サイト案内螺旋機構「太陽の迎え子」目次 / 前頁次頁



雨の太陽の章、三(後編)

「あれが、お嬢様の側の忌人?」
 サノアが鋼の色をした頭を指さしてユマに訊ねた。少女の他には踏み込む者もいないだろうという小道を通って別館のほうへ向かっていく。忌人の少女は人目を避けるために細い、舗装のされていないほうの道を通っているのかもしれないが、それが無駄な努力であることは今二人の目に少女が映っていることから見ても明白だ。
「確か……そうだったと思いますけど」
「ふうん、お嬢様も物好きな方よね、好んで忌人を側に置くなんて」
 サノアが目を細めて呟くと、ユマがサノアの腕を引いて首を振った。
「でも、用はよくこなしているようですよ。気質も穏やかで、滅多に人とは争わないとか……」
 そんな少女だからこそ、ラサイアが側に置いているのだ。そんな少女だからこそ、ユマは少女に嫉妬を覚える――――
「あら、嫌だ。ユマ、忌人を庇うの?」
「そういうわけじゃありませんけど」
 口をとがらせたユマに、サノアは大きな声を上げて笑った。豪快な笑い声が母に似ていると思って、ユマは頭の中で指を折った。もうすぐ母の誕生日だ。
「別に、いいけどね。お嬢様の部屋はどこ?」
「あのね、サノアさん、本当に、お嬢様が気を悪くされるといけないから、早めに帰ってね」
「分かってる」
 サノアが何度もうなずくのを見て、ユマはほっと息をついた。ラサイアに失望されたくないというのは、権力や地位を求めるのとは少し違う感情のような気がするし、かといって忌人への嫉妬ばかりが溜まったものなのかというとそれもやはりうなずけない。ただ、ラサイアの期待に応えたい、忌人のリーシャばかりが彼女を思っているのではないのだと、知って欲しかった。
「分かってる。だって……」
「どうしたんですか」
 サノアが放心した目つきで囁いた。少し空ろな、哀しそうな――時を止めてしまったような、静かな凪いだ瞳。
「たいしたことないよ。そろそろ時間じゃないの? いいの?」
「ええ、じゃあ行きますね」
 ユマがラサイアの部屋の扉を叩くと、音も立てずに木の板が滑った。
 見慣れない女性に驚いたらしいラサイアが、わずかに表情を動かす。
「ユマ、あなたの連れ?」
「あ、はい……台所のサノアさんと仰る方で――え……っう…………」
 にこやかに答えるユマの顔が、予期しない衝撃にゆがんだ。熱い――それとも、痛いのか。右半身か、あるいは左半身か。初めて味わう感触に、神経が麻痺していた。
「ユ……マ」
 ラサイアが、ユマの流した鮮血に向かって手を伸ばす。その手の前に大振りの刃物を突き出し、サノアは目を細めた。
「次はユマの心臓ですか、それともお嬢様の手?」
「それは家畜をさばくためのもの?」
 ラサイアの冷静な声に、サノアがうっすらと笑みを浮かべて――自慢げにも見える表情でうなずいた。
「ええ――それがどうしたっていうんです? それよりも、聞いているでしょう、次は誰だって」
「黙ってその刃物を収めるのが、一番賢明な判断だと思う。今は傭兵も滞在しているし――」
「あの忌人はそこにいるの? 見たのよ、別館に忌人が向かうところを」
「リーシャのこと? あの子が何か関係あるの?」
 無表情に訊ねたラサイアに、サノアは狂ったような大声で答えた。
「大有りだわ! 呪われたあの娘……」
 殺してやる、と呟いて、サノアは左手で支えていたユマの身体を放り出した。
 ラサイアが身構えたところを蹴り飛ばし、狙いも定めず大きな短剣を振り下ろす。声も上げずに傷口に手をやったラサイアを見下ろして、サノアのやつれた頬が引きつった。白髪まじりの頭を振り乱して、血塗れになって――その目は、泣いていた。
「呪われたあの娘……私の夫を殺したんだ、あの娘……」
 ラサイアの頭が、冷静に過去を再生する。リーシャが人を殺した? そんなことはない。彼女の行動はいつも把握している。人を――しかも今まで見たこともなかったような女性の夫を殺したなどと言われても、笑いとばすしかない。
 実際に、息を詰まらせながら微笑んだラサイアを見て、サノアが苛立った様子で扉を乱暴に開け、外へ――おそらく別館に向かったのだろう――出た。
 サノアがリーシャのことを恨んでいるのならば、ラサイアを刺したのはきっとリーシャの大切なものを壊したかったからだ。
――あんな狂った女の目から見ても、自分がリーシャの大切な人間に見えるのだ。
 なんと嬉しいことなんだろう。


