね。……俺は兄から家督を奪ったことに罪悪感を覚えていたけれど、あんなに美しい人が兄の妻になってくれるのなら、それも許されるような気がする」 「そんな……」 「だけど俺は、兄とあの人との縁組には反対です。……ここだけの話ですよ。兄にも、彼女にも内密に」 やはり、スールのような家を親戚に持つのには嫌悪があるのだろうか。 自らの家名を恥じるわけではなかったが、マリセラはアヴィーの言葉を衝撃的に受け止めざるを得なかった。 アヴィーは真剣なまなざしでマリセラを見つめていた。マリセラは彼が怖かった。得体の知れないものが波のように押し寄せてきて、彼女の不安を煽り立てる。 「そんな顔をしないでください」 アヴィーは表情を緩めた。 「あなたと俺は似ている……そう思ったから、お話したんです」 その言葉に顔を上げたマリセラは、かすかにアヴィーの思いが感じ取れたような気がして目を瞬かせた。 「さあ、部屋に戻りましょう」 穏やかなアヴィーの顔を見上げ、マリセラは夢を見ているような心地で頷いた。 アリシアは幸せ者だ、と改めて実感する。 カザレスとアヴィーは、名家の子息であるというだけでない、生来のものであると思われる申し分のない態度でアリシアとマリセラをもてなした。 アリシアは、笑っていた。亜麻色の長い髪の毛が開け放した窓から入ってくる風に乱されると言って手ずからその髪の毛を束ねた婚約者に笑い返しているのだった。その弟は仲睦まじい兄と将来の義姉の姿に目を細めている。 マリセラも、笑っていた。誰もこの笑顔を見ていないのだと承知していながら、三人のために笑っていた。本当は痛かった。この場から逃げ出したい気持ちと留まっていたい気持ちがじりじりと押し寄せてきて、一番大切なものがぎゅっと押しつぶされてしまいそうになる。 アリシアとマリセラは似ていない。亜麻色の髪の毛と暗褐色の瞳と少し日に焼けた肌の色が同じであるため、よく似た姉妹だと思われているが、二人を近くで知っている人間ならそのようなことは言えないはずだ。 ほんの少しでも姉妹がそろっているところを見たことがある者なら、誰もが思う。姉のアリシア、彼女は輝いている。ひどくあいまいな表現ではあるが、確かに輝いているのだ。 マリセラは姉に嫉妬したことなどない。今だって、そう思っているわけではない。美しく、賢く、明るい姉を、妹として愛していた。 けれども今、彼女は苦しかった。アリシアのせいだった。 そのことにマリセラはひどくうろたえた。どうしていいのか、わからなかった。確かにこの切ない思いの原因はアリシアにもある。けれど、決してアリシアを責めたいわけではないのだ。 それなのになぜ、これは愛しい姉のせいだなどという言葉が出てくるのだろう。 やはり、昔から大人しくて無欲な子と言われていた自分にも、それなりに自己中心的な部分があるのだと自覚して、マリセラは悲しいと同時に少し可笑しいと思った。 |
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