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雅の民の章、二 |
何を話し掛けても、ふたりは眉を寄せ、怪訝な顔で首をかしげるばかりだった。人形のように整った顔が、リスルとの意志の疎通がかなわないがゆえの苦悩でゆがめられているとわかっていても、苛立ちは隠せない。最初は、耳が聞こえないのだと思ったのだ。しかしお互いの間では言葉は通じ合っているようだし、リスルの言葉に反応してわけのわからない言語でわめくことはある。 要するにふたりは異邦人なのだと、リスルが理解するのにそう時間はかからなかった。 石墨を差し出して、神殿の裏手に立った聖別所の床さえ汚すつもりで筆談を試みたというのに、ふたりが書くのは見たこともない形の、しかし流麗でひとつひとつが完成された絵画のような理解できない文字だった。神殿の文献で同じようなものを見たことがある気もするが、あいにくリスルは故郷の友人たちのように勉強熱心ではなかった。 柔らかな立ち居振る舞いと薄汚れてはいるもののしっかりとした衣、そして何より視線を引き剥がすのに苦労するほどの造作が、ふたりが何不自由なく暮らしてきたのだということを証明していた。誰にも危害を加えられることなく大切に育てられてきたからこそ持ちえる無垢な空気を、特に彼女より少し幼いくらいの少女は持っていた。 昔からそうだった。 そのものの本質を見抜く目に、リスルは長けていた。どんな暗い翳りが落ちていようとも、それがすべてを食い荒らしたのでなければ、隠されたものに気づくことができた。小さな幸福、純粋さ、そういったものに。 目の前のふたりが、穢れをほとんど知らない魂の持ち主であることはすぐに知れた。にも関わらず、心は曇り、苦しみの渦に突き落とされている。 名前も知らない人間だというのに、リスルはふたりを把握することができた。 逃げてきた、とは感じなかった。ふたりの正直な態度は、明らかに戸惑いを伝えていた。 本当ならばここにいてはいけないのだと、自ら思っているようだった。 けれどもただ、「ふたりでいる」というその事実だけで、不安というものを心の中から追い出してしまえるのだ。翳りを帯びながらも危機感を感じさせない表情から、それがうかがえた。 「うらやましいわねえ」 おもいのほか響いた呟きに、少女がちょんと首をかしげた。いかにも邪気のない仕草に、リスルは首を振る。 「なんでもないわよ、もうすぐ着くから」 狭さを感じるほどではないものの、決してゆったりとしているとは言えない家屋だった。このふたりを引き入れたら、祭りの意味を誤解しているとしか思えない態度の夫を蹴り出さなければ家が壊れるだろう。 リスルは狂おしくゆがんだ瞳で、一対の人形のように寄り添ったふたりの若者を見つめた。 「……あんたたち似てるのよ」 肩寄せ合って震えてた、けどお互いをなぐさめる言葉ひとつ口に出さなかった昔のあたしたちに。 サリティナの腕をやんわりと掴み、そのまま隣室へと連れて行った女性は、木の桶に水を満たすと部屋の隅に畳まれていた布、そして衣を指した。 「……使ってもよろしいのですか?」 首をかしげるが、女性にはただ疑問の意しか伝わっていないらしい。人の良さそうな、晴れ晴れとした笑顔でうなずき、ハルヴァを残した部屋へ戻っていった。 ふたつの寝台が並ぶ、狭い部屋だった。故郷でもそれなりに裕福な暮らしをしていたサリティナにとっては、部屋とも呼べない空間。居心地の悪さと自分の厚かましさに身じろぐ。見知らぬ場所でふたり途方にくれているところを連れてきてもらったというのに、なんて恩知らずなことを考えているのだろう。 陽射しは遮られているが、やや気温が高い。埃まみれの身体がひどく気持ち悪く、サリティナはそっと桶に満たされた冷水に手を伸ばした。 ここ数日、彼女もハルヴァもろくな休息をとっていなかった。緑深い山の中でかろうじて太陽の下に身を晒すことだけは免れたが、水をたたえた流れはまばらで細かった。飲み水の確保すら困難で、立ち並ぶ人家を見つけたときは思わず地面に崩れ落ちてしまった。あんな苦しい思いはもうたくさんだ。おかしな病にもかからずに無事に生きている自分が不思議なほどだった。 