「ねえ、フィドって強いの?」
 リーシャが、傭兵達の訓練を見学しながら呟く。つまらないというわけではないのだが、ひたすら剣を振っているだけのところを見ていても退屈なだけだ。
「強いっていうか……弱いっていうか……」
 フィーダルが言葉を濁すと、リーシャは、フィドはその中間、というふうに勝手に納得して頷いた。
「ふうん。じゃあ、アイザルさんは?」
「ああ……親父は強い」
「嘘! へえ……そうかぁ」
「嘘って、おまえなあ」
 息子の目から見ても、アイザルは博学なだけの男ではなかった。少なくともフィーダルは、アイザルが熱を出してふらふらになっていたとき以外で彼に勝ったことはない。リーシャに言えば、きっと笑われるだろうが。
「フィドももっとがんばりなよ。あ……あたしの、お義兄さん、なんだから」
 リーシャが言って、照れたように笑った。忌人の気持ちを理解してくれなくても、勝手なことばかり言っていても、フィーダルは自分の、母が同じ兄。その事実に変わりはない。
 もっとも、フィーダルからすれば、勝手なことを言っているのはリーシャのほうだった。
「俺だってがんばってるさ。人間、努力だけじゃどうにもならないことだってあるってことだよ」
「でもラサイア様はすごくがんばってるの」
「お嬢様?」
「ラサイア様はね、どんなに勉強しても認められないんだよ。女だから。誰にも、成果を見てもらえない」
 街には優れた学者の集まる大学もあるというのに。ラサイアは女だからと、立ち入りを許されないのだ。本当は、その大学の誰よりも素晴らしい人であるに違いないのに。少なくともリーシャはそう信じている。だから、そのことが悔しくてたまらなかった。ラサイアの研究を認めてくれない――目に入れてくれない人間が憎らしかった。
「でも、おまえ大学にも入れないだろ」
 何も言わなかったがリーシャが既に立ち直っていると判断したフィーダルは、遠慮のないことを口にする。神殿、食堂、そして大学。確かに、女性が大学への立ち入りを許されても、忌人の少女ははじき出されたままだろう。
「そうだけど……」
「お嬢様が屋敷から出たら、おまえ失職だぞ」
「それもそうなんだけど」
 それに、ラサイアが暇を持て余している限りはリーシャは楽しい。勉強を教えてもらったり、午後の静かな時間を過ごしたり。
 それを失うくらいなら、ラサイアが認められなくてもいいというのは、リーシャのわがままなのだけれど。
「ラサイア様は、あたしのこと大好きって言ってくれたんだよ。あたしも、ラサイア様が大好きだ。ラサイア様が幸せなら……ラサイア様が幸せでいてくれるなら、あたしは一緒にいられなくてもいい。あたしは多分、フィド達について行っても幸せになれるから。もう一つ、幸せを持ってるから。でもラサイア様にはそれがないような気がするの」
 自分がラサイアにとって唯一の幸せだ、などと自惚れるわけではないが、それでもラサイアは孤独に見えた。
 ラサイアがリーシャ以外の人間を側に置いているところは見たことがない。手伝いに駆り出している人間というのも、どうやらリーシャよりは存在が小さいようだ。それに……父親とも、完全に打ち解けているというわけではないらしい。
 だから……少しでもラサイアに幸せになって欲しいから。ラサイアが大学という場所で、自分と同じような人間に出会えればいいと思ったから。
 口に出してみただけ、なのだ。大学という場所のことについてリーシャがあれこれと思い巡らせても、何の効果もない。
「お嬢様は、神殿でも幸せになれるさ」
「そう、かな……」
「古今東西の書物で集まらないものはないっていう中央の神殿だからな」
 きっと、ラサイアの知識欲にかなう場所だ。
 そう言って笑ったフィーダルの姿に、リーシャは安心しきっていた。
 これからこの人達と生きていく――それは楽しいことだ。自分はきっと幸せになれる、そう思っていたのだ。


