腕の中の天使
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(1)


 リルイースの母は、フラッセア貴族クレイト家の当主が溺愛するひとり娘アナベル・クレイトの乳母だった。母はアナベルが十歳を迎えたときに胸を患ってあっけなく他界したが、リルイースは屋敷に引き取られ、アナベルの侍女として働いていた。
 十六歳のアナベルは年に似合わない幼い愛らしさと成長途中の少女の透明な美しさとを併せ持つ、稀有な美貌の持ち主だった。ふんわりと甘く潤む鮮やかな紫の瞳と風に攫われる軽い金髪。毎朝リルイースが丁寧に梳るそれはいかなる光のもとでもきらきらと光り輝き、白く透きとおる肌に浮かぶ快活な笑みを縁取って揺れていた。
 このフラッセアの天使に仕えることの喜びを、リルイースは何度かみしめてきたかわからない。
 開けっ広げに見えてその実、一定以上の距離から先は他人を受け入れないアナベルにここまで側に近づけてもらえるのは、フラッセア中を探してもリルイースだけだろう。朝、睡魔の優しい誘惑からアナベルを引きずり出すのもリルイースなら、彼女にお茶を差し出すのもリル、さらにはお茶請けの菓子ですらアナベルはリルイースの作ったもの以外は口にしなかった。
 生まれたときから隣で見つめてきた愛らしい天使。幼い頃は無鉄砲なまでの無邪気さが周りの大人たちの目を釘付けにし、側で見守るリルイースの心臓を容赦なく絞っていったが、今では人並みの落ち着きを備えた立派な令嬢である。
 リルイースはアナベルの夫となる青年の整った面差しを思い出し、ほうと息をついた。
 フラッセア中の人間からその幸運を祝福された青年の名はカルファール・グラバート、柔らかな金茶の髪の毛に青い瞳の甘い顔立ちが御婦人方の間で熱いまなざしを向けられる、グラバート卿の長男だ。
 やや年が離れてはいるものの、アナベルは王子様のように優しいカルファールを気に入っているようだった。クレイトのひとり娘ならば真にフラッセア王太子妃の位を求めても許されようが、年もカルファールと変わらないはずのフラッセア第一王子は昨年アエリアルから妃を迎えたばかりだった。
 カルファールのほうも、アナベルが満面の笑みを浮かべて懐くのを穏やかに微笑んで受け止めており、若干あれは兄妹の触れ合いのようだとの懸念をリルイースに抱かせつつも、頻繁にクレイトの屋敷を訪れ、またアナベルをグラバート邸に招待していた。
「ご招待はいいのですけれど……」
 ポットとカップ、そしてお茶請けを乗せた盆を抱え、リルイースは料理長に問い掛けた。
「グラバートの若様に、わたしの菓子などお出ししてよろしいんでしょうか」
 アナベルはリルイースの菓子しか食べない。普段はそれでもいいのだ。
 しかしあの憎めないところのある少女は、客人が訪れたときでさえ料理人でもないリルイースの菓子でないとだめなどとわがままを言うのだ。
「まあ、お嬢様のおっしゃることだから……。グラバートの若様も、特に不満は示されなかっただろう」
 いくらなんでも客人に出すものくらいは専門の料理人の作ったものを、とリルイースと料理長で相談して出した菓子をアナベルが残酷なまでに無造作な態度で押し返したことは、まだ記憶に新しい。
 カルファールはそんなアナベルに苦笑しながらも、リルイースの焼いたケーキをたいらげて控えめに賛辞を送った。
 そのときリルイースは、ああこの人とならば、アナベルは幸せになれるだろうと思ったものだ。
 身分こそ違えど同じ女性に育てられ、幼い頃はそれこそ彼女と自分の間にある壁など知らずに妹のように可愛がってきた。アナベルの存在がリルイースの年齢よりも大人びた部分を形成していたのだ。
 そのアナベルが、カルファールの隣でこれ以上なく幸せそうに笑う。それが、リルイースには我がことのように嬉しかった。
