ウェーズロウス・ファンタジア


 


053:真珠1粒 ―――――
「ねえ、お願いよ! その娘はあたしの妹の子よ!」
 目の前で女の人が叫んでいる。知らない人だ。けれどその女の人は、彼女を何度も殴って、母親のもとから引き剥がしてここまで連れてきた怖い男に必死で何かを嘆願している。
「どうしてここにいるのよ、返してよ!」
 うるせえよお前の妹だか誰だか知らねえがこのガキの母親はこいつを売ったんだ。
 彼女は男の言葉を聞いて、ようやく女の人は自分の身柄を乞うているのだと理解した。でもなぜだろう、こんな人は知らない、助けてもらういわれはないというのに。
 疑問を浮かべて女の人を見つめると、女の人は下げた頭の前髪の間からちらりと彼女に視線を寄越した。黙っていろ、というのだろう。
「あんたもあたしのところに来たいのよね? あんたの母さんのかわりに、あたしが育ててあげるわ。あんたにはお兄さんもできるのよ――きゃあッ」
 男が女の人を突き飛ばした。女の人は、年齢のよくわからないかわいらしい人だ。
 こんなに優しい人に暴力をふるうなんていけないと思う。しかし彼女の喉はからからで、声が出なかった。
 こいつは母親に売られたんだ、血縁者だろうがなんだろうがその分の金を置いてかねえなら渡せるもんか。
 男は凄む。女の人はよろよろと立ち上がり、懐から大きくてまるい1粒の真珠を取り出した。
「あたしが自由にできる財産はこれっぽちのものなのよ、でもあんた、こんな貧相な子に大層な値はつけなかったんでしょ」
 男は女の人から真珠をひったくり、顔をゆがめてそれを検分すると女の人の襟首を掴んだ。
 とても気丈な人だ。どうして母さんに捨てられたあたしなんかのためにこんな危険な目を甘受してるんだろう。
 声も立てずに彼女が泣き出すと、女の人は男を突き飛ばして両腕で彼女を抱え込んだ。男が激昂するのがわかった。獣のような咆哮が耳を貫き、彼女はいっそう怯えて縮こまった。
 何かを壊す音がした。
 誰かを殴る音がした。
 女の人は彼女を抱えたまま側の壁に身を寄せ、何かを呟いていた。うまく聞き取れない。何を言っているのだろうと思って顔をあげる。
 そこには、別の男の人がいた。
 彼女を殴った男はその足元にのびている。立派な剣と粗末な衣がそぐわない、背が高くてとても美しい体の男の人だった。男の人が女の人に近づいてくると、女の人は片方の手を彼女とつなぎ、もう片方の手で男の人の首にすがり付いてその頬に口付けた。
「ごめんね……」


「ごめんね……」
 女の人と男の人に連れて行かれた家には、彼女よりだいぶ大きな呆れ顔の少年がいた。女の人は彼女を連れて庭の奥の井戸の側へ行き、薄汚れた顔や体を清めてくれた。
 こざっぱりとした衣を着せてもらいひと息つくと、女の人はもう一度彼女を抱き締めた。ごめんねと呟くが、女の人が何を謝っているのか彼女にはわからなかった。
「ごめんね、あんな真珠一つであなたを買うつもりなんてなかったの。あなたはもっとずっと価値のある人間なのよ。私なんかが、あなたの価値を決めていいことなんてないの。もちろん、あの男だっておんなじよ。あなたの価値はあなたが決めるのよ」
 よくわからない。
 あえて言うなら、多分自分には何の価値もないのだ。
「でも、あそこで何かお金になるものを出さなきゃあの男が収まらないのはわかっていたし……あんまりたくさんお金を出しても、ああいう手合いはつけあがるだけなのよ。結局、あの人が見つけてくれたけど……」
 女の人はやわらかくて、とてもいいにおいがした。母さんとはまったく違うのに、昔の母さんのように優しい。
「うちの子になりましょうよ、あの人もあのお兄ちゃんも、皆あなたが大好きよ」
 わからないよ。
 あたしみたいなみすぼらしい子を、どうやって好きになるっていうの。
「私はあなたが大好きよ。それが信じられたら、うちの子になってちょうだい」
 女の人は彼女に何か丸いものを握らせた。つやつやと白く輝く真珠の1粒。
 ぽたりと、涙が落ちた。彼女の涙のように丸い、けれど優しく柔和な色を持った真珠の上に。
「……ありがとう……」
 彼女は久しぶりに声を発した。
 そのかすれた、みっともない声に、けれども女の人は嬉しそうな笑みを返した。

