腕の中の天使
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(3)


 レイルシュが見舞いに来たその翌日には熱も下がり、リルイースは再びアナベルの世話を一手に引き受けた。屋敷の人間にそれとなく聞いてみると、天使のように純真で無垢な笑みはいつもと変わらないもののやはり側に人がいると落ち着かないようで、ただ椅子に掛けてじっと手元を見つめるだけだったという。
 気を許した人間に対しては朗らかで天真爛漫ともいえる気性のアナベルだったが、人見知りが激しく幼い頃から友人は少なかった。
 身の回りに置く人間についても同様で、四六時中側にいるぶん打ち解けにくく、乳母とリルイース以外の人間は頑として拒んできたのだ。
 それだけに倒れたときは不安だったのだが、三日間アナベルはそれなりによくやっていたようだ。
 いくらなんでもリルイースひとりでアナベルの世話すべてができるわけもなく、アナベルは貴族のひとり娘にしてはおかしいくらいに自分で用を足せるようになっていた。それがよかったらしい。
 どうしても他の人間のものを受け付けようとしなかった茶を淹れて、リルイースは溜まっていた雑用をこなしていった。
 午後からまた、カルファールがアナベルのもとを訪れる。
 それだけならば、なんのことはない日常の姿だった。
 しかし……アルディランは、兄について来るのだろうか。
 顔を合わせたらどれだけの気まずさに襲われるだろうかと、それを考えるだけでも、リルイースは気が滅入るのを自覚した。
 彼がどうしようもなく嫌いというのではない。真っ直ぐな想いも、不快ではない。
 けれどどうして、自分がそれに応えることができようか。
 もしも彼が屋敷を訪れたとしても、いつもどおりの反応を、崩してはならない。……幸せになれるわけなど、ないのだから……。
 リルイースの幸福とはこのままずっとアナベルの側にいること、あるいは……どこか、誰も知らない遠くへ――それこそフラッセアを出て、遠くへ行くこと。それだけだ。
 自分はアナベル以外の人間を真剣に考えられるような人間ではない。それはレイルシュであろうとアルディランであろうと同じことだ。
 拒絶して、そのまま忘れてしまえばいいのだ。
 それが平穏を乱さない、最善の方法だから。
 どうせ居場所はない。ならば誰も知らないところで、一からやりなおしたほうが自分をありのまま曝け出せる……。
 ただ機械的なまでに午前中を乗り越えて午後早く、リルイースはケーキをオーブンに入れている時間にふと思い立って練習室に足を踏み入れた。
 先日までの持ち主の不調を反映するかのように、蒼皮の弦は一本切れていたのだ。
 リルイースの財力ではしょっちゅう工房を利用するわけにはいかず、まだ幼い頃にひととおりの手入れ方法を叩き込まれた。師に教わった手順を思い出しながら、新しい弦を取り出して全部の弦を緩める。
 張り替えられた一番端の弦にはまだぎこちなさが残り、爪弾くと硬い音が響いた。
 アナベルに楽器を教えに来る楽師以外の人間の演奏を聴く機会などめったになかったリルイースは、自分の蒼皮の腕がどれほどのものなのかなど理解できていない。その師にしたところで、楽団で使用しているのは深紅に輝く緋鱗であり、基礎を習得したあとはまったくの独学で蒼皮を弾いてきた。
 自分では楽譜どおりに弾いているはずの旋律でも、きちんと教育を受けた蒼皮奏者にとっては耳障りなのかもしれない。
 しかしリルイースが蒼皮を弾くのは両親を忘れないための儀式のようなものだったし、演奏を聴かせるのもアナベルくらいしかいなかった。そんな状態で懸命に音を飾ったところで、なんの意味もない。