 カルファールはきわめて人当たりの良い青年で、人気があるのもうなずける話だった。アナベルはそんな婚約者の姿を見て時折嫉妬に駆られるようだが、リルイースからしてみれば今フラッセアにアナベルを凌ぐほどの魅力を持つ女性などそうはいない。
 いつでも強気なくせに妙なところで自分に自信をなくすアナベルに泣きつかれたことも、二度や三度ではない。
 リルイース自身は、自分が結婚できるなどとはまったく思っていないが、恋愛の厳しさ甘さ美しさを、いつでも庇い、教えて導く側だったアナベルに教えられたのだ。
 離れて暮らしてやきもきするくらいならば、早く結婚してしまえばいいのに――と、そう思うこともある。しかしそのとき、自分はアナベルの側にいられるだろうか。今までどおり、すべてを預けてもらえる存在であれるだろうか。
 それを思うと、恐怖を感じてそれ以上は進めなくなった。
 物心つかない頃から、リルイースの世界はアナベルを中心として廻っていたのだ。
 実の子以上にアナベルを甘やかす母親の姿を見ているうちに、母の一番になることを諦め、そのことで空いた心をアナベルの世話をすることで埋めてきた。
 離れることなど、できない。
 どんな形であろうと側にいられるのならば本望だ。
 そこでリルイースは首の後ろで束ねた黒髪を振り、無意識のうちにたどり着いたアナベルの部屋――いくつも与えられたそれの中でも特に重厚で華麗な木の扉を叩いた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「……リル? 入って」
 片手で盆を支え、決して軽くはない扉を押し開ける。リルイースだけでなく屋敷の者は皆、華奢に見えてもそこそこの力は持っていた。特にアナベルの世話をたったひとりで引き受けるリルイースには、いくら鍛えてもいっこうに丈夫そうにはならないありがたい肢体にそぐわない筋力がついていた。
「失礼します……あ」
 驚きの声をどうにか飲み込み、リルイースは目を伏せた。
 機嫌よく頬を上気させたアナベルと、向かい合って座る長身のカルファール。
 そして一番窓際で降り注ぐ陽光を受けている、もうひとりの青年。
 リルイースにとって予期せぬ客だった。
 アルディラン・グラバート、カルファールよりも四つ年下――十九歳の弟。
 兄の完璧なまでに紳士的で落ち着いた物腰とは反対に、どこか崩れた雰囲気を生まれ持った気品で補う様子が見える姿。顔立ちはよく似ているがその身にまとう空気の違いがその兄弟をまるで他人のように見せていた。
 それでもアナベルが言うには、兄弟仲はきわめて良好らしい。
 まだ顔を見たのも三度目で、グラバートの次男と身寄りのない雇われ人が言葉を交わすはずもなかったが、リルイースはアルディランが苦手だった。
 部屋の奥の青年と目を合わせないように、リルイースはカップを並べ、カルファールのものから順に茶を注いでいった。アルディランのカップの横で屈んだ瞬間になぜか身を前に傾けた青年に内心の動揺をひた隠し、いつものように親愛のまなざしで微笑むアナベルの前に茶とケーキの乗った皿を並べる。
「アルディラン様はリルのお菓子を召し上がったことがないでしょう?」
 リルイースのケーキに手放しで喜ぶ様子を見せ、アナベルはアルディランに問い掛けた。
「ああ、でも良い匂いだな。楽しみだ」
「ええ、とても美味しいから期待なさってね」
 リルイースがすっと身を引いたところで、アナベルはカップに手を伸ばした。
 ポットを盆に載せてサイドテーブルに置くと、リルイースは身をひるがえす。
「お嬢様、わたしは向こうにおりますから、何かあったらお呼びください」
 小さくうなずいたアナベルを確認すると、リルイースはアナベルの部屋を抜けて衣装部屋へ身体を滑り込ませた。
 床の絨毯と吊るされた衣装以外に物がない閑散とした空間のさらに隅のほうで、リルイースは身体を丸くして蹲った。
 アナベルは綺麗に澄んだ紫の瞳の色をわずかに濃くして、リルイースを見つめた。
 あの哀しげな瞳は、リルイースのせいだ。
