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Thank you for the Music (番外編) |
――― 恋の病 長患いの予感 ――― (前) |
フラッセア王都の夏の初め、フラッセアでも指折りの名家であるグラバート家の下働きである少年ジェフはリルイースに言われて住まいを移した。敷地内にある本邸裏の使用人棟の中であることに変わりはないが、大部屋で数人の大人と寝起きしていたのと一転して、狭いとはいえひとりの部屋を与えられたのだった。 グラバートでの使用人の扱いは粗雑でも乱暴でもない。ジェフは大部屋でもよかったのだが、大勢の大人たちに囲まれて寝起きするのは案外神経を使うようで、自分だけの城を持った日はさすがにいつもと違った呼吸ができるような気がした。 昨年の秋に都へのぼり、今はジェフの友人の伯母がひらいている酒場で歌をうたっているシャルディーレ――晴れてジェフの恋人となった、うつくしいがやや意地っ張りでしかも鈍い少女は、広すぎるくらいのもと客間である自分の部屋へくればいいと言ったが、リルイースとレイルシュの強硬な反対にあって断念したらしい。ジェフとしてもそれは遠慮したいところだったが、シャルはいったい何を考えているのだろうか。 普段はわりあいに冷静でも、いったん集中し始めると歌のこと以外のすべてが遮断されてしまうシャルの頭の中のことだから何も考えていないかもしれないとも思うが、それはそれでなんだか悔しい。 置き去りにされているような気分。 ひたすら夢を追い続けるシャルが、いつか自分から離れていってしまうような錯覚。 新たな夢について語るシャルの、夏の湖に太陽の光が差し込んだような瞳は魅力的だったし、ジェフは彼女のそんなところが好きなのだったが、やはり少しうらやましい。 そんな自分を自覚しつつもシャルや兄――アズレイの姿を見守り続けるのが性に合っている自分は、根っからの裏方気質なのだと思う。少なくとも今の生活に不満はなかった。彼は彼なりにささやかな将来の展望を持っていて、そのために身を粉にして働いている最中なのだ。シャルはジェフに比べてあまりに怠惰な暮らしを送っている自分に嫌気がさすときもあるようだが、ふたりともやっていることは変わらない。 より幸せになるために、そのために努力しているのだ。 ジェフは玄関広間の壁にかかった大きなねじ巻き時計と窓からのぞくまだ明るい空とを見て、シャルの部屋へ向かった。もともとは客間だったそこはもうすっかり少女の居室に変わりはてている。 シャルはいつも、午後は部屋で本を読むか都へ来てから覚えたという刺繍をしているか、いずれにしても外へは出ずにのんびりとすごしていた。屋敷のつくろいものも、ひそかにやっているようだ。リルイースはシャルをまるでグラバートの人間――アルディランの妹であるかのように大切にしているから、おおっぴらにはできないのだと言っていた。いくら幼いころから母親のない暮らしをしていたとはいえ裁縫までは知らないジェフは、衣服の修繕の大部分をシャルの世話になっていた。 「シャル、そろそろ行こう」 「……うん? ああ、ジェフ」 春から夏にかけて日に焼けたなめらかな肌に影がさす時刻。 やや茜を帯びた陽光を受けて、シャルは笑った。 いまだにジェフと御者が一緒でない夜の外出を許可してくれないリルイースの過保護ぶりがおかしいのだろう。確かに、リルイースはやりすぎだとジェフも思うが、そのおかげで一日のうち多くの時間をシャルとすごすことができる。 立ち上がったシャルの手をとって、廊下に出た。よほど眠いとき以外は夏でもひんやりとした手をしているシャルは、ジェフと手をつなぐのが好きだ。 「やっぱり暑いわね。……桃の果実水が飲みたいわ」 「あの、濃いやつだろ? クリューに言って、出してもらえば」 「そうね、頼んでみよう」 たわいもない会話を続けながら店へ向かう。 空に深い藍色をした波が打ち寄せるころ、ジェフとシャルは人々の熱気と喧騒の中へ足を踏み入れた。 ◆ 「ちょっと聞いてくださいよ!」 翌日、グラエ・ナーダ大聖堂の聖歌隊の練習をのぞきにいくというシャルが屋敷を出てから、ジェフは言いつけられていた廊下の掃除を終えた。そこを通りかかったリルイースに、涙ながらに昨夜のできごとをうったえる。 リルイースの後ろにはグラバートの若当主であるアルディランと、シャルの本家の息子であるレイルシュとがいたが、ふたりの姿は目に入っていない。いつも親身になって相談に乗ってくれる華奢なひとに向かって、ジェフは言った。 