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Thank you for the Music (3) |
それから、数日後のことだった。 グラバート邸の荘厳な構えの門を、艶のある黒髪の少年が叩いた。門番に出迎えられた少年――クリューはやや緊張した様子で門番小屋に導かれた。 「あのさ、ここで下働きしてるジェフを呼んでくれない? あいつ今ここのお客さんの世話してるだろ、そのシャルさんと約束があるんだ」 母親によく似た藍色にちかい色の瞳が、眠そうに細められた。性別のちがいをのぞけば、そっくりな親子だとしょっちゅう言われる。まつげが長く瞳に霞がかかっているような印象を人に与えているのが大きな特徴だ。そのせいで小さなころはよく女の子に間違えられていたのだが、今では背も伸びて、身体つきもだんだんとしっかりしてきている。 彼とジェフとは、既に人生の半分近くを共有した友人同士だった。クリューもジェフもはじめて顔をあわせたときから片親の子で、ジェフはグラバートの屋敷に働きに出る前は毎日のようにクリューの母親へ預けられていたのだ。 ジェフが働くようになってからは、そう頻繁に会うことはできなくなった。ジェフの住み込みの勤め先であるグラバート邸に押しかけることはできないし、屋敷とクリューの家の距離からいってジェフがこちらを訪ねてくることも困難だったのだ。 この間久しぶりに顔をあわせたジェフは、近年まれなほど明るい表情をしていた。おそらく、あの客人の案内役をつとめるという職務が楽しいのだろう。客人のシャルは気さくで、もともとのはなやかな造作に加えて微笑んだ顔が花のように輝きを放つきれいな少女だった。 楽しいのもあたりまえだが、クリューの見たところジェフとシャルは性格のほうもあっているようだ。なにより、ジェフは彼女が気に入っている。そうでなければ、クリューの母親と伯母たちの店に連れてきたりはしないだろう。 ややあって、屋敷側の扉をあけて入ってきた門番のうしろからジェフが姿をあらわした。赤っぽい茶色の髪の毛を振って、ジェフは満面の笑みを浮かべた。 「クリュー」 「はじめて見たけどすごいとこだな、お前の勤め先」 「まあ、グラバート様の屋敷だから。小母さんの話、シャルに持ってきたんだろ? シャルのところに行けば、美味いものが食えるんだよ。俺、いつもそのおこぼれにあずかってるから」 ジェフの言葉に、クリューも薄い唇に笑みを浮かべた。門番小屋を出て、使用人の戸口からひっそりと中へ入る。かなり変則的な訪問だということは理解しているから、クリューも文句を言うことはない。むしろ毛足の長い絨毯やらきれいに磨き上げられた手すりやらを汚さないように気を遣うのに精一杯だった。 「なんか肩凝るな、ここ」 「慣れてないからだろ?」 「そりゃあジェフは慣れてるだろうさ」 ひんやりと涼しい空気にみたされた広い玄関ホールを抜け、その奥の使用人階段を昇る。表の階段に比べると少しばかり急だったが、ふたりともそんなことを気にする人間ではなかった。 客間がずらりと並ぶ廊下の、一室。そこからちょうどシャルが扉を開けて出てくる。 ふたり並んだ少年たちを見つけて、ちょっと目を見開いたあと、シャルは顔をほころばせた。 「クリュー、だったよね。ジェフも、入って。今ちょうどリルイースさんがお菓子を持ってきてくれて、ジェフとクリューを見たって言ってたから」 だからすぐ来ると思ってた――と言って、シャルは窓の大きな、塵ひとつなく掃き清められた客室にふたりを招きいれた。彼女がいくら自分でやると言っても首を振る女中の勤勉さはリルイースの折り紙つきで、やや気がひけるものの部屋の居心地はきわめて良好だ。 ジェフとクリューを招き入れたシャルは、リルイースが運んできた紅茶と焼き菓子を小さな卓に並べた。リルイースはアルディランやレイルシュの世話をするかたわら台所にも出入りしているようで、しかもそれが菓子を作るためだというのだ。リルイースのグラバート邸における位置はシャルにはよく理解できないもので、どうやらアルディランの親しい話し相手といった趣が強いらしい。