手をすすぐと、伸びきってところどころ欠けた爪の間から砂が零れ落ちていった。水が汚れるのも構わず、夢中になって手を洗う。ぼろぼろになった袖を捲り上げ、腕を擦った。 ひんやりとした感触に、サリティナは青い双眸から安堵の涙を溢れさせた。 こんなに澄んだ水で身を清めるのなど、ずいぶんと久しぶりのことだ。 思わず、気が緩む。まだ、ここがどこかもわかっていないというのに。言葉の通じない世界。そんなところでほっとしている場合ではない。 まだふさがっていない傷がじくじくと痛んだ。 「……殿下」 ハルヴァは身を挺してサリティナを庇ってくれた。世継ぎのいない兄王のもとへ戻らなければならない彼のほうが、よほど大切な身だというのに。それはおそらく都において紳士的な優しさを損なわなかったハルヴァだからこその行動なのだろうが、サリティナにはいっそその優しさが苦痛だった。 ナーネを死なせた。他の、顔も知らない巫女たちも死なせた。そして――ディアを、死なせた。 その罪業を女神は怒り、サリティナを見捨てた。当然の報いだった。何の罪もない人々が、彼女のせいで命を絶たれたのだから。ディアを説得することもできずに死なせてしまったサリティナは、何をどう償えばいいというのだろう。キリサナートーに見放されただけで、足元がぐらぐらと崩れていきそうなほどだというのに。 あのときディアと一緒に死んでしまえればよかったのに。 こんなことを考えたら、またハルヴァは怒るだろうか。彼の行為をまったくの無にする、傲慢な考えを―――― それでも、思考がそこへたどり着かずにはいられないのだ。 自分のために罪を犯したディアを、どこまででも追ってあげられたらどんなによかっただろうかと。 ……考えずには、いられない。 濡れた手で、頬に触れた。生暖かい実感に、目を見開く。……涙が流れていた。 身体の節々が痛かった。神殿で続いていた事件の唐突な幕切れも、女神の冷たい言葉も、それに続く野宿も、サリティナを心身ともに疲労させていた。どうにかここまで持ちこたえてきたのは、すべてハルヴァのおかげだったと言える。 ハルヴァは本来何の関係もない人間だったはずなのに……彼女が、巻き込んでしまったのだ。本当ならば犯人を見つけ、都まで連行すればいいだけだった。サリティナが生徒に目を配っておかなかったせいでナーネは殺され、ハルヴァは巻き込まれ―――― 「ふ……ぁう」 しゃくりあげた声が、驚くほどよく響いた。慌てて息を殺し、喉を上下させてこらえる。一度勢いづいた涙はとどまるところを知らず、あとからあとから溢れ出した。 「怖……こわい……」 初めて、さまざまな感情の奔流に流され、自分を見失った人の血走った目を見た。 理性と自我とを破壊する、愛という名の嵐。 限界まで昂ぶったそれは破滅しかもたらさないというのに、なぜ抱え込んでしまうのだろう。何よりも優先させてしまうその感情は……やはり、劇薬で。 サリティナはそのために、誰より大事な親友を喪った。 そして女神キリサナートーは、娘たちを幾人も喪った。あの猛り狂う暴風は、風の女神の慟哭に間違いない。大地を吹き渡る風は女神の愛、その愛が哀しみに浸されて暴走し、サリティナを追い出したのだ。 ならばなぜハルヴァまでこんな見知らぬ土地へ飛ばされなければいけなかったのだろう。彼は、何も悪くないのに。 言葉が通じない。ふたりをここまでつれてきてくれた女性はとても優しいけれど、言葉は通じない。 もともと環境の変化への順応性が低いサリティナにとって、それはかなりの重圧だった。どうにか手振りで意志を伝えようとはするものの、頭が真っ白で何も考えられない。 桶の側にうずくまり、ひっきりなしに流れてくる涙を拭う。ひどい顔になっているのはわかっていたが、それは到底止められるものではなかった。 リスルは少女に着替えを貸そうと衣を引っ張り出した。そういえば名前も聞いていない。意思の疎通がはかれないのだから無理もないが、不便で仕方がない。 少女はさっぱりとした姿で、ぼうっと狭い寝台に座り込んでいた。細い指は荒れたところがまったくなく、白い指先に欠けてはいても形の良い爪が生えていた。 衣がぼろぼろになるまでさまよっていたにも関わらず手が傷ついていないのは、やはり青年のほうが彼女を大切に守ってきたからなのだろう。