 いつか離れなくてはならないと思うと、つい態度がよそよそしくなってしまう。
 昔は……否、今でもアナベルのことを妹のように思っているのに、別れの日に自分が傷つかないためだけにやんわりと彼女を拒絶する。
 アナベルの求めるままに甘やかしてある日突然放り出すよりはいいだろうと思ってはいるが、結局は保身に走っているだけなのだ。
 ずっと一緒にいたいけれど。
 けれど自分は、アナベルの側にいるわけにはいかないのだ。
 青白く血管の浮いた手首を握り締めると、ますます腕の白さが際立つ。リルイースはそっと指を折った。
 いつのまにか、屋敷の中の誰にも負けないくらい器用に動くようになっていた指先。
 リルイースのすべてはアナベルのためだった。
――それなのにどうして、離れなければいけないのだろう。
 紫の瞳が微笑むのを見るたび、細い絹糸のような金髪が揺れるのを見るたび、いつでも愛しさがこみ上げる。
 そのぬくもりが自分ではない人間に頼りきって巣立っていこうとするのを見るたび、離れたくないと思う。
 責めてはいけない人を、詰ってしまう。
 自分がいなくなったときにアナベルが壊れてしまうのは耐えられないのに、あれほどに尽くしてきた自分だけを見ていて欲しいと思う。
 矛盾が壁のように聳え立ち、リルイースを押し潰しそうになる。
 どうしても、この苦痛を取り除くことができない。
 これは誰のせいでもなく、憎しみでもなく哀しみでもなく……ただ自分が弱いから。
 抱え込んだものを、吐き出したい……。
「レイ……会いたい……」
 しばらく会っていない、大切な人。
「会いたい……」
 聞いて。全部聞いて。
 大丈夫って言って……。
「……会いたい……」
 今度半日でも休みをもらって、会いに行こう……。
 そう、だってすぐに手の届くところにいるのだから。


 ちりん……と、顔を伏せたリルイースの耳に涼やかな鈴の音が届いた。壁を隔てていても聞こえるほどしっかりとした音でも、不快に鼓膜を振るわせるようなことはないその鈴はアナベルが母親から譲り受けたお気に入りの品だった。
 ポットの中の茶がなくなったか、菓子が足りないかしたのだろう。アナベルはあれでいてよく食べる。
 リルイースはアナベルに与えられた私室を抜け、彼女が個人的な客を迎える部屋へ戻った。
「お嬢様、どうされました?」
「リルイース、すまないのだけれど」
 アナベルの傍らに立って問い掛けるが、リルイースにかかった声は別方向からのものだった。
「カルファール様、何か御用でしょうか……?」
「ああ、少し頼みたいことがあってね……リルイースは、音楽の勉強をしているだろう」
「は……?」
 確かにリルイースは、アナベルの父親――クレイトの当主の意向で、アナベルに音楽を教える楽師に師事している。
 しかしあくまでも仕事の合間を縫って身に付けた腕前である。
 高名な楽師の演奏や指導を受ける立場のカルファールやアルディランにそのことについて言及されても困るというのが本音だった。
「緋鱗《ひりん》奏者のマイエス様に、時々……ですが」
「何が弾けるんだい?」
「鈴譜《りんふ》と蒼皮《そうひ》に、緋鱗はたまにマイエス様に触らせていただく程度です」
 時代遅れとも言える取り合わせだが、リルイースに紫弦《しげん》など扱えるはずもない。うっかり触って壊しでもしたら取り返しのつかないことになる。リルイースがいつも使っている蒼皮は、顔も覚えていないくらい昔に他界した父の形見だという。
 カルファールはリルイースの答えに満足したようにうなずき、端正な顔をほころばせて言った。
「アルディランに、蒼皮を教えてやってくれないかな。私がアナベルと話をしている間に」
「……え、でも……わたしは、その……」
 到底、人に教えられるような腕前ではない。
 しかしカルファールは首を振り、にこやかな態度を崩さずに続けた。
「こいつは芸術分野には向いていないようで、楽師の先生とも衝突するし、楽器は壊すしでさんざんでね。アナベルもリルイースに鈴譜を教わったというし、アルディランにもどうにか基礎だけでも叩き込んで欲しい」
