腕の中の天使 |
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(5) |
「わたしには……ずっと、お嬢様に黙っていたことがあるんです。それはあなたの望んだことで、それによってわたしは人から見れば不自由を強いられていたのかもしれません。けれど、その責をあなたが負わなければならないということはないんです。それだけ承知していてくだされば、わたしはあなたの疑問もわたしの事情もすべて説明いたします」 感情に任せたレイルシュの糾弾に呆然としていたアナベルに、リルイースは来るべきときの到来を悟って溜息をついた。 アナベルの不安げな表情を見れば、彼女も今の状況に疑問と矛盾を抱えていることは一目瞭然だったからだ。 この不安を解消したら、アナベルは新たに罪の意識を抱え込んでしまうことだろう。しかし、リルイースにしてみれば、それはすべて自分の決断が招いたことであり、アナベルに責任を押し付ける気などまったくなかった。 それでも、いくら言葉を尽くしても、恐怖を消せずに自分を追い込んでしまうのが人間というものなのだ。 リルイースは自分の献身の理由を言葉にして伝えたことはないし、アナベルの側にいるためならば本来の自分を殺してもいいとさえ思うのも、リルイースが勝手に押し付けていることだ。互いに不安を感じるのも当然のことであり、誤解をとくために洗いざらい打ち明けるのが終わりを意味するのならば、破綻は最悪の形であらわれることを予想するのは容易だった。 だからこれは先送りにできる問題ではなく、このきっかけを無視することはさらなる苦悩を呼ぶのだろう。 「アルディラン様も、他言はしないと誓っていただけるのならそのまま聞いていてください」 このことを門外不出の秘密にしておきたいのはアナベルのためだったが、何よりもリルイースが傷つかないための措置なのかもしれない。 口ではアナベルの幸せがすべてだと言っていても、模索するのは自己防衛の道なのだ。 それを自分に許せるほど、リルイースは甘い人間ではなかった。だからこそ、苦しい。 「俺はリルイースのことなら何でも知りたいし、リルイースがそんなに大切なことを打ち明けてもいいと判断してくれたことが嬉しい。それがアナベル嬢やリルイースのためになるなら墓の中まで秘密を持っていくよ」 「……そう、ですか……ありがとうございます」 リルイースはアナベルに向き直り、紫の瞳を見つめて言った。 「お嬢様、シャーリーンという名前に聞き覚えはありませんか」 ……昔話の始まり。 忘れてしまうことはできない抑圧と至福の日々の始まり。 それを象徴するのが、その名前。 「わたしの、生まれたときに与えられた名前です」 「でも……でも、だったらリルイースっていうのは」 「それはわたしの姉の名です。姉とわたしは年子で、母がご当主に雇っていただいてあなたにお会いしたとき、姉もわたしも乳飲み子でした。ご当主は三人の子供を育てるのは無理だとお思いになったのでしょう、他の乳母を探していらしたようですが、あなたは母にしか懐かなかった」 けれども現実問題、ひとりで三人の赤子を育てるのは無理だった。そして、母としては、最優先にしなければならないのが主の娘であるアナベルだったのだ。 「母はわたしと姉を、レイのお母様のところへ預けました。けれどあなたは……その、姉のことを大層気に入っていらして……。姉が離れると、泣いてしまわれたそうです」 母は仕方なく、下の子供だけをレイルシュの家に預け、姉とアナベル、ふたりの面倒を見ていた。リルイースとアナベルは同い年だったから、クレイトの屋敷で働かなくても子供ふたりの世話をしなければいけないことにはかわりなかったのだ。 アナベルは無言だった。内心では、記憶に残っていない親しい人の行方を疑問に思っているのだろうが、話に口を出そうとはしない。 「姉がそのまま成長していれば、今わたしがいる場所に立っているのは姉だったはずです。彼女が、本当の『リルイース』なのですから。わたしはあなたの側にいることを許されず、おそらく……父と同じ道を歩んでいたのではないでしょうか。それも幸せには違いないけれど、わたしはそれよりあなたの側にいたかった」 「どうして私のところにいられないの? それは私のせい?」 「違います。あなたに非はありません。それは最初に申し上げたはずです」 リルイースとて、姉のことなどおぼろげにしか覚えていない。 