……とそのまま視線を上げたところで、ふさがりかけてはいるものの大きな傷を見つけ、リスルは少女の腕を掴んだ。 「怪我してるの? 傷ついてからどれくらい? 膿んではいないみたいだけど、一応消毒しておかないとね。ところであなた、名前は?」 少女はこちらの言うことを理解していない表情で首をかたむけた。 「名前よ、なまえ。あたしはリスル」 「リ……スル」 「そう、リスル。それがあたしの名前。あなたは?」 「ティナ……サリティナ、シリア」 とりあえず、怯えられたり嫌がられたりはしていない。リスルはサリティナと名乗った少女の腕をとり、畳んだ布で傷口を拭った。綺麗に洗われてはいたが、念のためである。 「包帯の前に、着替えちゃってくれる? これは……ぼろぼろだから、あたしが雑巾にでもするから。はい、これ、大きさがあうかわからないけど着てちょうだい」 なんとなくで意思は伝わったのだろう、サリティナはにっこりと微笑んでなにやら口を動かした。――ありがとう、そう言っているように見える。そういえば先ほども聞いたような感じの音だった。 華奢なせいかずいぶんと小柄に見えるが、身長自体はリスルとそう変わらなかった。と言っても、リスルも舞の名手ということで均整の取れた体つきをしているから大きく見えるのであって、そう背が高いというわけではない。しかし腰まわりや細い首になだらかな肩の線は、到底リスルには持ち得ない優雅さだった。 サリティナから今まで着ていた衣を受け取ると、やはり生地や形が見慣れないものだった。 いったい、どこから来たのだろう。 リスルは小さく溜息をついた。いまさら放り出すことなどできない。 とりあえず、旦那を納得させて、なるべく早くまともな会話ができるようにして……。 とことんお人よしで厄介ごとを背負い込んでしまう性格に、リスルは自嘲した。 あなたのそんなところが好きよと言ってくれた友人たちは、今隣にはいない。 「殿下、ええと、あのリスルさんが、お水を使ってもいいとおっしゃっていました。身体を清められてきては……」 「……ああ、サリティナ……」 女性がサリティナを連れて隣室へ去ったあと、無数の傷に覆われた机に掛けて肘をついていたハルヴァは、いったいここはどこだろうかとぼんやり考え込んでいた。 見たことのない植物に、言葉の通じない人間。 何より、明らかにキリサナートーの気配のしない空気と、それを証明するような神殿らしき場所。 サリティナは気づいていないようだった。あれだけ消耗していなければ、真っ先にそれを悟っていただろう。しかし女神の娘たちを自分が原因で喪ってしまったという負い目を抱えて、キリサナートーを追うことができないのだ。 女神、生徒、ディア。サリティナの世界は、常にそれらで占められてきた。女神に捨てられ、生徒は傷つき、ディアは死んだ――それが彼女にどれほどの負担をかけているか、慮れないほど自分に余裕がないとは思わない。しかしはっきりいって、ハルヴァもそう順応性が高いほうではなかった。サリティナのように神殿の外を知らないというわけではないが、場所は変われど彼を取り囲む人間の価値観は一定で、新鮮な風など到底望めない環境で生きてきたのだ。 内心の動揺を外に出さないでいられるのは――もっとはっきりと言ってしまえば、ハルヴァが強く在れるのは、サリティナの存在によるところが大きかった。 「リスルというのは、あの女性の名前だね」 「はい、話はできないんですけど……」 常に控え目で自分を表現することが苦手なサリティナからすると、言葉が通じないというのは計り知れないほどの重荷だろう。もともとの口数すら少なく、他人との接触をはかるのが不得手なサリティナに、身振り手振りで意思を通じ合わせろといったところで無駄なことだ。 女神の統一された意思のもとで生きる彼らは、言語の違いによる障害を感じたことなどなかった。言葉は女神が与えた恵みであり、唯一絶対の対話の手段。女神に愛されれば、彼女と言葉を交わすことさえできるのだ。 言葉の通じない相手になど、初めて会った。 サリティナが出てきた部屋に、入れ違いに入る。リスルというらしい女性は、大きな桶の水を替えていた。窓から覗く菜園へ向かって豪快に水を撒く姿に、ハルヴァは思わず笑みを零す。 