―― あの空に手が届く ――


 ひさびさに美術館に足を踏み入れたのは、夏休みが終わってからだった。ずいぶんと間があいてしまったけれど、これくらいならちょっと忙しい時期にはよくあることだ。これからは文化祭の用意もしなきゃいけないから、そうたびたび来ることはできなくなるだろう。
 蒼を補給する意味で、朝から晩まで絵の前に陣取っていたいくらいだ。さすがにそれは無理だけれど、一度でもそれに似たことができたらどんなに幸せだろう。
「こんにちは」
 受付のお姉さんに挨拶すると、お姉さんは驚いたような、少しいつもと勝手の違うまなざしを私に向けた。何かを言いよどむようなそぶりをするのをじっと見つめると、ためらったあと言った。
「こんにちは。……二学期が始まったのよね、最近来てなかったけど……」
「はい、ついこのあいだまで夏休みでした」
「あの――あのね、あなたは悲しむと思うんだけど」
 私が悲しむようなできごと……?
 そんなことが何かあっただろうか。
「あなたが最後に来た日……ええと、私が休みの日に来てなければなんだけど、そのすぐあとに、館長に言われたの。あの空の絵を引き取りたいって連絡があったって」
「――どういうことですか?」
 夢の中では、私たちのために描かれた空。きかされた言葉をうまく処理できなくて、返答に困る。
「作者の、伊藤さん……伊藤翔さんよね、その人は、二年くらい前に奥様と離婚したらしいのよ。そのとき、奥様と奥様に引き取られた息子さんが慰謝料のかわりに絵を持っていって、ここに飾らせてくださっていたの。だけど……だけど」
 お姉さんは声をつまらせた。何か言いにくいわけのようだった。
「伊藤さんが、亡くなって」
――亡くなって。
「今までは市内に住んでいたんだけど、偶然同じ時期に引っ越すことになったから、思い出のために絵を引き取って家に飾りたいって、奥様がおっしゃったの。だから――あの絵はもう、ここにはないのよ」
 もともと小さな美術館だし、そんなに価値のある絵もないし、作者かその縁故の方が引き取りたいと言った作品を返さないようなことはしない。
 お姉さんはそう言って、申し訳なさそうに視線を泳がせた。瞬きの回数も減らして立ち尽くしている私に、紙コップのコーヒーを買ってきてくれる。
「……ありがとう、ございます」
 驚くほどかすれた声が出た。
 あの絵が、ない。ただそれだけのことなのに、ショックで頭が真っ白になった。
 亡くなった人を偲んで絵を飾っておきたいというのなら、私にそれを止める権利はない。私がいくらあの絵を愛していたって、――たとえ離婚していたとしても――前の旦那さんを思うその奥さんの気持ちのほうが大きいと思うから。
 だけど、まるで優等生のようにそう思う自分と、あの絵に愛着を感じる自分とは別人のように違う面を持っていて、今すぐに空を返してと叫んで泣き出してしまいそうにもなるのだ。
「最後にね、写真撮っておいたの。あなたが撮ったのよりいいと思うんだけど……持っていって」
「はい。いただきます。あの――今あの場所には、何がありますか?」
「別の方の絵よ。市内で油絵の教室を開いてる先生の。あなたが好きになれるような絵かどうかはわからない」
 とりあえず、あの場所まで行ってみよう。絵だけでなく、あの空間も私は好きなのだから。
 最後に見たあの空の絵が夢の中のあいまいなものだなんて、ひどすぎると思いながら歩いた。いつもの場所につくと、椅子に倒れこむように座った。
――あの日まで、ここには空があった……。
 今は、もう見られない。目の前に展示されているのは、何か金管楽器を吹く女の人の姿だ。
 あの空が見たい。
 あの空はどこへ行ったの。
 怒りと諦めを同時に感じながら、私は途方にくれてため息をついた。