愛しているのか憎んでいるのか、それすらもわからない。 けれどすべては自分で決めたこと。アナベルに余計な重荷を負わせるのは、誰も望んではいなかったから。 「あなたの側にはいられないと言ったのは、あなたが必要としているのがわたしではないからです。わたしはあくまでも姉の身代わりでしかありません。姉が――本物のリルイースが生きていたら、わたしは必要ないものなんです。それはわたしが、本来のわたしの姿であなたのもとにいなかったことからもおわかりでしょう」 「わからないわ」 「……あなたが求めているのはリルイースです。けれど本当は、わたしはリルイースとして生まれてきた人間ではないんです」 「でも、ずっと私のところにいてくれたのはあなたでしょう? あなたがお姉様の名前で呼ばれたくないというのならそうする。私にはお姉様の記憶はないのだから、私にとって大好きなリルイースっていうのはあなたのことなのよ。……それでもリルは、私に必要とされているのはリルではないというの?」 真摯に言い募るアナベルは、ただ、忘れているだけなのだ。 自分が本当に必要としているのは誰なのか。 かすかな違和感を、感じていないはずはないというのに。 「レイが……さっき、あなたはわたしを殺したも同然と言いましたね。言い方は不穏当ですが、それがつまり、わたしが姉の姿で生きてるということなんです。……姉は、わたしが五つのときに病死しました。表面的には、シャーリーンとして葬られたんです。そしてわたしは、姉の……あなたの慕うリルイースとして生きてきた。その理由を聞いたら、あなたは後悔するかもしれません。それでもよろしいですか?」 「ええ……多分ね。それでリルが楽になれるのなら」 楽には、なれないかもしれない。 アナベルの側には、いられなくなるのだから……。 けれど求められてしまったからには、すべて話さなければならないのだ。そのすべてを受け入れる義務をアナベルに背負わせたことには後悔が残るが、リルイースには他にとるべき道がない。 「姉が死んだとき、あなたは母でも宥められないくらいに取り乱していらっしゃいました」 美しい髪の毛を振り乱して暴れる子供の姿。 姉の寝台の横に伏して泣く、小さな天使。 紫の瞳には、今まで自分の存在は入っていなかった。 ……すべてのはじまりは、姉がシャーリーンとして葬られたこと、そして母とも姉とも離れて暮らすシャーリーンはリルイースとなったのだ。 「わたしはあなたの視界には入っていなかったとはいえ、あなたの乳母の子供には違いありませんでしたので、姉の穴を埋めるようご当主に申し付けられました。ですが、あなたはまだ自分を偽ることをしていなかったわたしのことはどうしても受け入れられない様子でした」 考えうる限り最善の方法をとったはずなのに、こんなにも痛い。 ゆがんだままの歯車をまわし続けた皺寄せが、リルイースを押し潰す。 「ですからわたしは、姉の姿で生活することを決めたんです。もとから、よく似ていると言われていましたから……。そうすると、あなたは機嫌を直して……笑いかけてくださった」 アナベルの顔が、思い切り不快そうにしかめられた。 あたりまえだろう、姿かたちが同じだからというだけで懐いていた本人ではないリルイースをその姉だと思い込み、肝心の本人のほうは記憶からあっさり抜け落ちさせてしまったのだから……。 リルイースにはそんな気はまったくないが、お前は乳姉妹のどこを見ていたのだ、と責められても仕方ないほどだ。 「母が死んでからは、わたしのフォローをしてくれる人はいなくなって……そろそろ、限界かと思っていたんです。もう……あなたの側には、いられないと」 母が生きてさえいてくれたら、もう少しリルイースが暮らすのは容易だったことだろう。ひとりで気を張ってアナベルのもとにいるのは、ひどく消耗することだった。 それでも今までやってこられたのは、やはりそれを厭わないくらいにアナベルが大切だからで……。 幼い頃、姉として生きることにうなずいたのも、子供ながらにこの天使のような人を思っていたからだ。 「リルは私から離れていくの? 今から本当のあなたを見るんじゃいけないの? 私にとってリルイースは、あなたのお姉様ではなくてあなたのことなの、本当よ。そんなに慕っていた方の記憶がないなんておかしいとは思うけれど、私がずっと頼りにしてきたのはあなたじゃないの」 「わたしは、いまさら生まれたままのわたしとして扱って欲しいなどとは思いません。