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――――――― I still... ―――――――
chapter 1 - still love you

(3)

 明日の朝早くにはもう村を出なければならないと再三言い聞かせておいたからか、近所の子供たちと遊びに出かけた息子のリジエルはなかなか帰ってこなかった。
 リジエル自身が感じている名残惜しさもあるだろうが、マリセラにとってはうれしいことに、リジエルは村の子供たちの中ではぬきんでて繊細な顔立ちをしていて、最初のものめずらしさが一通り収まると子供たちは人形のようなリジエルをとりわけ大切に扱ってくれたのだ。
 村の人々は、親子を暖かく受け入れてくれていた。
 夕暮れに金の穂が光り輝き、丘はまるでもう一つの太陽のようだった。彼が眠るその丘に陽が射すのを見て、マリセラの胸にここを離れたくないという思いがよぎる。
 いまさら決断をくつがえすようなことはしないが、それでもこの場所に骨を埋めるのが一番平穏かつ誠実で、彼女にとって一番幸せなのだということはわかっていた。
 都に移る決心の、きっかけとなったのは姉のアリシア――正確には彼女を取り巻く環境――だが、最終的に決断したのは他でもないマリセラだ。リジエルの最善のためにも、今になってあがくことはできない。
 故郷を出てからの数年間、マリセラはこのうえなく幸福な日々を送ることができた。それに終止符が打たれたからといって、何を悲しむことがあるだろう。今までが異常だっただけ、分不相応な暮らしをしていただけなのだ。この生活にはいつか終わりが来ると覚悟して、自分は日々を送っていたはずではなかったか。
 もう一度姉と向き合わなければならないし、結局はアリシアからの借り物だった――けれどもマリセラにとっては、まぎれもない真実だった――幸福を返さなければならない。そのために彼女は、再びすべてを捨てる。
 もう一度、身軽になる。そして思い出だけを身にまとって、静かに暮らしてゆくのだ。あのできごとがなかったとしたら、今ごろマリセラはそういった生活を送っていたはずだ。平凡に育ち、地元の男を夫にし、ときどきは美しい姉のアリシアや、アリシアとカザレスのどちらに似たとしても愛らしいはずの甥に会いに行く。
 跡取りでもなければアリシアのように有力な家に嫁げる器量があるわけでもない、まるで目立たないスールの末娘にふさわしい未来。狂ってしまった歯車を正常にかみ合わせて、あるべき姿に戻るのだ。
 けれど――それでも、なぜか離れがたい思いが胸をつく。理屈で割り切れないつらい思いをするのは一度で十分だと思うのに、どうしても自分を律することができない。
 あの人に似てきたリジエルを見るたびに、ずっと彼のそばにいたいと思う――。
 マリセラは戸口から外に出て、真正面から夕陽を浴びながらリジエルの姿が見えるのを待った。
 数人の子供たちに囲まれて駆けてくる小さな影。愛しい息子――あの人たちの、そして彼女たちの。数年間片時も離れずにいた子供を迎えるだけで、マリセラは涙が出るほどの幸福を味わうことができる。
「ただいま、母さん。ちょっと遅れちゃったね、ごめんなさい」
 リジエルの手をとって近隣の子供たちに二人で手を振り、マリセラはゆっくりと首を振った。
「いいのよ。明日はお引越しですもの、名残惜しいのはあたりまえよ。明日の朝は早いけれど、お別れは言ってきたの」
「うん、みんなに。そうしたら、これをもらいました」
 それはさまざまな柄の布の切れ端でできた小さな人形だった。おそらく、リジエルの友達が家から持ってきた布屑を、少し大きな少女がまとめて作ったものだろう。村に古くから伝わるお守りの人形で、マリセラも近所の婦人たちからもっとできの良いものを贈られた。
「よかったわね。なくさないように持っているのよ」
 リジエルは涙を堪えるように唇を引き締めて頷き、小さな荷物の中に人形を詰めた。泣いてはいないが、目が少し潤んでいる。本当にきれいな子だと、マリセラは改めて感心する。リジエルが自分の子供だったら、こうはいかない。
 彼は比類ない美貌の才媛と、フラッセアでも指折りの名家に生まれた端正で明敏な青年との間に生まれたからこそ、天使のように愛らしく、同時に聡明な質をも備えているのだった。

