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――――――― I still... ―――――――
chapter 2 - still respect you

(2)

 マリセラがカザレスに捧げ尽くした愛のすべてを語っても、アリシアはにわかにはそれが信じられないようだった。そのことが――というよりも、マリセラがアリシアの行為を負担だと、無理を強いられたのだと感じていないことが。
 マリセラにとっては、アリシアが身ごもったのをきっかけにしてものごとは結果的にすべてよい方向へ進んだのだ。彼女は姉と最愛の人とが夫婦になった姿を見ずに済んだし、リジエルという天使のような子供を育てることもできた。けれどそれは自分の、どちらかといえば特殊な考え方をした場合のことで、アリシアが納得できないのもあたりまえのことなのだということもマリセラはわかっていた。
 だから彼女は、リジエルを預かったその日から、アリシアの精神にかかる負担を少しでも軽減しようと言葉を尽くしてきた。少なくとも、そのつもりではいた。けれどそれは失敗に終わり、アリシアは数年間ずっと悩み続けていたのだ。
 それこそが、マリセラにとって何よりもつらいことだった。
 カザレスと違って、マリセラとアリシアの間には血縁関係しかない。カザレスのように心から、もっとも深いものによって交わることができないから、何も言わなくてもわかってもらえるというわけにはいかない。そして、残念なことに以前のアリシアとは意志の疎通が失敗してしまったのだ。
 マリセラをリジエルとともにこの館に迎え、何不自由のない暮らしをさせることがマリセラへの一番の償いになると信じているアリシアに、どうしたら納得してもらえるだろうか。
「あのね、姉さん」
 白くなるほど唇を噛みしめているアリシアに向かって、マリセラはささやいた。
「もう何度も言ったことだけど――本当に、あなたが申し訳ないと思うことなんてないのよ」
「だけど、マリセラ」
 アリシアはマリセラを睨みつけるようにして呟く。
「誰が見たって、私が悪かったって言うに決まってるわ。私が、私たちの神の掟に背いたこと。私が自分の罪を背負わずにあなたに押しつけたこと。あなたが楽な暮らしをしているはずがないと知っていたのに、拒絶されるのが怖くてただ手をこまねいていたこと」
「でもそれは全部私が望んだことだもの」
「……まさか」
 アリシアは自嘲するように言って、視線を落とした。そのような姉の姿など見たことがなかったマリセラは狼狽し、慌ててそれを打ち消すように言った。
「本当よ。私は姉さんにカザレスの妻になってほしくなかったし、姉さんの子供を育てたかった。放っておかれるのも、私が願ったことなの。ずっと身を隠していたわ。カザレスが私のことを訪ねてきたときも、本当に驚いた」
「私はあなたがどこにいるのか、知っていたわよ。アヴィーも、義兄も。場所を知っているだけ、ただそれだけだったけれど」
「それでよかったのよ」
 マリセラはできるだけ力強く見えるように頷いた――アリシアが重荷に感じないようにと。今の彼女ならば、それができる。
「姉さんは私のことなんて気にしないでいればよかったの。だって私は、純粋に姉さんのことを思って行動したわけではなかったんだもの」
「わからないわ、あなたの言っていることは」
 憔悴してなお美しい姿を見つめながら、マリセラは微笑んだ。
「私、小さい頃から姉さんが大好きだったわ。私は自分自身にはたいした価値が見出せなかったから、『アリシア・スールの妹』であるマリセラとして生きることでどうにか立っていられたの。自慢の姉さんだった。今も、もちろんそうよ。でも――私は、姉さんのことが大好きな私だけでできているわけではなかったの。ただ純粋にあなたの妹だったわけではなくて、私自身の、どうしようもなく身勝手な部分もあったのよ。それに気づいたのは、姉さんが婚約してからよ」