「――さつきっ」
 しばらく空の跡地の前でぼんやりしていると、背中から少し怒ったような、焦ったような声が聞こえてきた。親しい人の声を聞き間違えるなんてことはしたことないけれど、名前を堂々と呼び捨てにするこの声の持ち主に心当たりはなかった。
 男の子だ、学校が同じ生徒か、と思いながら、ゆっくりと振り向いた。
「……あれ……」
 私が最後にあの絵を見た日、ここに来ていた子だった。いったい誰なのかわからないけれど、向こうは私のことを知っているらしい。さつきというのは私の名前だし、今ここに他の人間はいない。呼ばれたのはまぎれもなく私だ。
「このまえ、会った……」
 口の中だけで呟くと、彼はもう一度私を呼んだ。
「さつき……?」
 今度は、なんとなく自信がなさそうな調子だった。彼が私を知っているように、私が彼を知っているという反応を示さないから、不安になっているのかもしれない。
「あの、私さつきだけど……あなたは」
 彼は軽く目をみはり、私の横の椅子に腰掛けた。
「坂元洸。二年前までは伊藤洸」
「うん、それで?」
「にぶいなお前。……ここにあった絵は、俺と母親が引き取ってったんだ」
「ああ――それで。作者の人の、別れた奥さんと子供さん」
 だけどどうして私のことを知ってるんだろう。
 彼は頭をがしがしとかきまわし、私のことを見おろした。そんなに高いわけではないけれど、やっぱりちょっと視線の高さに差がある。
「覚えてないのか? もしかして、幼稚園以前の記憶はないとかいうやつか?」
 小さい頃の記憶というものには、個人差がある。生まれ落ちた瞬間のことから覚えているという人間もいれば、人より遅くからの記憶しかないという人もいる。
 確かに、私には小学校に入る前までの記憶はほとんどないけど、もしかしてこの子はそのときの友人なんだろうか。
 それを考えると、夏休みの朝見た夢が頭の中によみがえってきた。
 まだ小さかった私。甲高い子供の声。蒼い空。イーゼルを立てて絵を描いていたあの人――――。
「もしかして私、あなたのお父さんがあの絵を描いてるときに側にいた……?」
 夢で見たそのままの可能性を口にすると、彼ははっきりとうなずいた。
「俺が昔住んでた家の庭だろう? さつきは、父さんがあの絵を描いてる間は毎日うちに遊びに来てた」
「そんな……」
 呆然と呟くと、彼は立ち上がってポケットに片手を差し込んだ。
「冷たいよな、さつきは。まったく覚えてないんだからさ」


