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Thank you for the Music (2)

 軽快な音をたててまわる馬車の車輪が踏みしめているのは、砂埃の舞う乾いた地面でもしっとりとしめった土でもなく、きれいに舗装されたフラッセア王都の街路だった。
 二頭立ての馬車の窓から顔を出し、食い入るようにして街並みを見つめているシャルの横、まだ身体つきも顔立ちも幼い少年が溜息をついた。
「シャル、馬車から手や顔を出しちゃいけないって教わらなかったのかよ」
「だって田舎では馬車なんてものには乗らないもの。鞍をおいてそのまま乗るか、牛がひいてる荷車のはしっこに乗っかっていくかだけで。そりゃあ話には聞いたことくらいあったけど、人だけを乗せるのを目的につくられた車なんてあそこでは縁のないものなのよ」
 本当は、こんな立派な馬車など用意してもらわなくてもよかったのだ。野良仕事で培った健脚は、貴族ならば避暑地や避寒地まで長い時間をかけて馬車で進むところを故郷からひたすら歩いてきたことでしめされているし、それを思えば都の散策など楽なものだ。
 けれどもグラバートの後継ぎであるアルディランから都に不慣れなシャルという客人をまかされたリルイースは、彼女に御者をひとりと案内役に少年――ジェフをつけてくれたのだ。
 このジェフ、十七になるシャルにとっては弟のような存在――というか、弟と同い年であるのだが、グラバートの屋敷で自分のつとめをはたしているだけあって、やたらと口が達者で、しかも客人であるはずのシャルにたいしてさえ態度がでかい。まだまだ子供っぽい面がのぞくことも多く、シャルから見れば弟とおなじただの子供なのだが、あなどれない部分があることも確かだ。
 故郷にいたときのような軽口をかわせる中であるこの少年はまだ都に慣れないシャルにとってはおおいにありがたい存在なのだが、口に出して言ったことはないしそれを認めるのはしゃくだった。
「だいたい、自分の足で地面を歩いて、気のむくままに行きたいところへ行って見たいものを見るのが正しい観光というものでしょう? どうして、馬車で移動しなきゃいけないのよう」
「馬車で移動するのが、なんでイヤなんだよ」
「だって! あんたは気づかなかったでしょうけど、さっきすれ違った女のひと、何してたと思う? 赤ちゃん抱いて『ダルメニィ』歌ってたのよ!」
 それがどうしたと言わんばかりの表情でこちらを見つめるジェフに、シャルは声をはりあげて力説した。
「聞いたことない編曲《アレンジ》だったわ。もったいないことをしたと思わない? できれば教えてもらいたかったなあ、ねえ聞いてよ、わたし『ダルメニィ』の編曲、九種類知ってるのよ。あれを覚えられたら、ちょうど十種類だったのに」
 シャルは本気で残念に思っていたのだが、ジェフは茶色の瞳であきれたように彼女を見た。
(なによっ、自分だってどうせ『ダルメニィ』聞いて育ってきたくせに)
 ジェイルを代表する楽師、フィラーン・リアスイ作曲の『ダルメニィ』は、もともとは簡単な練習曲だったのだが――というより、リアスイが思いのたけをこめたことは知られていたが、難易度がそれほど高くないのである――、それに誰かが歌詞をつけ、それが子守女などの間で瞬く間に広まっていったのだ。たいていの者は『ダルメニィ』を子守唄として知っているにちがいない。
 また、歌詞や旋律は地方によって、年代によってちがいがあり、シャルは母からつたえられたもののほかにも何種類かの編曲を知っていた。
「でもさ、そんなちょっと聞いただけでわかるもんなわけ?」
「そうなのよ、だから惜しいんじゃない。ちょっと音がちがうだけの編曲だったら、きちんと全曲通して聞いてみないとわからないわよ? でも、馬車が通りすぎる一瞬の間にちがうってひらめいたんだもの、きっとわたしが聞いたこともないようなのなんだわ。ああもう、本当に悔しい」
 ふう、と、見かけ美少女な歌姫志望は、青い瞳に憂いをあふれさせて息を吐いた。こうやっていると本気で落ち込んでいるように見える……のだが、たいていの人間とちがいジェフはだまされなかった。
「柄でもないことするなよ、それともいまから演技の練習か?」
「うるさいわね」
 むっとジェフを睨んだシャルだったが、次の瞬間眼前にひろがる尖り屋根の大きな建物を見つけ歓声をあげた。
「ねえあれ、あれってグラエ・ナーダ?」