あまりに長いことリルイースとして生活してきたから、もうリルイースというのが自分の名前だと思っているし、この姿にも違和感はありません。けれど……本来のわたしはまったく違うかたちをしていて、もうこの姿ではいられないというのも事実なんです」 アナベルは状況を飲み込めていない表情で二度三度と瞬いた。一番肝心なことを話していないのだから当然のことだ。 けれど、どうしてもそれを言うにはためらいが残る……。 心底弱った顔で項垂れたリルイースに、レイルシュが口を開く。 その様子を、リルイースはわずかに視線を上げてぼうっと見つめていた。 ……こんなときにまで、レイに世話になってしまうのか……。 まだ姉が生きていた頃、レイルシュはまるで兄のようにリルイースに接してくれた。構ってくれない母や姉の代わりに、惜しみない笑顔と愛情とを注いでくれたのだ。 彼の優しさが、双方立派な大人になった今でも続いているのが、リルイースには心地よかった。 けれど、こんな場面もレイルシュに縋ってしまうのは情けない……。 「根本的なところで、リンは姉とは違うと言ったでしょう」 リン……という、本来の愛称でレイルシュはリルイースを呼んだ。 幼い頃はそう呼んでいたのを、母が他界してからはリルイースと呼ぶように頼んだのだ。それが、先刻感情が昂ぶるままにリンと呼んだのをきっかけに戻ってしまったのだろう。 そんなことを考えている場合ではないのだが、リルイースは半ば現実逃避のようにレイルシュの口元を見つめていた。 「リンは……シャーリーンは男です。リルイースの、まぎれもない弟だ」 「え……え?」 アナベルは目を見開いてリルイースを凝視した。 多少背が高くても、今はまだかろうじて女性に見える体躯。これで男だと言われても、華奢すぎて実感が湧かないのだろう。 普通ならば感謝するどころではない体格だが、リルイースには都合の良いものだった。 「……男、って、リルが……?」 「はい、リンは男です」 どうしても納得できないアナベルは、同じく表情を失ったアルディラン・グラバートと目を合わせてうろたえつつ首を振った。 「だって……」 「あの、お嬢様。だってと言われましても、それは本当のことです。わたしがあなたの側にいられないと言ったのも、もうこれ以上女では通せないと思ったからで……たとえもとの姿に戻ったとしても、屋敷の古参の方たちは十年前にわたしの弟が死んだと思っているんですから」 そこまでを事務的に言うと、アナベルは蒼白な顔を両手で覆った。 死んだと思われている自分。ありのままの姿では決して振り向いてくれなかった人への、姉のふりをしての献身。 そのことが持つ意味に、ようやく思い立ったのだ。 「ごめんなさい……」 「お嬢様は悪くありません、何度も言っています」 「でも、たとえリルが私のところにいたいって言ってくれたとしても、あなたには居場所がないんでしょう?」 確かに……今はもう、リルイースにはアナベルのもとを遠く離れる意外に道はない。 「それはやっぱり、私のわがままのせいなんだわ。しかも、そのことをすっかり忘れてたっていうんだから……」 「でもわたしは、そうでもしなければあなたの側にはいられませんでした。わたしは幸せだったって言ってるのに、誰もそれを信じてくれない……!」 性別を偽って窮屈な思いをしながら暮らさなければならなかったからといって、それがどうして不幸なのだろう。 誰よりも大切なアナベルの、一番近い場所にいられた。 それだけで、十分なのに。それくらいの代償は、なんでもないのに。 皆、リルイースのことを哀れむのだ。 リルイースは、自分が不幸な時期などなかったと思っている。母や姉に省みられなかったときも、レイルシュが自分のことを本当の……弟のように慈しんでくれた。たったひとりの姉がいなくなっても、アナベルほど哀しいとは思わなかった。ほとんど顔をあわせない姉の印象は薄くて、そうまるでいなくなったという実感がなくて――すぐに、アナベルと母の側にいられるということに夢中になった。 まだ幼いうちに命を落とした姉と比べれば、自分の今までは恵まれていたのだ。 今になってこんなに苦しい思いをするのも、当然のこと……。 「幸せなんです、何がわたしにとって一番幸せかなんてわかってる。