NEXT GAME - きみには負けない -



【13】 - in this way -


「最近ね、やたらとイライラするのよ」
 文化祭前の練習や準備のあいまを縫った日曜日、小百合の家に集まった聖と理帆は、彼女たちのためだけにあるといっても過言ではないクッションを抱え込んで座っていた。
 聖は小百合が小学生のころからタケちゃんといってかわいがっている羊のぬいぐるみに平手打ちしながら呟く。
「もやもやする」
 タケちゃんを聖の暴力から救い出した理帆は、涼しい顔で答えた。
「もっと具体的に言ってよ。イライラの原因は誰か、とか何か、って」
「そんなこと言われたって、答えられるわけないでしょ。原因がわかってたら、タケヒコなんて叩いてないし」
「あんた、案外暴力的だもんね。……桜井のこと? それとも、クラブ?」
 さらりと指摘され、聖は小百合と理帆にしかわからないくらいに顔をゆがめた。正確に言えば、どちらもだ。忙しいからそのどれともゆっくり向き合う時間がない。
「どっちも――そう、どっちも」
「最近、皆そろってお昼食べることないしねー。さゆ、しばらく桜井君とご飯食べてないもん。ひーちゃんもでしょ?」
「おや、桜井に会えないからイライラするなんて、聖さんもヤキがまわったね」
 席替えで大滝なんかが隣になったのも、不機嫌の要因のひとつである。あの男、妙に聖の気分をかきまわすのだ――もちろん、創一とは違った意味で。
「自分でもそう思う。だってあんなの、今までのあたしだったら見向きもしなかったタイプだもん」
 美は遺伝するというか、同じ年ごろの従兄弟連中は父方も母方も皆標準以上の容姿をしていたし、子供のころ聖の憧れだった母の友人たちやその子供たちもまた然りである。
「どうしてあんなのが好きなのか、よくわからない」
相手は、とりたてて感動を覚えるような顔ではないというのに。
「好きっていう衝動は、わけわからないものなんだよきっと」
 めぐりめぐって持ち主のもとに戻ってきたタケちゃんを抱いて、小百合はにこやかに言った。
「好きってだけで、なんでも許容できちゃうんだよ。そういう、最強の免罪符が『好き』っていう感情だから、精密に定義できちゃうと困るの、乱用されちゃうから。だから、わけわからないものとしてできてるんだよ」
「……ふうん」
 ぽやぽやとした雰囲気を割ってくりだされた言葉に、聖はうなずいた。小百合が意外と鋭いのはなぜだろう。
「だから、ひーちゃんが好きになったのが見るにたえないくらいの醜男でも、それは不思議でもなんでもないよ」
 創一は、見るにたえない醜男ではないが。
「そう? ……まあ、そうかもしれないけどね。あんなのが相手だからこそ、本気が計れるのかもしれないし」
「さっきからあんなの、あんなのって、あんた本当に奴に惚れてるの?」
「……まあね」
 聖は紅の唇の端をあげて短く呟いた。しかたがないのだ、照れくさいのだから。自分の想いを、――理帆のせいで――この鈍感な小百合にまで知られてしまった結果が、『あんなの』という呼称なわけである。
「多分、そうなんだと思うけど」
 今までに味わったことのない感動を、彼の存在は聖にもたらす。それはどんなに大切に思っていても小百合や理帆にはできない芸当だ。
 ただ、恋だの愛だのというあまい想いだけが、それを可能にする。知ることは容易にできるが、相手が見つかるかどうかは運次第。こればかりは、あがいてもどうにもならない。
 他人のことばかりを気にするなと目の前のふたりには言いたかったが、どう見ても今は彼女の分が悪い。聖は左手首の腕時計をいじりながら黙り込んだ。
 好きだなんて、面倒な感情。
好きでない相手とでも子孫は残せるのに、この感情はとても本能に近いところにあるような気がするのだ。