「そうだよ、今は礼拝とかなにもやってないみたいだけど。ただ、お屋敷にいても聞こえるだろ、もう少ししたら鐘が鳴るよ。昼の鐘だ。なあ、食事どうするんだよ」
 ああそういえば昼時だなあと思わず下腹部に手をあてたシャルに、ジェフはけらけらと笑って言った。
「なにやってんの、シャル。……でさ、どうする? どっか食堂でも入る?」
「お金はあるのよ」
 にっこりと笑って言うシャルだが、じつをいうと彼女の金ではなく、レイルシュにもらったものだ。
「やっぱりどこか入りましょうか。でもわたし、わからないから」
 だからあんたにまかせるわ、と言うと、ジェフはううっとうめき声のようなものを発したあと、しばらく考えこんでからぽんと手を叩いて言った。
「じゃあさ、アヴァル地区のほうに言って」
 そのへんの地理はよくわからなかったが、とりあえずジェフの言葉を御者に伝える。――アヴァル地区の南、そっくりおなじかたちをした家が三軒並んで建っている。三つ子がそれぞれ宿屋、酒場、食堂を経営している店の、まんなかが昼から開いている食堂なのだという。
「おもしろいとこね」
 そもそも三つ子なんてものが存在すること自体、シャルは夢にも思っていなかった。一度に三人の子供を育てる母親というのは、よほど忍耐強くて心優しい女性なのだろう。
「兄貴に教えてもらったんだよ」
「……あらあんた、お兄さんがいたの?」
「なんでおどろくんだよ、いないだなんて言ったことないだろ」
「それはそうだけど」
 べつに兄がいても不自然ではないのだが、どちらかというとちいさな弟妹に囲まれているのが似合っていると思っていただけに驚いたのだ。
「リルイースさんと同い年だよ、ときどき屋敷にも遊びにくる」
 ということはその兄は屋敷の人間ではなくて――ジェフの親を屋敷で見たこともないから、彼は完全に家族と離れて暮らしているのだ。
 シャルの故郷にも商家や地主のところへ奉公に出る者はいたが、このジェフがそうだと思うとなぜか心が落ち着かない。
 傍から見ていてもわからないほどかすかに眉を寄せてシャルはジェフを見ていたが、首を振ってもうひとつ気になったことを尋ねた。
「リルイースさんっていくつなの? ずいぶんお屋敷で信頼されてるみたいだけど」
「二十歳だよ。うちの兄貴とおなじって言ったろ。四年前にここに来たんだって」
「ずっと昔からグラバートで働いてると思ってたんだけど。だって若様ともレイルシュとも仲がいいし」
 リルイースのアルディランやレイルシュに向ける態度は、使用人の主にたいするものとしてはおかしかった。たしかに言葉も態度も丁寧なのだが、その中にあきらかな親愛の情が見てとれる。そして、ふたりの青年たちもそれを認め、リルイースをまるで家族のようにあつかっているのだ。シャルが都に到着した最初の晩餐にリルイースが同席したことからもそれがわかる。あれはきわめて異例の待遇――というよりも、本来ならば絶対にありえないことだった。
「それは確か……若様の兄上が、本来ならグラバートを継ぐべきだったところを、クレイトのアナベルお嬢様っていうものすごい美人で、でも人見知りが激しい人の婿になって家を出たんだって。それで、リルイースさんはそのアナベルお嬢様が唯一信頼して側に置いてた人で、お嬢様が結婚したあとに若様に雇われてこっちへ来たんだよ。今は屋敷の雑事はしてなくて、若様とレイルシュさんの身のまわりのことだけしてるんだ。レイルシュさんとは、ご両親が知り合いだったって聞いたけど」
「そうだったの……でも、すごくきれいな人よねリルイースさんって」
 シャルは言って、柔らかな座席に深く腰かけなおした。
 ほどなく馬車はかわいらしい三つの屋根が並ぶ前の通りに到着し、ジェフがすばやく馬車から飛び降りるとシャルのほうの扉を開けた。差し出された手を、ややためらいがちにとってシャルも地面に降り立つ。
「ありがと」
 自分の手もなめらかで柔らかいとは言いがたかったが、それでもまだほっそりと白い色をしている。けれどジェフの手は身長がさほどかわらないにも関わらずシャルよりも大きく、固くて骨張っていた。
(この子、普段はなにしてるのよ)
 それなりに水仕事も農作業もこなしていたつもりだったが、それでもシャルは他の手段で収入をえることができ、また近隣に大きな農園を持つ家の娘だったぶん村の娘たちとくらべても肌の荒れがないほうだった。
 ジェフもなりはまだ小さくても、仕事は一人前にこなしているのだ。