「マリセラ……」
 アリシアが、驚いている。無理もない――このようなことは、口にしたことがなかった。今さらのように打ち明けるはめになるとはマリセラ自身も考えていなかったのだ。
「姉さんに、ウェルフリーの別荘へ連れて行ってもらって、カザレスに初めて会って――そのときから、ずっとあの人だけ好きだったわ。姉さんの旦那様になる人だっていうのはわかってた。そのことを忘れたことなんてなかった。だから、姿を見られるだけで幸せだったわ。でも、できればやっぱり、姉さんと彼が結婚するところなんて見たくはなかった
「……私も」
 アリシアは当時を思い出したのか、やや翳りのある声音で呟いた。まだ、十年と経っていない近い昔――けれど、アリシアもマリセラもまだ十分に若いから、七年ばかりの年月が彼女たちにとってはひどく重いものとなっていた。
「私だって、本当はアヴィーの義姉になんてなりたくなかったわ。あのとき、私たちが三人だったらどうなっていたかわからない。あなたがいてくれて本当によかったと思ってる。本当よ」
「なんとなく、そうじゃないかって思ってたわ」
 三人の間に流れていた繊細で微妙な空気。息苦しいほどの沈黙を思い出すと、その面影に喉をふさがれた。
 気づけなかった自分が、鈍かったのかもしれない。
「だけどね、私はそう思っていたから、姉さんが身ごもったって聞いたときには複雑だった。きっと、姉さんはことが明るみに出なくてもカザレスとの婚約はなかったことにするだろうって思ったの。それが、私にとってはとても良い機会に思えたし、今まで完全だった姉さんに瑕がつくのは嫌だった。あのときの気持ち、うまく言い表せないわ……ただ、姉さんだって幸せになれるわけじゃないんだから、私は子供を任せてもらったことに満足すればいいと考えて」
「だけど私は、幸せだったわ」
 アリシアは結局、手元にいない子供の父親であるアヴィーと結ばれたのだ。偶然リネの娘が病死したことによって。
「その幸せがマリセラと、もともとアヴィーと約束をしていたリネの娘さんの犠牲の上に成り立っているものだって、自覚していたわ。だけどときどきは、あまりに毎日が幸福で、忘れてしまうことがあった。
「私が望んでいたのはそれよ。姉さんが私のことを忘れて、私を犠牲にしただなんて思わないでいてくれること」
「だけど……心の隅に、たいていの場合は残っていたわ。あなたは忘れて欲しかったって簡単に言うけれど、忘れられるわけがないじゃない。妹に子供を押しつけて――それだけじゃないわ。お父様やお母様は、まだリジエルはあなたが産んだ子供だって思っているのよ?」
「それでいいのよ。何だったら、姉さんとアヴィー様は私の子供を引き取ったっていうことにしてくれてもいいわ」
「違うわよ!」
 アリシアが強い調子でマリセラの言葉に悲鳴をかぶせた。顔を両手で覆って首を振り、泣き出す直前のような嗚咽さえ漏らす。
「違うのよ……そんなことがしたいわけじゃない。今のアヴィーにどれくらいの力があるか、あなたはわかってるの? うまく立ち回りさえすれば、昔の私たちの過ちさえ無にしてしまえるのよ。だけどあなたの負った傷は、アヴィーの持っている力では決して治せないわ。私はそれが悔しいの。悲しくてたまらないのよ。昔からずっと、私はあなたの姉で――だから、あなたを守ってあげることがあたりまえだと思ってた。あのときから今までは、私にはそれができなかったし、七年前は反対にあなたに庇ってもらったわね。だから私は、あなたにどうにかしてお返しがしたいの」
「……私は、何もしてもらわなくてもいいわ」
「でも」
