腕の中の天使
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(2)


――逃げ出して、しまった。
 本気の瞳が恐ろしくて、アナベルの客人であるアルディランを放り出して練習室を出た。
 どんなに求められても答えることができないのだから、あのいつまでも少年のように純粋な人は突き放さなければいけない。
 アナベルの側にいる限り接点を絶ってしまうことはできないけれど、今はとにかく逃げなければいけないのだ。
 自分が人並みの恋愛を経験できるとは思っていない。
 自分だけに甘えるアナベルが愛しくてさらに甘やかしてしまった結果、アナベルはリルイースから離れられなくなった。それが彼女にとって間違いなくマイナスになるとわかっていながら、リルイース自身もアナベルと別れられなかったのだ。
 リルイースにとって、自由になるということはつまり、アナベルの隣に居られなくなるということだった。
 完全な自由とアナベルの笑顔と、それを秤にかけた結果、リルイースは今自分を押し殺してアナベルのもとにいる。
 きっとアナベルは、リルイースがこんなことを考えているなどとは思いもしないのだろう。無理もないことだが、無邪気な態度が憎らしく思えるときもある……。
 母に愛されていないなどと考えたことはなかったが、あれだけ真摯な想いを向けられたことは今までなかったように思う。熱を持った瞳の強さは好ましいものだったが、いかんせん相手が悪い。
 速度を落とし、弾む息を整えた。動揺にゆがむ表情を自覚してさらに落ち込む。
 突然すぎて、まともな対応ができなかったのだから仕方ない。本来ならば、アルディランの気の迷いを指摘しなければならなかったというのに。
 拒絶の意思だけは伝わっただろうから、それはいいのだが……。
「どうしよう……」
 アナベルの側にいると人々の目が皆そちらに向くために、リルイースは個人的に注目を浴びることに慣れていなかった。リルイースの位置は常に『アナベル・クレイトの侍女』であり、『リルイース』ではなかったのだ。
 いきなりアナベルを抜きにした感情をぶつけられるとは思わなかったし、あの想いに答えることもできない。
 溜息をついて、壁紙が張り替えられたばかりの壁に寄りかかる。
 頭が酷く痛み、こころなしか呼吸もつらい。
――ここのところ、忙しかったからか……。
 普段は離れていても耐えられる人に、会って慰めてもらいたいと思ってしまったのも、身体が弱っているからだ。
 本格的に倒れてしまう前に、休ませてもらわなくては……。
 身体を休めるだけではなく、心を軽くするために、彼にも会いに行って……。
 しかし気がかりなのは、リルイースがばてている間のアナベルのことだった。
 母が生きていた頃は、リルイースが寝込んだら屋敷の人間がリルイースの面倒を見て母はいつもどおりアナベルの世話をしていた。反対に母が疲れているときは、リルイースができる限りアナベルの側にいた。
 だが華奢な身体に似合わない丈夫さを持つリルイースがこのようなだるさを感じたのは、母がいなくなって以来初めてのことだった。現在アナベルが心を許す存在がリルイースしかいないのはやはりまずいと考える。
 かといって、この身体をだましながら立っていることはできそうにない。
 リルイースさえいなければアナベルはあの朗らかさと美しさにふさわしい人間たちに懐けただろうと思うと、情けなくて涙さえ出そうだった。
 自分は、アナベルの唯一無二の好意を受けられるほどの人間ではないのだ。
 とりあえず部屋へ帰って眠ろうと身を起こすが、足元がふらつく。壁に手をついておそるおそる足を踏み出すと、ぐにゃりとした感覚に襲われた。
 人がいなくてよかったと真剣に思う。
 優しい手を差し伸べられても、それに縋ることはできないのだから。
 唯一甘えられる人との距離は、今の状態では越えていくことができない……。
 何がいけなかったのだろう。蒼皮を弾いていたときの緊張感か、アルディランの言葉か、廊下を疾走したことか。
――よろよろと前進してようやく階段までたどり着いたところで、肩にかけられた手があった。
「リルイース……」
「あ……アルディラン様……申し訳ありません、少し体調が悪いようですので失礼します。練習室は後で片しておきますので、お嬢様とカルファール様のところへお戻りになってください」
「リルイースはどの部屋を使ってるんだ? 送ってくから……ああ、あとは医者を……」