 リルイースの立場では、アルディランと衝突しようにも言い争いなどできようはずもない。
 いくら気性が激しくても、兄の婚約者の侍女の前で乱暴な姿は見せないだろう。
 そんなカルファールの考えも、リルイースにはよく理解できたのだが……。
 いかんせん相手が悪い。
 アルディランのすべて見透かすような瞳は、どうも苦手だ。
 だが、リルイースが言える言葉はひとつだけだった。
「……おふたりがよろしいのなら、僭越ながらお教えしますが……」
 そっと口に出したリルイースに、カルファールとアルディランはそろって微笑んだ。
 同じ親から生まれた、同じ顔をした兄弟でも、こうも印象の違う笑顔になるのか……。
 どこか野性味を帯びたアルディランの顔を盗み見て、リルイースは内心こっそりと嘆息した。
 カルファールはアナベルとの結婚が決まる前もあまり遊ばないことで有名だったが、この弟はかなり遊び慣れているだろう……。
 その事実だけで、リルイースがアルディランを苦手にする理由は十分だった。
 この人がお嬢様の義弟になるのは少し嫌かもしれないと思いつつ、アナベルに向き直る。
「今、ですか?」
「できればそうして欲しい。楽器がないなら、すぐに運ばせるよ」
「いえ……ではお嬢様、一階の練習室を使わせていただきますね。アルディラン様、もう少しお待ちください」
 ポットの蓋を開けて、まだ熱いお茶が入っていることを確認する。ケーキもまだ残っている。
 リルイースはアナベルの部屋の真向かいに設けられた私室から、父の蒼皮を持ち出した。
 青灰色の、少しざらざらとした皮が張られた弦楽器。使い込まれてところどころすりへっているのは、ほとんどが父の手によるものだ。かろうじて弾けはするが、リルイースに蒼皮を弾く時間はあまりなかった。なにせアナベルの世話はほとんどリルイースひとりに任されているのだ。
 温度のあまり感じられない楽器に触れても、覚えていない父を実感することはできない。
 あんたはお父さんによく似てる、と母に言われても、特に興味もわかなかった。あの世話好きでおおらかな母親とはぴったりだな、とぼんやりと思っただけだった。
 父の手から、きちんとした旋律など生み出せなかった母の手を経てリルイースのもとへたどり着いた蒼皮。
 それを家族の絆に見てしまうのはリルイースの甘えだろうか。
 もう六年も前から孤独を噛みしめてきたのだ、ただひとつのぬくもりにくらいしがみつかせて欲しい……。
 ぽん、と弦を弾く。しばらく使っていないせいか、気の抜けたような音しか出なかった。
 調弦してから行きたいが、アルディランを待たせてもいけない。
 彼がどれくらい蒼皮を使えるのかわからないし、練習室で合わせればいいだろう。
 リルイースが狭いが落ち着く自室から出ると、廊下には既にアルディランが立っていた。
「申し訳ありません、お待たせいたしました」
「いや……その蒼皮、かなり年季が入ってるな」
 練習室に向かって回廊を歩きながら、アルディランはリルイースの愛器を指さした。
「ええ、父が若い頃使っていたものだそうです」
「楽師か?」
「そういうわけではございませんが……。友人たちと会を開いたことはあったようです」
 すべてリルイースの生まれる前の話だ。
「ふうん……そうか」
 リルイースが練習室の分厚い扉を引こうとすると、後ろから伸びたアルディランの手が軽々とそれを引き開けた。それなりの腕力を自負しているリルイースとしては、貴族の次男坊に劣るのは悔しい。
「立派な練習室だな、普段は誰が使ってる?」
「お嬢様の練習にマイエス様がいらしたときと、あとは奥様が気晴らしに楽器を手にとられることもあります」
「リルイースは?」
「わたしは、このような部屋では……」
「もったいないな、たまにしか使われないなんて」
