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 妖 精 の 道
- Fairy Tale -

(2)「月の落涙」

 輪郭の奇妙にぼやけた、煌々と光る白い月。
 こんな日は、あの月が融けてぽたりぽたりと雫を垂らしそうな気になってくる。

 益体もないことを考えて、男は首を振った。旅慣れた様子だが、衣服の草臥れはないし土ぼこりを被っているわけでもない。荷物はひどく少なく、ちょっと隣家にお届けものといった風情である。けれど男はまぎれもなく長い旅のさなかにある、放浪の身であった。
 おそらく彼の主は、彼が任務を果たさずに戻っても叱責するようなことはしない。あの男の性格は、基本的に人と争うには不向きにできているのだし、せっかく優秀な懐刀を手に入れたというのにうまく使いこなすこともできないのだし。
 やれやれ、と男――マオはため息をつく。
 彼は彼で、信頼のおける、上に立つには申し分のない男だ。誰に対しても穏やかな表情を崩さず、それでいて威厳があり、弱い者を保護することを知っている。けれど。
 けれど彼には、もっとも重要なものが欠けている。それは世界を構築する義務を負った妖精に備わった「道」作りの力――いうなれば運命を曲げる力とでもいうものだ。誰よりも強大な力を持つ妖精の中の妖精、王と呼ばれる存在でありながら、彼にはそれがない。だから、最古参の長老たちにいいように操られてしまうのだ。
 マオもかなりの力を持った妖精――そのくせ妖精王コウにしか従わない問題児――であるが、まだまだあの爺たちには敵わない。おそらく自分には生涯無理ではないかと考えている。
 コウを解放するために必要な力、それは――――。
 融けそうな月を見上げて、マオは考え込んだ。コウを解放するには、あの長老たちやコウに匹敵する力を持ち、なおかつ妖精のさだめに縛られない存在が必要だ。
 それを確かめ、かつ彼女たちが健やかに暮らしていることをコウに告げる――それが、マオの仕事である。
 コウが愛したたった一人の女――人間の女と、その娘。長老たちに引き剥がされて以来、コウは常に彼女たちを気にかけている。もう年ごろの娘に成長した一人娘や、その娘に助けられて生きている妻を。
 マオの任務はもとからコウの私事ばかりであるから、今さら文句を言うこともない。けれど、そんなに会いたいのなら自分で降りてくればいいと思うのも本当である。
 マオは自分自身の力では、人間の世界に降りることができない。おそらくほとんどの妖精にはそれが叶わない。妖精の世界と人間の暮らす場所をつなぐことができるのは、コウのように莫大な力を持っている者か、あるいは長老たちのように儀式に手練れ、柔軟さと老獪さを身につけた者だけだ。
 他人を降ろすことができるのなら自分も降ろせるだろうとマオは思うが、長老たちの敷いた道が強力なうちは無理なのだという。道の支配があるときふっと緩んだ、その瞬間を狙って飛び降りてしまわなければならないのだと。
 どうしようもなく、厄介である。
 すたすたと夜道を行きながら、マオはぐるりとあたりを見回した。彼女たちの住む村だ。小さな、決して豊かとは言えない集落だった。
 月のあわい光に照らされた道に、人影はない。この夜半のこと、それもあたりまえかと思った瞬間。
 影のあいだから、娘が一人顔をのぞかせた。
 月に照らされてうすぼんやりと光っている体は細く、ややとがった顎と大きな目が猫のような印象を引き出している。長い黒髪を背中に垂らした娘は、マオの姿を視界に認めるとくるりと身を翻して――消えかけた。
「待って……! お願い、待って」
 マオは慌てて娘を呼び止めた。黒々とした大きな瞳が、こちらを凝視している。夜道で見知らぬ男に話し掛けられ、立ち止まってくれただけでも上々だ。
 もしこの娘が自分の探している彼女なのだったら、何事かを感じ取ったのかもしれないが――。
 整ってはいないが、美しい顔立ちをした少女だった。黒い瞳が白い顔の中でくっきりと輝いているのが、裏側から見た光のようだ。娘は複雑な表情でマオを見つめ、かすかに唇をほころばせて言った。
「……あなたは、妖精なの?」
「妖精?」
 あまりにも的を得ている言葉に、マオはうっすらと笑った。
 おそろしいくらいの慧眼を、からかってみたくなったのだ。
「それは嬉しいことだね。貴女のようなお嬢さんに、妖精などと形容されるとは――」
 マオは確信した。少女が、妖精王コウのたった一人の娘であることを。けれど彼女自身は、それを知らないのだということを。
 それでいて、父と自分の人生をゆがめているのは妖精だと知っていることを――――。
「あなたは、妖精?」
 少女は繰り返して問う。マオは微笑み、さらに身をかわしてごまかしていく。
「妖精であることに、何の意味があるだろう? 妖精とは何なのだろう? ……基準が違えば、結論もまた異なる。もしかしたら、私は妖精かもしれない。もしかしたら、貴女も妖精なのかもしれない」
「そんなわけはないわ」
 黒い瞳で射るようにマオを見て、少女は首を振った。
「そんなわけは、ないの。おかしなことを言わないで下さい」
 どうやら、怒らせてしまったらしい。マオは首をすくめる。
「村のお客様なら、広場に面して宿がございます。長の家は、その奥。私は失礼します、もう遅い」
 そっけなく言って今度こそ背を向けた少女を、マオは慌てて呼び止めた。
 彼女はコウの娘だ。ならば、もっとよく知らなければ。
 妖精の世界に波紋を投げかけることのできる、たぐいまれな少女自身のことを。
「ちょっと、待って。ご一緒してもよろしいですか? こんな真夜中に一人で歩いていては危ない」
 マオは当然のように少女に手を差し出した。


