NEXT GAME - きみには負けない -



【15】 - in this way -


 あれ以来――つまり、真由子が先輩たる聖に数々の暴言を投げつけてしまったあの朝以来、聖は完全に外との接触を断っているように見えた。
 宇野小百合と吉野理帆以外の友人とは口をきかず、わりあいに親しくしていたらしい大滝達矢にも、もちろん真由子が一方的に押し付けた約束どおり桜井創一にも、彼女は近づいていない。
 聖は、約束を履行しようとしているのだ。その約束は芦屋真由子という不出来な後輩がなりふりかまわず縋ってとりつけたもので、聖にとっては守ってやる筋合いのないものである。にも関わらず、なぜ聖ほどの人が大勢の後輩の中の一人がわめいたわがままを聞き入れる気になったのだろうか。
 その理由を自分は知っている――と真由子は思う。
 彼女は昔から、同級生たちの中心になれる魅力を持っている少女だった。それは水郷に入ってから、演劇部でも発揮されているものだった。芦屋真由子はいつでも大勢の友人に囲まれて無邪気に、快活に、とても楽しげに過ごしている――それが彼女に与えられてきた周囲の評価であり、事実であった。
 しかし座の中心で陽気にふるまう一方で、真由子にはいわゆる「物思いに沈む時間」というのが人より多くあった。台風の目が無気味な静寂をたたえているように、人の集まるところの中心にいる真由子の周りには静けさがあった。その空白には真由子の黙考と皆のささやきが入り込み、空虚でありながら濃密な空間を形作っていたのだ。
 彼女は自分の周りに持つ不思議な空間から、多くの噂話を仕入れることができた。その中には、学年どころか学校で一番の美人、今まで見たことがないくらい美しい少女だという――事実、下手なモデルや女優よりもよほど綺麗な――上級生、河東聖に関するものも数多く存在していた。
 それによると、彼女は最初、ほとんど周りに人を寄せ付けなかったのだという。聖の周りには堅牢な壁が築かれており、それを破るほどの魅力と実力を持った人間はいなかった。少なくとも、聖の出身小学校においてはそうだったらしい。
 水郷で聖が出会ったのは、なごやかな雰囲気とはうらはらに常にトップの成績をたたき出す小百合と、当時でさえ見上げるほどの長身であったという女子中バスの理帆という、一風変わった二人の少女だった。彼女たちは聖の構いたい気持ちと構われたい気持ちの両方を満たすことができる、考えうる限り最高の友人だったらしい。
 また一方で、演劇部での、聖という少女の氷解のような態度の変貌を、自分の姉――聖にとっては三年先輩にあたる小夜子がうながしたのだという話も、真由子は耳にしていた。小夜子がときどきもらすひとりごとや演劇部の先輩たちの雑談から、真由子は聖が小夜子にだけは敬服し、懐いていることを知った。
 聖が真由子を心底軽蔑した様子ながらそのわがままを許容したのも、真由子が小夜子の妹であるということ、そしてそのわがままが創一に関することだったという二つの要素が働いていると真由子は思う。
 真由子には聖の心情など想像することしかできないが、やはり彼女は創一に少なからぬ好意を持っていて、しかしそれが疎ましかったのではないだろうか。あるいは――そのような感情を抱えた、自分が。
 そうでなければ、聖がやすやすと真由子の嘆願をきいた理由は理解できない。
――あんなことを言わなければよかった。
 深い穴の底に沈みこんだような気持ちで、真由子は大きく息をついた。参考書と向かい合っている姉の部屋のドアを叩く。
「お姉ちゃん、今大丈夫?」
「平気だけど、どうしたの?」
 許しを得て部屋に入り、真由子は少し仮眠をとった跡のある小夜子のベッドに寝転がった。
「最近は相談事が多いね。皆、受験生の迷惑も考えてくれないと」
「うん、ごめん……」
「いいよ、何か知らないけど、話したいなら話してみなさい」
 その声にうながされて、真由子は聖との間にあったできごとをぽつりぽつりと話し始めた。
 姉は聖からあらかじめ相談を受けていたらしく、真由子のたどたどしい言葉ですべてを理解していた。真由子の様子がおかしいことをいち早く察して聖に話を持ちかけたのは瑞希だし、聖はそれを受けて小夜子へ連絡をとったのだ。