 短く言ったアルディランがずらりと並んだ楽器を眺めるのを尻目に、リルイースは調弦を始めた。鈴譜の基本となる音を吹いて笛を手放し、蒼皮の五本の弦の真ん中を弾き、ねじをまわして締める。
 音階をざっと流し、アルディランに向き直った。
「それでアルディラン様は、どの程度蒼皮を使われるのでしょう」
「『ダルメニィ』くらいだな、弾けるのは」
「……『ダルメニィ』……」
 ジェイル出身の女性楽師フィラーン・リアスイ作曲『ダルメニィ』。もう百年以上も昔から親しまれている練習曲である。
 アエリアルやリネほど音楽が盛んではない商業自治都市群ジェイルにおいて、初めて見出された楽師と言われるのがフィラーン・リアスイだった。
『ダルメニィ』は彼女が実家で商業の手伝いをする傍らでの子育て時、息子に聞かせた子守唄を晩年編曲したもので、大陸中に名が知られる作曲家の作品にしては素人にも気軽に手を出せるので人気が高い。蒼皮を扱う者は、まず『ダルメニィ』からリアスイの小品集をざっと流し、サラ・セガールの幻想曲集を弾く、というのが定番だった。
「では……フィラーン・リアスイの小品から、課題曲を選んでいただけますか? アルディラン様のお好きなものでよろしいので」
「リアスイね……一番印象深いのは、三十二番だったと思うんだけど」
「今、弾けますか?」
「いや……しばらく触ってないからな。とりあえず『ダルメニィ』を聞いて、それから指導してくれればいい」
 指導なんて大層なことはできないが、リアスイの三十二番程度ならばリルイースの手にも負える。
 本当は難易度順に並んだリアスイ小品集の三十二番を『ダルメニィ』からいきなり入るのはまずいのだろうが、リルイースもアルディランも音楽で食べているわけでもなし、まあいいだろう。何よりリルイースはアルディランに意見できる立場ではないのだから、弾きたいものを弾いてもらえばそれでいい。
 リルイースは本棚から『ダルメニィ』の譜面を取り出すと、そう長くはない楽譜を目で追った。
 軽快な高音で始まるとしばらく駆け足が続き、そこから緩やかにゆるやかに……落下。眠りにおちた子供の寝息のようになだらかに空気が揺れ、穏やかな、終局を告げる。
 時折軋む旋律から、アルディランが初心者であることはすぐに知れた。しかし、それを補ってあまりある魅力的な演奏だ。
 子守唄は子守唄でも、ただ穏やかなだけではなく、もっと力強い包容力のある旋律。
 赤子などすっぽり包んでしまえる逞しい腕に抱えられているような安心感が伝わってくる。
 楽譜に目を落としたままで、リルイースはかすかに眉を寄せた。
 哀しいとか、苦しいとか、心がそれを認識する前に、身体が反応して泣き出してしまいそうだ。
 リルイースが味わったことのないぬくもりが、そこにはあったからだった。
 覚えている限り、父親はもちろん母親にも抱きしめてもらった記憶はあまりなかった。アナベルの世話に忙しかった母は自らの子供に構う暇もないくらいに立ち働いており、リルイースをひとりにしておくか、連れ歩いてくれても同じようにぴったりとくっついているアナベルのほうを常に優先していたのだ。
 薄紅色の頬の柔らかさと、細い指に通った血のあたたかさ。
 そして、怯えた紫の瞳の冷たさ。
 それらの記憶を振り払い、こわばる瞼で瞬いて顔を上げた。
「……アルディラン様、十分弾けていらっしゃると思うのですけれど」
「そうか? 数え切れないくらい落としてただろう、音」
「それは……そう、ですが」
「真面目に楽器の練習なんてしたことがなかったからな……」
 だったらどうして急に始めたのだ、と思いながら青い瞳をじっと見つめた。冴えた色は嫌いではないが、どうしても居心地が悪い。
「リルイースも、弾いてみてくれないか? なんでもいいから」
「ええ……じゃあ、何にいたしましょう……」
「好きな曲は?」
 リルイースは人さし指と中指を揃えて顎に触れ、黒い目を伏せて考えをめぐらせる。
 どちらかといえば、女性が作曲したもののほうが好きだった。