 桜色の頬をした赤子を抱いて、マオは窓の外を眺める黒い頭を見つめた。
 自分の血を持った赤子が人間の世界に生まれ出でたと感じたとき、マオは咄嗟にそのことを否定したが、次の瞬間にはアヤの黒曜石のような強い瞳が脳裏に浮かんだ。彼女ならどんな誹謗中傷を受けたとしても、その身に宿った命は尊重しようとするだろう、そんな気がした。
 マオが赤子の誕生を否定したかったのはコウに対する、またアヤに対する後ろめたさからだった。けれども二人は、互いに互いの存在を感じていないのも関わらず、まったく同じことを言ったのだ。
「この子の誕生を無意識に願った妖精が、きっとどこかで道を作っている」と。
 まずコウが言った言葉が自分とコウとアヤ、三者の存在を示していると悟り、マオは再びアヤのもとを訪れた。アヤはいたずらっぽい笑みとともに、コウと同じことを言った。
 小さな、女の子。乳臭い香りが鼻をくすぐって、マオをどこからか暖める。人間と妖精とに関わらず赤ん坊に触れたことなど彼はなかった。こんなに柔らかく脆いものなのだとは、初めて知ったのだ。
「名前はどうするの?」
 アヤは窓の外の世界に飛ばしていた視線を、マオのもとへ返した。すやすやと眠る娘を見おろし、首をかしげる。
「さあ、特に思いつくものはないわ。あなたにつけてもらおうと思っていたもの」
「私が?」
 妖精は人間に比べて情愛が希薄だ。
 もちろんこの娘のことも、娘を産んだ――本来ならば添い遂げてやるべきアヤのことも、マオはいとおしく思っていたが、それでも娘の名前は腹を痛めて子供を生んだアヤがつけたほうがいいのではないかと思った。
「ええ、あなたが。あなたはどうせすぐに私のもとを離れてしまうのだろうから、せめて子供の名前だけでもつけてもらおうと思って」
 親らしいことは一つもできないのだから、せめて名付け親の役割くらいは果たしてあげなさいよ、とアヤが言う。 
 笑顔がどこかそらぞらしく、マオはいわれのない罪悪感を持った。
「そうだね、それじゃあ……ミサというのはどうだろう」
 深い考えはない、思いついただけの名前だったが、アヤは満足げにうなずいて娘を抱き取った。
「ミサ、ね。いいわ。いい名前じゃないの」
 ミサ、とアヤは娘を呼んだ。
 マオはどきりとした。一年前に見た彼女と、今の彼女とはまるで別人だった。彼にはわからない、ただその威圧感だけを感じ取れる艶が滲み、黒い髪の毛と白い首すじがくっきりと浮き立っている。
 妖精のように美しい娘だと思った。妖精たる彼が、人間の血の混じった未知数の娘を。
 計り知れない可能性を感じて、マオは息を呑んだ。コウに知らせなければと、そう思った。
――コウ、貴方の娘は希望を持っている。
 マオはミサを抱いたアヤを見つめて、針で指をついたようなかすかな痛みを感じながら言った。
「アヤ、私はもう行くよ」
「そう? もう少しゆっくりしていけばいいのに。ミサがあなたを忘れてしまっても知らないわよ」
「……仕方がないよ」
「そうね、仕方がないわね」
 アヤの黒い瞳からは、うまく感情が読み取れない。自分ばかりが小さな命に翻弄されているような気がして、なんとなく悔しい。
 マオはアヤの気をひきたいなどという子供じみた感情を半分に、アヤが奮い立たずにはいられないであろう言葉を口にした。
「コウを探すよ」
 アヤは一瞬、わけがわからないといった表情でマオを凝視していた。
「貴女の父親を。すべてうまくいったら、そのときこそ皆で暮らせる」
「お父さん……を? あなたが?」
 アヤはマオと一緒にいる間、父を慕う言葉を口にはしなかった。
 けれど彼には感じられたのだ。アヤがどれだけ、幼い頃に別れた父親を思っているか。そして、自分たち妖精に複雑な感情を抱いているか。
 それを解きほぐすためにも、マオはコウを連れ出さねばならない。アヤの世界を根底からひっくり返すような大仕掛けを成功させねばならないのだ。
「ミサ、いい子で待っておいで。……それじゃあ、アヤ」
「マオ……」
 呆然と見送るアヤにふざけた風を装って手を振り、マオはアヤとミサの前から姿を消した。
 妻と娘――とは、呼べるわけがなかった。