何やら口を動かしているところを見ると、どうしましたかとでも言ったのだろう。 「なんでもありません。水、使ってもいいんですか? ありがとうございます」 できるだけゆっくり、はっきりと発音する。なかなか疲れる会話だ。 リスルは寝台の下から男物の衣を取り出し、ハルヴァに手渡した。父、兄弟、夫。誰のものだろうか。家の様子から見当をつけると、夫の衣だという結論が出た。 見ず知らずの、言葉も通じない――明らかに怪しい人間を内に引き入れて、身を清めて、衣を替えて、温かい食事を出して。 決してお人よしには見えないのに、なぜか暖かい。懐の大きさが窺い知れて、居心地がよかった。 年は自分と同じか、もしかしたら年下かもしれない。髪の毛は女性にあるまじき短さで、背筋が伸びているせいで高く見える身長とあわせるとぱっと見は女性に見えない。 あの姿勢と身のこなしは……サリティナと似ているかもしれない。キリサナートーの娘たちの教育を任された巫女として、舞っているときのサリティナに。 久しく見なかった、濁りのない水だった。掬い上げた指先が、かすかに痺れる。 「水……」 痺れた指先。女神の風を浴びたときに感じる、心地よい刺激と同じ。誰に言われなくてもわかる、慈愛深き水の女神の気。サリティナも、キリサナートーに気をとられていなければすぐに気づいただろうが、今の彼女は通常ではない。 「ユギリアイナの……水の」 必死で頭を働かせる。ユギリアイナの、彼らの女神ではありえない女神の気配が濃厚な空気。彼らを拒絶しているわけではないが、慣れ親しんだ、いつでも包み込まれていたキリサナートーが見えないのがたまらなく不安だ。 ――女神の創造のはじまりに 掌より生み出された風の太陽…… 第一の息子は女神の息吹を浴びて輝き 時計盤の上に舞う乙女を包み込まん―― あれは兄の訳だった。 民には完璧な為政者、女神の忠実で優秀な息子としての姿しか見せない兄だったが、ハルヴァには優しい兄だった。庭で転げまわったり、池を泳ぎまわったりもした。古い女神の伝えを読み解くのはむしろハルヴァのほうが得意なくらいで、唯一と言っていい兄の弱点が嬉しかった。並んで講義を受ける真剣な兄の横顔を見ると誇らしい気持ちがこみ上げてきた。 兄が太陽王の冠を戴いたときも、たとえ兄に子供が生まれたとしても自分は一生兄を支え続けるだろうと、そう、思ったものだ。 しかしここは、風の女神の息子なる太陽の世界ではなかった。 兄のいない世界。 自分の知らない人間が治める世界。 風のキリサナートーの世界ではなく、水のユギリアイナの世界…… 飲み込んでしまえば、事態はさほど難しいことではなかった。受け入れが容易かどうかはさておき、ただ歴史が繰り替えされただけなのだ。 原初の世界、大地の神オルテツァの世界が、時計盤の上から流れ去ったように、キリサナートーとその民の世界もまた、終わりを告げたのだろう。 土の世界の終わりは伝えられてはいたが、まさか自分たちの住まう世界が同じように終焉を迎えるなどということは想像できなかった。まして、それが自分の生きている時代のことだなんて。 女神の風が吹き荒れて壊された世界。 女神に見捨てられたと考えても、不思議ではない。 途端、ハルヴァの心に乾いた砂塵が降り積もる。女神の風とは比べものにならないくらいに澱んだ空気の流れに翻弄され、散っていく砂の城。 ああ、自分たちは。 女神なしには、やっていくことなどできないのだ。 これほどの空虚を味わったことなど今までなかった。家族を失った、友人を失った、恋人を失った……それとは別の次元に女神の存在は息づいており、それはまさに空気そのものだったのだろう。 長い野営生活で細かい傷を無数に負った腕を擦り、ハルヴァは溜息をついた。 相当、まいっている。 ここには母なる女神が存在しないという事実に。そして、人ひとり守り通すのにこんなにも疲れている軟弱な自分自身に。 かつての彼は、箱庭の中で玩具の剣を振りかざす子供だった。それは今も変わらず、自分すら持て余して重圧に眩暈を覚えるひとりの男に過ぎない。 今彼が護るべきはサリティナという少女だ。しかし彼女の無邪気さ、透明さを損なわずに留め置くのは大変な労力を要することで、ハルヴァの手には余る。 