 フィーダルが小さな井戸に近寄るとからからと音を立てて水を汲んだ。なぜかリーシャがついてきているのだが、ふと振り返るとそこにある小さな鋼色の頭ももう見慣れたものだ。
「フィド、あたしも。水、飲む」
 誰が放り出したのか、無造作に置かれていた柄杓をとってリーシャが頭を振る。そのまま水を飲み干し、軽くすすぐとにっこりと笑ってフィーダルに柄杓を差し出した。
「はい。フィドも飲むでしょ?」
「いや、飲むけど。普通俺が最初だろ」
 訓練を終えたばかりなのだから。
 そう主張するフィーダルに向かって、リーシャは顎を持ち上げて言った。
「あたしが最初でしょう、かわいい妹なんだから」
「かわいいいもうと……?」
 呻き声をあげるフィーダルの頭に、軽い衝撃が走った。リーシャに殴られたのだと理解するまで、さほどの時間は要しなかった。
「違うって言うの?」
「かわいい、の定義によるな」
 フィーダルにしてみれば、充分正論として通じる言葉だった。もちろん、リーシャも本気で怒っているわけではない。笑いながら義兄の頭を叩く。
 そのリーシャの笑顔が、ふいに途切れた。
「フィ……ダ、ル」
「……邪魔よ」
 フィーダルの頭が、急にがくりと曲がったのだった。力を失った腕がだらりと垂れ下がり、うつむくような姿勢からずるずると崩れ落ちる。
 その後ろから、灰色の頭を振り乱した女性が顔をのぞかせた。血走った目で、フィーダルのことを邪魔だと罵る。彼女がフィーダルを刺したのだと理解するには、リーシャの思考は追いつかなかった。
「フィド……?」
 みるみるうちに広がっていく赤い水溜りに、リーシャが呆然と呟いた。赤い。ということは、これは血なのだ。フィーダルの血液が溢れ出している……目の前の女に、刺されて。
「フィド! フィ……ド、フィーダル――嫌だ……ぁ、嫌――!」
 屈み込んで頭を抱える忌人の姿に、女は満足そうな笑みを漏らした。
 私の大切な人。
 あなたの敵は討ったのよ。呪われたあの娘の、一番大切な人を殺してやった。
 女――サノアは狂った笑い声を上げ続けた。
 リーシャの悲鳴を聞きつけたアイザルがその場に駆けつけるまで、ずっとずっと、背を反らして笑い続けていた。

「リーシャ! どうし……た――フィド! おい、どうしたっ」
 アイザルは固く目を閉じて座り込むリーシャを、ひとまずフィーダルの血の匂いの届かないところまで引きずっていった。それから女の持っていた大振りの刃を取り上げ、フィーダルの側に屈みこむ。
「フィド、生きてるか?」
「生き……生きて……る」
 弱々しくもはっきりとした声に、アイザルはほっと頷いて息子を抱き起こした。左の脇腹。もう少しで心臓を貫かれるところだった。加害者である女が半ば錯乱状態にあったのも幸いだったのだろう。
「馬鹿だな、おまえ。背中からぐっさりやられやがって」
「しょうがない……だろ」
 まあ、確かにフィーダルが避けていれば、その正面にいたリーシャが、程度は分からないが傷を負っていただろう。その意味でフィーダルの判断は正しい。しかし本来ならば戦いの中に身をおく傭兵であるフィーダルは、事前に女が近寄ってくるのを察知して迎え撃たなければならなかった。
「馬鹿だな」
「いいよ……馬鹿で。それに……女に逃げられた男に言われたくない」
 アイザルは顔を引き攣らせ、無言でフィーダルを揺すった。フィーダルが盛大な呪詛の言葉を上げて顔をゆがめる。
「手当て、するぞ」
「ここで?」
「うるさい」
 アイザルは軽く手を振ってフィーダルを黙らせると、無言でおびただしい量の血を拭った。上着くらい、リーシャを護ったフィーダルのためならば惜しくはない。もちろん、ラサイアが弁償してくれるであろうことを計算してのことだが。
 黙々と息子の手当てをするアイザルを、リーシャが呆けた瞳で見つめていた。
 そんな少女に、地に倒れ伏したまま動かなかった女が這って近づいていく。
「忌人」
 それは彼女の名前ではなかったが、この場で忌人といえばリーシャだけなのでとりあえず顔を上げる。それがフィーダルを刺した女であることを認識した瞬間、リーシャの目が鋭く尖って女を睨んだ。
「何? 何なの、あっちに行って!」
「忌人、おまえの大切な者は残っている?」
 女の、気味が悪いほど穏やかな声に、リーシャが身を強張らせる。
「教えてあげようか、ここのお嬢様も私が刺したんだ……忌人、おまえの大切な人間は何人残っているんだろうね」
「ラサイア様を!?」
 リーシャが地面に手をついて女を見下ろし、その頭に手をかけた。女の頭が地面に擦りつけられる。それでも薄笑いを貼り付けたままの顔が白くゆがんでいた。
「ええ、お嬢様を。簡単なものよ、あんなの」
「ラサイア様を……? 刺した? 殺したの!?」
「別に心臓を刺したとか大層なものじゃないわ」
「でも傷つけた!」
 ラサイアを。リーシャの大切な、ラサイアを。
 傷つけた。目の前の女が。刺した。血を流した。ラサイアの、血を。
「どうしてそんなこと!」
「おまえがしたことを返しただけよ!」
 女の叫びに、リーシャは女の胸倉を掴んだ手を凍らせて目を見開いた。
「あたしは何もしてない」
「いいえ、私の夫を殺した! 誰よりも優しかったあの人を殺した!」
 辺りに響き渡る女の声に、アイザルが治療の手を止めて顔を上げる。
「バロッソ……?」
 アイザルを睨みつけて、女は叫んだ。
「あの人を知ってるの? バロッソを?」
 その瞬間、驚きは確信に変わり――アイザルは女に飛びかかって彼女の首に腕を回した。これ以上、言わせておいては――――
「バロッソ! 私の優しい夫、あの女に殺されたのよ、男を食い物にして生きてきたあの女! あんただって、あいつに騙されていたくせに!」
「やめろ、馬鹿野郎!」
「やめないわ、女に裏切られて傭兵になったあんたなんか怖くない! そこの男も忌人も、皆同じよ、あの汚れた女の子供! 私の子供は生まれなかったのに!」
 自分が。女がしきりと騒ぎ立てている「あの女」の子。
 母親――聖域を汚した不浄の女、その意味はなんだろう?
「どうしておまえがのうのうと生き延びてるの! 神官殺しの大罪人の娘が!」
 そうだったの?
――両親は二重の罪を犯したのだ。
 神殿で、人を殺すという。


