サイト案内螺旋機構「太陽の迎え子」目次 / 前項>次項



水の太陽の章、一

「ノア、あなたが今年も歌姫よ!」
「すごいじゃないの、三年連続だなんて! 舞姫はだあれ? またシアなの?」
 少女達がノアの周りを取り囲み、口々に祝いの言葉を述べ始めた。一年に一度村で行われる豊穣を祈る祭りでは、太陽に感謝し、太陽の神殿から訪れる祭司の前で結婚前の少女が歌をうたい舞を見せる。ノアは一昨年、昨年に続き三回目の歌姫の座を手に入れ、彼女の従姉シアもまた去年に引き続き舞姫となることが決定していた。
 歌姫、舞姫は祭りの主役だ。しかしたった一回歌姫や舞姫を務めただけでその座を降りる少女が多いのは、彼女達は皆祭りの後になると数々の青年達に結婚を申し込まれ、少女もまたその申し込みを承諾するためである。そんな中で、三年間男性達の結婚申し込みを蹴り続けている十八歳のノアと十九のシアは、少女達から見るとおかしな存在だった。しかし、幼い者達の間では二人はすでに憧れの姫としての地位を確立しているらしく、誰も早く嫁げなどと口うるさく言う者はいない。
 今、ノアは神殿の中庭で今年の歌姫を選ぶ選考会に出席したところだった。結果はすぐに出た。満場一致でノアが歌姫。ノアは春の穏やかな陽射しの中で友人達にもみくちゃにされていた。
「おめでとう、ノア。あなた、また背が伸びたのね。舞台栄えする身長だわ。シアとの身長差も丁度いい。今年もまたあの見事な歌を聴かせてちょうだい」
「アリカさん! 見ていてくださったんですか? ありがとうございます、おかげさまで、あたしまた歌姫です!」
 アリカは四年前の歌姫、つまりノアの前の歌姫であった二十一歳の女性だ。歌姫の任を終えた直後に結婚し、昨年女の子を産んだ。ノアの歌の多くは独学で学び、丘の上で練習したものだが、アリカはときどきノアに発声の仕方を教え、ノアが聞いたこともない都市から伝わってきた流行歌を教えてくれる。その澄んだ歌声は、今でも昼下がりに彼女の住まいから聞こえてくる。娘のミユハに、子守唄を聞かせているのだ。十五年後にはミユハが歌姫であろうというのが大人たちの意見だった。
「あら、私は何もしていないのよ。ノアの歌は私なんかとは比べものにならないくらい美しい……神々に捧げても恥ずかしくないような歌だもの」
 アリカがにっこりと微笑んで言った。神々に捧げても恥ずかしくない、というのは最大の褒め言葉だ。
「アリカさん、褒めすぎですよ……」
「あら、いいじゃないの! ノアの歌は世界一よ、あんたが歌姫を務めるようになってから豊作続きだわ。……あ、ごめんなさい、アリカさんっ」
「いいのよ、私の力が及ばなかったのは事実だわ」
 アリカが歌姫を務めた年、村は旱魃に襲われていた。彼女は三日三晩神殿で祈り続け、それから神への願い歌を歌った。しかし結局その年も例年通りの収穫は得られず、アリカは結婚して歌姫の座を降りたのだった。
 翌年のノアの歌とリスルの舞で、食糧危機は去った。
 今となってはアリカを悪く言う人間など誰もいないが、当時アリカと舞姫だったリスルはいわれのない誹謗中傷を受け、アリカの縁談も破談になりかけたという。ノアは一昨年リスルとともに神の前で儀式を行ったが、さっぱりとした気性の、動きに躍動感とキレのある女性だった。年はノアよりも二つ年上、昨年結婚し、今は隣村で暮らしている。
 普通、女性は十七、男性は二十が結婚の適齢期だと言われているが、ノアと同世代の十八の友人達の中で既に夫を持っている者は少ない。いつまでも身を固めない歌姫ノアの影響があるとも言われているが、ノアからしてみれば自分も友人達も少々がさつなだけだ。シアはおっとりとした女性らしい容貌の舞姫だが、なぜかまだ貰い手がいない。それとなく男達に聞き出してみたところ、「神々しすぎる」との答えが帰ってきた。ノアとは大違いだ、とも言われた。