強くなろうと今まで生きてきたのではない。これまでの人生は外面の煌びやかさがありさえすれば過重な保護を受けることができた。王子、王弟という立場の彼は「国と民を守る」という絵空事を口にしていればそれで許される存在であり、常に複数の人間に守られるべき人間だった。乳兄弟であるシャグにしたところで、いざというときには身を挺してハルヴァを庇うよう教え込まれていただろう。 守らなければ、と自主的に思ったのは、サリティナが初めてだった。 時折見せるはにかんだような笑み、日に焼けない白い腕、絡まるのを厭うあまりに切ろうとしたのを無理やり止めた細い金髪や鮮やかな青い瞳。 ハルヴァを信頼して、それでも彼の負担となることを怖れる健気な人。 これを、愛しているなどという空々しい言葉で収めてしまっていいものだろうか? 彼女の心の奥底に沈む親友である巫女姫の美しい面影さえ消し去って欲しいと希うこの醜い独占欲を。 サリティナのように守ることができればいい。 生まれたての雛をそっと包み込む母鳥の翼のように、おおらかに優しく。 彼女の前で牙を剥き出しにして敵を追い払うのではなく、自分に悪意を持つものすら慈しんで。 ――――たとえば女神の息吹のように。 見たこともない感情に、ハルヴァは愕然と言ってもいいくらいの戸惑いを覚えた。認めてしまえばそれはあたりまえのもので、人に憚ることない……そのはずだ。 しかし今のサリティナ相手に、それを言えるだろうか。あの快活な巫女姫を失ったばかりの、怯えた心に。 ――――愛している。 慕うべき女神の存在しない世界の中で、貴女だけを。 けれどもそれは口に出してはいけない想いで。 守りたいのなら秘めていなくてはならない想いで。 隠しとおせなければ、真実大切なものを失ってしまうだろう。 「参ったな……」 まさかここまで心乱されることがあるなんて。 大きな溜息をひとつついて、ハルヴァは水を被る。 リスルに冷えた果実酒を出され、サリティナは困惑の瞳で短髪の女性を見上げた。そうきついものではないが、昼間から出すものではない。 気にしないで、とでもいうふうに微笑むリスルは、自分でも半透明の酒を飲み干した。客はともかく家主までが飲むということは、今日は祭りか何かだろう。耳を澄ませば外からざわざわと喧騒が届き、人々が行き交う音がする。 真夏でもないのに強くその存在を主張する太陽は空で揺らめき、窓の外は眩しいくらいの光に溢れていた。濃い影の落ちる室内で自分の金髪が浮き上がっていることに気づき、妙な気恥ずかしさを覚える。 「あの、リスルさん……」 何か口にせずにはいられないで、遠慮がちに話をかける。 「今日は、お祭りですか?」 無心に見つめ返したリスルの視線が痛いほどで、サリティナは果実酒の匂いに目をおろす。どうにか内容は伝わったようで、リスルがうなずいた。 「あ、だったらわたし、女神様のところに行かなきゃ……」 柔らかな風を引き剥がして孤独を露にしてしまった、購いを。 赦されるかどうかなど、自分が考えることではない。ただ頭を垂れて許しを乞うのみ。 立ち上がりかけたサリティナに、リスルが疑問の浮かぶ目を向ける。 「リスルさん、神殿はどこですか? わたし今すぐ償いに行かなければいけないんです、女神に、わたしはキリサナートーに――――」 「キリサナート?」 「ええ、わたしは女神様の娘を殺させてしまったから……え?」 怪訝そうに眉を寄せてリスルが呟いた言葉に、サリティナは瞠目した。 意味が汲み取れたわけではない。ただ、聞こえてきた尊い名前。 「水の慈母ユギリアイナ……?」 雨のトラリフーシャの片割れ、気性の激しいキリサナートーとは違い、すべて生なるものを愛し慈しむ水の女神。 「どういうことですか、神殿にはユギリアイナがいるんですか? わたしの女神はどこへ行ったの?」 主は唯ひとり、風の女神キリサナートー。 彼女の御座が用意されていない場所で、いったい自分はどうやって生きていけばいいのだろう。 顔面を蒼白にしたサリティナは、再びこみ上げる涙を持て余し、普段は口にしない果実酒に手を伸ばした。 |
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