 肩を引き寄せられて、思わずその手を振り払った。
「大丈夫です、心配なさらないでください。わたしが少しふらついているからといって先生の手をわずらわせるわけには参りませんし……部屋で寝ていれば治りますから、アルディラン様はお嬢様に明日まで休ませていただきたいと伝えてください」
「寝てれば治るって……? そんなわけないだろうが」
「……構わないでいただけませんか、ひとりで帰れます」
 低い声で囁くと、アルディランの整った眉が不機嫌にしかめられた。
 告げてくれた真剣な想いをあっさりと無視した自分を気にかけてくれるのはありがたいと思うが、こちらにも素直に好意を受け取れない理由がある。
 強がりともとれる言葉を繰り返すばかりのリルイースに、アルディランは声を荒げた。
「お前は何言ってんだ! 帰れるって言うなら帰ってみろ、ぶっ倒れて頭打ちでもしたらどうする!」
「それは困りますね……」
 平坦な声で、リルイースは呟いた。
 自らの分を越えた、挑むようなまなざしで、青い瞳を見据える。
「では、腕だけ貸していただけますか」
 無言で差し出されたアルディランの腕につかまり、リルイースは壁を突き放して歩き出した。
 おろした黒髪が汗で首筋にはりつくのがどうにも嫌な気分だ。
 歩き出すと、思った以上に視界が揺れ、アルディランの腕を掴む手のひらに力を込めた。
「……本当に大丈夫なのか? 薬とか……」
「平気です。ただの風邪だと思いますし、薬はわたし、飲めないんです」
 少し症状が重いだけの風邪だと思っているのは本当だったし、一部の風邪薬にアレルギーがあるのも事実だった。母が言うには、父親と同じ体質らしい。
「あ……それではアルディラン様、お嬢様に伝えておいてください。本当にご迷惑をおかけしました」
 自室の前までくると、リルイースは半ば体当たりするように扉を開け、部屋の中に転がり込んだ。アルディランの未だ不安げな表情を緩和するように微笑んでみせると、ようやく彼はひとつうなずいて踵を返した。
 寝台の端に腰掛けて、額を押さえる。
 とりあえず寝間着を取り出して着替え始めるが、そこでリルイースは自嘲と苦笑を取り混ぜた笑みを浮かべた。
「レイ、わたしもうだめみたい……」
 唯ひとつの逃げ場所を思い、布団に潜り込んで枕に顔を押し付けた。
 自分からアナベルという存在を取り除いたら、あとには何も残らない。
 空っぽのまま、誰も自分のことを知らないどこか遠くをさまよってみたいと思うが、それを引き止める人がひとりだけいる。
 どうしてもと駄々をこねれば、彼はどこまででもついてきてくれるだろう。
 しかし誰も、そんなことは望んでいない。
 リルイースにしても、自分のせいで人の人生を台無しにしてしまうのは後味が悪い。
 自分だけならどこまででも放浪できるが、彼を巻き込んではいけない。
 目を閉じて、まだ高い陽射しを遮るように腕を上げる。
――眠りはすぐに訪れた。

 リルイースが目を覚ますと、カーテンの隙間から見える空はすっかり夜の顔をしていた。
 かすかな空腹感があるところを見ると、夕食の時間も過ぎているのだろう。かなり長い間寝ていたようだ。
 身を起こして髪の毛を手で梳くと、頭痛はおさまったもののまだ身体に気だるさが残っていた。
 寝台から降りようとしたところで、ノックの音に顔を上げる。
 少々ふらつく足元を気にしながら扉を開けると、食事の乗ったトレイを抱えたアナベルが立っていた。
「リル、大丈夫? どれくらい悪いの?」
 アナベルが月が出ているから、といってカーテンを開け、卓上のランプも灯すと、部屋の中はだいぶ明るくなった。危なっかしい手つきにリルイースははらはらしていたのだが、慣れていないわりには器用に火が入った。
 寝台に戻され、粥の入った椀を手渡される。
「リルが倒れたってアルディラン様に聞いたから、私すごくびっくりしたのよ。食べられる? もう六刻くらい眠ってたと思うんだけど」
「そんなになりますか? ……いただきます……」
 木匙を受け取り、温かい粥を口に含むと、ほわりと身体があたたまる。アナベルはそんなリルイースの姿をにこやかに見つめて言った。
「ゆっくり休むのよ、リル。本当に、心配したんだから」
「はい……すみません」
「何言ってるのよ、リルはいつも私のことひとりで世話してくれてるんだもの、たまには休まなきゃだめじゃない。……疲れてたのよね、最近忙しかったもの。この前お父様に呼ばれてたでしょう、それって私の結婚のお話でしょう?」
