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――――――― I still... ―――――――
chapter 3 - still remember you

(1)

 少年がこの世に生れ落ちてから、十三度目の冬が過ぎた。春が来れば、彼は十四になる。
 深紅の楽器を爪弾きながら、リジエルは小さな額に入れて丸い机に並べてある手紙を見つめていた。
『親を忘れるな。子を忘れるな。隣人を忘れるな。主があなたを忘れることはない』
 これは――そう、去年の手紙だ。細い、流麗な文字で硬い紙に書かれた聖句。リジエルを手放した母親が、誕生日が近づくたびに送ってくるものだ。しかし去年送られてきたそれは、いつものものよりもいっそう深くリジエルの心に突き刺さった。
 今年は――今年こそは、母親に会いたい。自分はもう十四で、決して子供ではない。母の居場所を突き止めることも、不可能ではないはずだ。
 リジエルは庭に出た。今年も、母からの手紙が届く季節になったのだ。毎日膨大な量の手紙が届く中に混じった白い封書。去年までは、屋敷の母に手渡されていた短い手紙――――。

――私はまだ、あなたを覚えている――

 ◆

 ウェルフリー家の屋敷の正門横には、常に幾人かの門番が詰めている小屋がある。彼らはそこで邸内に立ち入ろうとする者を牽制したり、馬車が通る手伝いをしたり、場合によっては馬を預かったりもする。
 屋敷に届く手紙を預かり、執事に渡すことも、彼らの重要な役目である。
 手紙は、裕福な者ならば雇い人を直接差し向けることもあるが、たいていはフラッセアの下級役人待遇である飛脚に託して届けられるものだ。たとえば身代の大きな貴族からの手紙を持った使いならば屋敷の奥まで通すこともあるが、飛脚のたぐいは門番小屋で止め、かさばる手紙を持ってきた者には手間賃を余計に渡してすぐに返す。届け主から前払いで代金を受け取っているのが普通なので、よほどのことがない限り手間賃をはずむことはないのだが。
 門番小屋には最近、ウェルフリーの当主夫妻の二番目の息子である少年が足繁く出入りしていた。――否、最初の数日はそれくらいの穏当な表現で済んでいたのだが、上着なしでも過ごせる頃になると、少年はほとんど毎日門番小屋に入り浸って過ごしていた。
 もちろん、門番たちにとっては仕事ぶりを監督されているようでいい気はしない。しかし少年は門番の緊張などものともせずに、日がな一日小屋の隅で緋鱗と呼ばれる楽器を爪弾いているのだった。
 少年はリジエルといって、家を継ぐ義務も権利もない気楽な、楽器遊びにかまけている次男坊である。最初のうちこそ肩肘張って仕事に精を出していた門番たちも徐々に、まるでそこにいないかのように静かなリジエルの存在に慣れて、結局はいつもどおりにほどほどの勤務態度を見せるようになった。
 しかし困ったことには、時折――本当にごくたまにではあるが、リジエルのおまけとして現れる少年がいるのである。彼こそアヴィー・ウェルフリーとその妻アリシアの長男で、いずれは家を継ぐことになっている、リジエルの兄ハファディルだった。
「……リジエル」
 ハファディルはリジエルよりもずっと体が大きい。リジエルは自分の出生について多くのことを知っていたが、時々は本当にこの少年と血がつながっているのだろうかと疑問に思うことがある。――どちらにせよ、血はつながっているのだが。しかし実際、秘められた真実――ハファディルは知らないことだ――では、リジエルのほうが一つ年上であるはずなのだ。それなのにリジエルが小さなままでいっこうに大きくならないのは、成長期が遅く来るからか、それとも父にはあまり似ずに生まれたのかもしれない。
 今はそうでもないが、小さい頃の自分はおとなしくて手のかからない、けれど頻繁に寝こむ子供だったというから、やはりリジエルは屋敷の両親を実の両親だとは思えない。
 彼には親が二人ずついる。一組は村の両親と呼ぶ、彼が幼い頃に一緒に暮らしていた人々で、村の父は彼が幼い頃病で亡くなった。村の母とはもう七年ほど会っていなくて、けれど誕生日には必ず手紙を送ってくれる、リジエルがもっとも慕っている女性だ。
 もう一組は屋敷の両親――つまり今一つ屋根の下に暮らすウェルフリーの当主夫妻で、リジエルは屋敷の母の腹から生まれた。けれど生まれてすぐ屋敷の母はリジエルを手放して村の母に託したから、リジエルはずっと自分の親は村の両親なのだと思っていたし――今でも、そう感じている。
 そして、ややこしいことに村の母は屋敷の母の妹で、村の父は屋敷の父の兄なのだ。リジエルが生まれる前にちょっとしたごたごたがあったということらしい。七年間、世間の人は屋敷の両親の長男はハファディルだと思って過ごしていた。だから今でも、リジエルはハファディルの弟だ。
 ハファディル自身がそれを知らないことを、ときどきリジエルはかわいそうに思うことがある。結局のところハファディルはリジエルよりも一年遅く生まれているから、どうしても弟のように思ってしまうこともあった。
「リジエル! 聞いてるのか」
「ああ――兄上」
 強い調子で上から声をかけられた。リジエルは緋鱗を撫でていた手を止めてハファディルを見上げた。
「どうしたんです、こんなところまで」
「いや……」
 ハファディルはなぜかまごついたような、困ったようなそぶりを見せ、決して広くはない門番小屋の片隅に座っていたリジエルの横に腰をおろした。めったに見ることがないウェルフリーの嗣子まで現れて、門番たちが困惑しているのがわかる。