 アルディランが蒼皮を教えて欲しいと言ったときリルイースに選択権はなかったが、いくらなんでも彼の言葉をあれだけ露骨に拒絶しておいてまだ教授を依頼されることはないだろう。
 リルイースは棚に並んだ楽譜から、赤い革の表紙に金文字で題の書かれた譜面を取り出した。ヴァネッサ・レイニアス作曲『黄昏』。最後の頁には、職人の流麗な文字で『フラッセアで見た美しい夕焼けに』と綴ってあった。
 クレイトの別荘もある湖畔の一等地には他国からも大勢貴人が訪れるから、そのときにでも作ったのだろう。
 一見派手に見えて余計な付き合いを嫌うアナベルは幼い頃からよく別荘に逃げていたから、リルイースも何回か訪れたことがある湖だ。
 凪いだ水面は鏡のようで、リルイースはそこに月が映る光景が好きだった。
 夕焼けの頃は夕食の支度にかかりっきりであまり外には出ないが、もしももう一度機会があったら少し辺りを散策してみよう……。
 けれどその機会が訪れる可能性は、限りなく低いのだろう。
 そのときまでアナベルといられるかどうか、わからないのだから……。
 リルイースは弓を滑らせて『黄昏』を最初から丁寧になぞっていった。
 ……いつになく、つまずく部分が多い。もとから技巧的な旋律の多い、リルイースにとっては好きだが苦手という複雑な曲だったが、今日は病み上がりということもあってか集中できない。
 仕方なく弓をおろし、指を慣らそうと『ダルメニィ』を奏で出す。
 もうすっかり暗譜したその子守唄は、母がよくアナベルに歌っていたものだった。
 ……考え始めると、坂を転がり落ちるように気が滅入る……。
『ダルメニィ』の優しいしらべを紡ぎだす自分がいつもは嬉しいのに、今日は何をしてもだめだった。
 そのうちにふと視線を上げ、思ったよりも時間が経っている事実に顔をしかめたリルイースは、諦めて蒼皮を置くと台所に戻った。こんがりと焼けた匂いにオーブンを覗き、焼き上がりが近いのを確認する。
「リルイース、これ使いなさい」
 まだ若い料理人に青い模様の入った白陶器を差し出され、リルイースは男に軽く頭を下げた。
「カルファール様はもういらっしゃいました?」
「ああ、カップはいつものでいいんだろう? ……カルファール様の、弟君も一緒だったみたいだけど」
「……アルディラン、様?」
 男に悟られないように溜息をついて、リルイースは菓子を取り出した。まだ熱いが、アナベルのところまで運んでいるうちに適度に冷めるだろう。
 言われたとおりにカップを三つ用意する。
 ……まさか来るとは思わなかった……。
 思えば、足元もおぼつかないような状態でさえ自分を拒絶しようとした相手に花束など贈ってくる時点で、アルディランがまったく懲りていないということはわかりそうなものだが、自分がそこまで執着される価値のある人間だなどとは思っていない。
 絶対に、受け入れられない……それをはっきりと告げるまで、アルディランはリルイースへの想いを止めないだろうか。
 ……それどころか、不敬を承知で言えば、どんなにすげなくしても諦めずに食らいつかれるような気もする……。
 自分のどこが、そんなにいいのだろうか。
 アナベルのようにあでやかさと可憐さを持ち合わせた天使のような少女ならばともかく、リルイースなどのどこが……。
「お嬢様、入りますよ」
 アナベルの応接間の前まで来ると、リルイースは扉を叩き、アナベルの返答を待って片手と肩とで押し開けた。
 アナベルの向かいにカルファール、隣に弟のアルディラン。前にふたりが訪れたときとよく似た位置だった。
「失礼します」