 椅子の上に乗っていた針山を退けてそこへ座ったアナベルは、枕に背を預けて身を起こしたリルイースを覗き込んだ。
「カルファール様も、最近よくいらっしゃるし、お父様とも話し込んでいかれるし。ああ、私もうすぐ結婚するんだろうなあって実感して……」
 リルイースの黒髪に、手を伸ばす。
「このままずっとリルとだけいるわけにはいかないとは思ったのよ。リルもそう思ってたんでしょう? 最近、様子が少しおかしかったから。……なんだか、すごく哀しくてね……なのにリルは私のためにいつもがんばってくれてたから気にしちゃいけないと思ったけど、どうしても気になって……。この前、――不吉だけど――リルが死んじゃう夢を見たのよ」
「前におっしゃっていた怖い夢のことですね?」
「そう。私のこと、ひとりで面倒見るの大変でしょう? 冗談じゃなくて、本当にリルが過労死なんかしちゃったらどうしようかと思ったわ」
 小さな手に髪の毛が撫でられるのが気持ち良い。
 少し高めの声が耳に滑り込み、時折ささやくような笑い声が混ざる。
 リルイースにアナベルしかいないのと同じようにアナベルにとってもリルイースが絶対なのだと思うと、身体から力が抜けていった。
「大変、ですけど。でも、わたしはお嬢様が大好きですから……お嬢様に快適に過ごしていただけるなら、それが一番嬉しいんです」
「ありがとう、リル。情けない話だけど、私本当にリルじゃなきゃだめなのよ。他の人は……嫌悪とかそういうものではないけれど、あまり側に寄らないで欲しいと思うの」
 それは本来あまり喜ばしくないことなのだが、アナベルに望まれるとなると罪悪感など吹き飛んでしまうのだ。
「リル、ずっと私のところにいてね? ふたりだけでいるのは無理でも、リルがいないと……」
「お嬢様……」
 アナベルの金の髪の毛に手を伸ばし、頭をそっと撫でた。
 そう年齢は変わらないが、小さい頃からリルイースが頭を撫でるとアナベルはこちらが驚くくらい喜んでくれたものだ。
 アナベルは天使のような笑みを浮かべて、そのままリルイースの手を握り締めた。
 身長もリルイースのほうが高いだけあって、その手が小さく感じられる……。
「嬉しいわ」
「え……?」
「だって、リルイースが私の頭撫でてくれるなんて久しぶりのことだもの」
「そうでしたか……?」
 確かに、無意識に……あるいは故意に人との接触を避けていたところはあったが、それはアナベルに限ったことではなくて……。
「そうよ、少し寂しかったの。だからリル、今日も明日もゆっくり寝てていいのよ。私がちゃんと面倒見てあげるから」
「嬉しいです。あ……でも、うつるといけないのでもう……。お粥、わざわざありがとうございました。明日もし起き上がれないようでしたら、またよろしくお願いします」
「あら、一日で起きたりしちゃだめでしょう? 少なくとも明日までは休んでるのよ。朝、また様子を見にくるわね。それと……」
 アナベルが扉の側に無造作に放っておいたらしい花束を拾い上げ、花瓶を探した後に水差しに花を挿した。
「それは……?」
「アルディラン様が届けてくださったの。体調が悪いのに無理なことを頼んで申し訳なかったって。薬草も混じってるみたいだから、よく眠れるんじゃないかしら?」
 素早い行動に苦笑したリルイースだったが、花自体はそう悪いものでもない。
「明日、花瓶を持ってくるわ。じゃあリルはもう寝るのよ。……ああ、そうだ、これ貸してあげるから、何かあったら鳴らしてね」
 そう言ってアナベルがリルイースの枕元に置いたのは、いつも彼女が使っている呼び鈴だった。
 確かにこの音ならばアナベルの寝室まで届くだろうが……。
「お借りしてもよろしいんですか?」
「何言ってるの、あたりまえでしょう」
「……ありがとうございます……」
 アナベルが胸のあたりに引き寄せてくれた布団に包まり、リルイースは目を閉じて微笑んだ。
 しばらく感じていなかった距離の近さが、こんなにも嬉しいとは……。
 別れのことなんて今は考えたくない……。
 だんだんと落ち込んでいく意識が最後に認識したのは、頬に触れた柔らかな熱だった。


「……リル、起きられる? お客様がいらしてるんだけど」
 うっすらと目を開けたリルイースは、目の前で揺れる金髪に目をしばたたかせ、ぽんぽんと布団を叩かれたところで上半身を起こした。
「……お客様?」
「ええ、アルディラン様のお使いが」
「アルディラン様の……」
 寝込んだ当日に花束を贈ってきた行動といい、やたらと素早い。