誰にも口を出して欲しくないし、あなたが残って欲しいとおっしゃってもわたしが側にいたいと思っても、ここにはいられません。……疲れた、というのも少しはありますし、しばらく休んだあと、今度はきちんと自分のやりたいことをしてみたいと思います。わたしはあなたに嫌悪感を抱かれなかっただけで、十分嬉しいですから」 ……もう振り切る。 自分から、このねじれた絆は断ち切らなければ、いつまでもあいまいなままだ。 アナベルのためならばいくらだって悪者になれる。笑って、突き放せる。 ……それが本当にアナベルのためならば……。 「いや……だ、けど」 アナベルは再び紫の目から涙を溢れさせた。 「でも、それがリルにとっていいことなら仕方ないわ……今までずっとリルに不自由を強いてきたのは、私なんだもの」 「わたしにとってだけではなくて……お嬢様にも、です」 忘れないで欲しい。 いつまでも唯一絶対の場所にリルイースを置いて欲しいとは思わないけれど、こんなにも思っていたことを。 自分のすべてを押し殺してでも、あなたの側にいたいと願った人間がいたことを……。 「ねえリル、最後にもう一度言って」 求めている言葉は、手に取るように理解できた。 瞼の奥の熱を押さえ込んで、アナベルの頭を撫でる。 「……大好きです、アナベル。わたしが今まで幸せだったぶん、あなたも幸せになって」 ――――さようなら。 |
一夜明けた頃には、リルイースの荷物はすっかりまとめられていた。 雇い主であるクレイトの当主にも、アナベルの結婚式が終わったら辞める旨は伝えてあるから、この朝でリルイースの居場所は屋敷にはなくなった。 アナベルのいつもの起床時間が近いことを認識して思わず起こしに行こうと腰が上がるが、そんな自分にリルイースは苦笑した。 ……あの人には、もうカルファール様がいらっしゃる……。 自分はもう、アナベルの側にいていい人間ではない。 リルイースはほとんど十年ぶりに男物の衣を着込み、その違和感にくすぐったい思いで微笑んだ。人に見咎められないうちに出て行こう。 これから、どこに行こうか……。 とりあえず、レイルシュの実家に身を寄せてしばらく養ってもらおう。そして職を探して、どこか遠くへ……。 屋敷を出たら、早朝の緑の香りが胸に満ちた。 樹木の立ち並ぶ遊歩道を抜けて、門へ向かう。ここ数年間、レイルシュに会いに行く以外の目的で外出したことは数えられるほどだった。 久しぶりの、外。十年ぶりに取り戻した、本当の自分。 そんなものがリルイースを浮き立たせると同時に、アナベルとの別離を残酷に突きつける。 軽いとは言えない足取りで門までたどり着いたリルイースは、そこで視界に入ったふたつの人影に目を瞠った。 「アルディラン様、レイ……」 どうしてこんなところに、ふたりがいるのだろう。 昨日の今日でリルイースが出て行くなどと、誰が知っていただろうか。 「おはよう、リン。君のその姿は久しぶりだね。……やっぱり、聞いたとおりだった」 「聞いたって……誰に?」 髪の毛が長いだけの華奢な少年のなりをしたリルイースは、心当たりを見つけられずに首をかしげた。 「クレイトのご当主に。雇用契約が結婚式の日で切れるから、リルはすぐにでも出て行くだろうって」 「ご当主が……」 あの忙しい当主が、リルイースの性格までも把握した言葉を押し出すとは思わなかったのだ。 「リン、どこに行くつもりだった?」 「どこって……小父さんと小母さんのところだけど」 「どうしてだ? クレイトのご当主には、話をしておいただろう?」 「ああ……あのことですね」 アナベルの結婚の前、クレイト当主から話があった。グラバート邸で働かないか、と。 もちろんリルイースにはそんな気はなかった――これ以上、アルディランと近づきたくなかったというのもあるし、アナベルとの中途半端な距離は決心を鈍らせる。 「わたしにはどのみちそのお話をお受けする気はありません」 「じゃあリン、父さんのところに行って、それからどうするつもりだった?」 決まりきっていることを問われ、リルイースはいぶかしげにレイルシュを見つめて、 「リネかアエリアルにでも言って、働きながら蒼皮の勉強をしようかと思ってた」 「やっぱり、わかってない……」 わかっていないのはふたりのほうだ……と、言いかけたリルイースは続く言葉に頭を殴られたくらいの衝撃を受けた。 「僕も若君も、リンにプロポーズしたっていうのに」 「は?」 目を丸くしたリルイースに、レイルシュとアルディランがそろって微笑んだ。