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――――――― I still... ―――――――
chapter 1 - still love you

(4)

 あの、夢のような時を、今でもマリセラは鮮明に思い出すことができる。
 マリセラの療養と偽って人里離れた山中に赴き、次第にお腹の大きくなっていくアリシアの世話を、世間からは病人と思われているマリセラが一手に引き受けていた幸福な時間だった。
 彼女は姉の役に立てることがただ嬉しくて、このまま時が止まってしまえばいいとさえ思った。姉が子供を産み、どうにか出産前と変わらないくらいに動けるようになるまでの時間はあっという間のように思えて、アリシアはディングスに戻って結婚し、マリセラは姉の生んだ子供を連れて身を隠すという別れは、すぐに訪れたのだが。
 アリシアは子供を――リジエルを生み落としてからは、彼の顔を見ようともしなかった。名前も、マリセラが聖書から天使の名前をとってつけた。抱いてしまえば離れがたくなる、情が移れば子供のほうもアリシアを母親と思うようになると言って、同じ屋根の下に住んでいながら違う部屋に寝起きして、とうとう顔を合わせることがなかった。
 そして体力を回復したアリシアは、表面上は何食わぬ顔で実家へ戻り、カザレスとの婚礼に備えようとした。ところが――ウェルフリーが意外な、しかしスールにとってはこの上ない僥倖であることを申し出てきたのだ。
 それはつまり、流行り病を患ってはかなくなったアヴィーの婚約者、リネの貴族の娘の代わりに、アリシア・スールをアヴィーの妻に迎えたいという話だった。
 もちろん、姉妹の父は一も二もなく頷いた。アヴィーは将来のウェルフリー家の当主であり、そもそもスールの父は、カザレスではなくアヴィーとアリシアを縁付けることをもくろんでいたのだから。
 その頃マリセラは人の詮索が少ない都で暮らしていて、そこにはもちろんウェルフリーの本宅があり、アヴィーとアリシアの婚礼の噂はすぐに聞こえてきた。結婚式は都で行われて、マリセラは遠目にアリシアの姿を見てすぐにその場を離れたが、最後に見たアリシアよりもずっといきいきとした美しい表情をしていて、胸がいっぱいになった。
 アリシアはほんとうに愛する人と結ばれることができたのだ。
 リジエルの父親が当時の婚約者であったカザレスの弟――アヴィーだと知ったとき、マリセラは、それはいかにもまずいと思った。
 もちろん結婚を控えた身でありながら病床にある婚約者を裏切って他の男の子供を身ごもるのも世間の謗りを免れ得ないことだが、相手の男が婚約者の弟であるというのはもっと問題だ。二人の思いが通じ合っているというのはマリセラだけが承知していたことで、世間は年上であり、美貌で名高く、家を継げる望みのない男にあてがわれたことに我慢がならなかった豪族の娘が相手の弟に誘いをかけたのだと、アリシアを悪し様に言うことだろう。
 だから、マリセラは生まれてきた子供を自分の子にすることにしたのだ。幸い、アリシアがマリセラに妊娠を打ち明けられたとき彼女のお腹はまったく目立っていなかったし、悪阻もほとんどなかった。だから代わりにマリセラが臥せってみせて、あとで振り返ればあれは悪阻の症状だったのだと周りの人間が誤解するよう芝居を打ったのだった。
 詳らかには聞いていないが、マリセラはスールの家からは勘当されたはずだった。単身戻ってきたアリシアに、マリセラの病は妊娠による疾患だった、相手は誰なのかわからないと聞かされた両親は激怒したはずだからだ。
 結局アリシアの誤解は解けなかったから、消息の知れない妹に姉はたいそう心を痛めているだろうが、マリセラは一生家族の前へ出るつもりはなかった。
 アリシアはひたすら自分ばかりを責めていたが、本当はマリセラにも打算はあったのだ。彼女は子供がほしかった。アリシアとアヴィーによく似た、美しい子供がほしかった。そしてアリシアの本当に愛する人がアヴィーだと知ったとき、彼女は心から安堵した。
 アリシアとカザレスは、愛し合う恋人たちではないのだ。
 おそらく、カザレスはアリシアとアヴィーが互いを愛しているのを知っている。あの奇妙な雰囲気は、その事実が醸し出していたものだ。そしてそれを知っているカザレスは、決してアリシアを本当に愛することはない。
 カザレスは、あの薄命な人は、短い生涯を終えるまで恋人を作ろうとはしないだろう。彼は永遠に一人だ。ならば――。
 ならば、マリセラは心の中でひっそりとカザレスを思っていたとしても、罪にはならないと彼女は考えた。アリシアとアヴィーの結婚によって、その考えはますます強固なものとなった。
 手元に残された繊細な面差しの幼子とともに、その思いは見知らぬ土地でマリセラが生きていく支えであった。