 さらに、リアスイのようなもう百年も昔のものでありながらジェイル独特の気風を感じさせるものよりも、『国揺らしの少女』と呼ばれたサラ・セガールなどのあくまでも優雅で古典的なもののほうが得意である。優雅、というのならば、リネの国風なのだろうが。
「では……ヴァネッサ・レイニアスの『黄昏』……第二楽章を」
 数年前に書かれたばかりの曲で、クレイト邸の音楽室に楽譜が入ったのもつい最近のことになる『黄昏』だったが、蒼皮を主旋律に据えた第二楽章の滑らかさ美しさは特に秀逸で、すっかり暗譜しきるほどに弾いていた。レイニアスの曲調はリルイースの好みにぴったりと合うもので、サラ・セガールの曲でもレイニアス編曲のものがいい。
 蒼皮を構えて弓を取り上げる。
 アナベルが誕生日にくれた新しい弓だった。前のものも使えないわけではないのだが、かといってしまいこんだままだとアナベルの機嫌を損ねてしまう。リルイースとしては部屋に飾っておきたいくらいだったが、この弓でリルイースが蒼皮を弾くとアナベルは手放しで喜んでくれるのだ。
「『黄昏』ね……新しい曲だな」
 アルディランの呟きをかき消すようにして滑り出す、音。
 短調の物悲しい調べが続く序盤は、感情を込めず淡々と弓を運ぶ。
――ひときわ高く音を響かせた後の一瞬の静寂を境に、だんだんと駆け上がっていく。本当は二台以上の蒼皮での演奏が好ましい部分だが、さまざまな技巧の織り込まれた蒼皮部は練習にも最適だ。
 朝の喜びを告げる太陽とはまた別の美しさを持って昇る月のように静かに、けれども熱情を孕んだ音が荒れている。
『黄昏』。
 赤紫の空にたなびく雲と、藍色の空に冴えた月。
 リネのサラ・セガールが生きていたならば、ヴァネッサ・レイニアスとそう変わらない年齢のはずだ。ともに近代を代表する楽師として名を残すことだろう。サラ・セガールの美貌と緋鱗の演奏も――リルイースは聴いたことなどないが――今なお人々の間で惜しまれるほどのものだが、レイニアスの作曲家、演奏家としての才能も間違いなく今大陸の最高峰にある。
 長くはない第二楽章の終曲を迎え、顔を上げるとアルディランと目が合った。
 精悍な顔で嬉しそうに――無邪気なほどに、笑いかけられる。
「やっぱり、リルイースは巧いな」
「ありがとうございます。……ああところでアルディラン様、蒼皮は何時頃までに弾けるようになればよろしいんでしょう?」
 はっきり言ってしまえば、リルイースはアナベルの世話だけで手一杯で、自分自身が蒼皮の練習をする時間もとれないほどだった。
 アルディランならばいくらでも優秀な教師を雇えるところを兄の婚約者の世話係で間に合わせようとしたからには、近々楽器の腕前を披露しなければならないような会でもあるのだろう。
 リアスイの三十二番を本番でも弾くのか、それともそれは『ダルメニィ』と同じく練習のみか……。
 首をかしげたリルイースに向かって、アルディランは静かに足を踏み出した。
 すぐ間近に、アルディランの肩。
 アナベル以外の人間とこんなに接近するのは久しぶりだった。
「いや、いつまででも稽古をつけてくれ」
「はい……?」
 にこやかに囁いたアルディランに、目を瞠る。
 だからそんな時間は……。
「アナベル嬢さえ承知してくれれば、リルイースにはグラバートの屋敷で働いてもらうんだけどな」
「それはどういう……こと、でしょう」
「ああ、だからつまり、ずっとリルイースと一緒に居たいってことだよ」
 腕と腕とが触れ合うほどの距離で吐き出された言葉に、頭の中が真っ白になる。
 そのときリルイースは、恐怖にも似た感情で身体を引いた。
 ぎこちなくしかし限りない安心を与えるように、子守唄を弾いた腕……。
 今にもこちらへ伸ばされそうなその腕に触れられたら、リルイースが今まで守ってきたものが崩れてしまうような気がした。

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