 私は、だいたいのことを思い出した。
 私が知っていた頃の彼は伊藤洸といって、私がひかちゃんと呼んでいた幼なじみだった。
 私が幼稚園生だったころの二年間だけ近所に住んでいた彼は、小学校にあがるまえに住居を移して、もちろん小学校は違うところへ行ってしまったし、中学校は私が受験したために一緒になる可能性はまったくなかった。
 まさか――薄情なことだけれど――今の今まで忘れていた『ひかちゃん』が空の絵を描いた人の息子だなんて思ってもみなかったけれど、あの日見た夢は私が忘れているいっさいのことがらを示唆する、とんでもなく重要な夢だったのだ。
 自分の記憶の薄弱さにあらためて後悔して、私は今ひかちゃん――洸と一緒にロビーで向かい合っていた。
「絵描きの小父さん……亡くなったの?」
 わかりきっていることを私は尋ねた。
「ああ、先月」
 うつむいて爪をいじる。小さい頃からずっと母親に注意されて癖ことだけれど、なおらない。
「あの絵は、今は俺のところに飾ってあるよ」
――やっぱり。
 彼もやっぱり、小父さんが描いたあの空の絵にたまらない愛着を感じていたんだ。
「父さんが――あの絵は俺だけのために描いたものじゃない、さつきと俺のものだって言うから、どうにかして会いたかったんだけど」
 私は中学に入ってから引っ越した。多分、幼稚園時代のつてしか持っていない洸が居場所を探し当てるのは困難だった。
「このまえ、偶然さつきを見かけて――最初はわからなかったけど、家に帰って写真を見てみたらわかったんだ。お前、全然変わってないから」
「うん、よく言われる。……私は気づかなかった。知らない子が、私と同じ絵を好きなんだと思ってた」
「まさか」
 洸は私のことを可笑しそうに見て、手の中の紙コップに視線を落とした。中身は同じコーヒーだけど、ミルクとクリームをたっぷりにしていたところを見てしまった。
 顔をあげて再びこちらを見た眼はとても真摯で、思いがけずうろたえた。つい最近夢で思い出したばかりの幼なじみ、小さい頃の顔なんて覚えてないけれど大きく変わったことがわかる大人びた顔立ち。まだまだ成長途中だけれど、これからもっともっと男らしくなっていく。
 彼は私が知っていた『ひかちゃん』であるはずなのに、その面影は彼にも私にも微塵も見られなくて、少し戸惑う。もしかしたら私は、たった二回美術館で見ただけの、知りあったばかりの子と話しているだけなのではないかと、そんな不安も頭をよぎる。
「なあさつき――あの絵、見に来るだろ?」
 あたりまえのように、それでいて縋るように洸が言った。
「どこに?」
「俺の家だよ、あたりまえだろ」
「場所は? 引っ越したんでしょう?」
 今日は五百円玉がポケットに入ってただけだったから、入館料を払ってコーヒーを飲んだら半分も残らない。交通費がかかる場所だったら行けないだろう。
「そうだな、電車で一時間くらい……」
 無理だ。二百円では行けない。
 それを言うと、洸はそこそこ整っている顔をあからさまに失望しましたという表情で彩って私を見つめた。お願いだから来てくれ、と甘えられているような気分になる。おそらく、それが正しいんだろうけど。
「電車代なら俺が払うから」
「だめ。お金の貸し借りはしたくないの」
「返さなくていいってば」
「恋人以外に奢られるのは嫌」
 例外が一人だけいるけれど。
「――いるのか?」
「ううん、いないよ」
 首を振った。
「そう決めてるだけ。でも、絵は見たいけどとにかく今日は行けない」
 きっぱりと言うと、洸は私の腕をつかんでぐらぐらと揺さぶった。底のほうに少し残ったコーヒーが大きく波立つ。まったく、子供みたいな子だ。
「いいじゃないか、少しくらい」
 本当は私も、彼にお金を借りていけばいいと思う。それをしないのは、なんとなく彼を困らせてみたかったからだ。絵を持っていかれた恨みかもしれない。
「そういうところで妥協するのはいけないの」
 口の端で笑って言うと、洸はぎゅっと顔をゆがめてから唐突に言った。
「だったらさつき、お前――俺と付き合え」
「え、どうして……」
「いいから、付き合え」
「ううん、その理由じゃなくて、どうして急に命令形なのかなと思って……」
 彼が私をどうしても今日絵のある場所へ連れて行きたい理由がわからない。彼の口調に話を飛ばしたのは、単なるごまかしだった。洸はどうして、こんなにむきになっているのだろう。多分私はそれを知っていたけれど、意地悪な気持ちで知らん振りしているのだ。
 それ自身が、私の彼に対する信頼と甘えを示すものだけれど。
「命令形じゃいけなかったか? それじゃあええと……付き合ってください」
「ううん、無理」
「はあ? ――どうして」
 どうして断られたことに疑問をとなえるのか、そのほうが不思議だけれど。
 私は途方にくれた表情の洸に、最後のコーヒーを飲みながら言った。
「私ね、付き合うなら四六時中一緒にいられるひとって決めてるの。少なくとも、二日にいっぺんは会えないと嫌」
「無理だろ、そりゃあ」
「うん、でしょ。だから君はだめ」
 にこりと笑みを作って言うと、洸は目に見えて肩を落とした。その落胆がかわいらしいと思うのは、どこかが間違っているような気もする。
 沈み込んでしまった洸を救済するために、私は彼のコーヒーを受け取って飲み干した。やっぱり、甘い。甘いものが好きなら、今度クレープを作ってあげられるけど。
「あのね、君高校はどこに行くつもり?」
「え? さあ――まだよくわからない」
 信じられない子だ。
「じゃあ、成績はどれくらい?」
「悪かないだろな」
「それじゃあ、君が私の学校に来てよ。私は私立だから、受験はないから」
「ああ、どこだよ」
 必死の思いで中学受験をして入った学校の名前を告げると、彼は二三度大きく瞬いて絶句した。どうしたの、と問いつつ笑いをかみ殺す。


 駅まで送っていく帰り道、洸はふてくされたような口調で言った。
「……本当はな、俺がさつきに貸してる金はもうずいぶん溜まってるんだからな」
 どういうこと、と尋ねても、洸は答えなかった。
 残暑の厳しい九月の日曜日、ふわふわとやわらかい雲の上で弾むように、私は駅までの静かな道を歩いた。

――もうすぐ、あの空に手が届く。


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