「ノア、シアに会いに行かないの?」
「今行くよ、……じゃあアリカさん、失礼します。また今度遊びに行ってもいいですか?」
「もちろんよ。ミユハも待っているわ」
 アリカが小さく手を振るのにノアが大きな動作で答える。一足早く走り出していた友人達を追って、白い裾を翻して丘を下っていった。見れば、ノアの友人達も時々後ろを振り返りながら大股で走っていく。アリカは苦笑した。なるほど、今年の十八歳がとんでもない跳ねっかえりだというのは本当らしい。
――やだ、あんた知らなかったの?――
 隣村に嫁いでいった親友の呆れ声が聞こえるような気がして、アリカは空を見上げて微笑んだ。


 シアの手がゆっくりと上がり、白い指先が完璧な角度で反り返る。神具である細い剣を左手から右手に持ち替えると、シアは背中を弓なりに反らした。そのままの姿勢で膝をつき、ノアの歌の最後の一節を聴くとそれで儀式は終わりだ。ノアとシアは、明後日の祭りに向けて最後の練習をしていた。明日は二人で神殿に入って無言の潔斎、そして神殿から出たら日が南を通るのを待って儀式をはじめる。
「シア、綺麗だった。その調子で行ってよ。でも、もう少し背中をまっすぐ。今反りすぎてて笑いそうになっちゃった」
「いやだ、ノア。あなただって、途中で音を外したわ。笑いそうになったじゃなくて、笑ってたんでしょう?」
「違う違う。そんなことないって」
「嘘。絶対笑ってたわ」
 シアが上目遣いでノアを睨んだ。身長差がある上、今シアは最後の姿勢のままかがんでいるのだ。
 シアの長い黒髪が、神具の銀の剣によく映えて綺麗だ、とノアはいつも思うのだ。舞っているときのシアは、まさに神々しいという言葉がぴったりだ。魂が身体から脱け出てしまったような、透明な表情。
「ごめんって。シア、そろそろ戻ろうか。もう暗くなってきた」
「そうね……嫌だわ、曇ってきた。雨が降ったらどうしましょう」
「明日はどのみち神殿から出ないからいいんだけど……」
 雨が降ったら、祭りは延期だ。儀式はあくまでも太陽の下で行わなければ意味がないのである。
 シアは銀の剣を白い石の飾り箱にしまい、しっかりと蓋をして鍵をかけた。この鍵を持っているのは、舞姫と司祭長だけだ。
「行きましょう、ノア。雨が降り出したら滑るわ」
「濡れたらシア、風邪ひいちゃうしね」
「……今はそんなにやわではないわ。ノアったら、いつまでも私を馬鹿にしないでよ」
 昔、シアがしょっちゅう雨の日に熱を出していたことをからかっているのだ。シアは黒目がちの瞳でノアを睨み、神殿を出た。
「シア、ごめん。……シア、情緒不安定? 最近ちょっとおかしいよ。好きな人でも出来た? 来年は、舞姫になれなかったりする?」
「ノア!」
 火に油を注いでしまったらしい自分の言葉に、ノアは一歩飛びのいてシアの雷をやり過ごした。しかし、この分では彼女の言葉は図星のようだ。
 いつの間に、シアに想う人が出来ていたのだろう。
 来年は、シアと儀式を執り行うことは出来ないのだろうか。この美しい従姉が、自分の歌で舞を舞ってくれることは、ないのだろうか。
 そう思うとたまらなく悲しくて――取り残されたような気がして、ノアはそっと目を伏せた。


 シアの心配していた雨は結局降らず、翌日には雲も去って、ノアとシアは軽い足取りで神殿へ向かった。と言っても、神殿に入ったら彼女達は神聖な儀式を行う歌姫と舞姫だ。言葉を発することは許されない。ただ日々の恵みを与えたもう太陽と、その太陽を創造された神々に祈るのだ。
 村々の豊作を。
 そしてもうひとつ――――古の三世界が破滅したように、現在の世界にも起こり得る世界の終末がやって来ないように。