 頭の中がからっぽでも間違えようのない手順を踏んで茶を淹れた。いつもと変わらず穏やかな笑みを浮かべているのはカルファール、そして弟のほうはというと、リルイースの姿を見た途端に隠しようもない上機嫌を顔に表したのだった。
 まるで子供のように素直なその反応に、リルイースは内心驚きと怯えとを味わっていた。
 思っていた、とおりだ……。
 誰にも近づかれたくない。アナベルの側にいられなくなってしまうと困るから。それなのにアルディランは、どこまでもリルイースを追ってくる。
 怖い、怖くてたまらないのだ。
 何も自覚する暇なくリルイースに飛び込んできた、青年が。
 打算など何もない一途さで、リルイースの内部を抉る青年が……。
 リルイースが、彼のことを何も知らない頃に抱いていた印象とはまるで違う気性の持ち主だと、知ってしまってからはなおさらに……。
「ねえリル、立ってるのがつらいなら、向こうで休んでいなさいよ」
「……え? いいえ、別に気分が悪いのではなくて……」
「そう? なんだか顔色が悪いように見えたけど。……大丈夫なら、アルディラン様がまた蒼皮を教えて欲しいそうよ。いい?」
 ごく無邪気に手を合わせて言ったアナベルに、リルイースは無言でうなずいた。
 どんなに都合が悪くても、リルイースに拒否権などあるはずがない。
 婚約者であるカルファールはもちろんその弟のことも、めずらしくアナベルは気に入っているのだ。
「ええ、アルディラン様には立派なお花もいただきましたし……」
「だって、俺の目の前で倒れたんだからね。心配してあたりまえだろう」
 恐ろしいくらいに上機嫌なアルディランは、それでもリルイースの淹れた茶はゆっくりと飲み干して立ち上がった。
「そんなに急がれなくても、わたしが先に練習室へ行って準備をしてからまたお迎えにあがりますが……」
 戸惑いの滲む言葉をアルディランは無視し、リルイースの左腕を取って部屋を出る。
 手首に楽々と回った長い指を見て、なんとなく情けない気持ちが湧いた。アナベルの側にいられるのは嬉しい。だが……。
「リルイース、本当に身体は平気なのか?」
「ええ、ただの風邪ですし、もう十分お休みをいただきましたし。……アルディラン様には、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 やんわりと腕を振り解きながら頭を下げると、アルディランはわずかに驚きを閃かせてうなずいた。
「いや、よかった。苦しそうに見えたから」
「いえ……」
 アルディランは嬉しそうに笑う。リルイースが逃げ出したことを忘れたわけではあるまいに、何の屈託もない表情でリルイースを見つめ、兄と似ていながら印象の違う顔に笑みをはく。
 どこか本心を隠したような微笑ではない、衒いのない笑顔は思ったよりもずっと幼くて、もしかするとリルイースよりも年下なのではないかと思うのだ。
「そういえばリルイースは、アナベル嬢と同い年だったかな」
 そのとき、ちょうど思いついたように呟かれた。
「わたしのほうが三月ほど早く生まれましたが」
「昔からアナベル嬢の側仕えだったんだろう?」
「それはもう……生まれたときから側におりますが?」
 それがどうしたと開き直りにも似た心でリルイースが言い捨てると、アルディランは感心したように、
「アナベル嬢が心を許してるのはリルイースだけだからな。これからもずっと、側にいるんだろう」
 ……まただ……。
 また、この青年はリルイースの深いところを掘り起こす。
 どうして誰も、そっとしておいてくれないのだろう。
 リルイースはただ、アナベルの幸せだけ考えているというのに……。
 それは彼女の世話係として、このうえなく優良の証であるはずなのに、どうしてそれ以上を求めるのだろう?