 ◆

 夏が終わった頃から、アリシアは海辺のウェルフリー邸へ足を運ぶことがなくなった。当然、マリセラも家から出ることがほとんどなくなり――しかしアリシアは物思いにふける時間を多く過ごしながらも、生来の社交的な性格を一応は損なっていなかった。
 けれど覇気のない姉の姿はねじをまかれたから不承不承動いている人形のようなもので、気を抜いたらぷつんと止まってしまいそうにマリセラには見えた。何か重大なできごとが進行しているのは明らかだったが、それがいったい何なのか、彼女に理解できるわけもなかった。
 姉の悩みごとと言えばカザレスとの結婚ぐらいしか思い当たることはないが、夏に見たアリシアとカザレスの姿は十分に仲睦まじいもので、この結婚は間違いなくスールの家の利益になると知っているアリシアも、幼い頃から病弱であったために家督は諦めており、いまさら格が下の家の娘をあてがわれたところで機嫌を損ねるはずがないカザレスも、互いを大切に思って尋常ではない縁談のわりには良い関係を築いているはずだ。
 やはり、原因はウェルフリーの兄弟とアリシアとの間に流れていたおかしな空気だろうか。しかしそれが何を意味するのかマリセラにはわからない。アリシアがただひたすら自分の中で処理しようとしている問題をマリセラがでしゃばって問い詰められるはずもなく、そのまま季節は移り変わって秋も深まっていった。
 マリセラはひたすら待っていた。姉が、父にも母にもできない相談を持ちかけてくる時を。
 アリシアの悩みの詳細はかけらも察することができなかったマリセラだが、それが打ち明けられるのならきっと自分にだと、心の中でそう思っていたのだ。
 なぜなら、彼女はカザレス、そしてアヴィー・ウェルフリーのことを知っているから――だから、いつかあの不思議な空気を読み解ける日も来るだろうと、そんなふうに考えている。
 アリシアが少し痩せた頬に思いつめた表情を浮かべて書庫にいたマリセラの隣に座ったのは、そろそろ灯りなしで書物を読むのが難しくなってきた黄昏の頃だった。家の者が娘二人を夕食の用意がととのったと呼びに来るまでには、まだ時間があった。
「マリセラ……」
「どうしたの、姉さん。顔色が悪いけれど大丈夫?」
「ええ」
 憂いに満ちたため息をついて、アリシアは窓の外で隠れゆく夕陽を見つめた。柔らかな橙色の光に照らされてあらわになった美しい輪郭を、マリセラはずっと見ていた。アリシアが自分から口を開くまで、会話の間というにはあまりに長い――沈黙。
「マリセラ、私ね……大変なことを――どうしていいか、わからなくて」
「大変なことって?」
 マリセラは驚きに満ちた言葉を姉に返した。わからない――どうしていいかわからない。そのような言葉は、姉には似合わない。事実、彼女は一度も姉の口からそれを聞いたことがなかった。
 アリシア・スールはいつでも、できが良いとは言えない妹にとって偉大すぎる姉だった。何か問題を抱えこんでも自分で最善の解決策を見出すことができたし、弱った姿を見せないことを誇りにしていた。自分の美貌を熟知しており、それに似つかわしくない表情は決して見せない人だった。
 そのアリシアが、こんなにも弱く、頼りない表情を見せている。しかも、庇護すべき存在である妹に向かって。
「いったいどうしたの?」
 重ねて問うと、アリシアは泣き出しそうに顔をゆがめて呟いた。
「あのね、私――私、身ごもったみたいなのよ」
「身ごもった……?」
 しばしの間、ものを考える頭が止まってしまった。困惑と絶望に満ちた姉の言葉をただ繰り返したマリセラは、暗い色の瞳で瞬いた。
「それって……赤ちゃんができた、っていうこと?」
「そうよ。あたりまえじゃないの」
「……あんまり驚いたものだから。姉さんの悩みって、そのことだったのね。それで――いつ言うの?」
「何ですって?」
「ウェルフリーの方に言って、カザレス様が落ち着き次第式を挙げるんでしょう?」
 それが当然と思いなして言ったマリセラに、アリシアは首を振った。
「違うわよ。あなた、私がそんなことで悩むとでも思っているの? ――私が悩んでいるのはね、子供をどうしようかっていうことよ。カザレス様に、お父様やお母様にどうやって謝ろうかっていうことよ!」
「どうして謝る必要なんて……」
「お腹の子がカザレス様の子供じゃないからよ、決まってるでしょう? ……こんなこと言わせるなんて――ひどい」
「カザレス様の子供じゃない?」
 マリセラは目を見開いてアリシアを見つめた。そのとき胸をよぎった思いは、到底言葉にすることができない――裏切られたという失望や、突拍子もないことを聞いてしまった驚きや、見たこともないくらい打ちひしがれている姉に対する憐憫がないまぜになった、ひどく複雑なものだった。
「わかってるわ――私のこと、とんでもない女だって思ったでしょう。でもあなた以外に頼れる人なんていないわ。私、どうしたらいいのか本当にわからないの。ううん――違うわ。ことが大きくならないうちに子供は諦めるべきだって知っているの。だけど、諦められないのよ。産みたいの――絶対に」
 産んではいけない子供を産みたい、それが、アリシアに突きつけられている難問だった。当事者であればこそ、聡明な姉は答えを出せないでいるのだ。
 これがマリセラだったら、世間の非難から逃れるために、子供は諦めようとしただろう。アリシアがそれをしないのは、彼女が強いからだ。たとえ海辺の一豪族の娘として生まれようとも、幼い頃から麗しく、才気煥発な質を賞賛されて育ったアリシアは、世間をまげて自分を通すことをためらわない。マリセラだったら簡単に屈してしまうものに、決して膝を折ろうとはしないのだ。
 だから、こんなにも絶望した姿をしていても、姉は美しくそして強い。けれど彼女が自分自身で答えを出すことはどうしてもできないから、天がマリセラに、この美しい人の助けになるようにと告げているのだろう。
 しばし瞑目して考えたすえに、マリセラは言った。
「大丈夫よ、姉さん。全部、私にまかせて」
 彼女が姉に向かってこんなことを言える機会は、一生涯に一度きりに違いないと思った。


