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――――――― I still... ―――――――
chapter 1 - still love you

(5)

 そうしてマリセラはカザレス、リジエルとともに都を離れた。病が完治したわけではない――おそらく、彼の病は治ることはないだろう――との言葉どおり、カザレスが雑多な街の空気に疲れてすぐに寝こんでしまったからだ。
 マリセラは実家からいくつか自分の貴金属や装飾品を持ち出していたが、まじめに働いてきたためにほとんど使うことがなかったそれで、どこかに小さな家と土地を買ってはどうだろうかと思いついた。カザレスも財産はいくらか身につけていたし、リジエルの他に病気のカザレスも家族に加わるのだから、今までのように教会の慈悲に頼るのではなく地に足のついた生活をすることが必要だ。
 しかし、彼女たちが定住の地を見つけるのは、容易なことではなかった。まだ長旅はつらい年のリジエルと体の弱いカザレスを気づかいながらフラッセア中を放浪し、いくつもの集落を通り抜けてきた。途中ディングスの側を通り抜けたときは気が弱り、思わず泣き出しそうになってしまったが、マリセラはカザレスとリジエルに弱った自分を見せることができなかった。
 リジエルはまだ年端も行かない子供だし、カザレスはディングスの外を知らなかった頃の自分よりもさらに世間のことがわかっていない。マリセラよりもずっと年上でありながら、病のために屋内に引きこもりがちだったことに加えて、マリセラにとっての姉のように外を引き回してくれる兄弟――あるいは友人もいなかったカザレスは、厳しい世間を渡っていくにはやや頼りないところがあった。
 カザレス自身もそのことをふがいなく思い、常日頃からマリセラに対して申し訳ないという態度を隠そうとしていなかったが、どうあがいたところで奇跡のように、体が突然丈夫になるなどということはないのだ。どうしようもないことを気に病んでいるカザレスに、追い討ちをかけるようにしてマリセラが弱っているところを見せるのは、どう考えても彼をいっそう追い詰めることにしかならないだろう。
 マリセラは、自分がアリシアの厄介ごとを引き受けたときと同じ間違いをしていることに気づいていた。あのとき自分はまだまだ未熟な、幼い少女でしかなかったから、自分にかかる負担を完璧に隠しとおすことができなかった。アリシアは、それを感じていたのだ。そして気づいてしまった以上、何もなかったようにふるまうことはできなかった。
 だから今度は、自分が何もつらいことなどないかのように、いつも明るくふるまっていればいいのだとマリセラは思った。事実、カザレスとリジエルが側にいるだけで彼女は幸福だった。アリシアのときもそうだったが、自分にとって本当の幸福とは、愛する人がいつも笑顔で、その人にふさわしい光を浴びていられるよう献身することだと悟ったのだ。カザレスがウェルフリーでの快適な生活を捨てたのは自分に原因があるのだから、せめて彼に不自由がないように、またマリセラが落ちこむことで彼に負担をかけないようにしなければならない。
 困難を極めた住まい探しが落ち着いたのは、結局都を出てから半年以上経ってからだった。
 今住んでいる――明日には出て行く――村を含めた近隣の集落から人が集まってくる少し大きな教会で、マリセラが歌ったのだ。人前で歌うのはほとんど初めての経験で、緊張もしていたが、その歌を気に入って礼拝の後にマリセラのところへ訪ねてきた女性がいた。それがここの村長夫人で、村の婦人会の世話役もしている人だった。
 集落に受け入れられるにはまず、村人と顔をつながなければならない。そして第二に、男たちよりもむしろ女性たちの好意を得なければならないのだ。
 幸い、最初に村長の夫人に気に入られたことで、マリセラはすんなりと婦人たちの間に溶けこむことができた。村人のほとんどがマリセラが歌った礼拝に参加していたこともあって、それから三人が村に住むようになるまではとんとん拍子にことが進んだ。マリセラが婦人たちに気に入られれば当然、その子供たちもリジエルを排除しようとはしないし、病弱な夫も同情をもって受け入れられる。
 マリセラは教会で歌うことによっていくらかの謝礼を得ることができたから、家の裏に小さな菜園を作れば日々の生活には足りていた。それでもリジエルを遊ばせながら畑仕事に従事しているうちに、手のひらは昔とは比べものにならないくらいに硬くなっていき、そして。
 無我夢中で日々を過ごしているうちに、カザレスを夫、リジエルを息子と呼ぶ幸福な時間は四年を数えていた。