 フィーダルは、霞む意識と思うように動かない身体とを酷使して、座り込んでいるリーシャのもとへ這って行った。ただでさえ、激しい苦痛から立ち直ったばかりなのに。それなのに新たな傷を抉られて、果たしてリーシャは壊れずにいられるのだろうか。
「……リ……シャ」
「フィド! 動いていいの……?」
 リーシャが小さく叫ぶのに、フィーダルは無理に微笑を浮かべて応えた。
「リーシャに何もなくてよかった」
「よくないよ! フィド死にそうだよ、アイザルさんは……」
 アイザルが女を殴りつけるのが目に入った。
「これ以上余計なことを言ったら殺す……!」
 悪鬼のような形相のアイザルは、確かにリーシャのことを庇うために行動しているのだと分かっていた……しかし、殺すという言葉に凄まじい拒絶を覚えたことは否めない。
 少し前までは、自分も考えていたはずなのに。
 支配者階級の人間を殺してやりたいと。
「余計なことなんかじゃない! 忌人、おまえの母親は私の夫を殺した! 神官だった、あの人を! 忌人は、やっぱり呪われているのよ! おまえなんて、一生その定めから逃れられない! 自由になっても、母親のようにまた罪を重ねる。いったんそこの男に身請けされたあの女が、自らも罪に塗れたように」
「身請けされ……お母さんが?」
 初めて聞いた事実に、リーシャの顔から血の気が引いていった。母親も身請けされた。それは彼女が生まれたときから忌人だったということを意味する。
 呪われた血脈。
 自分の身分が父母の罪だけでなく、もっと、ずっと昔から連綿と続いてきた血によるものであるならば――それはとてもおそろしいことではないだろうか?
「そんな女が自分の子孫を残せたのはなぜなの? 私の子は生まれなかったのに。生まれなかったのに! どうせここの商人を誑かしたんだろう、おまえ達はいつも、そうやって生きてきたんだから! そうやって、血を伝えてきたんだから。私のバロッソも、そのために使ったんでしょう? おまえを産むためだけに……!」
 バロッソ……その男がどうしたというのだろう?
 母は生まれたときから忌人……つまりその両親も罪人だったということだ。
 女の言葉を信じるならば、自分の祖先達は皆誰かに身請けされて子孫を残し、再び罪を犯して忌人に堕とされる……それを繰り返して生きてきたことになる。
 吐き気がするほど、おぞましい血の残し方。
 商人を……ラサイアの父親を誑かして、リーシャを生き長らえさせた。彼は言っていなかっただろうか、自分の力添えがなければ、母はリーシャを宿したまま殺されていたと。罪人に対する裁きは、たとえその人間が妊婦だからといって変わることはないのだと。
 ラサイアの父が母を愛していたから――だからリーシャを残したというのだろうか?
「おまえはあの女にそっくりよ、また、こいつらに寄生して生きていくつもりなんだろう。どうせ、おまえは……」
 女の声が途切れる。口を開いたまま、赤い舌をのぞかせて、目を苦悶に見開いて――
 絶命していた。
 リーシャの意識はそこで途切れた。
――あたしは呪われてるの?
  いつになったら解放されるの?