「マリセラはまだ起き上がれないの?」
 扉の外で、母親が気遣わしげな声を発している。
「ええ、もうずっと気分が悪くて……昨日は少し起き上がって、食事も摂りましたけど、外には出たくないって」
「心配ね……。私の薬は効いているの? 会いたいわ」
「聞いてみますけど、この頃は私以外に誰も寄せつけないので……お母様はどうか、わかりませんけど」
 やんわりとしたアリシアの声が近づいてきた。マリセラは肩の上まで上掛けを引き上げて、寝台で体を丸くする。
 耳だけを澄まして扉の開く音を聞いた。もう一度、閉まるときの軋みを確認してから、マリセラは起き上がって微笑した。この頃の自堕落な生活と、姉と共有する重大な秘密とに、思わず笑みがもれたのだ。
「何を笑っているのよ」
「ううん、たいしたことじゃないの」
 あきれたように言ったアリシアが、マリセラの目の前に食事を置いた。ほんのかたちばかり手をつけてあっという間に食器を置いたマリセラを、アリシアが軽く睨む。
「これだけしか食べないの?」
「動かないからお腹が空かないの。それに、もう準備はほとんどできているんでしょう? 来週までのことだもの、家を出たらきちんと食べるから」
「そう? それならいいけど」
 不満そうな顔だったが、アリシアは黙って皿を片づけだした。マリセラのなすことすべてが姉のためだとわかっているから、普段はマリセラに遠慮などしないアリシアも妹に頭が上がらないのだ。それが、不謹慎ながら少し楽しくもあった。
 自分がどれだけ大変なことをしようとしているのかはわかっている。スールのマリセラの名誉――そんなものがあるのなら、だが――は地に落ちて、姉の体面も汚さずにはいられない。けれど危険を冒してでも実行すべきことだとマリセラは思っていた。そのためになら、自分自身をも犠牲にできる。
 ためらいはもうない。しりごみしていられる時間は、もう終わったのだ。仕掛けは動き出してしまったのだから、マリセラは最後まで成し遂げなければいけない。けれど、彼女はたとえそうすることになっても、自分がさほどの衝撃は受けないだろうと思っていた。
 アリシアは日のあたるところへいなければならない。その美貌と知性を賛美する人がいる座の中心にいるのがふさわしい女性だ。マリセラは誰にもかえりみられなくても、一人でも生きていけるから――今回の役どころに、ふさわしい。
 自分にしかできないことをしているのだから、アリシアが気に病むことなど本当は何もないのだ。なのにいつまでもアリシアはマリセラに対して申し訳なさを隠そうとしない。妹を犠牲にするのはあたりまえだという態度をとってくれたほうがどれだけマリセラにとって気が楽か――この誤解を、近いうちに解かなければならないとマリセラは思う。
「……ごめんなさい、本当に」
「また言ってる。昨日も言ってたわ。私、言ったでしょう。姉さんの役に立てるなら、これほど嬉しいことはないって。もう謝らないで」
 けれどアリシアの表情は沈んでいた。マリセラはため息をついて首を振る。
「姉さんが幸せになれないなら、私がしようとしていることはすべてむだになるわ。お願いだから、私を犠牲にしただなんて思わないで。私は、したいことをしているだけ。嫌だったら、姉さんの頼みでもうんとは言わないし、姉さんが嫌いだったらこんなこと引き受けないわ」
 マリセラは精一杯明るく笑ってアリシアに言った。
「いつ、お父様たちに話をするの」
「今日にでも言うつもりよ」
「姉さんならきっと説得できるわ。ね?」
「そう、ね。ううん、しなきゃいけないのよね。……説得してみせるわ」
 密約を交わした姉妹は、閉ざされた部屋の中でひっそりと頷きあった。


 それから七日ほど後のこと。
 ディングスの大家スールの屋敷から、一台の馬車がひっそりと門をくぐって出て行った。
 供の者も連れていないスールの令嬢二人が、下の娘マリセラの病気療養と称して出かけて行ったのは、彼女たちの生まれ育った海辺の地とはまったく環境の異なる、山奥の小さな石造りの館であった。
 二人はそれから一年近くを山中で過ごし、そして。
 妹を伴わずにディングスへ戻ってきたアリシア・スールは、その後まもなくウェルフリー家に輿入れしたのだった。

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