「兄上はあまり腰を落ち着けないほうがいいと思いますけど」
「わかってるよ」
 そうは言いながらも、ハファディルは小屋を去ろうとはしなかった。小屋に用事があったわけでもなんでもなく、リジエルが目的であるらしい。かといって、本宅にリジエルを呼び戻すわけでもない――それがリジエルには不思議だったが、とりあえず立ち上がって外に出ることにした。
 ハファディルはやはり後をついてくる。彼はリジエルの『兄』だから、あまり強く向こうへ行ってくれとかついてこないでくれと言うわけにもいかない。なんとなく、居心地が悪かった。兄だとか弟だとかは関係ない、ただリジエルがいつまでも村の両親を実の親と思っているから、ハファディルやアヴィー、アリシアとはどうしてもなじめずにいるのだ。
 村の母がこのようなことを望んでいないということはわかっている。ただ、リジエルのこういった心理は村の両親への思慕に起因しているもので、かといってそれがなくなったからといってこのぎこちなさも消えるというわけではない。
 どうしようもない――それがリジエルの偽らざる本音だったし、それゆえに彼はどのような形でもいいから早く家を出たいと思っていた。
「毎日毎日、こんなところにさ――何しに来るんだよ。気になるだろう」
 口をとがらせてハファディルは言った。彼はリジエルと一つ違いだから、十三だ。体つきは立派だが、まだ子供っぽい好奇心に突き動かされておかしな行動をとる弟を追いかけてきてしまう。
「待ってるんです」
「何を?」
「手紙を――飛脚を。もうすぐ、誕生日だから」
 それだけを言っても、ハファディルには理解できないに決まっている。しかしリジエルは不満そうに黙り込むハファディルを残して門のかたわらに立った。
 たそがれ時が近づく頃、ようやく飛脚が門を叩いた。門番よりも先に駆け寄って手紙を受け取り、何通かのそれを検分する。
 見慣れた――見慣れてしまった繊細な文字を見つけたリジエルは、手紙を運んできた若い男にかみつくように尋ねた。
「これ」
 封筒を突き出すと、男はあっけにとられたように少年を見つめ返した。
「それが――何か」
「どのあたりから配達されたものか、わかるか」
 おそらく、そういったことは普通ならば秘密なのだろうが、彼にはウェルフリーの次男坊という肩書きがあるし、なお幸運なことに今日は隣に後継ぎのハファディルまでいる。男が口をつぐんでいるのは難しいだろう。
 男は顔をしかめて表書きの文字、そして裏返したところの署名を見た。一つ頷いて、リジエルに向かって口を開く。
「僕がこれを預かるまでに何人か間に入っていますから、差出人が手紙を預けた地域となるとわかりません。だけど、彼女がどこにいるのかは」
「どういうことかな」
「マリセラ・スールでしょう、差出人は――それが僕の知っているマリセラ・スールなら、グラエ・ナーダの聖女ですよ」
 リジエルは首を傾げた。
 グラエ・ナーダは王族の葬儀や式典を執り行うこともある大聖堂だ。フラッセアで最も格式の高い教会の一つである。リジエルも、何度か足を運んだことがある。
 しかし、なぜ村の母がそのようなところで、しかも聖女とまで呼ばれているのだろうか。
「もともとは、もう少し小さな教会で聖歌の指導や礼拝での独唱をしていたみたいですが――教会の中では、天使の歌を歌う女性として知られていたっていう話です。グラエ・ナーダで歌ったのはまだ三回ほどですが、彼女が歌うとなると大聖堂が人であふれるくらいに礼拝に人が詰め掛けるんです。僕も、祖母を連れて礼拝に行きましたが――祖母が泣いて感動していましたね、生きているうちに聖女の歌を聴くことになるとは思わなかったと」
「そんな……人だったのか」
 リジエルは呆然と呟いた。村の母は屋敷の母ほど美しくも聡明でもない、凡庸で家庭的なところのある人だと思っていた。ただ、歌うのは好きだったようで、幼い頃はよく『ダルメニィ』を歌ってもらったし、家事をしながら歌っているところも見た。父も、死の間際は母の歌を聴くことで神の国へ迎え入れられるための準備をしていたはずだ。
 けれど、それが聖女の歌とたたえられるくらいに、万人が受け入れ、認める価値のあるものだとは思っていなかった。リジエルと村の父にとっては母の存在こそがかけがえのないものであって、だからこそ彼女の歌う歌も無二の価値を持つものであったのだ。
「マリセラ・スールとご子息との間にどんな関係があるのかは知りませんが――まあ、そういうことです」
 そう言って去ろうとした男をつかまえて、リジエルは最後に一つだけ尋ねた。
「次に――次にマリセラ・スールが大聖堂で歌うのは?」
「おそらくですが……半月後の礼拝でしょうかね」
「そうか。……ありがとう」
 何枚かの硬貨を手渡し、リジエルは男の背中を見送った。あまりにもあっけなく判明した母の居所に、まだ心は興奮している。
「母さん……」
 久しく口にしていないその呼称に、ハファディルが首を傾げた。けれど今のリジエルに、彼を気にしているゆとりはなかった。
 半月後――グラエ・ナーダ大聖堂の礼拝。いつもは聖休日の礼拝にも参加しないくらいに信仰のないリジエルだったが、大聖堂まで足を運ぼうと決心する。
 自分の素性についておおよそのところを知ってはいても、村の母がなぜ自分を手放したのかということにはどうしても納得がいかなかった。話を聞きたい――それ以上に、母に会いたい。
 今年こそは母と一緒の生活を始めるのだと心に決めて、リジエルは屋敷へ戻った。

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