 自分の周りの人々が、自分をめぐって、こんなにも迅速に動いていた――そのことに、真由子は驚嘆する。
「……それはやっぱり、あんたが悪いんじゃないの」
 小夜子がため息とともに吐き出した言葉に、真由子は無言で頷いた。――やっぱり。
「あんたは、あんたの彼氏だけを信じてればいいのよ。確かに河ちゃんはまゆの何十倍もかわいいし、きれいだけど、誰も彼もが河ちゃんを彼女にしたいと思ってるってわけじゃないでしょ? 事実、あんたの彼氏はあんたを選んだんだから。それなのにまゆは、いらない釘をさして河ちゃんの怒りを買っちゃったってわけね」
「……そうだね」
「自分が男とちょっと仲良くするだけでそいつの彼女から浮気を疑われるだなんて河ちゃんにとってはあのきれいな顔のやっかいなおまけみたいなものだし、まゆの彼氏が河ちゃんの友達なら、その友達が侮辱されたとも思うんじゃないの。だいたいあんた、先輩相手に失礼だと思わなかったの?」
 思わなかったわけがない。しかし、あのときの真由子は必死だった。どうにかあの美しい人を牽制したかったのだ。
 あらためて姉の口からそれを指摘されると、どうしようもなく恥ずかしい。
「ユズリさんの改革の弊害ってわけね」
「ユズリ……さん?」
「あたしが水郷に入ったばっかりのとき、劇部の副部長をしてた人。牧原柚莉さんっていって、今はもう知ってる人もいないけど、あの人の後輩だった人は皆ユズリさんのこと尊敬してるんじゃないかとあたしは思う」
 小夜子はそう言ってアルバムを開き、一枚の写真を取り出した。まだ芦屋家にデジタルカメラがなかった時代、使い捨てカメラで撮られたその写真には、演劇部の部室を背景に十人近い数の学生が写っていた。
「真ん中にいるのが、ユズリさん。あたしが中一のときの文化祭公演の、衣装のメンバーね。きれいな人でしょう」
 その柚莉という、小夜子が尊敬しているという先輩は、真由子が今まで見た中でもっとも美しいと思っている聖のように、圧倒的に整った造作をしているわけではないが、どこもかしこも華奢な身体と、小さな顔におさまった大きな目が印象的な、小夜子がきれいな人というのもうなずける顔立ちをしていた。制服を見たところクラブにおける最高学年である高二は柚莉以外に写っていないようだから衣装のチーフをしていたのだろうが、それにしてもとりたてて目立つところのない人だった。
 いや――目立つところがないからこそ、自らは目立たず部長を支えなければならない副部長などというポストについていたのか。
「ユズリさんたちの学年が何をしたのか、まゆに想像できるかな……」
 ユズリさんたち、という響きにこめられた特別な意味を、真由子は感じ取ることができた。一年先輩、三つ先輩など、上の学年をあらわす言葉はいくつもあるが、ある個人名を冠していう場合、それの多くは一学年二十人近くからなる演劇部をとりまとめた部長のものか、あるいはその学年の中でひときわ後輩に強い印象を残す存在のものである。たとえば――真由子の一つ先輩が、将来河東聖のいた学年と呼ばれるようになるであろう、それと同じように。
「ユズリさんたちは最初――つまり入部当初、すごく人数が多かったのよ。多分、三十人近くいたんじゃなかったかな。ちょっと多い年もちょっと少ない年も珍しくないけど、三十人はさすがにめったにないことでしょう?」
「うん、そうだね」
「でもそれが高校に上がるころには、あの学年はユズリさんを含めて六人に減ってたのよ。六人じゃあ幹部の数にも足りないでしょう? ユズリさんはだから、副部長と衣装チーフを兼任してたの」
 部長、副部長、会計、書記、衣装、メイク、舞台装置、照明、音響、総監――どのクラブにもいる四幹部の他にも、演劇部にはさまざまな役職がある。それを六人で兼ねろというのだから、それには大変な努力を要求されるはずだ。おそらく、学業に差し支えるほどに。
 しかし――なぜ、最初は三十人近くいたはずの学年が、その五分の一までに減ってしまったのだろうか。
 その疑問を口にすると、小夜子は真顔で答えた。