 アナベルの側仕えとしての、リルイース以上のものを……。
「リルイースが男だったら、アナベル嬢がカルファール兄上を受け入れたかどうかわからない」
 そうだ、カルファールはアナベルが心を許したたったひとりの異性。
 リルイースが男だったら、などと……そんなことは、ありえない。
 怒りと哀しみがないまぜになった感情で目の前が紅く灼け、リルイースは強い調子で絞り出した。
「そんなやくたいもないことは、おっしゃらないでください」
「え、ああ――嫌だったか、リルイースはこんなにきれいだもんな。それに、リルイースは男だったら俺が困るし」
「そんなことをおっしゃいましても……」
 せっかく起き上がったばかりだというのに、かき混ぜられた感情が無秩序に荒れ狂ってリルイースを内側から破壊しようとする。
 かすかな吐き気を堪えて立ち尽くすと、アルディランははっと顔を上げてぎこちない笑みを浮かべた。
「ごめん、不躾なことばっかり言って。まさかリルイースが前と同じ態度をとってくれるとは思わなかったから」
「だって……それが、わたしの仕事ではありませんか。あなたはカルファール様の弟君で、お嬢様にとっても大切なご友人でいらっしゃいますもの」
「そうだな……」
 項垂れた高い位置にある頭を見て、思わず罪悪感に駆られる。
 そんな態度はずるい。……アナベルとの間に壁を築こうとするリルイースと同じくらいに。
「……あの、わたしは、アルディラン様が嫌いだけれどお嬢様のお客様だから仕方なくご案内している、というわけではありません。わたしはあなたを嫌えるほどよく知っているというわけではありませんし、望まないものとはいえどうして好意を向けてくれた方を嫌えるでしょうか? わたしが拒否したのはあなたの想いであって、あなた自身ではありません。それがどうしても気に入らないというのなら仕方ありませんが、そうでないのならわたしにはあなたから頼まれたことを全うするのに何のためらいもないんです」
 残酷な言葉だということはわかっている。
 自分が、彼の好意に甘えて分を越えた暴言を吐いていることも。
 ……しかし、リルイースのすべてはアナベルのために存在し、アナベルの側にいられなくなったときにはアルディランとのつながりも立ち消えるのだから、リルイースという人間の人生にアルディランが立ち入る隙はないのだ。
 けれども、必要ないと思っていても、どうして拒んでしまうことができるだろう。
 自分が一からすべて作り出して生きていけるだなんて思わない。
 リルイースがまだ何も知らなかった頃から与えられていたものには、どうしても縋ってしまう……。
 けれど逃げ場所はふたつもいらない。
 一度迷って立ち止まってしまったら、きっともう歩き出せなくなってしまう……。
「よかった」
 均整のとれた体格に完璧なまでの造作。
 甘さを含んだ深い色合いの瞳で言ったアルディランは、リルイースの憧れと嫌悪とを具現化した人間の形をして立っていた。


 その部屋に入るのはリルイースにとって特に珍しいことではなかった。何せフラッセア指折りの貴族であるクレイトの当主のたったひとりの娘の、たったひとりの世話係である。
 アナベルの様子はどうか、食欲はなくなっていないか、季節の変わり目だが体調を崩していないか、何か欲しがっているものはあるか――複雑な時期にある愛娘の様子を、せめて周りの者から聞いておこうという当主の心情は十分に理解できたし、たったひとりのクレイトの子を思うものとしてはごくあたりまえだった。
 しかしそれと、リルイースが当主との面会に居心地の悪さを覚えないことは、必ずしも直結してはいないのだ。
 六年前までは母親に連れられて来ていた当主の部屋。屋敷の中でも特に荘厳でありながら華やかに装飾された部屋に入ると、どうしても威圧感を感じてしまう。
 部屋の主は白髪の混じり始めた髪の毛を後ろに撫でつけ、王宮に出仕するときとさほど違わない肩の凝りそうないでたちで奥の執務机に腰掛けていた。母親似のアナベルとはあまり相似点を見つけられないが、文官とは思えないほどの長身と他者を圧倒する逞しい体躯の持ち主だった。
 十も年下の妻との間には長いこと子が授からず、当主がもう四十を過ぎてから生まれた子は娘だったが、妻によく似た愛らしい娘を彼は溺愛していた。当然アナベルがリルイース以外の人間を受け入れないことに苦々しさを覚えているに違いないのだが、それを表に出すことなどしない。
 アナベルとカルファールの婚約が正式に決まってからはリルイースが無意識のうちに感じ取っていた刺々しさも和らいだようで、リルイースも以前ほどの緊張は伴わずに当主に相対できるようになった。
「リルイース、倒れたと聞いたがその後は何ともないのか?」
