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――――――― I still... ―――――――
chapter 2 - still respect you

(1)

 小刻みに体が揺れる。あまり立派な貸し馬車を選ばなかったからだ。荷物はそう多くないのでそんなに広くなくてもいいかと思ったのだが、誤算だった。乾いたでこぼこ道を、馬車はがたごとと進んでいく。
 三日間馬車に揺られ続けて、ようやく都に着いた。リジエルが痛い思いをしないようにずっと気を張っていたので、マリセラは都の宿に入ったときには疲れ切っていた。
「ごめんね、リジエル」
 マリセラはため息をついて寝台に横になった。カザレスの看病や、夏の終わりには体調を崩したリジエルの世話もあって――それで出立が少し遅れたのだ――、ここ数か月というもの彼女は今自分が倒れては困るという使命感に突き動かされて健康を保っていたのだ。それに旅の疲れが重なって、都に入った途端に高熱が出てしまった。
「そんなに長く寝つくことはないと思うから――でも、外で遊べないとつまらないでしょう」
 リジエルには都に友達はいないが、子供たちは皆、最初は彼の天使のような容姿を珍しがって、次には人見知りはするが聡明な性格を感じ取って、たちまち仲間に入れてくれる。マリセラが元気で、このあたりの治安がいいことを確かめることができれば、退屈することはないはずだった。
「大丈夫、本を読むから。母さんはゆっくり休んで」
「……ごめんね」
 マリセラはもう一度呟いた。
 リジエルは小さな手でマリセラの肩まで上掛けを引き上げ、窓辺の椅子にちょこんと腰掛けて薄い書物を開いた。端は擦り切れてぼろぼろになっている。本は高価だから、マリセラにはあまりたくさん買ってやることができないのだ。
 彼をアリシアとアヴィーのもとに――本来いるべき場所に送り届けたら、貴重な書物もいくらでも読めるようになるだろうが。
 マリセラは目を閉じた。リジエル――アリシアの最初の息子。ウェルフリーの、アヴィーの後継ぎは他にいるし、今さらリジエルが――彼がまぎれもなくアヴィーとアリシアの息子だからといって――出て行ったら、混乱が起きるだけだ。けれどマリセラは、やはりリジエルは実の両親のもとで育つべきだと判断した。
 というよりも――マリセラのもとに、いるべきではないのだ。
 カザレスが生きていた頃は、まがりなりにも父がいて母がいるという一般的な家庭の形を維持できていた。しかしカザレスがいなくなった今、リジエルの家庭はひどく不自然なものになっている。それは、彼のためにはならない。
 そして、それ以上にマリセラは、半分がカザレスとともに死んだ自分がリジエルの母親をやっていてはいけないと思っていた。
 カザレスと暮らすようになるまで、リジエルはマリセラのすべてだった。カザレスが家族の中に加わって、リジエルがすべてと言えなくなりはしたが、依然としてリジエルは何よりも大切な子供だった。
 しかし、今は。
 今のマリセラにとっては、まずカザレスが第一なのだ。彼がこの地上から永遠に消えてしまってからこのようなことを言うのもおかしなものだと思うが、まぎれもなく。そして、だからこそ。
 マリセラとカザレスはあの日一つになり、それをまた二つに分けて二人の人間になった。翌朝それは生と死とに分たれてしまったが、マリセラの中にカザレスが生きていること、マリセラがカザレスとともに死ぬことができたということは事実だ。
 このような不完全な人間が、子供の母親を名乗っていいわけがない。
「本当に……ごめんなさい」
 マリセラはリジエルに背を向けてひっそりと呟いた。
 彼は何も知らない。自分の本当の母親がマリセラの姉アリシアで、父親はあんなにも慕っていたカザレスの弟であることも、二人が今は無事に夫婦となったとはいえ、リジエルが生まれた当初は一つ間違えば罪を犯したと言われてもおかしくなかったのだということも、マリセラとはマリセラが起き上がれるようになり次第離れ離れになるのだということも。