「あたしが入学するつい前の年まで――演劇部は、かなり『厳しい』クラブだったの。新入生はひたすら発声と作業の一番下っ端っていうのも、運動部の基礎練と球拾いに似てるでしょう。私用での欠席は減点になったし、それが溜まると強制退部だったのよ。退部届なんてないから正式に生徒会に受理されるわけじゃないけど、点呼もとられない、仕事ももらえないじゃ精神的につらいものがあるから、みんな自主的にやめていったっていう話。劇部は結構体力も使うし、人数も多いからそうやって統制しないとやっていけなかったのかもしれないけど――」
 真由子などには想像もつかない話である。――いや、小夜子も自身がその時代を経験しているわけではない。ただ、小夜子の場合はそれをつい先日まで経験していた先輩が身近にいたのだ。
「それを変えたのがユズリさんたちね。とにかくユズリさんたちは幹部の仕事だけで手一杯だから、まあ舞台に立つほうはほとんどが後輩なのよ。それまでの舞台は、とにかく主要なキャストは最高学年、下級生は脇か裏方だったっていうから革新的だったわけね。ユズリさんはこれを機会に、キャストは皆に割り当てて、裏方だってできる子にはどんどん仕事させて、自由にやろうって考えたの。それで、上級生からのかなりえげつない苛めに耐えた五人を説得して、今みたいなクラブを作ったって――そういうこと。そんなにおおげさな語りぐさになってるってわけじゃないけど、あたしはあれは間違いなく部史に残る偉業だったと思う」
「その――牧原さんの学年がそんなに減ったってことは、そのときの苛めはかなりすごかったってこと?」
「ユズリさんの学年が三十人近かったのに比べて、その上は十人とちょっとぐらいだったの。後輩のほうがずっと多いから、ユズリさんたちの先輩にはプレッシャーだったのね。どうにか減らそうと躍起になってるうちに、いつの間にか六人になってたの」
「ふうん、そうか――」
「そうかじゃないでしょ。あんた、あたしが何を言おうとしたのかわかってるの?」
 牧原柚莉の武勇談に感心して真由子がうなずくと、小夜子がむっとした表情で言った。
「うん、ええと――そう、河東さんの話をしてたんだ」
「そうよ河ちゃんの話じゃない。ユズリさんの話はついででしょ。あんた、何聞いてたの」
 ひどい言い草だが、受験生の時間を既に三十分ほど使ってしまった真由子は言い返すことができない。改めて本題に頭をめぐらせ、真由子はため息をついた。
「……うん、わかった。本当は最初っからわかってたの」
 瞼の裏に浮かぶ聖の怒りの形相。美しくゆがんだその表情。
 自分は河東聖に甘えていた。和気藹々と一つの舞台を作り上げていく、そのように見えていた演劇部の空気に後押しされて、先輩に取り返しのつかない失礼な態度をとってしまったのだ。
 聖は本当は後輩の世話を焼くのも分をこえたわがままを聞かされるのもまっぴらだろうに、クラブの雰囲気になじもうとして真由子の暴言を許容した。聖のその努力は小夜子や聖の友人たちによってもたらされたもので――真由子は、自分で思っていたよりはるかに多くの人々に迷惑をかけてしまっていたのだ。
「河ちゃんに謝る?」
「謝る――謝れる、と思うよ、たぶん」
「ぜひそうして欲しいわね。あたし、あんたみたいな妹よりもやっと先輩らしくなってきた河ちゃんのほうがかわいいわよ」
 姉の軽口に、真由子は苦笑してベッドから腰をあげた。
 小夜子に柚莉がいて、聖に小夜子がいるように、自分と聖との間にも確固とした信頼関係が築ければいい。一度自分の手でぶち壊しかけた――今崩壊の真っ最中にある細々とした絆を、しっかりと結びなおさなければならないのだと真由子は思った。
「ありがとうお姉ちゃん、勉強がんばってね」
 姉の部屋を出ようとしたところで、真由子はふと思いついて小夜子に問い掛けた。
「お姉ちゃんには、誰かいないの?」
 それなりの容姿とそれなりの頭脳、そしてずば抜けた器用さを持った姉は、困ったように首をかしげた。
「いるわけないじゃない、そんなの」
「そう――なの」
 真由子は今度こそ小夜子の部屋を出た。



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