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Thank you for the Music (1)

 わたしには夢がある
 いつか奇跡が花ひらく街へ出て、大舞台でうたうんだ
 わたしのなかの歌うたいの血がさわぐ
 こんな片田舎でくすぶっていられるわけがない

 わたしには夢がある
 王様王妃様王太子様のまえで、わたしのうたを披露する
 拍手喝采この身にうけて、おおきな花束もらうんだ
 そうわたしには夢がある……


 なるほど確かに、シャルディーレはうつくしい娘だった。あざやかな金髪もきめの細かい白い肌も、彼女が土地だけはだだっ広いひなびた田舎で農作業に携わるかたわら安酒をふるまう酒場でうたっていたことを思えば奇跡のような艶をはなち、金のまつげに縁どられた青い瞳は夢への憧れと期待とでくもりなく輝いている。そのまま故郷ですごしていれば、どこぞの領主の息子に見初められることもあっただろう。けれど彼女にとっては地方領主の奥方の身分よりも、幼いころから追い続けていた夢のほうが勝っていたのだ。
 彼女が家をとびだして王都へ向かった背景には、歌姫ナタリー・ウィンズの華々しい成功譚があっというまにフラッセア全土を駆けめぐったということがある。
 ナタリー・ウィンズは王都の花街、遊郭が経営しているような酒場でうたっていた母を持ち、その母親は酒におぼれてみなしご同然の育ちをしてきながら、王立劇場のごみ捨て場で歌劇をおぼえ、ついには王立劇場の主演女優を務めるようになったという、かがやかしい経歴の持ち主だった。彼女にあこがれるシャルのようなものはあとをたたず、王都には歌姫志望の少女たちが溢れかえっているという。
 そんな状況で身ひとつで王都へあがったシャルを、だれもが無謀だというだろう。けれども彼女自身は、この上都をそれほどおおごととは考えていなかった。これはシャルがずっと胸のなかで暖めつづけてきた夢の発芽であり、いずれ訪れるべき当然の旅立ちだったからだ。
 彼女は母方の遠い親戚で、都で遊学中の身だという青年に話を通してもらい、はるか遠い王都をめざして歩いてきた。途中の宿にそこでうたっている者がいなければうたわせてもらい、宿代をけんめいにうかせて、母の言葉――歌で身をたてるつもりならば、王都への旅費くらい自分でかせいでみなさいというそれを実践してみせたのだ。
 結果、故郷の村から王都まで半月以上の日数を要したが、旅の途中でうたってみせた歌はどれも好評で、シャルは王都へむかうに際しての自信をかせぐことに成功した。
 王都に、自分よりもうつくしく、自分よりも歌うたいとしての才能がある娘がいることはわかっている。わかっているからこそ、いつでも自信に満ちあふれた姿を見せていなければならないのだ。きらきらしい都で自分のような田舎者が生き残るには、その絢爛な空気に気圧されていてはだめだ。むしろ無知なことを逆手にとるくらいのいきおいで突き進んでいかなければ。
 だから彼女は、めいっぱい自分のなかの闘志をたかめてから都に入った。
 はじめて見る都はすこしひんやりとした秋の空気につつまれて、夏の暑さをしのぎきりようやくほっとひといきつけた様子の人々が通りを闊歩している、そんなところだった。
 今から彼女が向かおうとしているところは、それこそ王立劇場の客が住むような高級住宅街で、立派な四頭立ての馬車がからからと車輪の音をたててすれ違っていくのが見える。すこし気後れしてしまいそうな自分を叱咤しながら、シャルはそのなかでもひときわ立派な構えをした門の前に立ち、門番をしている衛士に声をかけた。
「失礼ですが、こちらはグラバートさまのお屋敷でしょうか?」
「はい、どなたにご用でしょうか」
 まだ若い衛士が手慣れた様子でシャルに答えた。
「こちらでお世話になっているレイルシュ・フィレットの遠縁の者です。女のひとり旅でしたもので正確な日時はお知らせできなかったのですが、しばらくレイルシュのもとで世話になる旨は伝えてあったと思います」
「わかりました。……こちらでお待ちいただけますか、今話をとおしてきます」
 衛士の若者はシャルを門の脇のちいさな小屋にとおし、保温性の高い陶器のポットから赤茶色にすきとおる紅茶を注いで差し出した。いれたてでもなんでもないのだが、とりあえず温かくて故郷ではめったに口にできなかった白い砂糖がたっぷり添えられていたので思いのほかおいしく感じたのは確かだ。