 マリセラとて、進んで――喜んでリジエルを手放すわけではない。けれど自分に母親の資格がないことに気づいてしまい、またそれを待っていたようにアヴィーとアリシアがリジエルを引き取れるようになった以上、リジエルは都で正しく教育を受けるべきだと決意した。
 リジエルはいっときは傷つくだろうが、すぐに美しいアリシアを受け入れるだろう。血のつながった親子なのだし、リジエルはまだ幼い。マリセラの面影はいつしかおぼろげになり、取り出しても胸が痛むことはない思い出の欠片になるはずだ。
 もう、いいのだ。マリセラは乳飲み子のリジエルを引き取ってから七年間、アリシアの過ちがなければ決して経験することのなかった母親としての生活ができた。すべての女性に等しく与えられたとされる母性を確認し、守る存在を得てアリシアの影に隠れているだけだった少女の頃よりもずっと強くなることができた。
 それだけで十分だ。それ以上を望むのはマリセラの分を越えている。
 呼吸が落ち着きだすと、リジエルが静かに立ち上がって寝台の端に浅く腰掛けた。
 背中を摩る小さな、暖かい手の感触が心地よくて――マリセラはいつしか眠りに落ちていた。


 溜まりに溜まった疲れを消化して体を自然に、緩やかにほぐすのに、それから五日ほどかかった。それだけで済んだのは幸いだったとマリセラは思う。自分はフラッセアの大部分の人間から見ればお嬢様育ちではあるけれど、ここ数年でかなり鍛えられた。夏が既に過ぎ、涼しくなっていたことも早い復調を助けたらしい。
 マリセラは起き上がって久しぶりに外出着に袖を通し、宿の一階で食事をとった。マリセラが寝こんでいる間何くれとなく面倒を見てくれた女将にはリジエルと同じか、少し小さいくらいの子供がいて、だいぶ仲良くしてもらったようだ。リジエルがきれいな顔をした子供に手を振って、水を頼んだ。
「お友達になったの?」
「うん。あの子、三日くらい前まで足に包帯をしていて――あ、今は普通に動けるんだけど、それで宿の中でずっと遊んでた」
「そう。退屈しなくてよかったわね。リジエル、おいしいものを選んでちょうだい」
 品書きを広げてリジエルに手渡した。マリセラのここ数日ほとんど食欲がなかったが、今はそれなりに空腹を感じている。健康を取り戻した証拠だ。
 リジエルは――この宿での食事の経験が豊富な少年は――水を持ってきた友人に向かって朝食にふさわしい食べ物を注文し始めた。それをほほえましく見守りながら、マリセラは栄養と同じように不足気味だった水分を補給した。
 しばらくして朝食を終えた二人は部屋に戻って荷物をまとめ、数日間過ごした部屋に別れを告げた。
 こうやって、いつまで経っても住まいが決まらず、各地を転々とした時期もあった。リジエルが覚えているかいないかの頃で、カザレスと暮らし始めたばかりのときだ。
 マリセラは既に故郷を一度捨ててから長かったから、旅から旅の暮らしもさほどつらくはなかったが、カザレスはどれだけ負担に感じていたことだろう。
 今はカザレスが眠るあの小さな村が、マリセラの故郷だ。二つ目の、そしておそらく最後の心のよりどころ。体はどこにいても、彼女が帰るべき場所はそこに――カザレスの肉体と自分の心の半分が眠っているところに他ならない。
「行きましょうか、リジエル」
 リジエルはどこへ、とは聞かずに黙って頷いた。何も言っていない――しかし、気づいているのかもしれない。彼はもともと母親の、父親を得てからは安定したようでいていっそう不安定にもなった精神状態についてとても聡い。マリセラがリジエルとの別れと、姉との体面を目前にどこか緊張しているのを無意識に感じ取ったものであろうか。