 今ノア達が生きている世界は、神々の誕生から数えて四番目の世界だと言われている。各世界は「時計盤」と呼ばれる大きな一枚岩の上に創られており、今までの三つの世界はすべて「時計盤」の上から消し去られたのだ。
 最初の世界は地の世界。四大神が創造した世界を、大地の神オルテツァが統治し、そこに今の人間達の背丈の二倍の身長を持つ巨人族を住まわせた。世界の終わりの日、巨人達はオルテツァの髪の毛から生まれた猛獣の群によって滅ぼされたという。
 次の世界は風の神キリサナートーが統治する風の世界。そこでは人々は音楽や踊りを好む美しい人々だったが、娯楽にかまけて神への感謝を忘れ、キリサナートーの風によって世界の外へ吹き飛ばされた。
 三番目が雨の世界の時代、トラリフーシャと呼ばれる雨の神が肌の浅黒い「鋼の民」を創造されたが、彼らはその優れた身体能力と大量に発掘された金属によってトラリフーシャに反抗し、火の雨を浴びて皆死に絶えた。
 そして四番目――ノアの生きる時代。この世界はトラリフーシャの妻である水の神ユギリアイナが支配している。ユギリアイナは慈愛の神、そして癒しの神。三度の破壊によって傷ついた「時計盤」に負担をかけないよう、極めて穏やかな性質を持った人間を創造された。人間は今、女神の愛を注がれ、天地を揺るがすほどの大きな争いを起こすことなく、平和に暮らしていた。
 それでも殺人や強盗が完全になくならないのは、人間の、定めだ。
 ノアやシアのような神殿に選ばれた姫は、そういった心の荒んだ人々に安らぎを与える役目も負っているのである。

「司祭様、開けてください。ノアです。潔斎に参りました」
 祭りが近づくと、いつもは開け放たれている神殿の扉は固く閉ざされる。舞姫の使う神剣を倉から出してくるためだ。神剣を収めた石の箱は舞姫と司祭長にしか開けることは出来ないが、万が一のことがある。大の男を三人集めれば、あの重量のある箱も運び出すことが出来るのだ。
「おお、二人ともよく来たな。今年もがんばって儀式を終えてくれ。さあ、上がりなさい。食事の用意が出来ている」
 潔斎の前の最後の食事は、神殿で作られた精進料理だ。食事を終え、聖水を浴びたら潔斎に入る。ノアは過去二年の歌姫の経験ですっかり仲良くなった老司祭に笑いかけ、神殿の中へ足を踏み入れた。
「今日、アリカさんに会ったんですよ。ミユハも元気みたい」
「アリカか……。アリカもな、少しばかり運が悪かっただけなのだが……よかった。祈りに来るときも幸せそうな顔をしておるよ」
「ノア、最近リスルに会った?」
 シアの言葉に、ノアは首を振った。
「ううん、会ってないな。シアは?」
「私はリスルとは仲良しだもの。アリカさんと三人で、よく会うのよ。髪の毛を短くしていたわ。旦那様ともよくやっているみたい」
「髪の毛? 切っちゃったの?」
「そうらしいわ。ときどき舞を見せているみたいだけど……リスルの舞は、まったく新しい形のものなのよ。それをより美しく見せるために髪の毛を切ったと言っていた」
 舞姫だったときも、リスルの舞はそれまでのどの舞姫の舞とも違っていた。斬新で、美しい。凛とした顔立ちのリスルにならば、女性としてはおかしな短髪も似合うだろう。
「あたしも見てみたいな……今度、一緒に会いに行こうよ」
「ええ。アリカさんも誘うのね?」
「そう」
「二人とも、そろそろ口を閉じなさい。……精進食だ」
 司祭の厳かな言葉に、二人は口をつぐんだ。広間には司祭長以下六人の司祭が並んでいる。その全員とノアもシアも知り合いなのでいまさら緊張することはないが、それでもこの荘厳な空気には慣れることが出来ない。
 ノアとシアは無言で頭を下げ、歌姫達の定位置についた。祭司長に次いで上座だ。この広間に入ったら、もう潔斎が終るまで言葉を発することは許されない。