 負けられない、と思った。いつまでもグラバートとレイルシュのお客さんでいるわけにはいかないと。
 食堂に入ると、店はなかなかのにぎわいを見せていた。夜に近所の男たちが集まる酒場は知っていても、故郷では畑に出ているこんな時間から繁盛している食堂は見たことがなかったシャルがとまどっていると、ジェフはその手をひいて人の波のなかに身体をねじこんだ。
「ぼさっとしないでよ、こっちだよ」
 奥に見つけた空席に、ジェフがいちはやく座りこむ。注文を取りに来た少年はジェフと同じくらいの年格好で、青い目が女将とよく似ていた。
「シャルはなにがいい?」
「なんでもいいわ、なんでも食べるしよくわからない」
 問われてそう答えると、ジェフは顔見知りらしい少年と顔をつきあわせて適当に注文してくれたようだった。
「……ねえジェフ、あの子、あんたの友達?」
「そうだよ、もう七年前になるかな、初めてここに来たのは。そのときからの友達で、クリューっていうんだ」
 嬉しそうにそう言ったジェフを見て、シャルもまた微笑み、手元のよく冷えた水を飲み干した。
 しばらくして食事が運ばれてくると、シャルとジェフは競うようにして料理をとりわけた。
 からっぽの胃が空腹をうったえるままに、シャルもジェフもまたたく間に机の上をきれいに片付けていったのだった。


 なにか、このあと見てまわりたいものはあるかと聞かれた。
 だが、マリセラ・スールの住むグラエ・ナーダ大聖堂はもう、外側からとはいえ眺められたため、シャルには次の希望がなかったのだ。
 するとジェフは、しばらくこの店に居座っていてもいいかと遠慮がちに言った。昼食をとる客が途絶えたら、店は夕方までいったん閉めるのだそうだ。
 グラバートに雇われている身では友人と会うのもままならないだろうと思い、シャルはそれにうなずいた。
 黒髪のクリューが店を閉めると、シャルはカウンター席のほうへ移動した。クリューの母親だろう女将の姿をぼんやりと見つめていると、視界のすみにクリューとともに床掃除をはじめたジェフの姿が目に入った。
「ジェフ、わたしも手伝ったほうがいいの?」
「えっいいよあんたは。そこでゆっくりしてれば」
「そうよ、お嬢さん」
 量の多い黒髪を垂らした、長いまつげに覆われた瞳が魅力的な女将にも止められ、シャルは浮かせた腰をふたたび落とした。シャルの母親と同じくらいの年齢だろうか。これが三人いるのなら圧巻だろうなと思った。
「ジェフはいつも手伝ってくれてるからいいけど、グラバート様のお客さんに床掃除なんかさせられるわけないでしょ」
「わたし、お客じゃなくて居候なんですけど」
「おんなじことよ」
 女将は紅い唇で微笑み、洗い物をしながらシャルに言った。
「それにジェフは、グラバートのお屋敷の人にあなたを案内してやれって言われたんでしょう? だとしたら少なくとも今日一杯は、あなたがあの子の主人じゃないの」
「都はそういう理屈で動いているんですか……?」
「まあね。あなたが自分を客だと思ってるか居候だと思ってるかはどうでもいいことだわ。問題なのはジェフがあなたに掃除なんかさせられないって言ってることよ」
 女将の言い分はともかく、今は食べすぎたのか床掃除などできる状態ではなかったため、シャルは水の入ったコップをあけて横の壁にもたれかかった。
 床掃除をしたり、窓を拭いたり棚の埃を払ったり食器を磨いたりしているジェフは、年相応の顔ではしゃいでいて、シャルから見ても本当に楽しそうだった。くるくるとかわる表情を眺めていると、いつまでも飽きることがない。クリューと隣にいるジェフは、まるで兄弟のように仲が良いように見えた。
(なんかいいわね、ああいうのって)
 シャルにも弟はいるのだが、性別もちがうし性格もあわない。幼いころから歌にうたわれている男女の恋愛だの旅物語だのに夢中になっていたシャルと朝から晩まで外で転がりまわっていた弟とはあまり接点がなかった。
 ああいうふうにじゃれたことなどなかったなあと、思う。
 それを寂しいと思ったことはなかったが、弟はどうだっただろう。現実的な性格をしていながらその堅実さで追い求めるものははてしなく夢物語にちかいところにある、そんな姉をどう思っていたのだろう……。
(夢のため、は大義名分にはならないんだよね……)
 家族を、捨ててきたことへの。
 落ち着いたら、とりあえず手紙を書こう。……というか、書かねば母に何を言われるかわからない。