「姉さんにお返しをしてもらうようなことは、私はやっていないもの。私が望んでいるのは、一刻も早くここを立ち去ることだけよ。姉さんが私にお返ししようと、償おうと必死になるのは、私とカザレスの築いてきた幸福を否定することよ。……私に、姉さんの顔なんて二度と見たくないって言わせることなのよ。だからもういいの。お願いだから何も言わないで」
 マリセラは静かに言った。何もかもを押さえこんだ言葉に、アリシアには聞こえたことだろう。実際、彼女が押さえつけていたのは、アリシアに向かって迸りそうになる怒りだった。まさか、こんな気分になるだなどということは、アリシアと話をするまでわからなかった。
 自分の行為を、好意を否定されて――マリセラは悲しかったし、腹立たしかった。アリシアがマリセラに対して罪悪感を持つということは、つまり彼女が妹のしたことを間違っていると思ったということだ。マリセラは、自分のすべてを賭けたあの行為を間違ったものだったのだと否定されてひどく憤慨した。リジエルに母親と呼んでもらったこと、アリシアとの結婚をやめたカザレスと愛し合ったこと、そのすべてを否定されるのは、マリセラという存在そのものを否定されるに等しい。
 マリセラはアリシアに背を向けた。小さな荷物一つを持って、そのまま扉を出て行く。中庭にいるはずのリジエルのほうは振り返らなかったし、彼に姿を見られないようにほんのわずかだけだが背を丸めることさえしながら歩いた。アリシアが見送るつもりなのか黙ってついてきて――そうして、門のところで立ち止まる。
「わかってよ、姉さん」
「マリセラ……」
「リジエルは姉さんの息子よ。そのことを忘れないで」
 そうして、マリセラは再びアリシアの前から姿を消した。
 姉のために故郷を捨てるたびに、自分は身軽に、孤独になっていくと……そう、思いながら。


「信じられない……」
 折れそうなくらい華奢に痩せた妹の背中をなすすべもなく見送って、かつてのアリシア・スールは呟いた。穏やかな秋の昼下がりだが、ここ数日気温が落ちこんでいる。吹きつける風に対抗するには、彼女の心も体も薄着に過ぎた。
「信じられない」
 アリシアはもう一度呟いた。しかし、信じなければならないのだと彼女は理解していた。そうしなくてはいけないと理解だけはしていて――けれど心の底からは信じられていない。
 自分が傷つけた妹だ。いつでも、自分の背中に半分隠れている小さな少女だった。けれど今は、マリセラが途方もなく大きく見える。アリシアはマリセラを守っていたつもりで大切に仕舞いこみ、自分が浴びる賞賛が作り出す影の中に彼女を追いやって、そうやって幸福な娘時代と呼ばれるものを過ごしてきたのだ。
 少女時代の終わりに、アリシアは重大な過ちを犯した。神の定めた掟に真っ向から逆らい、今まで築き上げてきた才女の評判もかなりの力を持つ名士となった父の顔も完膚なきまでに叩き潰す、取り返しのつかない過ちだった。
 自分の罪を自覚していながら、アリシアはその結果の断絶をまったく考えていなかった。彼女は自分の胎内に宿ったアヴィーの子供を、決して亡き子にはしたくなかった。けれど解決策など一人では見つけられようはずがなく途方にくれていたとき、マリセラがすべてアリシアの良いようにはからってくれたのだ。
 マリセラは自分の若い、もっとも輝きに満ちた年月を犠牲にしてアリシアの罪を贖った。マリセラの完璧な姉であるためには、絶対にしては――させてはならないことだった。しかし、マリセラの示した解決策以上のものはなく、アリシアは結局自分のためにそれを受け入れてしまった。
 それ以来ずっと、マリセラはリジエルの母親だった。産んですぐ、名前もつけずに息子を捨てたアリシアよりもずっと良い母親だったはずだ。リジエルだって、マリセラが自分を置いていったと知ったらどんなに悲しむことか。
 リジエルは美しい子供だった。アリシアのもう一人の息子よりも、繊細な面差しをしていた。それはアリシアとアヴィー、二人の優雅な部分を凝らした結果であったに違いないが、アリシアにはむしろマリセラとカザレスの柔和で慈悲深い表情に見えた。