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054:闘技会 ―――――
「ねえ、かあさん」
 ウェーズロウス王城前闘技会――いわゆる御前試合が開かれる朝、当年めでたく十六歳、闘技会に出場できるようになった少年は、父と自分の目の前に朝食を並べた母親に向かって声をかけた。
「なあに? ごはん、足りない? でもあんまり食べないほうがいいわよ、お父さんだって、闘技会の前はいつもそうだもの」
「そうじゃなくて」
 少年は頬を膨らませた。おそらく、続きを口にしたら父は怒るだろうが、絶対に釘をさしておかなければならないことだ。
「かあさん、ちゃんと俺のこと応援してよ? このヒトとは、第三試合であたるんだから」
「はぁ?」
 案の定、父は顔をゆがめ、険悪な視線で少年を睨んだ。
「坊主のくせに調子に乗るな。誰のおかげでこいつの息子に生まれられたと思ってるんだ」
「とうさんのおかげじゃあないよ」
 父は二十歳のときに出場した闘技会で見物客のひとりだった母にひとめぼれし、母をこっそりとつけまわしたあげく翌日には闘技会の賞金である金貨十枚を支度金に母と結婚してしまったとんでもない男だ。ひとり息子も父にとってはどことなくおもざしが母に似ているからというだけの人間に過ぎないらしい。
 父は十九歳の年にはじめて闘技会で優勝して以来、闘技会出場登録の朝に母が産気づき少年を出産した十六年前以外は優勝を逃したことがない。そんな父の武勇はウェーズロウスでは英雄のごとく語られていて、幼いころの少年は父が自慢だった。
 けれども、この父は、少年が生まれてから母が名前を呼んでくれなくなったといっては怒り、幼い少年が母と眠ろうと思って父母の寝室を訪ねても彼をつまみだし――とにかく母を独占することはなはだしいのだ。
 初めて闘技会に出たときには応援してあげる――という、いつもは父に歓声を送る母の言葉を信じて十六歳になるのを待ちわびてきた少年にとって、父はその夢を阻害する大きな障害物だった。
「それに、まあ来年からは仕方ないけど、初めて出場したときだけは俺のほうを応援してくれるって、もう十年前から約束してたんだからね」
「俺だって、お前が生まれる前から……」
「ほらふたりとも、食べるか話すか片方にしなさい。あなたも、子供相手にむきにならないのよ。私が応援しなくたって、どうせあなたは勝ち抜くんだから、今年くらいいいじゃないの」
 父はふてくされた顔をして立ち上がり、母の頬にくちづけた。
「義母さんを起こしてくる」
「ええ、お願い」
 父が一年に一度闘技会に出てさらってくる賞金で、家族は十分に暮らしていくことができた。しかし父は闘技会が開かれない時期は剣術の門を開いており、そこからの収入もばかにならない。それがもう二十年近く続いているため、少年の父はウェーズロウスでもかなりの財産家だった。
 父は金には頓着せず、母に美しい細工物や衣を買ってやるのだけが生きがいだし、母はあまり贅沢な暮らしが好きではない。財産の膨大さとは裏腹に彼らの家は小ぢんまりとしていて、生活も簡素なものだった。
 少年はこの小さな家が好きだった。いつでも暖かい笑みを浮かべて夕方家に帰る少年を迎えてくれる母も、口は悪いが十数年もの間少年に剣の稽古をつけてくれた父も、窓辺で少年の着る衣を丁寧に縫ってくれる祖母も、すべて。
「お父さんにも困ったわね、だけどお母さんもお祖母さんもあなたを応援していてあげるから、けがをしないように気をつけていってらっしゃい」
「うん。……じゃあ、行ってくるよ」
 少年は戸口から廊下をのぞき、首をめぐらせ、祖母と連れ立って戻ってきた父親に向かって叫んだ。
「とうさん、もう行くよ!」
「焦るなよ坊主、まだ時間はあるんだ」
「あんたはあるかもしれないけど、俺は最初の試合から出るんだよ!」
 ほんのすこし震えた声に、父は片眉をあげた。
「……ふうん、そうか」
 精悍な男の顔で、笑う。
「そういうことなら、この十五年連続御前試合優勝の父上が付き添っていってやろうじゃないか。ほれ、行くぞ」
 初めての闘技会。
 初めて、少年が父親と対峙する場所。
 少年と父親は肩を並べて、ウェーズロウス王城前にしつらえられた闘技会の会場へ向かっていった。

