ウェーズロウス・ファンタジア |
008:滲んだインク ――――― |
流麗な文字で宛先の綴られたその手紙を見たとき、何故だか彼女は不安の黒い蛇に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 砂漠へ交易に出た夫からの久しぶりの手紙――まぎれもない夫の筆跡で書かれたそれは、訃報などであるはずがないのに、彼女にとっては不安を煽り立てるものでしかなかったのだ。 ――何だろう、この感覚は。 深い碧眼でじっと封を見つめ、彼女はしばらくためらったのちに手紙を開いた。 住み慣れた屋敷を人手に渡した彼女は、妹一家と両親が住む実家に身を寄せた。ウェーズロウスでもかなりの高級住宅街に建っていた屋敷は手放したときにかなりの財産を彼女にもたらしたが、かわりに金では決して買えないものを彼女は失った。 砂漠の果てから送られてきた離縁状を受け取ってからわずか一季で、彼女と夫の離婚は成立した。彼女は夫が手放したウェーズロウスの屋敷を譲り受けたが、夫のいない屋敷に住み続ける気にはなれなかった。 夫はタルバート人奴隷を多く抱え、そのタルバート人を案内役に砂漠での交易を広く手がける商人だった。ウェーズロウスでも指折りの財産家で、古くから続く名家の出である彼女を妻としたときには夫の家も彼女の実家もたいそう喜んだ。成り上がりの商人が欲しかったのは重厚な響きを持つ貴族の家名であり、財政難にあえぐ貴族が求めていたものはウェーズロウスにあふれ出る泉の水のようにとめどない金銭であった。泣きたくなるくらいよくある話に、婚前の彼女は気分が落ち込むのを感じたが、結婚してしまえば相手の商人はこのうえなくよい夫となった。 ウェーズロウスを出て未開の土地やめずらかに見える宝を求めて隊商を組んでいってしまう、その放浪癖さえなければ。 今回の離婚も、他に愛人がいたのでも彼女が嫌になったのでもなく、ただ急速に発展してきた南のオアシスに商売の拠点を構えたいという願望からのものだった。 ウェーズロウスと砂漠の街道を結ぶに手ごろな位置にあるそのオアシスは、最近たくさんの商人でにぎわっているという。夫がそこに進出したいと考えたのは自然なことだし、砂漠に住むには身体が弱すぎる彼女を離縁したのは夫の優しさから出たことだ。 けれども、彼女はあの奔放な商人の妻でありたかった……。 少女時代をすごした自室で夫からの最後の手紙を開き、彼女は癖になってしまった溜息をついた。 花の露のような涙を幾度も零した手紙の文字は、もうすっかりインクが滲んでしまっている。滑らかな夫の筆跡がうかがえなくなったその手紙を丁寧になぞり、彼女はまた泣いた。 「……姉さん」 扉の外からかけられた声に、彼女は涙を拭って返答した。 「入っていいわ。あの子が泣くの?」 「ええ……」 部屋に入ってきた妹は、弱り果てた様子で腕の中の赤子を彼女に手渡した。泣きつかれたのか、泣き声は弱々しいがそれでも妹の手には負えなかったのだろう。 夫と離縁してから生まれた、彼女と夫のひとり息子であった。 夫は息子の存在を知らない。離婚のときも離縁状を送ってきただけで屋敷の采配を彼女に任せていたし、屋敷で働いていて今はオアシスの夫のもとに馳せ参じている使用人やタルバート奴隷も、このことは知らなかったはずだ。 彼女には息子のことを知らせるつもりはなかった。実家の母の力を借り、ひとりで育てている最中だった。 「姉さん、また手紙を読んでるの? ……もうあんな商人のことなんて忘れればいいじゃない。お父様だって、この子をアンベリナーの後継ぎにしてくれるって言うんだから」 生まれた息子は彼女の実家のもので、彼女にはアンベリナー当主の母親の座が約束されている。 だから、商人のことなど忘れてしまえばいいのだと……。 そう主張する妹に、彼女は頷いた。 そうできたなら、どんなに幸せだろう……。 「でも、忘れないわ……」 二度と会うことがないとしても、忘れはしない。心に宿る彼の姿を、消してしまうことはない。 そうささやいた彼女に、妹はあきれたようなまなざしを向けて立ち去った。 ――そう、忘れない……。 彼女の物入れの中には、夫から贈られた愛の言葉とともに、滲んだインクの離縁状が眠っている。 たとえ形は違っても、確かに彼女への思いやりと愛情を溢れさせた、その、手紙が……。 |
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