だったら雇い人とは言わず、レイルシュのような居候でもよさそうなものだが、リルイース自身はなにか忙しく働いていないと落ち着かないようなのだ。 雪のような粉砂糖がかかったきつね色の焼き菓子は、甘いにおいを部屋中に振りまいていた。ジェフもクリューも甘いものは苦手ではないようだが、シャルはそれ以上だ。濃い林檎の果実水の瓶を戸棚の中に用意してもらったところなど、寝る前にワインを一杯やる男たちと何も変わらない。蜜柑に白桃、林檎、梨などのほんのりとした味の果実水はさわやかな喉越しが長く愛されるゆえんだが、流通しているものより濃くなると甘さが口のなかに残るようになり、かなり飲む人を限定してしまう。シャルはたとえ製菓用の濃い果実水でも飲む自信があった。 「リルイースさん、すごいわよね。手先も器用だし働き者だしおまけに美人だし。あのひと、蒼皮をやってるのよね? 聞かせてもらったけど、巧かったわあ」 シャルがナタリー・ウィンズと並んで尊敬する人間、マリセラ・スールと同姓の蒼皮奏者アリシア・スールは、やはりマリセラの姉ということだった。リルイースはそのアリシアに何度か蒼皮の教授を受けたことがあるという。リルイースの蒼皮の腕前は、シャルも聞かせてもらったことがあるが相当なもので、フラッセアの楽師組合からもたびたび誘いを受けているらしい。 自分の喉をつかうか蒼皮を操るか、形は違えどシャルとリルイースの表現するものは同じ形をしている。楽師組合から直々に誘いがあるということは、それなりにその演奏が知られていながら楽師としての活動は一切行っていない――リルイースは朝から晩まで忙しそうに、けれど楽しそうに屋敷中を飛び回っている――事実を示しているのだが、リルイース自身は音楽を生業として生きていく気はないようだ。シャルなどにはもったいなく思えるのだが、それ以上に大切なものがあるのだろう。 「ほら、子供はどんどん食べなさい。わたしはもう縦にも横にも大きくなりたくないけど、あんたたちはまだまだ育たないとだめでしょ」 シャルはあまり目線のちがわないふたりの少年に向かって笑って言った。ふたりとも特に発育が悪かったり栄養が足りなかったりすることはないが、シャルは彼らくらいのころにぐんと伸びたためたいていの少女よりは目線が高い。太っているとはいわないが、つい最近まで富農の娘として自ら畑に出る機会も多かったため肌はやや小麦色で華奢というよりしなやかな身体つきをしている。そこに長い金髪を垂らして深い湖水のような瞳で微笑めば、手間をかけず人目を惹くうつくしい娘が手間をかけずにできあがりだ。 ジェフとクリューが苦笑して、リルイースの焼き菓子に手を伸ばした。ジェフとクリューが来ることを踏まえて用意したにしても多すぎの感が否めない菓子を、シャルはぱくぱくとたいらげていく。それを見て、ジェフが呆れたように口を挟んだ。 「シャル、そんな食べてたら横に育つぞ」 「大丈夫よ」 根拠のない言葉を返し、熱い紅茶に口をつける。 ほっとひといきついたところで、シャルはクリューに向き直った。 「それでクリュー、女将さんはなんて言ってたのかしら」 そもそもの用件をようやく切り出したシャルに、クリューは軽くうなずいた。 「母さんが、できれば今日か明日からでも伯母さんの店に来てうたってくれって。夕食は出すし、謝礼も受け取ってもらいたいって言ってた」 「そこまでしてもらうわけにはいかないと思うけど……でも、今日からでもうかがえるわよ。具体的にいつごろ行けばいいの?」 クリューは首をかしげ、少しの間考えこんで言う。 「うちさ、母さんの店は昼が終わったらいったん掃除と後片付けのために閉めて、しばらくしたら軽食と菓子をメニューに出して、それで夕方になったら閉店なんだよ。母さんが店を閉めたら、伯母さんのほうの酒場が開いて、母さんはそこにつまみを作りにいくんだけど。だからまあ……七時くらいに来てもらえればいいかな。あんまり遅くまで引き止めることもできないし」 「わかったわ。じゃあお茶を飲んだらリルイースさんに言ってこなきゃ。