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055:一人旅 ―――――
 ウェーズロウスの先にあるオアシスまで行くという隊商と別れ、男は壮麗な都市の門をくぐった。
 まっすぐに伸びた大通りには人が多い。きちんと建物を立てて商売をしている店を巧みに避けて道の両脇に並ぶ露店に群がる老若男女。子供も、飢えた犬も一緒くたになって走り回り、野菜やパンのくずでも拾おうと必死になっている。
 護衛を兼ねて隊商と旅をしてきた男は、今ちょうど懐が一番豊かなころあいを迎えていた。露店で小麦粉を捏ねて焼き、菜っ葉やら肉の切れ端やらを挟んだ軽食を買って歩きながら頬張る。数ある露店の中からこれと思うものを自分の目で見つけ出す楽しみは、ウェーズロウスならではのものだ。
 男は明日からの仕事をどうしようかと考え、もう一度露店に立ち寄った。今度は果物、喉が乾いたので水気の多いものを手にする。
 成人してから、ウェーズロウスには何度も来たことがある。けれど、次の仕事を探すのに躍起になっている――そうでもしないと、このご時世いい仕事は見つからないのだ――せいで、ウェーズロウスに滞在した期間となると月が一度満ち欠けするくらいだ。
 たとえば、西の門からは入ったことがない、とか。
 たとえば、春に行われる花祭りは見たことがない、とか。
 そんな些細なことに、あらためてここは自分にとって通過点に過ぎないのだと思い知る。生まれたのはウェーズロウスの片隅だというのに、物心ついてすぐに育て親に連れられて城壁の外へ出たせいでほとんどこの街の記憶がない。
 仕事はしばらく探すのをやめにして、安宿に泊まりこんでゆっくりとウェーズロウスを知るのもいいかと考えた。短い時間に培われた自分という存在が、この街には色濃く残っている。
 男はそのまま通りを歩き、がたのきた二階建ての宿を見つけた。今までに何度も泊まったことのある宿だが、一歩足を踏み入れたところでその違いを感じ取る。
 受付にいた男が、変わっているのだ。確か最後に見たときはまだ二十歳そこそこの若者だった男が、赤ん坊を抱いて座っている。いつもそこにいた白髪の老人はどうしたのだろうと、少し気になった。
 宿の者にとって男は、数回客となったことがあるだけの人間に過ぎない。けれども男は宿の主人を知っている。その家族を知っている。
「……一週間だ。幾らになる?」
「ええと、もう二枚……いえ、一週間ですね。一枚でようございます」
 赤ん坊を抱えた主人は男の差し出したコインを受け取った。厚い手のひらが銅貨を握り締める。
「おい、お客さんだ」
 振り向いて奥に声をかける。ほっそりとした娘が出てきて、男を部屋に案内した。そういえばこの娘にも見覚えがある。父親になったらしい青年の妹で、初めて会ったときはまだ十の少女だった。
 時間が流れるのは本当に早いものだ。男は気楽といえば気楽なひとり者だから、時間をはかるものさしを持たない。だから余計に、それを感じてしまう。
 それぞれが少しずつ成長した家族の姿に、目を細めた。育ての親が死んでからというもの、男の隣に人がいたことはなかった。自分の年を重ねた姿などめったに目にすることはないため、人が日々変化していく生き物だと言うことすら忘れていたくらいだ。
 このあたりでひとつ気楽な一人旅に終止符を打つのもいいかと考えた。

 ウェーズロウス、この美しくはなやかな街を、終の住処とするのも悪くない。

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