「はい、ご迷惑をおかけしました。お嬢様はわたしが寝込んでいる間も他の人を使われなかったようでさぞかしご不快だったと……」
「いや、あれだけ働いていて六年間一度も倒れなかったのが不思議なくらいだろう。気にすることはない」
 確かに彼の言葉はもっともなことだったが……リルイースは、どこか納得できないのだ。
 自分の存在価値はアナベルの身の回りが常に居心地いいよう整えられているよう尽力すること、それだけなのだ。
 それなのに休暇願いも出さずにいきなり寝込んでは、アナベルに不自由を強いることになる。
 当主が仕方ないことだと許しても、アナベルに生まれてから今まで味わったことがないであろう手間をかけさせた自分が情けなかった。
「アナベルは最近、どうだ?」
「ええ、カルファール様とは大変仲がよろしいようです。楽しそうなお顔をされていることが多いですし、雰囲気も落ち着いて。そういえば……もうご存知だとは思いますが、アルディラン様が蒼皮を弾きたいとおっしゃるので練習室を使わせていただいていますが」
「自由に使って構わない。どうせ誰も使わんだろう」
「ありがとうございます。お嬢様ですけれど……以前、悪夢を見られたとかで夜中に起き出していらしたのですけど、お医者様に見ていただかなくてもよろしいのでしょうか? ご本人がその後何もおっしゃらないので、しばらく様子を見ようかと思ったのですが」
 リルイースが死んでしまう夢――と、アナベルはそう言った。
 自分が死ぬ夢を見られたといわれて不快を感じない人間もいないだろうが、夢は夢に過ぎない。
 その夢の内容そのものはどうでもいいことだったが、アナベルの精神状態が不安定になっているのだったら困る。
「悪夢……?」
「はい」
 当主は指を揃えて額に押し当て、ややあってから顔を上げて言った。
「気にすることはない。……カルファール殿のほうが婿養子に来て、アナベルのほうの環境は変わらないとはいえ、結婚が近いからな。仕方ない」
「あ……そう、でした。わかりました、あまり頻繁なようでしたらまたご報告します」
 アナベルの、結婚が。
 別れの瞬間が、近づいているのだ。
 いつも意識の片隅に置いてある事実だったが、他ならぬアナベルの父親からそれを口にされると改めて心が抉られるような気がした。
「あの……旦那様、支度はいつ頃から始めればよろしいでしょう……?」
 職人の対応や家具の見繕いや。――カルファールのほうを婿に迎えるのだが――嫁入り道具の準備や。
 諸々の仕事は、やはりリルイースの肩にかかってくるのだろう。もちろんひとりでは無理だが、アナベルの好みを熟知しているのはリルイース以外にいない。
「……そうだな……。もう、そろそろ始めてくれ。わからないことがあったらユリヤかイールに聞きなさい」
 馴染みの侍女頭と執事の名前をあげられて、リルイースはうなずいた。
 アナベルの結婚式。
 それが終わってしまえば、リルイースの役目は終わりだ。
 もう、必要ない。
 当主は一枚の書類を取り出すと、無造作にそれを机の上に縫いとめた。
……それはリルイースとクレイト当主との、雇用契約書だった。
 何よりも大切なアナベルとのつながりを紙切れの形で示され、リルイースは身体をこわばらせた。ずっと昔からのリルイースの献身は、あんな契約書一枚を前提としたものではない。
 しかし実際には、リルイースがアナベルの側にいられるのはたった一枚の紙切れがリルイースをアナベルの世話係と記すからなのだ。
「それでリルイース、お前はどうする?」
 アナベルが結婚してしまえば、今までと同じではいられない。
 そもそも、側仕えがひとりでは足りないだろう。
 リルイース自身、最近になってそれを自覚した。わざと、アナベルから距離をとりも、した。
……それなのに、いざ決断を迫られる瞬間が、こんなにも恐ろしいものだったなんて。
「はい、決まっております」
 けれども、選べる道はひとつしかないのだ。それは結婚式が済んだら出て行けとでも言いたそうな当主の口ぶりからも明らかだった。
「お屋敷は辞めさせていただきたいと思います。お嬢様にも、ご迷惑でしょうから」
「……その後の身の振り方は? 決まっているのか」
「いいえ……地方に行くか、フラッセアを出るかして働こうかとは思っていますが」
 心臓のあたりが、じくじくと痛い。
 首に手をやると、血脈がうねる音が響いた。
……ああ、カウントダウンが始まってしまう。
 アナベルとの別れへの。
「ああ、それならひとつ、話がある」
「……はい、何でしょうか」
――当主が切り出した『勤め口』に、リルイースは目を見開いた。

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