「あ、起き上がらなくていいのよ」
「でも、失礼ですし」
「だって、リルも知ってる人よ?」
「レイですか?」
 アルディラン・グラバートの使いでくるような人間の中で……というよりリルイースの知り合い全員を思い返してみても、思い当たるのはひとりだけだった。
 リルイースよりも四つ年上の幼なじみで、地方の旧家から都へ出、グラバート卿のもとで勉強している青年である。
 彼の父母とリルイースの両親は昔からの友人同士で、母が亡くなって以来リルイースはクレイト卿からの賃金で暮らしているとはいえ、実質的な後見人は彼の親だった。
 幼い頃から兄のように慕っていた、リルイースの唯一の友人ともいえる人だ。
「レイにもしばらく会っていませんでしたから……」
 彼ならば、多少格好がだらしなくても構わないだろうと考え、髪の毛だけ撫で付ける。
 アナベルが出て行くと、入れ替わりに満面の笑みを浮かべた青年が部屋へ足を踏み入れた。
「レイルシュ、久しぶりね、会えて嬉しいわ。……何がそんなにおかしいの?」
「リルイース、僕も君に会いたかったよ。はい、これ、若君から」
 寝起きのぼんやりとした瞳で首をかしげると、青年――レイルシュは後ろから大きな花束を取り出してみせた。
「いやだ、困ったわね。一昨日もいただいたばかりなのに」
 困った顔で微笑み、すぐ手の届くところに引き寄せられたテーブルへとりあえず花束を置く。
「で、リル、具合はどうなんだい」
「ただの風邪。たいしたことはないの。でもお嬢様がゆっくり休みなさいっておっしゃるから」
「でも、リルが寝込んだのなんて何年ぶりだろう」
「そうね、確かに。……最近疲れてたし……それに、ちょっと……」
 言いよどむリルイースの顔を、レイルシュが覗き込む。
「何か問題でもあった?」
「うん……問題っていうか根本的に……。わたしもう、お嬢様のところにいられないかもしれない」
「それって……」
「うん、そうなんだけど……」
 目元をゆがめて呟くと、布団の上に出していた手をレイルシュが握り締めた。
 長い黒髪をかき上げて、もう片方の手で頬に触れる。
「お嬢様がいなくなったら、わたしどうすればいいんだろう……」
 今までずっと、アナベルのために生きてきたのに。
 何にでも耐えられた自分は、アナベルあってこそのものだった。
 彼女から離れたときに崩れてしまうだろう自分が、怖くてたまらない……。
「今まで……わたしの右目も左目も、お嬢様のものだったの。不信心なことだけれど、お嬢様を見ているには右目だけじゃ足りなかったわ」
――『我が右目はとなりびとの、左目は神のもの』。
 母がよく呟いていた聖句を思い出し、リルイースは窓の遠くを見つめた。
 青い空に、溶かした絵の具のように薄くたなびく雲。よく晴れた正午も近く、むせ返るほどに匂う緑の鮮やかさが目に痛い。
 レイルシュが立ち上がり、無言で窓を大きく開けた。
 かすかに空気が変わるのを感じる。陽光を凝縮して散らしたようなあたたかで肌によく馴染む風が吹くと、自然と気分もすがすがしさを取り戻した。
「……アナベル様も、左目は確実にリルイースだけに与えていたんだろう?」
「そうなの、それが嬉しかったから、わたしはいつまでも離れられなかったのよ。決定的にだめだって感じたのはついこの間のことだけどね、ときどき不安になるのはいつものことだったの。でも、まだお嬢様はわたしのこと必要としてくれてるって自分のことだまし続けて……」
 でも、そんなことよりも。
「お嬢様に厭われるのが、一番、怖い……何も言わずにどこか遠くに行けば、少なくとも哀しいだけで済むのよ。わたしはお嬢様に詰られることもない。でもね、そうしたらお嬢様は、きっと泣いてしまうから……」
 いったい、どうすればいいのだろう。
 アナベルを傷つけたくないというのは真剣にリルイースが考えていることではあったが、それと同じくらい、アナベルから寄せられる今の好意をなくしたくないという浅ましい願いが疼く。
 手を伸ばして、レイルシュの首に腕を回した。
 驚いたように顔を跳ね上げるレイルシュだったが、すぐにリルイースの背を抱き返す。
 時折思い出したように乱れる鼓動が感じられる。
 まだわずかに熱っぽい身体を抱きこんで、背中をゆっくりと叩いた。
「リルイース……」
 肩に伏せられた頭は多少乱れた長い黒髪。
 幼い頃は主のアナベルにも劣らないほどのふわふわとした感触を持っていたが、今ではしっとりと、いつでも少し濡れたような輝きを放っている。
