ウェーズロウス・ファンタジア


 


026:金貨3枚 ―――――
 祖母の治療にかかる金額を初老の医師から告げられたとき、彼女は祖母の死を覚悟した。父亡きあと手入れもろくにされていないこのあばら屋にそれほどの金があるわけがなかったし、医師が提示した額はあまりに莫大で、彼女の想像の範疇にはおさまりきらないものだったからだ。
 金貨三枚、それがどれくらいのものなのか、知っていても理解は難しかった。自分も、そしておそらく祖母と母も、きらきらと輝く小さな黄金を見たことなどない。銀貨を百積まなければ手にできない黄金の貨幣は、この付近で暮らしていく者には一生縁のないものだ。なにせ、銀貨の一枚ですらめったに使われないのだから。
 おそらく、金貨などというものは彼女の暮らす場所には流通すらしていないだろう。だからといって銀貨を三百枚集めるということもできそうにない。
 けれども彼女の母は、思いつめた表情で小さな鏡台を動かし、うしろの壁の穴から油紙に包まれた小さな包みを取り出した。
「……母さん、それなあに?」
「私がお父さんと結婚したとき、お祖母さまからもらったものなの」
 婚礼の日、母は祖母にこれを手渡された。――紅い大きな石の嵌め込まれた金の指輪。
 疵ひとつないそれを母がどうしようとしているのか、彼女には痛いほどによくわかった。
「……これを、東の広場で売ってきて頂戴」
「母さん、いいの?」
 その紅玉のあまりの美しさに、彼女は視線をそらすことができなかった。母の声を、耳からしか感じることができない。
「いいのよ。――それはもともとお祖母さまが若いころ奉公していた家の奥様がくださったものだから。さあ、早く行きなさい。病が進行したら、またお金が必要になるわよ」
「でも……」
 薄暗い家の中を振り返りながら、彼女は包みをしっかりと懐に抱えて飛び出した。
 東の広場には、宝石や高価な香料、異国の絹などが集まるので有名な市が立っている。もちろんそのようなところに足を踏み入れたことはなく、彼女の足取りは遅々として進まない。
 今は油紙に隠れて見えない紅の輝きと母の顔、病の祖母を思い、彼女は立ち止まった。
 これを売ってしまっていいのだろうか、母と祖母がどんなに貧しくても手放さなかった指輪を。
 祖母にとっても主を思わせる品、母にとっても父との生活を思い起こさせる品。ふたりにとって大切なものだというのはわかる。祖母は母にこれを渡したとき、既に思い出と一体化し、指輪はなくともいつでも美しい時代を脳裏に描けるようになっていたのだろうが、母はどうだろう。
 まだ、父のぬくもりを忘れられない母は。
 指輪を売らないのは、病床にある祖母を見捨てるのと同じこと。だから母は彼女に指輪を手渡した。自分で売りに行くことは、できなかった。
「……だめだわ」
 小さく呟き、彼女は東の広場とは反対の方向に足を向けた。創立当初のウェーズロウスにはなかった町並みの中に分け入り、特殊な『質屋』を目指す。
 おりしも夕暮れが迫っており、その街がもっとも活発に活動し始める時間だった。花街の入り口で、彼女はぐずぐずと足踏みをする。
 自分に金貨三枚分の値がつくわけがない。それを無理に払わせようと言うのだから、この先には相当な苦労が待っている。
 母と祖母は大切だったが、それ以上に自分の貞節は貴重だった。
「おい、そこの」
 後ろからかけられた声に、彼女は飛び上がった。おそるおそる振り向くと、日に焼けた左頬に真新しい傷の走る二十歳すぎの青年が彼女を見おろしている。
 額の布に小さな血の痕が見えたのがおそろしかったが、彼女は気丈に首をかしげた。
「私に何か御用ですか」
「あんた、こんなところで何やってるんだ」
「何、と言われても……」
 金が要り用なのだ。
 過敏に揺らいだ瞳の色からそれを読み取ったのか、青年は顔をしかめた。
「やめておけ。こんなところで金を稼ぐのは邪道だぞ」
「でも、だったら他にどうしろっていうんですか」
 よい勤め口には限りがあり、彼女のような平凡な娘ではつとまらない。それと同じようによい嫁ぎ先も限られていて、結局のところ彼女は汗水たらしてわずかな金を稼ぐか、このようなところで自分を売るかしか選択肢を持っていないのだ。
 それを知らないわけはないだろうに無理難題を言う青年に、胸の底から怒りがこみあげた。
「お金がいるんです、それもできるだけ早くに! うちには父さんもいないし、私がお金を調達しなかったら他に手段がない」
 母は針子として細々と仕事を請け負っていたが、祖母の治療費がそれでまかなえるはずもない。
「祖母が死んでしまうんです!」
 祖母と自分と、どちらを犠牲にするか。
 それを考えると、答えはおのずから見えてきた。祖母は金がないと死んでしまう、自分は身を切って金を稼いでも命だけは持っている。
 ならば自分が、祖母のために金貨三枚調達しよう。そう思って、彼女はここへやってきた。
「医者に払うのか。……幾らだ?」
「どうしてそんなこと」
「幾らだ」
 頭上からたたみかけるように言われ、彼女はしぶしぶ答えた。
「金貨で、三枚」
 彼女の言葉を反復した青年は彼女の黒髪に指を絡め、片手で懐から皮袋を取り出した。口の紐を解くと、金の光が零れ出る。
 金貨が、十枚。かさは少ないものの、その価値は計り知れない皮袋だった。
「この金貨でお前を買おう、十枚だ。――どうせ売るつもりのものだったならそうしてしまえ」
「あ……」
 驚きに言葉をなくす彼女の瞳の中を覗き込み、青年は笑った。
「三枚でお前の祖母の病は治せる。もしもそれ以上かかるのでも、お前が俺のものになるのならいくらだって出してやる」
「あなたは、いったい……」
「三枚で病を治し、四枚で大きな家を建てる。残りで、子供を育てようじゃないか」
 彼女に口をきく暇を与えず、青年は言った。不遜な態度と言葉、けれど彼は――――。
「心配するな、金貨ならまだある。……去年の分まで」
 ウェーズロウス王城前闘技会の、優勝者。
 ウェーズロウスでもっとも強いその男は、彼女の頬にくちづけてささやいた。

「だから、結婚しよう」

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