「……母さん」
 暗闇の中に、リジエルの澄んだ声が響いた。マリセラは冴えた目をおぼろげな輪郭へ向けて返事をする。
「リジエル、眠れないの?」
「母さんが落ち着かないみたいだから。……何を考えてるの?」
 気遣いに溢れた無邪気な声音に、マリセラは微笑んだ。
「あなたのことよ。あなたが生まれたときのこと。そして……ここへ来たときのこと。あなたとお父さんと、三人でここへたどり着いたときの」
 マリセラは目を閉じて、リジエルの背中を撫でた。母親の感傷に気づいた聡い少年が、明日に備えて必要な眠りを捕まえられるように。
 彼女は眠らなかった。
 彼女の記憶の中でもっとも鮮烈でいとおしく、悲痛でもある一幕が、徐々によみがえりつつあったのだ。


 七年前の、あの日。
 生まれたばかりの赤子を抱いて、マリセラはアリシアを送り出した。それからすぐに、彼女もまた山中の邸宅を引き払い、身一つの姿となって都へ向かったのだ。
 マリセラはアリシアと山へ来るまでディングスを離れたことがなかった。当然、都へ入るのも生まれて初めての経験だった。話にだけ聞く都は華やかで明るく、喜びに満ちた場所だったが、マリセラも子供ではないのだからそのように美しいところなどほんの一握りにすぎないことは承知していた。父親のない子を抱えた十代の娘が生きていくのがどれだけの苦労を伴うものか、それもかすかには理解していた。
 それでも彼女は、都への道行きを選んだ。それは猥雑な人ごみの中に埋没して、マリセラという存在をできるだけ目立たないようにするための方法だった。
 自分は消えてしまうのがいいのだ。そうすれば家族にも、ウェルフリーに嫁いだアリシアにも迷惑をかけなくて済む。
 リジエルにさえきちんとした暮らしをさせてやることができれば、彼女自身はいくらつらい労働に携わっても構わなかった。裕福な家で育ちはしたがたいていのことは自分でできるし、彼女はあまり労働に苦痛を覚えない、忍耐強い性格の人間だった。
 幸い、仕事はすぐに見つかった。それも、彼女がもっとも恐れていたものではなく、むしろこの上ない幸福に彩られたものだった。マリセラは小さな教会に住みこんで、雑用をこなしながら子供たちに聖歌や読み書きを教えることになったのだ。
 一通りの教育は受けたし、歌うことは幼い頃から好きだった。それが誰にも知られていないのは、どうしてもアリシアに見劣りしてしまう自分を人前に出すのが嫌だったからだ。
 清潔で敬虔な環境の中で、リジエルもすくすくと大きくなっていった。瞬く間に二年の月日が過ぎ、そして。
 ある日マリセラは、教会に一人の客人を迎えた。