 そうやってしばらくぼうっとしてたシャルだったが、楽しそうに、また軽快に仕事をこなしていくジェフとクリューを見ていて、頭のなかで何かがさわぎだすのを感じた。
 ぐるぐるとまわる旋律――――それをつかみとり、シャルは思わず口を開いていた。
『とりだした花を帽子にさして――』
――わたしの手をとりくるりとまわる。
 シャルは食堂のすみのほうで、ちいさく口ずさんだ。声は小さいが、掠れたり潰れたりはしていない。運動はしていないがうたえないのは困るため、そこそこ鍛えてあるのだ。座っていても下腹部に力をいれればそれなりの歌はうたえるし、声量も自在に調節することができる。
 ややうすめの紅の唇からつむぎだされる音に、まず反応したのは女将だった。
「こりゃあ驚いた……」
 洗い物の手を止めてシャルの歌声に耳をかたむけている。
 次いで、遊びながら作業しているような少年ふたりがぴたりと立ち止まった。
 彼らの耳にもなじみのある、都の流行歌だった。
 高く細い、けれども強靭な声が静かに響きわたる。決して大きくはないのに、向こうの壁の前に立っているジェフやクリューのところまで届いていた。……透き通るような甘い歌声。黙っていてもそこそこきれいな顔をしているが、青い目をやや細め、至福の表情を浮かべてうたっているシャルはまた格別だった。
 夢を見ているような、その陶然とした表情に見惚れかけたジェフが、シャルは自分たちが働くのにあわせてうたっているのだと気づき、慌ててクリューを肘でつついた。
 一瞬、止まっていた時間がふたたび流れ出すと、感嘆の溜息をついた女将が言った。
「あんた、ずいぶんきれいな声でうたうねえ」
「ありがと。実家でもね、家の手伝いそっちのけでうたってたからずいぶん叱られた。でも、一応これで稼いだりもしてたのよ。教会で聖歌隊の指導をしたら、神父さんが上等のワインをくれたの。寄進されたものなんだけど、呑まないからって」
「食堂ではうたわないの?」
 なかば本気の表情で言った女将に、シャルはにこやかに答えた。
「うたうわ、うたわせてくれるところがあれば。旅費がたりなくなったら、そうやって稼いでたし」
 その言葉に、女将は身を乗り出し、
「じゃあお嬢さん、ものは相談なんだけど、夜にお屋敷を出てこられる?」
「たぶん、大丈夫だと思うけど」
「……あのね、隣の店があたしの姉の酒場なのよ。そこで、うたってくれないかしら。毎日とは言わないわ。食事も、謝礼も出す。なんだったら送り迎えしたっていい」
 女将が次々と並べ立てる条件に、シャルは驚いて澄んだ湖の色した瞳を見開いた。あきれるほどの好条件だ。そんな熱心に勧誘されるほど自分の歌に力があるとまでは自惚れていなかったシャルは、日ごろの彼女らしくもなく口ごもる。
「そんなしてくれなくたって、わたしうたいます。そんな出し惜しむほどの歌じゃないし」
「何言ってるのよ。めったに聞けないわ、あんたの歌とはれるものは」
「いやだ、そんなに褒めないでよ」
「あたしあんたの歌好きよ、若いころを思い出すわ。……姉にはあたしから話しておくから、お願い、うたってちょうだい」
 子供のように目を輝かせて手をあわせる女将に、シャルはうなずいてみせた。
「わたしのほうからお願いしたいくらいだわ。いつからくればいいの?」
 夢を追ってきたシャルが観光ばかりしていられるわけもないが、実際には都で何をすればいいのか具体的に決めていた、あるいはわかっていたわけではなかった。思いがけず舞いこんだ話に頬をゆるませ、女将をじっと見つめる。
「そうねえ……姉に話をとおしたら、クリューをジェフのところにやるから、あの子から聞いてちょうだい。だめなんて言われることはないと思うわ」
「本当に……ありがとうございます」
 頭をさげると、女将は果実水をシャルの前に出した。淡い桃色に色づいた水から香るほのかな甘いにおいに、シャルはそっと微笑んだ。
 季節がきたため、林檎が大量に入ってきているのだろう。林檎の香りがする。
 彼女の村の近くにも、広大な果樹園がひろがり、秋になると紅い林檎がたわわに実っていた。こっそりと柵のこわれたところから入りこんで、地面に落ちたばかりのものを拾って食べたことがある。
 シャルは林檎が好きだった。果物はなんでも好きだったが、林檎は格別だった。
 彼女が生まれた季節の果実、彼女の村をおさめる領主の家の紋章、そして彼女の初恋のひとが育てていた果物。――そのすべてが、林檎だった。