「わたしみたいな小娘にも、白砂糖を出してくれるのねー……」
 実家では白砂糖なんて年に一度か二度のお客様用だったから、門番小屋のようなところに白砂糖が常備されているのもおどろきだった。
 母屋よりもむしろ蔵や家畜小屋のほうが大きいシャルの実家が一軒すっぽりと入ってしまいそうなほど大きい部屋に、仮眠用の寝台と毛布が備えられている。食事を作る設備こそないが、シャルはここで暮らせと言われたらおそらく寝起きできるだろうなと思った。
 門番小屋でさえこんなに広いのだ。屋敷の本棟のほうはどれだけの面積があるのだろう……。
(……って違うわよ、門番小屋ごときで呑まれててどうするのよっ)
 シャルは首を振り、あらためてふかふかとした長椅子によりかかった。もとが悪くないだけに、そうやって悠然としているととても門番小屋の広さに呑まれたおのぼりさんには見えない。
 そのまま、身じろぎもせずに黙って座っていると、音をたてずに静かに入ってきた影があった。
「あれ……」
 先ほどの衛士の青年よりさらに若い、シャルと同い年くらいの人影だった。光を吸いこんで濡れたような輝きを放つ黒い髪の毛は彼女に劣らないほど長く、白い頬を取りかこんでさらさらとゆれている。
 シャルを見てふんわりと微笑んだ姿が、つられて笑みをこぼしてしまうほどなごやかだ。シャルよりも年上に見えるが、驚くほど清楚で潔癖な印象の人だった。屋敷の侍女か何かだろうか。シャルの案内役か、あるいはこの開放的な都でなら門番の恋人ということもあるのかもしれない。
「お客様ですか」
「ええ――今、衛士のかたが取り次いでくださっています」
「けれどそれでは時間がかかりますよ、よろしければわたしが屋敷までお連れしますが、どちらへご用ですか」
 麗人の申し出に、シャルは青い瞳を細めてにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか。……わたし、こちらでお世話になっておりますレイルシュ・フィレットの遠縁の者で、ウアルから参りましたシャルディーレと申します。連絡は入っているはずです」
「あの――レイルシュ、様の親戚のかたでいらっしゃる?」
「ええ……」
 もっとくわしい関係を説明しなければいけないかと不安になり、シャルは早口で言った。
「わたしの祖母は、レイルシュのお祖母さまの姪にあたるのですが」
「あ、いえ、そうではなくて……失礼しました、レイルシュ様は今出かけているのですが、その……わたし」
「どうかなさいました? 彼が留守にしていらっしゃるなら、こちらで待たせていただきたいのですが……」
「いえ、では場所を移してもかまいませんか? こんなところでお待たせしては申し訳ありませんから」
 シャルは思いがけず自分の案内をつとめてくれることになった人の後ろについて、門番小屋を出た。やはりレイルシュ・フィレットの親戚だといっても正式なグラバートの客人ではないシャル相手に屋敷の門はひらかれないらしく、使用人の通用口から屋敷の中へ入っていく。そのせいもあってか、シャルは自分があたらしく入った侍女かなにかに見られていることを確信した。
(なによ、田舎者だけどわたしは客よっ)
 突き刺さる視線に耐えながら階段を昇り案内された一室は、あたりまえだが門番小屋とは比較にならないくらいに豪華に飾り立てられていた。案内人はその華奢な肢体によらず意外と力があるようで、シャルの抱えていた荷物を預かり、部屋のすみの荷台に無造作に置く。ただ荷物を置くだけのものだというのに、その台も客間の茶台に使いたいほど精巧な彫りがほどこしてあった。
「少し待っていていただけますか」
 その言葉とともにシャルはひとり残されたが、先ほどの人物は引きつづきシャルの世話を申しつけられたらしく、ほどなくお茶とお茶請けの焼き菓子を持って帰ってきた。
(ああ……やっぱり白砂糖かかってる……あのシロップも透明度が高くてすごくキレイ……)
 年に一度の祭のときでさえお目にかかれない上等の菓子を見て、シャルはめまいにおそわれた。
「あの、それで……シャルディーレさん、でしたよね」
「はい。……失礼ですが、あなたは」
「申し遅れました、わたしはリルイース、このお屋敷でレイルシュ様のお世話をしております」
 丁寧に頭をさげると、艶のあるうつくしい黒髪が肩からすべり落ちる。そのさまにしばし見とれ、シャルは次に姿勢を正した。