 ◆

「……お久しぶりです」
 そう言って微笑んだ端正な姿を目にした瞬間、マリセラはさっと顔をこわばらせた。知らず、体が扉へ向かって逃げようとする。けれども彼の前から身を翻して消えてしまいたいという思いと、数年ぶりに会った愛しい姿への慕わしさがつりあって、マリセラはぎこちなく立ち止まった。
「ええ――本当に、お久しぶりです……カザレス様」
 妻となるはずだった女性を弟にとられた青年は、義理の妹へのわだかまりなど微塵も感じられない穏やかな表情をしていた。やはり彼にとってアリシアは健康的で美しい、アヴィーと似通った憧憬の存在であったのかとマリセラは思う。
 しかし――なぜカザレスがここにいるのか。しかも、供の一人も連れないで。
「あの、カザレス様、お座りになってください」
「いいえ、体はだいぶ楽なんです。あなたの椅子をとってしまうわけにはいきませんから」
「でも……」
 部屋に一つしか置いていない椅子を真ん中にして、マリセラは途方にくれた表情でカザレスを見つめた。
 信じられない――カザレスが彼女の居場所を探し当てたことも、そして彼女に会いにわざわざ足を運んできたことも、何もかも。
「ずいぶんと痩せましたね。一人で……子供を抱えて、どうやって暮らしていたんですか」
「ずっと、教会にお世話になっていました。質素ですが、穏やかでいい生活です。……あら」
 マリセラはカザレスから目をそらし、扉の外に視線をやって瞬いた。
「すみません……ちょっと。子供が泣いているみたいで」
 あっけにとられたカザレスの前を辞して、マリセラはリジエルを抱きに隣室へ走った。近くに住む少女が守りをしてくれているのだが、泣き止まないので困っていたらしい。マリセラが抱き上げて胸元であやすとすぐに涙は引いたが、彼女がまた部屋を離れようとすると大声を上げて泣き出す。
 おそらくリジエルは、カザレスに会ったことでマリセラが緊張しているのを感じ取ったのだ。もともと人見知りの激しい子供だが、今側にいる少女にはよく懐いているはずだ。
 マリセラの神経を張り詰めさせた原因ではあるが、カザレスは悪い人間ではない。連れて行って側に置いておけば大人しくしているだろうとマリセラは考えた。
 カザレスを待たせておいた部屋へ戻り、マリセラは部屋の中央にぽつんと置かれている椅子にリジエルを座らせた。愛らしい、幼い顔がカザレスを見上げる。彼はそれを知らないが、リジエルはまぎれもなくカザレスの甥にあたるのだ。
「何歳ですか?」
「二つです。普段は、近所の子供たちに見てもらっているんです」
 カザレスはマリセラには理解できない、また見たままを形容することもできそうにない複雑な表情でリジエルを見つめ、再び口を開いた。
「やはり、我が家の家督はアヴィーのものになりそうです」
 唐突なその言葉に、マリセラは絶句した。
「私は病が完治したというわけではないし、都にいられるのも気候が安定しているわずかな時期だけです。だから……家にとっても私にとっても、弟に長子の権利を譲るのが最善です。彼にはアリシアという立派な妻もいますし……」
 すると、彼はアリシアとの婚約がアヴィーにそっくり譲り渡されてからというもの、いまだに独り身なのだ。
 しかしマリセラにとっては、カザレスがアリシアを親しげに、敬称を消し去って呼んだことのほうが重大だった。
 カザレスもアリシアもけじめはきちんとつける人間だから、婚約期間中はなれなれしく呼び捨てにはしなくても、結婚すればそう呼ぶことになるだろうことはわかりきっていた。しかし、夫婦ではなく義理の兄妹という関係にも関わらず呼び方が切り替えられたのは、カザレスが弟夫婦と友好的な関係を築き上げているということを意味する。
 本当なら、自分もその中にいたはずなのだとマリセラは思った。あの日捨て去ってきた関係を懐かしむのは、リジエルが生まれてから初めてのことだった。
「それを、私に報せにいらしたんですか? わざわざ?」
「それもあります。……けれど私が本当に言いたいのは、私は家にとらわれる必要などないということです。あなたが、そうだったように」
 しかしアヴィーに長子としての権利を渡したとしても、カザレスには海辺の豪族の娘であるマリセラとは違って果たすべき役目があるはずだ。今彼が言ったようなことが、ありうるのだろうか。
「家のほうでも、こんな病を抱えた息子は要らないというでしょう。今後、どこか有力な家の令嬢を妻に迎えられる保証もまったくありません。……ですから、よろしければあなたと一緒にいようと思って」
 忘れようとしていた笑みだった。
 けれど忘れようとすればするほど、夢の中にまで浮かんできた面影だった。
 それが今、マリセラの目の前で、到底信じられない言葉を発している。
「それは、どういう……」
「アリシアには、アヴィーがいます。その逆もまた然りです。彼らには、私は必要ない」
 けれど――と、やわらかな声でカザレスは続けた。
「あなたならば、私を必要としてくれるのではないかと思って。私が、あなたを必要としているように」
 女には男を。
 男には女を。
 子供には仲睦まじい二親を――。
 人間が完全であるために授けられた秘策として書かれている聖句を、マリセラは静かな涙の中で思い出していた。

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