 祭司長が蝋燭を灯した。それが、食事の始まりの合図だ。
 実のところ、シアはともかく活動量の多いノアには精進食は量が少なすぎる。しかし、翌日はほとんど動くことはないのでたいして苦にはならないし、一年に一度だけなのだから珍しさが先に立つ。いつもよりも大分少ない食事量に、シアが声をもらさずに苦笑した。ノアがシアをそっと睨む。
 例年ならば、このような目での会話すらなく、食事はひたすら沈黙が漂うものなのだが、三年目のノア、二年目のシアに司祭達も諦めてしまっているらしい。ノアとリスルが食事をしたときもこんな感じだった。驚いたことに、老司祭によるとアリカとリスルも目配せしあっていたという。あの真面目なアリカでも、ちょっとした悪戯をすることがあるのだ。司祭にもっとと話をせがんだところによると、アリカは昔リスルと並ぶお転婆で、剣術を習っていたこともあったという。本当は神剣に憧れて舞姫を志していたが、彼女の資質は歌姫のものだったので親友のリスルに舞姫の座を譲った、とかなんとか。あの優しげなアリカからは想像も出来ないような話に、ノアは呆気に取られたものだ。
 食事を終えると、ノアとシアは連れ立って神殿の中庭に向かった。そこに湧き出る聖水で手を洗い、口をすすぐ。さらに髪の毛に水をかけて湿らせる。それが終ったら祭壇のある部屋に篭って、一晩中祈るのだ。
 シアは神剣を捧げ持ち、ノアが歌姫の鈴を下げる。この鈴は神剣のように貴重なものではなく、単なる銀の鈴なのだが、持ち主と波長が合わないと儀式が成功しないため司祭達はいつも鈴の調達に奔走する。その点では三年連続で歌姫を務めるノアは司祭達にとってありがたい存在らしかった。
 二人は目を閉じて母なる女神ユギリアイナと四つ目の太陽に祈りを捧げた。


 最初にその異変に気がついたのは、感覚の鋭いノアだった。二人は場所を移して聖水の泉で祈っているところだった。神殿の外には神剣と鈴は持ち出せないので二人とも手ぶらだ。
 どこかで――物音がする。年輩の司祭達は皆寝入っているはずだ。それに、無言の潔斎の途中はたとえ歌姫、舞姫本人でなくとも神殿内の静寂を保つのが決まりだ。
 ノアはシアに待っているように目配せし、音を立てないようにそっと足を踏み出した。シアが激しく首を振る。こんな時間に神殿へ忍び込む人物など、泥棒かはぐれ者――罪を犯して故郷の集落を追い出された者くらいだ。そんな者のもとへノア一人で様子を見に行くのは危険すぎる。
 しかし、ノアはシアの無言の訴えを無視し、神殿の中へ消えた。ノアにしてみれば、今は神剣もいつもよりは無防備にさらしてあるし、ここにいるのは自分以外にはシアと年老いた司祭達だけだ。自分が一番体力や護身術において優れているだろう。神剣を盗まれるわけにはいかないのだ。あの優美な銀の剣は、遥かな昔、女神に認められた天才鍛冶師が鍛えたものだ。あれなしに祭りを執り行うことなど考えられない。
 もちろん、ノアも一人で不審者を捕まえようなどという気はさらさらなく、ただ様子を見に行き、司祭に異変を知らせようとしただけにすぎない。
 ノアはたびたび立ち止まって辺りの様子を探りながら、少しずつ神殿の奥――神剣と鈴の安置してある祭壇の部屋へ近づいていった。誰か人がいるならば、間違いなく祭壇だ。というか、この質素な神殿に神剣と鈴以外に価値のあるものがあるとは思えないのだ。
 ノアは、不謹慎にも胸を高鳴らせている自分に気がついていた。もとはと言えば、歌姫の試験に出ることにしたのも単調な毎日に嫌気がさしていたからだ。退屈はノアの何よりも嫌いなものだ。神殿に忍び込むような人物を自分がどうこう出来るとは夢にも思わないが、静寂を破る存在にはわくわくしてしまう。