「マオ、君――」
 娘に名前をつけてすぐに妖精の世界へ帰還したマオは、なぜか自分を見て目をまるくしたコウと出くわした。
「なんです、コウ」
「なんだか――力が強くなったように見える。もちろん、まだ私を解放するまでには至らないが」
「何ですって? 力が? ……私の?」
「もちろん。他に誰がいる」
「いえ、いませんが」
 自分では、強くなったという力は感じることができない。けれど妖精王の言葉に間違いがあるわけもなく、マオは若干のとまどいを覚えた。
 もしかしたらそれは、アヤと触れ合ったことで得られたものなのではないだろうか。妖精王の娘でありながら契約とは無縁である、自由な娘と。
「あのですね、コウ――実は私、貴方に話がありまして」
「どんな話だ? アヤに何か変わりがあったか?」
 ここで聞こうとうなずくコウを、マオは首を振って自分の部屋へ連れて行った。ここならば長老たちの影響力もいささか弱まる。少なくとも、話が筒抜けになることはないはずだ。
「貴方が言った、私の力の件ですが。やはり、アヤやミサの影響なのではないかと思います」
「ミサ?」
「アヤの娘ですよ。今会って、名前をつけてきたんです」
「……そうか」
 孫娘の名前を口の中で転がし、コウはため息をついた。アヤやミサ、そして妻に自由に会いに行くことができない我が身にうんざりとしているのは明らかだった。
「早く会いたいものだな」
「だから、私が今奔走しているじゃありませんか。……ちょっと待ってくださいね」
 マオの視線はコウを通り越し、その背後に展開する妖精の道を凝視していた。複雑な思惑の絡まった道に、マオは吐き気を覚える。
 本当ならば誰よりも自由で誰よりも高い場所にいるはずのこの人が、なぜ老いぼれたちの傀儡のように扱われなければならないのか。
 生まれたときからコウの側にいるよう道を定められていたマオは、そのことに心から憤りを感じていたのだ。
「ああ――なんとなく見えてきましたね」
 貴方を、どうやって地上へ降ろすか。
 マオがそう告げると、コウの顔が若々しく輝いた。
「本当か?」
「なんとなく、ですよ。まだ少し時間が要りますね」
 それでもいいのだと、コウは言った。妻と娘、そして新たに生まれたミサを思っているのだろう瞳の色は柔らかで、マオは意外なほどにはっとした。
 自分は、彼の娘を奪ったのだ。本心はどうであれ、彼の行状を知れば誰もが同じことを言うだろう。
 アヤがミサを生むまでの時間も、平穏だったとは言いがたいはずだ。彼女の母親は妖精王の妻である人だから、アヤが妖精と出逢ったと言えばその言葉を疑うことはないだろうが、村の人々の目はどうであったかわからない。
「私は……謝ったほうがいいですか、それとも」
「まさか」
 コウはわずかに首を振ってマオを睨んだ。
「自分の行いを悔いることは許さないよ。そんな妖精に、私の道を託せというのか?」
「いえ……いえ、そのとおりですね。すみません」
 マオは大人しく首をすくめ、コウに退室をうながした。あまり長い時間長老たちの力から隔離した部屋にこもっていると、余計な疑いをまねくおそれがある。
 マオが妖精王コウの道を人間の世界へ導いたのは、それから幾度か月が満ちて後であった。