「シャルのやつ、昨日はクリューのところで何人に声かけられたと思います? 六人ですよ、六人!」 「シャルさんはきれいな人ですからね。でも、おかみさんがちゃんと見ていてくれるんでしょう?」 うしろのほうからきこえてくる、リルイースだってきれいだよという言葉をあっさりと無視し、リルイースは穏やかに頬をゆるめた。けれどもこの問題を何よりも切実なものとして受け止めているジェフは、そんなリルイースの態度に耐えられないほどの悠長さを感じてむっと眉を寄せる。 「笑いごとじゃありませんよ」 「でも、そんなに心配することでもないでしょう……あ、冷めるから部屋に入りましょうか。ジェフも食べるでしょう? シャルさんが帰ってきたら、持っていってあげてくださいね」 アルディランの居間の扉が開かれる。主の部屋に仕事でなく足を踏み入れるのは気が引けたが、アルディランとレイルシュを部屋に入れたリルイースに背中を押されて、転がり込むようにして部屋へ入った。 リルイース得意の焼き菓子の香ばしい匂いが部屋中に広がる。たとえ働かなくてもアルディランやレイルシュの相手をしているだけでその役目を十分はたしているだろうリルイースは、けれども屋敷の中で安穏と暮らすことを自分に許していない。屋敷の誰よりもよく働き、台所にも出入りして毎日のように菓子作りに精を出している。 そんなリルイースの姿は、母親の姿をおぼろげにしか知らないジェフにとって、シャルとは違った意味でまばゆく、愛せずにはいられないものだった。リルイースが焼き菓子をふるまってくれるたびに、父と母が生きていたならこのような幸せな家庭ですごせただろうかと夢を見るのだ。 シャルと――あの美しい少女と、いつまでもともにいられればいいと思う。 彼女と家庭を築き、新たな命を生み出して、いつでも笑い声の絶えない明るい庭で暮らしたいと……。 けれど自分はまだ子供で、グラバートの屋敷で衣食住はまかなってもらっているもののもらえる俸禄はとても家庭を持つには足りない。グラバートはまだ幼く、たいした労働力にならないジェフを雇ってくれた恩人だし、おそらく給金もほかのところにくらべて少なくはないのだろうが、シャルはたくさんの土地を持つ富裕な農家の娘で、ジェフなどよりもずっと暮らしに困らない力があるのだ。 ジェフでは、シャルを養うことはできない。反対に彼がシャルに養ってもらえるくらいかもしれない。 彼は、それが悔しく、また悲しくもあった。 幾度となく交わした言葉に、いつわりごとは含まれていない。愛している……とささやいた瞳の甘さ、唇の熱さ、それらすべてが真実であり、ふたりの絆だった。 それでも不安は残ってしまう。自分には何の身分も後ろ盾もなく、自分ひとりをすら養えずにいる子供だ。シャルにとっては弟と同じ年齢の小さな少年。だから彼は思う。 シャルは、家族のない自分のことを哀れんでいるだけではないのか……と。 こんな不安と疑いを口に出したら、シャルは怒るだろう。 次には、湖水の色をした目をかなしげにうるませて、背を向ける……。 シャルを疑いたくはなかった。信じる心がまったく消えうせてしまったわけでもない。 けれど、この心の隅にうずくまる不安を、どうすればいいというのだろう……。 彼女は、もっと彼女にふさわしい人間を選ぶ権利を持っている。 それにひきかえ、自分はたまたま都に不慣れなシャルの案内役を命ぜられ、本来なら口をきくこともかなわなかったグラバートの客人と想いを結び、夢にも思わなかった幸福に舞い上がっているだけの子供なのだ。 さまざまな思いを心の中に無理やり押し込み、末座にそっと掛けたジェフに、リルイースが焼き菓子の盛られた器を差し出した。 穏やかな笑顔に、いったん悩みを忘れる。アルディランもレイルシュも、リルイースのこんなところを愛しているのだろう。 「あ……じゃあ、いただきます」 最近、甘いものに目がないシャルの影響か、ジェフも菓子類をよく食べるようになった。都のどんな職人がつくったものよりもリルイースの菓子がいいとシャルは言うが、ジェフもそれはまったくその通りだと思う。 つくる人の優しい心がこめられたような、やわらかい焼き上がりのマフィンやカップケーキは、自分などが口にしていいのかと思うくらいに甘く、ささくれ立っていた心を落ち着けてくれる。 今もまた、ゆっくりと黒い雲が切れて太陽の光がさしこんでくるように、荒れたジェフの心を優しくくすぐってなだめた。 「ところで、シャルさんは、今日はどこに?」 「大聖堂です。聖歌隊を見に」 聖歌隊の指導をするマリセラ・スールの姿が見られるのだという。 