 自分はリジエルの母親ではないのだと、アリシアはそう感じた。事情はどうあれ、彼はアリシアが望んで手放した子だ。心身を苛んでいた重荷をおろすようにして、アリシアはマリセラに息子を託したのだ。リジエルが『母親』に捨てられたのは今回で二度目だが、おそらく彼は事情を知ったとしてもそうは思わないだろう。
 リジエルにとって母親はマリセラだけ、父親はカザレスだけなのだ。マリセラがどんなに、彼のためを思ってリジエルが実の両親のもとで成長することを望んでいたとしても、肝心のリジエルがそれを間違って受け止めることしかできなかったら、彼女の思いはいったいどこへ行ってしまうのだろう。
 門の前に立ち尽くすアリシアは道行く人々の好奇に満ちた視線を感じて屋敷の中へ戻った。激しい動悸が治まらない。マリセラが――母親が姿を消したのだと、どうやってあの天使のような子供に告げようか。マリセラはおそらくもう、リジエルの前にもアリシアのもとにも姿を現すことはないと、聖女のように忍耐強く慈愛にあふれた女性はいなくなってしまったのだと。
 アリシアは生まれてこのかた自分がマリセラに劣っているなどということを考えたことはなかった。自分でもそう思っていたし、周りも残酷にそう言った。そして何より、マリセラ自身がアリシアを決して手の届かない、不可侵の存在として捉えていたのだ。
 けれどマリセラがためらうことなくアリシアの胎内に宿った子供を育てると言ったとき――そればかりか、その子を産んだのは自分だということにすると宣言したとき、アリシアは自分の妹はどのような存在なのかおぼろげながら理解した。
 今まで影の中に潜んでいて片鱗もうかがえなかったものが、そのとき一瞬にして花開いた――彼女はアリシアのように世俗の賛美に固執することがない。自分の愛する存在のためにその身を捧げていられれば幸福なのだと。
 マリセラがそのように愛しく思う存在はおそらく、最初はアリシアだけだったのだ。しかしカザレスに出会い、リジエルを育てて、マリセラは大切なものが増えていく自分を自覚したに違いない。もしマリセラに姉がいなかったなら――アリシアがいなかったなら、マリセラは神に一生を捧げていたことだろう。すべてはアリシアがいたから、アリシアを通じてカザレスに出会ったから、アリシアがリジエルを産んだから起こったことなのだ。
 否応なしに妹の人生を左右してきた自分の無邪気と無自覚に、アリシアは心の底から打ち震えた。どうやって詫びればいいのか、見当もつかなかった。しかし――信じなければ。彼女の、誠実な妹を。
 アリシアはリジエルが遊ぶ中庭に下りた。最初に見たときはあちらこちらを珍しげに散策してまわっていた少年は、飽きてしまったのとも少し異なる様子で立ち尽くしていた。
 まるでマリセラが行ってしまったことを知っているかのようであり――アリシアは、それが恐ろしかった。
 リジエルがこちらを向いて、無垢な表情でアリシアにさえずりかけた。
「……母さんは?」
 子供の瞳に見つめられ、アリシアは返答に窮して黙りこんだ。目が潤んで、視界がぼやける。リジエルがアリシアの膝元に寄ってきて、彼女を見上げた。
「いないの? 村へ戻ったのかな」
「ええ……しばらく、帰ってこないわ」
 アリシアは涙を堪えてささやいた。
「とても長い間、あなたのお母さんは留守にするのよ。あなたがお母さんを追いかけていけるくらいに大きくなるまで。それまで、ここの子でいられる?」
 リジエルが大きな、透明な瞳で頷いた。
 アリシアは目を背けた。息子の目を、それ以上直視することはできなかった。

 そうして、彼女たちは再び親子になった。

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