……あんたたちは、ゆっくりしてなさいよ」 シャルの言葉に、ジェフとクリューは驚きの表情で彼女を見つめた。 彼女の洞察に驚いていたのかもしれないし、そう簡単に部屋をあけるシャルをとがめていたのかもしれない。それはどちらでもかまわないが、とにかくシャルにはわかっていたのだ。 彼らがなによりも必要としているのは、仕事と人目を忘れられる時間だということに。 決して鈍くはないシャルだったし、いくらなんでも不自然だったのだ――まったく兄以外の家族の存在をにおわせないジェフも、どう見ても女手ひとつで店を切り盛りしているとしか思えないクリューの母親も、そして三つ子の末っ子を庇護する立場にあるらしい独身の姉たちも。 だからジェフとクリューは互いがまるで兄弟のようなかけがえのない存在で、けれどもジェフの仕事やクリューの母の店のせいで心ゆくまで話しこむこともできないでいる。 案外リルイースはそのことを知っていてジェフをシャルの案内役に任命したのかもしれないと思った。 屋敷の中にこもって仕事をしているよりよほど十五の少年にとっては健康的で、シャルが許せば好きなときに好きなようにクリューのところまで会いに行くことが可能なこの仕事。シャルがふたりに協力しないわけもない。 (へえ……やっぱあのひとってただものじゃないんだ) なるほどとシャルはうなずき、部屋をそっとあとにした。――卓上にまだひとつ残った焼き菓子に、多大な未練を残しながら。 夜のフラッセア王都の街並みは、昼間とはまた違った顔を見せていた。シャルの故郷ではもうすっかり暗くなり、家族そろって食卓を囲んで団欒のときを持っている時間、都では家々のあたたかな光とはまたちがった種類の灯りがそこかしこに点り、橙の光に照らされた扉からは人々の喧騒が漏れ出ている。 人の集まる大きな都市が昼と夜ではまた別の顔を見せることを、シャルははじめて知った。馬車はあまり走っていない。多くが一日の勤めを終えた労働者が、歩いて食堂や酒場へくりだす姿だ。 車輪の音を大きく響かせて走る馬車が赤い屋根の酒場の横へつけたときには、周りの人々がいっせいにそこのところを凝視した。居心地の悪さを感じながら、馬車をおりる。いつものようにジェフが先に下りて手を差し伸べる。少し硬い手のひらの感触にももう慣れた。そして手のひらから伝わる熱が、彼女とジェフ両方のものであることにも。……その硬さが、心地良く感じられるほど。 シャルがクリューの母たちの要請を受けるのに際してリルイースが出した条件は、馬車で店まで行くこと、そしてジェフが屋敷を出てから帰ってくるまでシャルの側についていることだった。けれどそれもきっと店の奥でジェフとクリューが一緒にいられるよう配慮した結果なのだとシャルは思っている。 「……うっわ」 店内に一歩足を踏み入れると、かすかに漂う酒気と圧倒的な熱気とがシャルの身体を押し包んだ。 右手奥を見ると、クリューの母親である隣の食堂の女将と、彼女によく似た女性とが入っているカウンター。二十をすこし越えたくらいの青年がふたり、給仕に立ち働いている。席はカウンター席が六つ、そしてカウンター前の空間を円を描くようにややあけて並べられた円卓が七つ。ほぼ満席にちかい盛況だ。 柄の悪い店ではない。けれどシャルの知っている田舎の酒場とは明らかに空気が違う。 入った途端、中の客がいっせいに扉を見た。それでしばらく視線をそらそうとしなかったのは、それが店にそぐわない子供のふたりづれだったからだろう。 カウンターの奥にいた女将が、軽く手をあげた。人のあいだを縫って奥までたどり着く。 「ありがと、来てくれて。ご飯食べてないわよね?」 「クリューが、出してくれるっていうから……」 「奥に用意してあるの、そこの扉ね。クリューがいるから」 その言葉に従って扉を開ける。 そこは喧騒とは切り離された静かな小部屋で、酒瓶の並んだ棚や大きな樽に囲まれてクリューがひとりで食事を摂っていた。 「あ、来たの。ジェフもシャルさんも、ご飯まだだよね?」 クリューの手によって手早く食事が並べられた卓につき、シャルとジェフは遠慮なく皿に手を伸ばした。