 聖と理帆は、室内装飾に使う布の端を縫い合わせている。家庭科室から借り出してきたミシンだが、小百合よりもよっぽど手際がいい。家庭科、音楽、美術など、努力だけではどうにもならない教科の小百合の成績は、平均より少し良い程度といったところだろうか。努力でカバーできないのが、不器用なところなのかもしれない。
 土曜日一日を潰して、イベントの準備に充てた。小百合と達矢はクラブがないが、他の生徒の出席状況は六割程度だ。これでもいいほうなのである。
 小百合は九月も終わりに近づき、そろそろ出てきた当日のスケジュールを整理していた。試合、試合、委員会、受付、試合、受付、ごみ捨て当番。次々と現れる予定を表にまとめ、それぞれが二日で四時間働くように調整していく。
 たとえば聖と理帆と創一は同じ時間に裏方に入れようだとか、事前の準備や後片付けにも混乱が予想される自分たちはなるべく暇な時間に入らせてもらおうだとか、そんな打算もありはするが、おおむね順調に小百合の作業は進んでいた。
 順調というならば、クラス全体がそうだとも言える。出席率はまあまあだし、手際も良いおかげで準備に滞りはない――これは自画自賛だが。
「ねえ、さゆ」
 黒板の前に寄せられた机に埋もれるようにして作業していた小百合は、遠く自分を呼ぶ高い聖の声に顔をあげた。
「ひーちゃん、どうしたのー」
「糊と模造紙と糸と、その他諸々がないそうですがー」
「えー、困りますー」
「困ってないでどうにかしてください委員さーん」
「誰か買出し行ってきてくださーい。できれば鶴が崎まで出て、安いところでー」
 教室中に向かって叫ぶと、会話しながらミシンを動かしていた聖が作業の手を止めた。
「じゃあ、あたし行ってくる」
 かなり大きな布を取り外し、たたんで理帆の横に置いた。
「ちょうど、終わったところだし。立て替えて、領収書もらってくればいいんでしょ?」
「そう。上様じゃだめだよー」
「わかった。……ああ、あんた暇? 仕事ないのよね?」
 聖はその瞬間正面を通過した桜井創一の腕をつかみ、すばやく立ち上がると前に寄せた自分の席へ移動した。通学鞄の中の財布を出して、所持金を確認して、買出しに行くべく教室を出る。
 創一は文句も異論もなく、無言で自分の鞄を手にとった。息のあったその一連の動作を小百合はとても複雑な思いで見つめていたのだが、しばらくの間動きが止まっていた手をじっと見つめる視線に気づいて、慌てて仕事に戻る。
「何がそんなに嬉しいんだか」
 達矢はそう言って小百合を笑う。首を振って、それを否定した。そう、嬉しいだけではないのだ。さつきと真希から聞いた話もあって、頭の中は聖と創一のことに関しては少し混乱してしまう。真実を知りたいのなら創一に聞いてみればいいのだが、やはり躊躇してしまう。
 あるいは達矢ならば何かを知っているのかもしれないが、彼も彼でそのような話を軽々と切り出せる相手ではない。小百合は達矢に行動のかなりの部分を許容されている稀有な人間だが、なんといってもふたりの付き合いは小学生のときまでさかのぼる。創一のプライベートな事情を、彼は絶対に口にしないだろう。
 けれど、聖が小百合にとってとても大切な友人であることもまた事実で、もし聖が何も知らないのだとしたらどうにかして最良の真実を教えてあげたいと思うのだ。
 聖がよしとする真実は、さつきたちから聞いたことには矛盾する。その矛盾を、小百合は密かに願っていた。
「……りっちゃん、どう? けっこう残ってるね、さゆもやろうか?」
「ううん、いいよ。あんたはシフト表作らなきゃいけないんでしょ。早めに発表するにこしたことはないんだから、仕上げちゃいな。これからは印刷室が混む時期だしね」
「そうだよね、どこも大変になるもん。労働力だって争奪戦だよー」
 忙しいクラブの合間を縫って参加してもらうには、イベントそのものの魅力と指導者の吸引力が必要だ。こちらがもたもたしていては、クラスのほかの人間は指示を出す側である小百合たちを見限ってしまうだろう。
 成績の面で毎回候補にあがりながら蹴ってきたクラス委員という立場がこんなにも重いものだったとは知らなかった。
教科書を読んで理解した問題を解くのとは違い、未来の予定をきっちりと立てつつクラスの皆の都合を調整して、所定の時期までにやらなければいけないことをすべて済ませるというのには、綿密な企画力と指導力が要求されていたのだ。
「まあ、間に合うとは思うよ。あとは当日、段取りを理解してない奴が出なければ完璧でしょ?」
「うん、そうなの。食券とか焼くのとか飲み物とか、絶対わからない人が出ると思うから……まあ、何回かやるうちにわかってくるんだと思うけど」
 こちらがどんなに言い聞かせても、話を聞かない、聞いても理解しない人間はいる。それはもうあたりまえのようなことで、水郷のような頭のできは他から飛びぬけている進学校の生徒でも同じなのだ。
 前の自分もそうだったかもしれない――とそう思って、小百合は反省をはじめているところだ。
自分はうわのそらで話を聞いていても、言葉の断片からおおまかな枠を作り上げられる発想があったし、周りの動きを見れば今何をすべきかはすぐに理解できた。けれど指示する側は小百合の事情など知らない。何も聞かずにふわふわとしているだけのように見えて、おそらくいらついていただろう。
「だめだなあ……」
「誰が?」
 人間が? といって、理帆は笑った。
 もしかしたら、そうかもしれないなと思った。