「レイルシュ様は今お出かけになっておられるのですが……客間を用意していますので、とりあえず荷物をそこへおさめてください。そのあとは……どうなさいます、都の見物にでも」
「いえ、おかまいなく。すこし疲れたので、休みたいんですけど」
「わかりました。夕食のまえに、呼びに参ります。そのころにはレイルシュ様も帰ってきていらっしゃると思いますから」
「ありがとうございます」
 リルイースはシャルがお茶と焼き菓子をきれいにお腹の中へおさめたのを確認してから、部屋の隅のシャルの荷物を持ち上げた。
(ってあなたわたしより細いでしょうに)
 自分で持っていこうと手を出しかけて、シャルは思いなおした。リルイースの仕事を奪ってはいけない。
 シャルの家のまえの通りに匹敵する幅がある広い廊下を抜けリルイースに案内されたのは、さわるのがはばかられるくらいに磨きあげられた扉だった。
「こちらを自由に使ってください。なにかわからないところがあったら、わたしを呼んでいただけるとありがたいです」
「はい、あ……荷物を」
「こちらに置いておきますね。それでは、失礼します。夕食は三刻ほど経ったらご用意できます」
 リルイースはそう言って、静かに頭をさげると部屋を出ていった。
 見たこともないほど広く、華美な装飾の凝らされた部屋に、シャルは肩の力がぬけるのを感じた。
 額をおさえて寝台に座りこむと、うっかり腰が沈む。そのままうしろに身を投げだして、シャルは目を閉じた。
 なんのことはない、彼女はやはり圧倒されていたのだ――都の雰囲気に。
 彼女が育った村とは、あまりにちがう空気と時間とがここには流れていた。
 はなやかに浮きたつようなにおいのする空気に、シャルの胸が鳴った。さまざまな面において、彼女はいままでよりもあこがれの歌姫ナタリー・ウィンズに近いところにいる。
 わたしには夢がある……。
 何度もかみしめてきた言葉をもう一度つぶやき、シャルは起きあがると上着だけたたんで寝台にもぐりこんだ。
 金のまつげの奥にかすむ湖の色した瞳が、またたくまに眠りへと誘われておちていった。


 こんこん、とノックの音が響いた。
 扉の外がなにやらさわがしい。複数の人間の声がまざりあって、何を言っているのかは聞きとれなかったがシャルの意識をゆさぶった。
(なによ、あんな立派な扉なのにどうしてこんなにうるさいのよう)
 不機嫌に眉を寄せて、シャルはどうにかまぶたを持ち上げた。外に人を待たせていることを思い出し、がばりと起きあがる。皺になった服を脱いで着替え、たたんでおいた上着を羽織った。部屋に備えつけてあった大きな姿見のまえで髪の毛を梳かし、うしろでゆるく編みなおす。最後に水差しから注いだ清水で顔をぬぐい、ようやっと人前に姿をあらわせる格好に仕上がった。
「お待たせして申し訳ありません、なにか……」
 部屋の外には、夕食のときに呼びにくると言ったリルイースをはじめとして、三人の人間が立っていた。ひとりは昔の面影が残るレイルシュ・フィレットだったが、もうひとりの仕立ての良い衣をまとった青年には見覚えがない。
「夕食の支度ができているんですが」
「あ、はい」
 レイルシュと、もうひとりの青年との視線を感じ、シャルは内心溜息をついた。望んで都へ、レイルシュが世話になっているグラバート邸に来たのはシャルだが、かたくるしいのも見世物のような視線を送られるのも苦手だ。
 居心地の悪さを感じていたシャルに気がついたのか、リルイースはくすくすと笑って言った。
「すみません、食堂で待っているように申しあげたのですけど、お客人の顔を見るってきかなくて」
(あらまあずいぶんと気安いんじゃない、相当かわいがられてるのね)
 レイルシュと青年にむかって、まるで子供を微笑ましく見守る母親のような言葉を発したリルイースは、シャルの懸念にも気づかず一行を先導している。
 階段をおりて足の埋まりそうな絨毯の上を行き、つきあたりの扉を開けると、食事の用意がされていた。しかし食卓は部屋の大きさに似合わない小ささで、まるでシャルが故郷で家族と囲んでいるもののようだった。
 席が四つ用意されているが、これはやはり今ここにいる四人のものだろうか。けれどリルイースはグラバートの屋敷で『働いている』とたしかに言っていたし、だとしたらこうやって客とともに食事をとるのもおかしな話だ。