 アイザルが一通りの応急手当を終え、フィーダルを助け起こした。大の男であるフィーダルを抱えていくのは無理だ。このままここで寝ていてもらうか、とりあえず肩だけ貸して宿舎に戻るか。どちらにせよ、気絶したリーシャは連れて行けない。もう一度自分がここに来るしかないのだろう、とアイザルは溜息をついた。
「フィド、立て。支えてやるから」
「痛ぇ……」
「あたりまえだ」
 冷たい言葉に、フィーダルはがくりと肩を落とした。そういう様子を見せられると、ますます突き放したくなる。
「行くぞ」
 アイザルの肩に手を回し、よろよろと立ち上がる。リーシャに心の中で手を合わせ、そっと目を伏せた。
 目覚めたときに何を言うか。
 自分は何をしてやれるのか。
不安でならなかった。
「リーシャ……」
 アイザルは息子の言葉に満足したように頷いた。
 いつ何時でも、幸の円環というものは存在するのだ。


 冷たい雨粒が頬を流れ落ちる。
 リーシャは冷たい感触に、重い瞼を持ち上げた。一滴、二滴――その次には、もう土砂降りと言っていいほどの大雨になっていた。
 地面で固まりかけていたフィーダルの血と、雨の滴とが混ざり合い、縞模様を為していた。リーシャはとりあえず井戸の側に身を寄せ、小さな屋根で雨をしのぐ。
「ラサイア様……」
 リーシャはラサイアを思い出して、側に転がっている女の死体をにらみつけたが、なぜかラサイアのところまで戻る気力は湧いてこなかった。
 その間にも雨は勢いを増し、庭の泉が溢れているのが感じられた。井戸の上の小さな屋根など、何の雨よけにもならない。
 リーシャは横殴りの雨の中、傭兵達の宿舎である別館に向かって一歩ずつ歩き出した。
 歩けることが、自分でも不思議ではあったのだけれど。

 突然自分の腕を振り払って走り出した――といっても怪我のせいもあってか足取りはひどく頼りなかった――息子を、アイザルは呆気にとられて眺めていた。
「フィド!」
「リーシャが濡れる!」
 くるぶしまでを水に漬ける雨に逆らいながら、フィーダルは脇腹を庇って歩き出した。もう入り口が目前に迫っていた建物の壁に寄りかかりながら、ゆっくりと……リーシャのために。
「おい、だからっておまえが……」
「親父はいい、俺が行く!」
 若いなあと気楽に呟いたアイザルの言葉を無視し――しかし、実は、息子のことも少しは心配して欲しかった――、フィーダルが歩みを進める。
 女が倒れている井戸。自分が倒れた井戸。そこにリーシャはいるはずだ。
「リーシャ……!」
 視界さえ暗い大雨に苛立ち、フィーダルは地面を蹴った。しかしそこにはどろどろとぬかるんだ地面と、それすら見えないほどの量に達した雨水が広がっているばかりだ。膝まで水に浸かりながら、フィーダルが怒鳴る。
「リーシャ、リー……」
「フィド……」
 濡れた影に、フィーダルは痛む身体を無理に動かし近寄っていく。おそらく自分も似たような有様だろうが、濡れそぼったリーシャの姿は今にも雨に溶けそうだった。水嵩は信じられないほどの速度で増えている。
 まるで、創世の大洪水のようだ。
 それに呼応する終末の大洪水――そんな言葉が浮かび、フィーダルは頭を振った。不吉すぎる。これはただの大雨のはずだ。
「フィド、よかった……生きてたんだ」
「あたりまえだろ、俺は……」
 リーシャの腕を掴んで引きずり上げる。うかうかしていると溺れてしまいそうだ。もはやどちらに進めばいいのかも分からず、雨水の中を漂っているのみだ。
「トラリフーシャが……」
「雨の神?」
「怒ってるのかも、しれない」
 終末の大洪水。
「もう助からないのかも――溺れるのかも、しれない」
 リーシャの言葉に、フィーダルは抱え込んだ少女の身体をより強く抱きしめた。しかし口を開くと水が入ってきそうで、何も言うことが出来ない。
 確かに、これは終末にふさわしい。建物の中にいても、助からないだろう。
――リーシャ……
 まるで海のように波立つ水面を見つめ、フィーダルは嘆息した。
――終わりだ。
 最後まで護れてよかった。



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