 溜まった勘定を片づけて、外に出た。日がだいぶ高いが、それは秋空の穏やかな陽射しだ。人々も夏の疲れを癒して、楽な顔つきで歩いている。
 マリセラはリジエルと手をつないで辻馬車乗り場へ向かった。かつて住んでいたあたりにもっとも近い乗合場だと気づいて、懐かしくなる。
「――お客さん、どちらまで?」
 御者がにこやかに行き先を尋ねてきた。マリセラはリジエルと荷物を座席に押し上げながら、にこりと笑みを浮かべて言った。
「ウェルフリー様のお屋敷まで」


 王城の近くに広大な敷地を占める、身代の大きな貴族の館ばかりが立ち並ぶ中でもひときわ立派で荘厳な屋敷が、夏からアヴィー・ウェルフリーのものとなったウェルフリーの本邸だった。カザレスとアヴィーの父親は、おそらく政務の疲れが出たのだろうが、厳しい夏のある日、仕事中に発作を起こして亡くなったのだという。
 最初――スールとウェルフリーの結びつきの本当に初期の頃、亡き彼はアリシアを嫁に迎えることを渋っていた。スールの父の強い働きかけで、家督を継ぐ見こみの薄いカザレスの妻にアリシアを据えることは了承したのだが、基本的に彼はアヴィーと、その妻となるリネの貴族の娘とを支持する姿勢を崩さなかった。
 しかし彼の計画は、リネの娘が亡くなったことによって挫折を余儀なくされた。アヴィーにつりあう娘は、なかなか見つからなかった。そんな中、アヴィーは兄の婚約者であるアリシアを強く望み、おそらくはアリシアの人並みはずれた美貌と知性が認められて、アヴィーを溺愛する彼の父親は長男から将来の妻を奪い取ったのだ。
 彼はまったく知らないことであったが、その采配は四人のいずれをも幸せにした。ただ、アヴィーとアリシアは不義の末に生まれた子供をマリセラに押しつけ、彼女を追い出した形になってしまったことを最初は後悔していたかもしれないし、カザレスは不慣れな、不便な生活を強いられた。マリセラは愛する人との蜜月を、数年しか持てなかった。
 今はアヴィーとアリシアにも別の男の子ができて幸せに暮らしているはずだし、マリセラも永遠にカザレスとともにいることができるが、いつでも四人が幸福だったかというと、必ずしもそうではないのだ。
 とにかく――前当主の存命中には決してできなかったことが、今のアヴィーとアリシアにはできる。結婚前に既に生まれていた子供を引き取ることも、その子を公にウェルフリーの子として発表しなければ可能なのだ。
 自分の出自を知ったとき、きっとリジエルは傷つくだろうから――だから、彼を本当の親のもとに帰すのはなるべく早いほうがいい。
 マリセラは馬車を降りるとリジエルの手を引き、直立不動の門番がいるあたりへ近づいていった。いかめしい顔をした門番に、お前は誰だというふうに見おろされる。今のマリセラはどちらかといえばみすぼらしい格好をした若い女に過ぎないのだから無理もない。
 自分はこの屋敷の奥方であるアリシアの妹なのだと名乗るつもりは、マリセラにはなかった。ここへ来たことは、誰にも知られたくない。
「アリシア様へお取次ぎを願いたいのですが」
 愛想の良い声でマリセラは言った。銀貨を一枚取り出す。
「マリセラが来た、と言えばおわかりになるはずですから。それでアリシア様が何もおっしゃらなければ、そう言っていただければ退散します」
 門番は頷いて銀の貨幣を受け取り、くるりと背を向けて歩いていった。門番は一人ではないから、取次ぎのために持ち場を離れても問題はないのだろう。マリセラは何も言われなかったのを幸い、門番小屋の横でリジエルを遊ばせていた。
 しばらく待たされて、そうしてマリセラは態度がどこか恭しく変わった門番に案内されて屋敷へ入った。見たことがないほど立派な調度に、リジエルは目を見開いている。見知らぬ豪華な場所へ来ても、好奇心にかられこそすれ圧倒されてはいない。マリセラよりもむしろ彼のほうが落ち着いているかもしれなかった。