 ◆

 菜園の世話を終えて家へ帰ると、近頃は起き上がっている時間がだいぶ長いカザレスが、リジエルを膝に乗せて木の玩具で遊んでやっていた。
「おつかれさま、マリセラ」
「いいえ。……あら、新しい玩具ですか」
 穏やかに笑うカザレスに笑みを返して、マリセラはリジエルが抱えている木のからくり人形に目をやった。意外にも、カザレスの作ったものだ。彼は手先が器用で、寝台の中でよく手遊びにこういったものを作っていたらしい。
「今日は気分がよかったから。……おや、リジエル」
「お腹が空いた? ちょっと待ってね、すぐに支度をするから」
 マリセラの姿を見つけた途端に空腹を訴え出したリジエルの頭をさらりと撫でて、マリセラは台所に立った。
 村に来たばかりの頃は近所の婦人たちにおすそ分けをしてもらうことのほうが多かったが、今ではマリセラもかなり家事ができるようになっている。小さい頃から母親に家事を仕込まれて育った同年代の女性たちの手際にはほど遠いが、所詮は中途半端なお嬢様育ちである自分が身につけたにしては上出来だと思っている。
 今の自分は、ディングスにいた頃のマリセラ・スールではない。あの頃とは決定的に、何かが違う。それはリジエルやカザレスの存在であり、姉のことを知らない人々に囲まれた生活であり、そしてそのことによって歌えるようになった歌であった。
 貧しいが、充実した暮らしだった。大切な人とともにいることができる今は、なんと幸せなことだろうか。カザレスもまた自分を必要としてくれているということも、それを考えるだけでマリセラをうっとりとした気分にさせた。
 しかし、時折彼がマリセラを複雑な、強烈なものでできた視線で見つめることに、彼女は気づいていた。
 おそらく、カザレスはリジエルの父親が誰なのか、焼けつくような感情を持って知りたいと思っているのだ。それは彼のマリセラへの愛情のあらわれであり、彼女にとっては心地よいものだった。
 けれども口を割るわけにはいかなかった。たとえ自分が貞淑な見かけを裏切る女だと思われたとしても、リジエルがアリシアとアヴィーの――しかも、まだアリシアがカザレスと約束をしていた頃の――子供だと知られるわけにはいかない。おそらく、アヴィーを信頼していたカザレスが傷つくことになる。
 自分だけが秘めていればいい痛みなのだとマリセラは思った。この秘密を知るもう一人の人物、アリシアは、アヴィーと結婚してすぐにもう一人子供をもうけたから、今は手元にいないリジエルを懐かしむことはあっても、マリセラへの罪悪感に苛まれることはないはずだ。マリセラが子供好きなのは知っているし、カザレスと暮らしていることも耳に入っているのだろうから。
 妹が幸せだということを、きっと彼女も知っている。
 それだけで、マリセラには十分だった。
 カザレスとともにいられる今の生活が、彼女にとっては天からの贈り物のように貴重なものだった。リジエルの親について口を滑らせることで、それを壊してしまうわけにはいかなかった。
「……マリセラ、手伝いましょうか、夕食の支度」
「いいえ」
 マリセラは振り向いて微笑んだ。
 手を伸ばせばすぐ届くところに、カザレスとリジエルがいる生活。
 今、自分はアリシアよりもきれいに笑っていると――そう、思えた。