 シャルはリルイースに椅子をひかれ、かるく頭を下げると腰をおろした。リルイースはふたりの青年のほうは放っておいて隣室に消え、ワゴンをおして帰ってくる。
 手早く料理を並べると、リルイースは名前も知らない青年の左、レイルシュの正面に座った。シャルは自分の正面に悠然とかけている端正な面差しの青年に目をやりながら、どうにも落ち着かない気分を味わっていた。
 湖水を流しこんだような青い瞳が、相手の視線とかちあう。すると相手は、リルイースのほうへ首をむけて言った。
「リルイース、俺はこちらのお嬢さんを知らないんだけど、紹介してくれないのか」
「あ、そういえばまだでしたね」
(そういえばじゃないわよ、このひと自分の名前名乗るのも遅かったし)
 優しげな顔に笑みをはき、リルイースはシャルを示した。
「レイルシュの遠縁の方で、シャルディーレ様とおっしゃるそうです。シャルディーレ様、こちらはグラバート卿のご次男、アルディラン様です」
「アルディラン・グラバートです」
 そう言って頭をさげたアルディランに、シャルは表情にこそ出さなかったものの内心あっけにとられて黙り込んだ。
 グラバートの次男といえば、地方領主にしては豊かな暮らしをしているフィレットの親戚よりもさらに身分の高い貴族の若様である。そんな人と同じ食卓を囲む日がくるとは夢にも思わなかったシャルは、とまどいがおさまらないまま視線を落として言った。
「シャルディーレと申します、若様。お世話になります」
(なんか、姓もない名前でこんなかしこまった挨拶するのって間抜けよね)
 グラバートのアルディランを目の前にしているわりには的はずれなことを考え、ふかぶかと腰を折った。座ったままだが、そこはかんべんしてもらおう。
 次に、もう顔をあわせるのが十年ぶりくらいになるレイルシュに声をかけられた。
「久しぶりだね、シャル。リーレは元気にしてるかい?」
 年齢でいえばシャルとレイルシュが近いのだが、祖母、母はともにまだシャルくらいの年で子をなしたため、家系図を見ればシャルの母リーレとレイルシュが同世代の人間になる。またレイルシュが後をつぐはずのフィレットがリーレの本家になるため、レイルシュはリーレにたいしてまったく遠慮というものを持っていなかった。年も確か、十とすこししかかわらなかったと思うが。
「母ならまったく問題ないわ。あのありあまる体力をわけてほしいくらいよ」
 肩をすくめたシャルに、レイルシュが声をたてずに笑った。
 どうでもいいが、早く食べさせて欲しいものだ。自分が客だとはいえ、主人であるアルディラン・グラバートとはあまりに身分がちがいすぎる。
 シャルの考えが伝わったのかどうか知らないが、アルディランがみずからワインをとって注ぎ、飲み干した。それを合図に、シャルは食事に手をつけた。
 おいしい。
 香辛料が贅沢なほど使ってあって、はっきりしているのに決して濃すぎない味だった。未知の味に舌がなじんで、シャルは次々と皿の上の料理をたいらげていく。
「シャルディーレ様は、どうして都へこられたんです? 観光ですか?」
「いえ、仕事が見つかればこちらで働いて部屋を借りるつもりです」
「……だって、ご実家のほうでは、そろそろ結婚されてもいい年ごろでしょう?」
「まあ、都ではどうだか知りませんけど、むこうではそうですね。母がわたしくらいのときには、もうわたしがいたし」
「だったら……」
 シャルはその豪胆さからまったく平気に思っていたのだが、無言の食卓を気まずく思ったのかリルイースが話しかけてきた。
 シャルの淡々とした返答をきいて言葉につまるリルイースに、シャルはつぶやく。
「……わたしには夢がある」
「え……?」
「その夢を追ってきたのよ、母には無謀だって言われた。ううん、みんなに言われたわ。あんたは世の中を知らないんだからって。でもね、知らなければこれから知ればいいことだと思いません? 故郷にいたって、なんの手がかりもない、そんな夢ですもの、無謀だってなんだって出てこなければいけないでしょう」
「あのう……ちなみに、詳しい内容をお聞きしても?」
 ためらいがちに問いかけたリルイースに、シャルはうなずいた。
「歌をうたうんです、いえ……うたいつづけるんです。歌をうたっていられるなら、わたしは住むところがなくても食べるものがなくてもかまわないとすら思います。でも実際、それは不可能なことで――だからここでお世話になったり、歌と、うたうことそのもので食べていこうと思うんです」