 奥まった一室に案内されて、その部屋へ入ると既にアリシアがいた。待ちきれずに、走ってきたのだろう。息がまだ弾んでいる。
 昔と変わらぬ美しい姿に、マリセラの胸がいっぱいになった。
 姉は、何も変わっていない。二人の子供を産んだ母親とは思えないほど若々しく、若い頃にはまだ足りなかった落ち着きも備わって、人生の大部分をともに過ごしてきたマリセラでさえ見惚れて言葉も出ないほどだ。
「マリセラ……」
 掠れた声でアリシアは呟いた。妹の名前以外の言葉を忘れてしまったかのように、紅い唇を震わせている。
「マリセラ、あなた……」
「姉さん」
 何か言いかけたのかもしれない――けれど、聞きたくなかった。
 だからアリシアの言葉をさえぎって、マリセラはリジエルの肩を抱いた。
「あなたの息子を返しに来たの。リジエル――ずっと、リジエルって呼んでいたわ。姉さんがかまわないなら、そう呼んであげて」
「マリセラ、待ってよ」
 アリシアは額を手で覆って長椅子に腰掛けた。あまりにも唐突な妹、そして息子との再会に、頭がついてゆかないのだろう。長い髪の毛と白い手に覆われた顔が青ざめている。
「急に、そんなことを言われたって……」
「そうね、ごめんなさい。……ゆっくり話すわ」
 アリシアは立ち上がり、席を勧められるまで自分からは決して座ろうとしない妹の性格を熟知した手つきでマリセラの肩を抱いた。リジエルの正面にしゃがみこみ、安心させるようににっこりと笑って、同じようにマリセラの隣に座らせる。
「本当に……久しぶりね」
 アリシアは細いため息とともに言った。
「今まで、どこにいたのよ。詳しく聞かせてちょうだい」
「でも、姉さん」
 マリセラはやんわりと笑って言った。数年前までは、自分が姉に対してこのような態度をとれるようになる日が来るとは夢にも思っていなかったのだが。
「私、あんまり長居する気はないの。全部話せるほどの時間はないわ」
「どういうことよ」
 アリシアはリジエルに向かって窓を指して見せ、お庭で遊んできなさい、と言った。有無を言わせない強い口調に、大人同士の話から放り出されるときにぐずるような子供ではないリジエルは大人しく従う。扉を出るとすぐに中庭に通じる出口を見つけたらしく、軽い足音が遠ざかっていった。
「マリセラ、いったい何なのよ。私、門番がマリセラっていう女の子の取次ぎに来たって聞いて、あなたがやっと戻ってきてくれたんだって思ったわ。私はずっとあなたに会いたかった。今の私にできるだけのことをして、あなたを幸せにしたかったのに。それなのにどうしてそんなことを言うのよ」
「私がぐずぐずしていると、リジエルがむずかるかもしれないでしょう?」
「そうよ。あの子、確かに私の産んだ子だけど――誰よりもあなたが好きでたまらないみたいだったわ。あの子と一緒にいればいいじゃない。リジエルと、二人でここに――それは不可能なことじゃないわよ」
 さらに言い募るアリシアに、マリセラはそっと苦笑した。
「わかってるわ。だけど私は一人になりたいの。リジエルは姉さんとアヴィー様に育ててほしいし、私は一人で暮らしたいのよ。だからリジエルとは一緒にいられないわ」
「ねえ、マリセラ。本当に、何があったの」
 真摯な瞳に見つめられてマリセラは少し怯み、同時にアリシアに忘れられていなかったことへの安堵を感じた。
「まだ私を恨んでる? 私たちと一緒にいるのは嫌?」
「恨んでたことなんてないわ」
 マリセラは驚きに目を瞠り、首を横に振った。
「姉さんを恨んだことなんてないわ。私はこの数年間、本当に幸せだったの。リジエルがいた。カザレスもいたわ。私たち家族だったのよ。――今までの人生の中で、一番幸福な時間だった」
 そうして、アリシアを納得させるために、マリセラは語り始めた。
 歓喜と不安のないまぜになった。あの頃のすべての幸福を。

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