今日はジェフも暇ではなかったので、シャルはひさびさに都中を歩き回っているだろう。シャルはジェフが一緒のときには彼を気遣ってクリューのところへ寄ってくれるが、ひとりの場合はどこへでもふらりと足を運ぶ。 治安のわるい区画へは出入りしていないから平気だとは思うが、彼女はとにかく何にでも興味を持つ。都へ出てもうずいぶん時間がたっているが、シャルにとってフラッセアの王都はまだまだ新たな発見に満ちた場所のようだ。 そのうちフラッセアを出てリネやアエリアルに言ってみたいと言い出すのではないかと思うと心配でならない。 「今日は確か、マリセラさんが出ていらっしゃる日でしたね」 「だから出かけてったんですよ」 ――心底嬉しそうに、はなやかな笑みをそこら中に振りまいて。 ジェフにとっては、自分がないがしろにされたようでおもしろくないことだった。シャルにとってマリセラ・スールという人間が尊敬すべき女性だということはわかっていたが、自分は俳優の端くれを兄に持っているとはいえ音楽にそこまでの情熱をかけているわけではない。神の敬虔な信徒というわけではないジェフは、グラエ・ナーダ大聖堂にも足を踏み入れたことがなかった。 当然、フラッセア教会の至宝と言われる聖歌の歌姫の姿をみたこともなく、シャルが焦がれてやまないマリセラ・スールという人がどのような女性なのかも知らない。彼女は教会の大聖堂を拝する都の人々を始め、地方の――それこそシャルのような――者にもその名を知られた聖女であるが、そのマリセラばかりをシャルが追い、自分のことを省みてくれないのは、ジェフにしてみればやはりおもしろくないことだった。 「確かになあ、俺もリルイースが蒼皮に熱中してアリシア・スールのことばかり口にしてるときはたまらない気分になるからなあ」 「……アルディラン様、冗談はやめてくださいね」 アルディランの言葉に返答したリルイースは、あきれてこそいるものの不機嫌な様子や怒った顔は見せていない。リルイースの温和で優しい性格は誰もが認めるところだったし、結局のところリルイースはアルディランを嫌っているのでも、彼の言葉を迷惑に思っているのでもないのだ。 「冗談なわけないだろ、もう五年前から言ってるんだから。……うん? 何か音がしないか?」 笑いながら言ったアルディランが、廊下から伝わる物音に耳をすました。それにならったジェフは、年齢も身分ももっとも下であることから様子を見てこようと席を立った――これ以上、屋敷の若主であるアルディランと同席して緊張したくないというのが本音ではあったが。 「俺、見てきますね。何なんだろう、いったい……」 ジェフは廊下に続く扉を開け、常に人の毛気配が絶えない屋敷の中でも今特にさわがしいと見られるほうへ顔を向けた。喧しい言い争いの声――そのひとりは、彼のいとしいシャルディーレのものである。 シャルとその隣でなにごとかまくしたてている少年を見て、ジェフは目を剥いた。 柔らかそうな金髪を首のうしろで切り、小柄な身体を埃まみれの衣に包んでいる少年。男にしては大きな瞳はシャルと同じ色で、深くふかく澄んでいる。 シャルとうりふたつのその少年が誰なのか、ジェフは一瞬にして悟った。 とてもそうは見えないが、ジェフと同い年だというシャルの弟。彼が、シャルと何やら口論しながらやってくる。 シャルは扉の前にジェフを見つけ、青い目を細めてにこりと笑った。それはいいのだが、弟がらみで何か厄介なことが起こりそうな気がしてジェフは内心でこっそりと嘆息した。 「おかえり、シャル。お客さんなら、リルイースさんがいるからあの人に言いなよ」 「あら、違うわよ。客なんかであるもんですか、うちの馬鹿が!」 「シャル、はるばる訪ねてきた弟になんてこと言うんだよ!」 「勝手に訪ねてきておいて、お客面するんじゃないわよ!」 そっくりな姉弟の争いに、ジェフは困惑のまなざしを向けた。……自分では、とても収拾できそうにない。 「……あのう、若様」 グラバートの次男であり後継ぎでもある青年に、ジェフはお伺いを立てた。 「シャルの弟が来てるんですけど……」 即座に立ち上がったアルディランに続き、リルイースはシャルと弟の分のカップや焼き菓子をととのえてからジェフのいる扉の付近まで歩いてきた。 「本当に……」 リルイースがなかばで止めた言葉の続きが、ジェフには容易に理解できた。 本当によく似たその姉弟は、アルディランとリルイースの視線を受けるにあたってようやく、白熱した口喧嘩を止めたのだった。 |
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