 これを口に出したらシアに絶対怒られる、と思いながらも、ノアは気分が昂揚しているのを否定出来なかった。
――目的は神剣か。誰だろう、村の者じゃあないよね――
 村の人間ならば、村の宝である神剣を持ち出そうとは思わないはずだ。祭りの儀式が成功しなければ、自らの暮らしも危うくなるのだから。
――見張りはどうしたんだろう――
 神殿の外では、村の男達が交代で見回りをしている。
 平和ボケかな、と胸の内で呟いてノアは嘆息した。
 

 ユアスは手のひらに握りしめた青い石が反応する方向へと歩みを進めていた。この石だけを頼りに一族を引き連れて森を抜けてきた彼と彼の父親は、石造りの神殿らしき建物に辿り着いたのだ。
 この石は、まだ水の神ユギリアイナが世界を創造したての頃に掘り出されたものだという。彼の先祖はこの石と一対になった紫水晶を銀の剣に嵌め込み、水晶域の繁栄を願った。
 ユアスの系譜をさかのぼると、「水晶域」と呼ばれる鉱山を発掘した一人の鉱夫に辿り着く。その鉱夫の孫がこの剣を鍛えた鍛冶師であり、その弟が水晶の加工職人だったという。しかし、剣の方は戦乱の最中に行方不明になり、ユアスの一族も消滅した。今、彼は父とともにはぐれ者の集落に身を寄せているが、若い頃から優秀な戦士だった父ははぐれ者達の信頼を集め、自分の一族を持つまでになったのだ。ユアスは今、父に少しでも追いつくべく血の滲むような修行の最中だ。
 これは、ユアスが初めて一人で行動することを許された初仕事だった。失敗は許されない。一族の……ユアスと父の存在に関わる大切な仕事だし、何よりも、尊敬する父の信頼を裏切りたくなかった。
「……こっちか、やっぱり奥の方だな。裏手から入ってよかった……」
 ユアスは小さく呟くと冷たい廊下の角を曲がった。単純なつくりの、小さな神殿だ。すぐに間取りを把握することが出来た。見張りもお粗末なものだったし、司祭達もぐっすり寝込んでいるのを確認してある。この分なら、たいした苦労もなく失われた一族の秘宝を取り戻すことが出来そうだ。
 血族の問題でもないのに父とユアスについてきてくれたはぐれ者達には感謝している。が、父にどうしても行かせて欲しいと懇願したのはユアス自身だった。彼の祖先に関わることだ。他の人間には任せたくなかった。
 ユアスは楽々と祭壇が据えられた広間に辿り着いた。祭壇のすぐ横に白い箱が安置されているのが分かる。剣はきっとあの中だ。
「鍵か……開けるか、ぶっ壊すか……」
 ユアスは目を伏せ、しばらく考え込んでいた。開けるのには時間がかかるが、痕跡を残さないようにすることも出来るし安全だ。しかし、あまり時間をかけて人に気づかれてしまっても困る。鍵を壊してしまっても、どうせ明日には彼らはこの付近から消えている。だとしたら、少しくらいの荒技は許されるだろう。
 ユアスの懐から取り出された短剣が光った。はぐれ者の里の鍛冶師の手による、細いが丈夫な短剣だ。頑丈な鍵も、きっとこじ開けることが出来る。
 ユアスは箱の前にかがみ、短剣を振り上げた。

「何をしてる!」
 目の前で繰り広げられる光景に、ノアは危険も忘れて声を張り上げた。まだ、自分と同じくらいの少年だ。しかし、神剣に手をかけているのを見過ごすことは出来ない。
「やめろ! 人を呼んだ、今すぐ出て行けば見逃してやる。神剣を置いて出て行け!」
 少年は素早く振り向くと短剣を構えた。鋭い眼差し。はぐれ者だ、と直感する。少年でありながらこんなに暗い瞳をしている人間は、はぐれ者にしかいない。
「人を呼んだ? だから何だっていうんだ?」
 少年はノアを見下ろすと薄笑いを浮かべた。ノアは震える足に力を入れて少年を睨み返す。薄紫の瞳がぐっと少年を見つめた。