ふたりとも、基本的に卓上にあるものはきれいに片付けないと気がすまない性質の人間だ。 皿の上にはけっこうな量の料理が盛られていたのだが、あっというまに空になっていく。一足先に食事を終えたクリューが、それを静かに見守っていた。 女将が用意したまかないの食事はやはり、シャルにとってはグラバート邸でふるまわれるものよりもなじみのある味をしていて、いくらか食べやすかった。美味しくないわけではないのだがシャルにはややくどいように思われる食事が三食続き、いいかげん食傷気味だったのだ。 「ああそういえば――シャルさん、お酒って飲む?」 「……お酒? どうして」 「母さんが、よかったら出してあげてって。もちろんそんなに強くないよ、俺もよく飲む」 ジェフが少し眉をあげて言った。 「クリュー、お前飲んでんの?」 「店に腐るほど置いてあるからさ。でも強くないのばっかだよ、自分でそこらへんわきまえて飲まないとばかみたいだからね」 大人びた表情で言って、クリューはグラスを出してきた。とりあえず弟が飲めないぶんそこそこ強いことを自認しているシャルは、いちはやくグラスを手にしてクリューの酌をうける。 ジェフがとまどいの色を浮かべて、少し暗い橙の光を受けてかがやくグラスを見つめていた。 シャルとクリューが何のためらいもなくグラスをあおるのに比べて、その態度はあまりにぎこちなかった。 「……ジェフ、あんたさ」 シャルは困惑に眉を寄せて尋ねる。 「飲んだことない……の? それとも飲めないの?」 飲んだことがないわけはあるまいとシャルは思う。どこの家でも、十を過ぎたころから少しずつ慣らしていくのが普通だ。クリューも店の特質上幼いころから飲んでいたのだろうし、言葉のわりにはそう弱いわけでもなさそうだ。けれど――。 そこまで考えて唐突に気づいた。 もしかしたら、ジェフにはうすうすにおわせているように兄以外の家族がないのかもしれない。 兄というからには、よほど年が離れていないかぎりはまだ二十そこそこであろうから、ジェフひとりを養うにも苦しいのかもしれない。 だからジェフはグラバートの屋敷へ働きに出ていて、家族に教えてもらうはずの酒も飲めないのかもしれない。 ――けれどこれはすべて、「かもしれない」というシャルの推測にすぎないのだ。 その事実が、彼女のジェフに対する無関心と無知を示していた。 ジェフといるのは楽しい。けれどそれは一時の安心と満足を得るためのものにすぎなくて、お互い深く踏みこんだ話などしたことがなかった。ジェフにしても、シャルの目に見える部分しか知らないはずだ。 それは誰が悪いわけでもなく、ただすれ違っていただけなのだ。そして本来、彼と彼女の関係はそれでもなんの支障もない。 けれどもどこか寂しいと思ってしまうのはなぜなのか……。 シャルは澄んだ色の目を伏せて溜息をつき、立ち上がった。食事が終わり、酒までいただいてしまったからには真面目に仕事をしないといけないだろう。 小さな扉をそっと開くと、向こうは空気のにおいから色から温度から、すべてが違う空間だった。人の多さはそのまま、シャルの田舎と都の違いをあらわしているだろうか。少なくとも男たちが酒場に好んで集うのは事実であって、その量から見た姿はかなりの精度を誇っているように思えた。 もちろん、クリューの伯母が経営しているからには客層は悪くないのだろうが、やはりここまで男ばかりだと気が引ける。まあ、この空間に女性がいても少しそぐわない気もするが、この威圧感をやわらげてくれるのならかまわない。 すがるような目で女将を見やると、それまで忙しそうに立ち働いていた艶やかな黒髪の女性はシャルを手で招きよせた。 「シャル、今日はありがと。悪くない店でしょ、うちのねえさんそんじょそこらの男には負けないから、そう柄の悪い客はいないからね。安心してくれる? それでね、そろそろお客が落ち着いて、居座る人が増えてくる時間なんだけど……うたってもらっていいかしら」 「だってそのために来たんだもの。……それで、どんなのを歌えばいいの?」 「ああ――それはね」 女将はにっこりと笑って、真ん中あたりの卓に座っている男を指し示した。 