 彼らにはいつも月が見える。人間の空の明るさや天候は、彼らには関係がないからだ。
 その日も月はまるで蕩けそうに丸く、よく磨かれた鏡のような様子で空に鎮座していた。月は怖い。彼らが作ったものではないからだろうか。マオはあれが怖いと思うし、同時にずっと胸の中に抱いていたいと思うのだ。
 同族以外の存在――たとえば、人間たちの間ではおとぎ話になっているような美しい人間のような――への執着を、彼らの間では「月を飲む」と言う。本当は、彼らが月に飲み込まれているのかもしれないとマオは思うが、それを口に出したことはなかった。
「コウ、早く」
 どこか重い足取りでのろのろと進むコウの腕をわずかに引っ張る。十数年間放っておいたことへの罪悪感だろうか。久しぶりにアヤに会えるというのに、彼はうかない顔つきだ。
「……やはり人間の世界は雑多だな」
「あなただからそう感じるのでしょう。人間のもとで暮らしている間、ずっとそう思っていたのですか」
「いや……、違う」
 短く言うと、コウは再び黙り込んだ。
 マオにはわからない何かを感じている。妖精の道から一時的に解放されたことで、妖精王の本来の力が発現しているのだ。世界の現象すべてが彼のもとに集まり、判断を乞うている。
「雨がひどいですね。アヤは……どこで雨をしのいでいるか」
「どこに残してきたんだ」
「すぐのつもりだったんですよ。まだ川にいるはずです。濡れているかも」
「何をしているんだ、お前は」
 コウは少し顔をゆがめた。マオらしくもないと非難しているようだし、事実自分でもそう思っている。久しぶりにアヤに会って――彼女と彼女の父親からしてみれば離れていたうちに入らない時間だろうが――気がそぞろになっていたのだろうか。
「だからすぐのつもりだったと――いえ、私のお膳立てが悪かったんでしょうね、やはり」
 マオは諦めた。自分には何も言う権利がない。十数年ぶりの親子の対面は、マオにとってはわずかな時間でも父子にとってはとほうもなく長い時間を経てのものに違いないからだ。
 アヤとアヤの母親がコウを変えたのかもしれない。誰よりも妖精であるべき妖精の王を。しかし生まれたときからコウの側にいたマオは、もしかしたらそれは違うのかもしれないとも思うのだ。確かにコウは人間の妻と混血の娘を得て、その影響を受けているように見える。七年間人間に擬態して生きてきたのだから、多少人間らしさが身につくのもわかる。けれど――コウは昔から、そうではなかっただろうか。
 昔から妙に妖精ばなれしたところがあった。妖精の最大の特徴である、道を作るというさだめを持たないからかもしれないが、なぜか妖精よりも人間に近いところがあった。寿命は無限に近いというのに、妙に過ぎ行く時間にこだわるのもマオにはないコウの質だ。
 人間に近い、妖精の王。
 これがコウを長老たちの道から解き放つ重要な鍵かもしれないと、マオは心にとめた。月が流した涙のように自然に、奇跡的に降ってきたそれは、彼が妖精であるにもかかわらず天啓のようだった。
 彼らの高みに位置し、彼らを導く存在は、既にいないというのに。
「――ここですよ、……コウ?」
 マオがそう言ったその瞬間に、コウは走り出していた。頭の小さな、姿勢の良い長身だ。雨に濡れながら石ころだらけの川原を走り、呆然とこちらを見ている娘を力いっぱいにかき抱く。
 アヤは二三度目を瞬かせ、大きな背中を叩いた。
「久しぶりね、お父さん」
 娘らしい、高すぎない柔らかな声に包まれて、マオはコウが涙を流しているのを見た。
 不思議な娘だ。
 妖精も人間も、何もかも包み込む――――。

 その日の月もまた、アヤの上に祝福の涙を注いでいるように見えた。

「END」

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