「俺だって、近くに人を待たせてある。誰よりも早く山野を駆けることが出来る民だ。あんな腑抜けた見張りなんかで俺達を撃退出来るとでも思ってるのか?」
「村には神剣を盗むような人間はいないし、おまえ達のようなはぐれ者は人間として数えていないんだ。だから、計算上ここに忍び込む『人間』はいない。警備が甘くて当然だ」
 ノアにしてみれば、それは精一杯の挑発だったが、少年は軽く笑いとばし、ゆっくりと祭壇を離れてノアに近づいた。まずい。時間稼ぎは失敗した。ノアは身を翻し、脱兎の如く走り出した。
 目撃者を逃がすまいと思ったのか、少年は信じられない脚力でノアを追ってきた。だんだん息が切れてくる。そういえば声を出してしまった、などと場違いなことを考えつつ、ノアは破裂しそうな肺を無視して走り続けた。
「っわ……危ない!」
 少年が手に握っていた短剣を投げた。どうやら予備があるらしい。短剣はノアの肩を掠め、硬い音を立てて床に転がった。かろうじて怪我はない。
 どこに逃げよう――中庭はだめだ。神剣に手をかけられた挙句聖水まで汚されては祭りはおしまいだ。
 それに、シアがいる。
 彼女を巻き込むわけにはいかないのだ。
 ノアは酸素不足でがんがんと痛む頭を抱えた。走る速度ががくんと落ちるのが分かる。
 少年はその隙を逃さず、ノアに体当たりしてその動きを止めた。ノアの身体はいとも簡単に吹き飛ばされる。少年はノアの喉に短剣を突きつけ、膝で腹を押さえた。ノアは泣き出しそうになる瞳を叱り飛ばし、少年を睨んだ。
「神剣に何の価値を認めた? あれは明日の祭りで使うんだ。持ち出しは許されない」
 驚くほどきつい口調に、我ながら不思議な感じがする。普段のノアは女らしいとは言えないが、それでも最低限の少女らしさは残しているのだ。しかし、これでは男性そのものだ。どうやら、自分は緊迫した状況下においては口調ががらりと変わるらしい。……などと分析してしまって、ノアは自分に苦笑した。全然緊迫していないではないか。
「おまえに話す必要はないだろう? おまえの都合なんて知らない。あれは俺が頂いていく」
「剣が泣くな。おまえのような人間に所有されるとは。夜遅くに忍び込み、婦女子に刃物を突きつける腐れ外道だ。おまえは神剣にはふさわしくない」
 ノアは、最後の気力を振り絞って少年を嘲笑った。

 少女の侮蔑を含んだ言葉に、ユアスは眉を吊り上げて少女を睨んだ。神剣にふさわしくないのはこの神殿の方だ。剣のもとの持ち主は彼らの一族なのだから。彼は正当な持ち主のもとに剣を戻そうとしているだけだ。この剣の柄に嵌め込まれた水晶と呼び合う石は彼が持っている。それだけで、この剣の持ち主を名乗るには充分だ。
 そもそも、この剣――彼の一族に伝わる口承によればスラガの剣――は、彼の祖先達が大地とその恵みである金属を司るオルテツァを讃えるために鍛えたものだ。今の世界の主神はユギリアイナだが、その他の神を祀ることは禁止されてはいない。その、オルテツァの祭具が、ユギリアイナの太陽に豊作を祈る神殿に安置されているのはどう考えてもおかしい。
 しかし、それをわざわざ少女に説明する気は全くなかった。
「ふさわしいかどうかの問題じゃあない。俺はこれを手に入れる。おまえがそれを止められるのか? だったら止めてみろ」
 圧倒的に優位に立っているユアスを、止められるわけがない。
 そう思って、頬を歪めて少女を見下ろした。
「そうだな。止められないな。でも、止められなければ困るんだ」
 少女が平然と答えるのへ、ユアスはやや拍子抜けしたように、
「止められないなら黙ってろ。だいたい、丸腰で賊の前に出てくるなんておまえ、馬鹿か?」
 どうしてこんなことを説教しなくてはならないのだろう、と首を傾げつつもユアスはきつい眼光をやわらげずに言った。少女は白い眉を吊り上げて口を開こうとする。が――――何かに気づいて衝撃を受けているようなユアスの表情に、訝しげにユアスを見つめた。