 しかし、マリセラの人生でもっとも幸福な時間は、その後まもなく終わりを迎えることとなった。
 その冬、いつになく厳しい冷えこみに、カザレスはリジエルの積み木の玩具ががたがたと崩れるように体調を悪くして、ほとんど一冬寝ついたままだったのだ。
 カザレスは春になってもなかなか復調せず、マリセラは穏やかな気候の間もずっと気を揉み続けていた。皮肉なことに、村で健康な暮らしに慣れていたために、久しぶりの不調を体が受け止めきれていないのだと感じた。
 もともと、彼が今まで生きていられたことが奇跡だったのだとマリセラは知っている。本当なら、快適なウェルフリーでの暮らしを捨てて、マリセラとの生を選んですぐにこうなってもおかしくはなかったのだと。しかし、四年間安泰に過ごしていただけに、この暮らしがずっと続くのだと錯覚してしまったのだ。
 幸い、マリセラは丈夫なだけがとりえでもあるし、リジエルも手のかからない子供だから、カザレスの看病には夜を徹してかかることもたびたびだった。自分の体が少しくらいおかしくなってしまっても、カザレスを死の天使に渡さないことが先決だとマリセラは思った。
 マリセラにとってカザレスを失うことは、自分を失うにも等しいことだった。十五のときから、彼女はずっとカザレスを見ていた。もしかしたら――リジエルを自分の産んだ子供として引き取り、身を隠したのも、アリシアのためというよりはカザレスのためだったのかもしれないと思うほど。
 離れていても、思いが通じていなくても、彼がつつがなく暮らしていると知っていればマリセラは幸せだった。カザレスが生きている、それこそが何よりも喜ばしいことだと、何年も前からマリセラは知っていた。
 だから、思ってしまうのだ。
 彼を死なせるくらいなら、家族になどならなければよかったと。
 あのとき、リジエルの父親になろうとのカザレスの申し出を断っていれば、彼はつらく貧しい生活を知ることなく、医者にも不自由せずに暮らしていけた。彼にとってはそれが幸せだったはずなのに、マリセラはただ彼が生きていてくれればいいと、そう思っていた心が生身の彼を見て騒ぎ出したのに負けたのだ。
 けれどあのときの自分がいかに愚かだったのか、死に瀕しているカザレスを見てまじまじと思い知らされた。彼をそっとしておけばよかった。彼に少しでも永らえてもらうために、自分の恋情など殺してしまえばよかったのに。
「カザレス様、お薬の時間です……起きられますか?」
「……はい、何と?」
 まばゆい夕陽のあたる窓辺でまどろんでいたカザレスの肩を揺すると、彼はゆっくりと蒼白い瞼を持ち上げた。
「お薬です。どうぞ」
 マリセラは医師を呼んで処方してもらった薬に水を添えて差し出した。
「ああ――ありがとう。リジエルは……?」
 カザレスのもとに薬を運んでくるのは、いつもはリジエルの役目だ。
「ニールと遊んでいます。今日はお泊りです」
 なぜリジエルをよその家に預けたのか、カザレスはその理由を質そうとはしなかった。代わりに薬を飲み干してから物憂げに瞬き、マリセラに向かって言った。
「あなたは……どうして、私のことが何でもわかるのでしょう」
「え……?」
 マリセラは首をかしげ、カザレスが横たわる寝台の側に椅子を引きずってきて腰掛けた。
「私は、そんな――ただ、やるべきことをやっているだけで」
 彼の姿を、肉体を通して透かし見える魂を見ていると、とても幸せな気分になれるから――だから、カザレスを必要以上に見つめている自覚はあった。けれどそうしていれば彼の些細な変調にも気づくのはあたりまえのことで、それはことさらに指摘されるようなものではない。
「いいえ、違います。あなたは私自身ですら気づかないようなことも、何も言わないままに指摘してくれる。……あなたがいなければ、私の人生はまるで違ったものになっていたでしょう」
「それは、あたりまえのことです。だって、私のせいでカザレス様は……」
「そうではなくて」
 静かだが強い口調に、マリセラは言葉の続きを飲みこんだ。
「あなたがいてくれて、本当によかった」
「カザレス様……」
「アリシアを、恨んではいません。私よりもアヴィーと結婚したほうが、彼女にとっては幸せに決まっていますから。けれどそうして二人が結婚した後も私が彼らから目をそらさないでいられたのは、マリセラ、あなたがいたからです」
 泣き出したいくらいに嬉しい言葉だったが、だからこそマリセラは何と反応すればいいのかわからなかった。とまどって視線を落とすと、カザレスは重ねて言った。
「ありがとう、マリセラ」
 穏やかな言葉に、体が震えた。ぞくぞくと悪寒が背筋を這い登る。
 嬉しいはずなのに――不吉な言葉だ。まるで、遺言のような。
 事実、それが自らの死に際してカザレスが言い残そうと――自分が生きて、人を愛し、家族を育んだ証を残そうと――した言葉だということがマリセラにはわかった。カザレスのことならば、何でもわかる。
「い……いや……」
 奪われることには慣れている。世間の人にはあまりに不幸だと顔をしかめられるだろう人生が、マリセラにとってはあたりまえだった。けれど今、死の翼に包まれて連れ去られようとしているカザレスを見て、怯えて震えることを止められない。
 その一瞬、すべてを捨ててしまおうとマリセラは思った。彼がいれば何もいらない。リジエルも、彼を通して受け取ったアリシアの愛と信頼も、何もかも捨てて――死に行く彼の後を、追っていけたらと。
「殺して……殺してください、誰か、私を――ああ、カザレス様……」
 両手のひらで顔を覆ったマリセラの頭を、体を起こしたカザレスが抱いた。痩せた腕に体を預けて熱い体温に頬擦りすると、いっそう涙が勢いを増した。
「あなたとずっといられればいいのに。あなたがいなくなってしまうなら、誰か、そのときに、私も――」
「マリセラ、最後に一つだけ」
 静かな声が耳朶を打った。ごく低くささやかれて、取り乱していたマリセラはその瞬間だけ嗚咽を止めた。
「あの子は――リジエルは、本当にあなたの子供ですか?」
「リジエル――私の……いえ」
 最後に真実を。
 自らの真実を。
 痛みを分かち合うことを決心し、マリセラは泣きながら首を振った。
「リジエルは私の子です。私はあの子の母親です。けれど……私が産んだ子では、ありません」
「……やっぱり」
 深く息をついたカザレスが、マリセラをかき抱く腕に力をこめた。続く言葉を予感して、安堵が胸を浸していく。
「いいですよ――私が、あなたを殺しましょう。ただし、半分だけ」
「……半分」
 呟くと、カザレスは頷いた。
「その代わり、あなたは私を生かしてください。私の半分を、いつまでも」
 息もできないほどの愉悦に満たされて、マリセラは目を閉じた。
 幸福だった。もう誰も、マリセラからカザレスを奪うことはできないのだ。
「ずっと、そばにいていいですか」
 尋ねると、このうえなく優しい声が返ってきた。
「ずっと、そばにいてください――朝まで、ずっと」