 やや気の強さをにじませる白い頬を引きしめて微笑んだシャルに、リルイースと、そしてその話をだまって聞いていたレイルシュやアルディランも彼女を見つめた。
 彼らはナタリー・ウィンズの成功の軌跡と、彼女にあこがれた少女たちが歌を志して散っていくさまをつぶさに見てきている。だからシャルの言葉も、そういった夢物語としかとらなかったのだろう。
――けれど、シャルはまぎれもなく本気なのだ。飢えても寒くても、というのはすこし誇張かなと自分でも思うが、生半可な覚悟で家を出てきたのではない。
 けろりとした表情で、シャルは食事と会話とを交互につづけた。
「あなたがたの言いたいことはわかります。女優になるのは並大抵の努力では無理だっていうんでしょう。そんなことくらいわかってます、ナタリー・ウィンズの奇跡に夢中になってる小娘と一緒にされては困るんです。それに、歌で身をたてる職業というのが女優だけだと思っていたら大間違いです。マリセラ・スールの名前はご存知ですか」
 ナタリー・ウィンズのように表へ喧伝されるような人ではなかったので、知名度はそれほどでもないのだが、シャルにとってはナタリーとならんであこがれの人だった。
「もしかして、アリシア・スールの妹ですか?」
「アリシアって誰です、あなたの知り合い?」
 首をかしげたシャルに、リルイースは説明した。
「まさか。二年前に引退した、王立学院の音楽科教師で楽団の主席蒼皮奏者でもあった人です」
「マリセラ・スールっていうのは、グラエ・ナーダ大聖堂の少女聖歌隊の指導者で、<聖女>の称号を持つ最年少のかたですが」
 いくら有名な楽団の首席奏者とはいえ、田舎暮らしのシャルがそんな人を知っているわけがないし、教会関係者でもないのに、公のパーティにはほとんど出席しないというマリセラ・スールを知る人もいないだろう。一見同じように見えて実はまったくちがうところにいるふたりの人物だ。ふたりともスールという姓を持っているということは姉妹かなにかなのかもしれないが、シャルとリルイースの認識がくいちがっていても不思議はない。
「それで――話がそれたんですけど、だからマリセラ・スールというのはそれくらい教会の外部には知られていない人なわけで、わたしも彼女を知ったのはたまたま――近くのおおきな街によばれて、マリセラと同じようなことをしていたからなんです。つまり、聖歌隊の指導ということですが。それでわたしが何を言いたかったかというと、女優以外にも歌うたいの可能性はあるわけで、さらに都ではチャンスの絶対数が故郷よりも多いだろうと思ったということです」
 だんだんそれてきた話をようやっともとに戻したシャルは、ふうと息をついて普段あまりのまない酒をあおった。
 感心したようにうなずくリルイースに、自己紹介をしたきり黙っていたアルディランが言った。
「リルイース、たしかスール女史には妹がいたはずだけど」
「じゃあ――きっと、その方が妹さんですね」
 いつのまにかきれいに片付いていた皿を見て、シャルは少し驚いた。思いがけず会話がはずんだせいで、無意識のうちに手がうごいていたのだ。
 けれどもっと驚いたのは、彼女の話し相手だったはずのリルイースも、きわめて優雅な動作で食事にしていたレイルシュもアルディランも、とうのむかしに皿をからっぽにしていたというその一点だった。
 リルイースがアルディランに快活な口調で返答し、けれどもそこで会話がうちきりになると、今度は自然な流れでデザートがはこばれてきた。
 はじめて食べたチョコレートムースに満足したシャルは部屋に帰ると、夕食の直前まで眠っていたにもかかわらず、今度は寝間着に着替えてどさりと寝台に倒れこんだ。
(あー……このお屋敷でならあっついお湯で身体洗えるんだろうに……)
 旅を終えたばかりの身には、たっぷりの湯での湯浴みはとても魅力的なさそいだった。
 ならばどうして彼女が起き上がって湯をたのまなかったのかというと――なんのことはない、この客間の寝台は、彼女が雲の上で眠っているのではないかと思うほど柔らかく、寝心地がよかったのだ。
 それだけのことだった。
――――こうして、シャルディーレが夢を追いかけてきた都での第一日目が終わりを告げた。



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