 ユアスは少女の髪の毛を掴んだ。
 白い――どうして今まで気がつかなかったのだろう、白い。瞳が紫をしている以上白子種であるはずがないのに、その頭髪は雪のように白かった。
「おまえ……白い」
「それがどうした」
「白い……」
 うわごとのように呟き続けるユアスに、少女がうんざりしたような声音で、
「だからどうした?」
 ユアスは熱に浮かされたようにぼうっとする頭で言った。
「俺と一緒に来い。……いや、来てくれ」

 ノアは目を丸くして少年を見つめた。何という勝手な言い草だろう。神殿を汚し、歌姫を刃物で脅し、そのうえ一緒に来いとは。
 それ以前に、なぜ少年がノアの髪の毛に気づいた途端おかしくなったのかが分からなかった。確かに忌まわしいいきさつがあって手に入れたこの白髪は、シアの黒髪との対比が美しいと大変な評判だったが――こんな見ず知らずの賊の少年にまで反応される覚えはない。
「あたしには役目がある、祭りで豊穣を願う歌をうたうんだ。どうしておまえなんぞと一緒に行かなければいけない?」
「頼む、来てくれたら全部話す。とにかく、来てくれ」
「事情が分かるまでは何も言えない」
 ノアは頑なに首を振った。少年について行くことが出来ないのは本当だし、思いがけない時間稼ぎの機会だ。
「お願いだ、俺と来てくれ。本当に、頼む。このとおりだ」
 少年が深く頭を下げるが、彼の短剣はまだノアの喉もとだ。こんな姿勢で頭を下げられても困る。第一、いくら頼まれたところでノアはこの村を出る気はない。女子は結婚でもしない限り自分の生まれた集落を出ることはないのだ。
 しかし、それにノアが不満を持っているのは本当だったし、自由に旅をすることが許されている男性を羨ましく思ったこともある。
 ノアはこの感情が怖かった。いつか自分は、はぐれ者といて蔑まれることよりも自由を選び取りたい衝動に襲われるかもしれない。そう考えると、たまらなく怖い。その思いを増幅させるような存在のこの少年も、ノアにとっては脅威だ。
「そんなこと、出来るわけがないだろう」
「そこをなんとか!」
 だんだんわけの分からない会話になってきた、と思って、ノアは溜息をついた。
「絶対無理。おまえ、そんなこと言われてあたしがはいはいってついて行くとでも思ってるのか?」
「そんなこと言われても――ただ、俺は……」
「あたしは村を出ない。分かったら剣を置いてさっさと出て行け」
「この後におよんでまだ剣を置いてけって言うのか?」
「自分が死んでも剣は守る、それが村の掟だ。剣は村の宝だからな。自分の身を危険にさらしてでも時間稼ぎをするのが役目だ」
 近くに聞こえる足音に、ノアは不敵に微笑んだ。人が来たのだ。自分のやったことは無意味ではなかった。
 ノアは目を閉じて少年の刃を迎える――しかし、覚悟していた静寂はいつまでたってもやって来なかった。
 かわりに、身体が浮き上がるのを感じる。
 少年は、ノアを担ぎ上げ、そこから走り出した。祭壇の間に向かっている。
「命を捨てる覚悟までしてるんなら、来てくれたっていいじゃないか」
 拗ねたような少年の声に、ノアが目を開く。間近に迫った少年の黒い瞳に笑いかけられ、ノアは慌てて少年の身体を押しのけようとした。しかし少年ははぐれ者らしい鍛えられた腕でノアの身体を抱え、少しも動じる様子はない。
「俺は剣も諦める気はないんだ」
 少年が人好きのする笑顔で言った。
 最初から実力行使に出ようとはしなかった少年をなんとなく好ましく思う自分を、ノアは自覚していた。



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