 死が二人を分つまで。
 死が二人を、深く――魂が融けあうように深く、結びつけるまで。


 東の窓から朝陽が鋭く射しこんでくる。まだ太陽が昇って間もないというのに、気温はだいぶ上がっていた。
 そのせいで寝汗が乾いたのか、ひどく冷えていた。しかし目を開けたマリセラは、この冷たさの原因がそれだけではないことを知った。
 ゆうべ最後に見たときと同じ姿勢で――マリセラの指に細い指をからめて、カザレスが眠っていた。やすらかな表情だった。苦痛はなく、最後に愛する女性と結ばれた至福に満たされた、満足げな表情。
 彼が目覚めることはない――今後、永久に。
 この幸福が彼にとっては永遠なのだと知って、マリセラも嬉しくなった。胸の一番奥に残った彼の半分に語りかける。彼に分け与えたマリセラの半分も、死んだカザレスとともにこの歓喜を感じているのだろうか。
 生の世界に残されたマリセラの体――そしてカザレスの半分を受け入れた魂も、幸せだった。
 マリセラは朝の光の中で微笑んだ。
 自分はもう、何もなくても生きていける。
 もっとも愛しいものが、自分の一部になったのだから。

 ◆

 旅立ちの朝、マリセラはリジエルを連れてカザレスが眠る墓地へ向かった。丘の上に立つ、村の小さな教会の横に眠るカザレスは、名実ともに村の一員だ。
 カザレス、と――そして姓は頭文字だけがそっけなく刻まれている墓石の前にしゃがみこんで、マリセラは言った。
「行ってきますね、カザレス」
「行ってきます、父さん」
「長く留守にしますが――きっと、帰ってきます」
 それに、私たちの心は、体が離れていてもいつも一緒だから。
 それだけを呟いて、マリセラは立ち上がった。よく晴れた初秋の朝、門出には絶好の天気だ。
「父さんにお別れは済んだ?」
 リジエルに問い掛けると、少年は純粋な瞳で母を見上げ、頷いた。マリセラはリジエルの手をとり、ゆっくりと歩きだした。
「行きましょう、都へ」
――少年の父親にとっては故郷であり、母親にとってはそうではない、あの街へ。

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