「あの人、向こうで宿屋やってるもうひとりの姉の旦那なの」 そのひとことで、シャルはうすうす女将の言いたいことを察する。 (ってかそれってサクラっていうんじゃ……) 彼女が慣れていないのは確かであるため、そのほうがありがたいのだが、そこまで周到に用意をされるとは思ってもみなかった。 一瞬呆けたようにあんぐりと口をあけていたシャルは、気をとりなおしてカウンターの前に進み出た。 自分の才ひとつ頼りに都まで出てきたことからもわかるように、度胸と自信だけはあるつもりだ。客に上等も低俗もないが、ここにいる者ぐらい満足させられないでどうするというのだ。 灯りのもとできらきらと輝く金髪を揺らして立つシャルに、またもや視線が集まった。納得の色を少なからず含んでいるのは、シャルがここへ入ってきた理由が判明したのと、こういった場所で歌い手がうたを披露するのはごく一般的であることによるものだろう。 シャルは女将の義兄だという男からさっそく声をかけられ、その指示に従って喉と下腹部とに軽く手をやった。 あふれ出す澄んだ高音の旋律に、室内が満たされる。 ともすれば甲高いだけで終わりそうな音域の声は、細いようにきこえても強く響きわたり、その細さがかえって人々の胸にゆっくりとしみていった。 いっそ無表情なくらいの仮面が被せられた白い顔はときおりかすかに表情を変え、見る者が見ればその移り変わりを楽しむことができただろう。歌の雰囲気をシャルは熟知しており、感情過多にうたいあげすぎるのはこの歌の場合厳禁だと知っていたのだ。 湖水の瞳はときにいとおしげに、ときに苦しげに細められ、うすく開いた紅の唇から万感の思いが乗った旋律が流れ出す。 身体を頭から貫く力強い音に、シャルは陶然と酔い痴れた。いつになく喉の調子がよく、自分でも驚くほどの音色が紡げる。 これだけうたえれば、あまりにひどい評価をくだされることはないだろう。とりあえず、女将の顔をたて、自分のプライドも保てたわけだ。 『……私は恋に病んでいますから……』 ナタリー・ウィンズの代表曲最後の一節をうたいきり、シャルはうっすらと微笑んで頭をさげた。沸き起こる拍手は、よほど関心がない者を除いたすべての陽気な男たちから供せられたものだ。 これほど多くの歓声をもらったのは初めてのことだった。シャルは踊りだしそうな心臓を片手でそっと押さえ、次なる声に答えてふたたび口を開く。 結局、女将の制止が入るまで続けて五曲、シャルはその歌声を熱気にみたされた酒場に響かせた。 いつになく興奮した頬の色をみせるシャルは、先刻食事を摂った小部屋に足をもつれさせて駆け込むと、クリューの差し出した果実水を一息に飲み干した。林檎のさわやかな香りが口腔に広がる。 「……なんか、疲れた。暑い……」 ぐったりと座りこんで呟くと、隣に腰かけたジェフはシャルの肩をやや強すぎるくらいの力で叩いた。 「でもさ、すごくよかったと思うよ。シャルの歌……前に聴いたときより」 「そりゃあ、あのときは特に気合が入ってたわけでもなかったからね。うん、今日は調子よかった。自分でもそれがわかって、楽しかったな。皆さ、すごく喜んでくれるじゃない。こうまで手放しで拍手をくれる人があんなにいたってことも驚いたし、それにわたし、少しお酒が入ってたし」 それは確かにそのとおりで、上気した頬とやや潤んだ青い瞳にその影が見えていた。 いまだうるさく鳴り続ける心臓の音に耳をかたむけ、シャルは目を閉じた。疲れたのは本当だが、できることならあのままずっとうたいつづけていたかった。自分はあのとき酔っていた。子供が飲むような弱い酒だけでなく――――歌そのものに。 シャルが至福を感じるのは、うたっているときだけと言っても過言ではなかった。それなりに人生を楽しんでいる自覚はあるが、あの凄まじいまでの酩酊感と快感はほかのどんな娯楽のもたらすものの比ではない。 またこの幸せが明日からも続くのかと考え、シャルは手近にあった蒸留酒の瓶に手をのばした。 |
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