「おいしい」
 都に来てから、舌が肥えたような気がする。
 アルディランやレイルシュととる食事は気詰まりで、このごろはジェフと台所のすみで食事にする。都に、グラバート邸に集められる食材はどれも質が良く、太っていないかと心配だった。
 ジェフとクリューが掃除を終え、シャルに出されたものと同じ果実水を女将から受け取った。喉を鳴らして飲むのを見つめていると、微笑ましい気持ちが胸を覆う。
 それから店を出て、待ちくたびれた様子の御者をさがし、シャルは馬車で帰路をたどりはじめた。


「俺、知らなかったよ」
 帰りの馬車の中で口をとがらせたジェフに、シャルは青い瞳を瞬かせて問いかけた。
「何が?」
「……シャルが、あんなにいい歌うたうこと」
 うらめしげな視線ではあったが、ジェフがシャルに嫉妬や羨望をむけているわけではなかった。ただ純粋に、シャルがそのことをちらりとでも口の端にのせていなかったことが悔しいのだ。都に来たのも観光めあてなどではなく、歌を志してなのだと気づいたのかもしれない。
(ジェフに不機嫌になられても困るんだけどなー)
 だいたい彼は、リルイースに頼まれて本来の職務を休み、シャルの案内役をしているだけのはずだ。シャルがどのような目的で都にあがろうと関係ない。
 ことさら彼をはねのけようとする心の動きが、少し不可解でもあったが、シャルはその疑問を心のやや深いところにしまいこんだ。
 なんだか――胸のあたりが、妙にもやもやしていたからだ。これ以上何か抱えこんだら、とんでもないことになりそうな気がする。
 光を反射する白い石畳を見下ろし、シャルは呟いた。
「いい歌って、思ってくれるなら嬉しいわ」
 少しでも多くの人に。
「きれいだと、思うよ。まっすぐで、シャルの瞳みたいだった」
「……え?」
「青いみたいに見えるけど、ほんとうは無色なんだよ。光が入って見える色が変わる。たぶん、心の奥でうたうことを知ってるんだ」
 旋律から情景をつかみとって、こころに乗せる。
 こちらをまっすぐに見つめてそんなことを言ったジェフに、シャルは思わず目をそらした。
「あんた、随分言ってくれるわね」
「だって、ほんとにそう思ったんだから仕方ないだろ」
 けれどジェフの言葉は真実を告げていると、ほかでもないシャル自身が理解していた。歌は彼女の一部であり、欠けてはならない片腕だった。歌とうたうことはシャルの日常に不可欠なものであり、それを奪われたら自分はどうなってしまうのだろうと恐怖をおぼえる。
 たとえ喉がつぶれようとも自分はうたい続けているだろうと――そう思ったのは、いつのことだろう。声が出なくても、外への道が閉ざされていても、自分はきっとうたっている。心の中にあらんかぎりの力で振り絞った旋律を流し、それがむくわれない哀しみを乗せた歌が心の内壁を傷つける。
 賞賛されるためにうたうのではない、けれども誰にも聴いてもらえないままに儚く消えた歌は、ずっとシャルを苦しめ続けるだろう。
 だから――彼女はうたう。
 彼女を認める人間がひとりでもいるのなら、どこへでも飛んでいく。
「ありがと、ジェフ。あんたのためにも、うたうわよ。わたしの歌が好きって言ってくれるなら」
「いいよ、小母さんのところでうたうんなら、俺も聴きに行くから」
「そう? 仕事はいいのかしら?」
 わざとからかうように言うと、ジェフは拗ねたような顔をしてそっぽを向いた。
(この子かわいい……)
 青い目がやや潤み、思わず笑い出してしまった。ジェフはそれにいっそう気を悪くした様子で、シャルの金髪をひとつかみ引っ張った。
「痛いわね、髪の毛引っ張らないでよ」
「何笑ってんだよ!」
「べつにあんたのことを笑ってるなんて言ってないでしょ」
「ほかに何笑うっていうんだよ」
 シャルはジェフが手触りの良い金の糸をつかむ手を引き剥がそうとそれに触れた。その途端、思わぬ手の大きさと熱さにはっと手を引く。
 もう一度そろそろと手を伸ばし、ジェフの指を掴んだ。
 金の頭を振って、指の絡まった相手をじっと見つめる。
 深く澄んだ湖水の瞳と、柔らかな茶色の目がぶつかって、どちらもそらすタイミングがつかめず戸惑いの色を浮かべた。
 なぜ視線を振りほどけないのか――その原因を、両者とも把握しきれていなかったからだ。



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