「どうしてもっと早くに頼ってくれなかったの」
 華奢には見えても骨格のしっかりとした肩が震えた。
「イルーラのおかあさんが亡くなってから六年間、一度もこうして身を預けてくれなかった」
 レイルシュは、待っていたのだ。
 リルイースが彼を、何もかも任せられる場所として頼ってくれることを。
 しかしリルイースの母が亡くなってから一度も、それが成し遂げられたことはなかった。いつでも会いに来ていいんだと言っても、ぎりぎりまで追い詰められた状態でなければリルイースはレイルシュを訪ねようとはしない。
 互いに暇とは言えない身ではあったが、レイルシュは義務に拘束されない時間すべてをリルイースに捧げたいと願っているのに……。
「だって、ひとりでも大丈夫だから。わたしはずっとひとりだったけれど、本当の意味ではわたしはわたしだけの存在ではなかったし、それがあれば何もつらくなかった」
 レイルシュには、リルイースの言わんとするところはすべて理解できていた。
 それを口にするのが、言葉の内容ほどよろこびを伴うものではないことも、また知っていた。
 視線をおろせば、微笑んでいながらわずかに震える口唇がしっかりと引き結ばれている様が目に入る。
「わたしは誰の代わりでもなくて、確かにわたしなの。お嬢様は何も知らないから、わたしだけが本物なのよ。これから成長するにつれてお嬢様が他の人に目を向けることを悔しいとは思うけれど、それは何よりもお嬢様自身のためなんだし、わたしのそれを止める権利はないわ。わたしにとってはお嬢様が一番大事だから、今わたしは幸せだし、たとえ幸せでなくてもお嬢様のためなら耐えられる。……わたしがレイに頼らなきゃいけないくらいに落ち込むのは、本当に今みたいなときだけなの」
「本当に、大丈夫だった……?」
「ええ」
「……でも僕は、どんなささいなことでもリルに頼って欲しかった」
 吐き出された言葉に、リルイースは苦笑する。
「わたしは一番、レイを頼りにしてるつもりよ。人と触れ合わないのに慣れて、気兼ねする必要のないレイにまでよそよそしくなったことは自覚してるけど、あなたを信頼していないわけじゃない」
「わかってるけど、でも少し寂しかった」
「うん、だから今はもう少しこうしててもいいでしょう?」
「もちろんだよ」
 リルイースの背中に回す腕に、力をこめる。
 年齢差は四つしかなかったが、小さい頃から身体の小さかったリルイースを何度もこうして抱きしめた。
 多忙な母親の分、都にあるレイルシュの本宅にリルイースは預けられることが多く、彼は自分をリルイースの兄と思って孤独な子供を慈しんできたのだ。
 華奢に見えるが柔軟で敏捷な身体は柔らかいとは言い難かったが、それでも緊張に小刻みに震えるのが愛しさを募らせる。
「……人がこんなに暖かいだなんて、今まで忘れてたわ……」
「ねえリルイース」
 いつになく幸せそうな顔でしがみつくリルイースに、レイルシュはかねてから考えていた提案を口にした。
「僕にもわかったよ、リルがアナベル様の側に、近いうちにいられなくなるだろうってこと。……そうしたら、よかったら僕のところに来ないかい?」
「……どういうこと……」
「僕は君を誰より知っていると自負しているし、母さんも父さんもリルイースの事情は承知してるだろう? アナベル様のところにいられないのなら、次にリルが来るべき場所は僕のところだってずっと思ってた。父さんたちはもとからリルのことを自分の子供だと思ってる。だから……僕のところに、来て欲しい」
「小父さんと小母さんが……?」
 腕の中のリルイースが、ぼんやりとレイルシュの両親を思い出しているのがわかった。
 かわいげのない息子よりも、リルイースを甘やかすような両親だった。
「そう。勝手なことを言うようだけど、僕はリルに早くアナベル様から離れて欲しい」
「それは……」
「できない、って言うんだろう? わかってる。リルに無理を言いたいんじゃないよ。……じゃあ僕は帰るから、考えておいて。もうほとんど熱はないね。リルのことだから、明日になったら起きだすんだろう」
 最後にぎゅっと頭を抱え込み、簡単に予測できるリルイースの姿を脳裏に描きながら腕を解いて立ち上がる。
 リルイースは未だ暗い色が残ってはいるものの安らぎに満ちた表情で、笑っていた。
――まるで天使のように。

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