特にレイルシュには、本来の姿に戻っただけにその反応が微笑ましいのだろう。リルイースも、こうして相対していると昔を思い出す。 しかし……プロポーズとは、何の冗談だろう? 「どういうこと、レイ……アルディラン様、も」 「いや、だからさ、俺リルイースに好きって言っただろう? だから俺のところで働いてくれないかって……」 「僕だって、父さんと母さんは君の事情を全部知ってるから僕のところにおいでって言ったよね」 「…………」 それが許されるならば、こいつらはいったい何を言っているのだろうと叫びたかった。 レイルシュも、そしてアルディランも、リルイースの性別が間違いなく男性だということは知っているはずだというのに。 なのになぜ、こんなことを言うのだろう……。 「ばかなことは言わないでもらえます? 知っているでしょう、わたしは男ですよ」 「まあ確かにそうなんだけどな。なんか、男の姿してても昨日とあんまり変わらないし」 「もう十年も女でとおしてきたからねえ」 大きな子供がふたりいる……。 アルディランは以前抱いていたイメージとはまったく違い、幼さを多分に残した青年だし、レイルシュにもかつてリルイースのお兄さんを自負していた頼もしい姿は微塵も見られない。 「だからやめてって言ってるでしょう。髪の毛だって切りますし、もう女のように振舞う必要もありません。第一、あなたたちがそんなことを言うようならわたしはやっぱり遠くへ行かないと……」 「それは困るって!」 「だから……そうまでおっしゃるなら、あなたがまだ蒼皮の教授が必要だというならわたしは都に残ります。けれど必要以上の干渉は絶対にやめてください。あなたはグラバート卿の大切なご子息で、わたしなんかに構っていていい方ではないんです。レイも、ばかなことを言っていないで頭を冷やしなさい。小父さんと小母さんがそんなことを許すはずはないし、わたしにも小父さんたちを裏切る気はありません」 レイルシュもアルディランも、リルイースが男の姿に戻ってしばらくすればこんなことは言わなくなるだろう。アルディランは今まで女性としてのリルイースしか知らなかったのだし、レイルシュにしても途中からは妹を可愛がるような心境だっただろう。 ……姉が生きていたなら、ふたりが思いを寄せたのは彼女だったろう。リルイースはあくまでその代わりでしかないのだから、虚像を捨てた今ふたりがリルイースに言い寄る根拠はどこにもないのだ。 「都に残るということに異存はありません。グラバート様に雇っていただくのも、悪い話ではないと思います。けれども、わたしはやっと姉の代わりであることをやめられたんですから、もうこれ以上わたしを女として見ないでください」 もしもアナベルに会えなくても、同じ都の中にいるというだけで心は弾む。 アナベルの側にいられなくなったのが哀しくても、本来の姿はいやおうなしにリルイースの肩を軽くする。 ……矛盾している。その矛盾をきれいに解消するために一度遠くへ行ってみればいいのに、その決心が鈍ってしまう。 「……わかったよ」 大きく息を吐いて、アルディランが呟く。 「リルイースのいやがることは絶対にしない。だから俺のところで働いて欲しい」 「そうすれば、僕もリンの側にいられるしね」 ほんの一瞬、アルディランとレイルシュの視線が交錯した。 リルイースにはその意味までは読み取れなかった不穏なアイコンタクトの後、レイルシュはごく自然な動作でリルイースの腕をとった。そのまま、門に手をかけ外に出る。 石畳も美しいフラッセア王都の街並みは、今まさに新緑の季節を迎えていた。 ……リルイース、わたしはあなたを恨んだことはありません。 あなたのおかげで、わたしは誰よりも愛しい天使の側にいることができたから。 そして、なにものにもかえがたい人たちがわたしのことを慈しんでくれるから。 まだ、何もかも吹っ切ってしまうことはできないけれど。 アナベルの愛したあなたは、わたしのもとにいるのでしょう……? 「アルディラン様、レイ、お世話になります」 リルイースは長身のふたりに向かってにっこりと微笑んだ。 ――汝、腕の中の天使を手放すなかれ。 ふたりの青年の胸の中に芽生えた決心を、彼は、知らない。 |
―――――腕の中の天使 【End】 |
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