「ええと、模造紙……七枚だっけ。糊はスティックのほうがいいかな。あ、ここで会計してかないと」
 聖は創一を引き連れ、小百合の小さな文字で書かれたメモを見ながら買出しを進めていた。広大なフロアをまわっているといろいろ目移りしてしまうようなこともあるが、それはとりあえず置いておき、フロアごとに会計を済ませる。
 筒になった模造紙のように細長くて持ちづらいものを創一に押し付け、聖は悠々と買い物をしていた。だいぶ気分が弾んでいる。珍しいことだな、と自分で分析した。
 事実、彼とふたりきりでいるのにただひたすら幸せな気分を味合うのは久しぶりだった。今まで考えてみもしなかった感情に振り回されて、落ち込んだり心の中で彼を詰ってみたり、さまざまに心は揺れているからだ。
 よほど鈍い人間でなければ、聖が抱いた好意に気づかないわけはない。他人に悟られるようなことはないが、創一はそれを向けられた張本人なのだ。それなのに知らないふりをしているのが憎らしかったし、もしも本当に気づいていないのだとしたら悲しかった。
「河東、あと残ってるものは?」
「ちょっと待って。……ここじゃそろわないかもしれない。二号館の手芸用品売り場かな」
 糸だの綿だの布切れだのと、ここでは売っていない品目が多かった。一号館から二号館へ、二階の通路を渡っていく。定期で出られる範囲では一番大きな店だった。
「ね、桜井。あんた、当日は何する気?」
「何する……って、やれって言われればなんでもするつもりだけど?」
「なあに、それ。そんなこと言ってたら、さゆと大滝に扱き使われちゃうんじゃないの?」
 ふたりとも、嫌がる人間を無理に働かせようとはしないが、暇な人間がぼんやりと立っていたら確実に使おうとするだろう。創一のように遠慮のいらない相手ならなおさらだ。そこのところは、ふたりはよく似ている。
「試合の時間に食い込まなきゃいいよ。ああ――あと、演劇部の公演を見に行く約束もしてたっけな」
「あれって約束だったの? まあ、時間が合ったら来なさいよ。見なければよかったと思っちゃうくらいつまらないってことはないから」
 聖は首をかしげ、嬉しさを表しすぎない笑みを見せて言った。まったく、どうしてこんな男が。
「あ、このあたり。この端切れに合う色ね」
 手芸用品のコーナーに足を踏み入れ、聖は作業途中の布から切り取ってきた小さなきれを差し出して言った。薄いサーモンピンクの布だったが、小百合かさつき、どちらの趣味だろうか。
 聖は背の高いミシン糸の棚を物色する創一を横目で見ながら嘆息した。その理由も、彼女にはよくわからなかったけれども。


「あ、ひーちゃんお帰りなさい。おつかれさま」
 聖と創一がビニール袋を下げて教室に戻ってきたのを、小百合はひらひらと手を振って迎えた。出かけてから二時間ほど経っている。昼を食べて少し作業したところで出たので、ちょうどおやつの時間になっている。
 小百合は感謝の気持ちをこめて、理帆が購買へ走ったときに買ってきてもらったスナック菓子を取り出した。普段そのようなものをあまり食べないという聖も、めずらしく自分でパッケージを破っている。相当機嫌がいいようだ。創一と買出しに行ったからだろうか、と考えて小百合は微笑む。
「食べていいの? 誰の奢り?」
「さゆと大滝君とりっちゃんとさつきちゃん」
「なんだ、ひとりひとりの負担はたいしたことないんじゃない」
「でも宇野、俺たち定期で行ってきたし、金だって立て替えておいただけだし」
 まったく異なることを言ったふたりに袋を突き出し、小百合は首を振った。聖は早くも中身をつまんでいる。
「時は金なりって言うでしょ? ひーちゃんと桜井君の費やした時間は、さゆの計算だと九百円にはなるんですー。ほら、ちゃんと食べて。ひーちゃんばっかりに食べさせたら太っちゃうでしょ」
 小百合より背が高いのに体重はずっと軽い聖がこれくらいでダメージを受けるわけはないのだが。
「さゆは食べないの?」
「これはふたりに感謝の気持ちを表すために買ってきたんだからね。他には誰も食べないの」
「えー、感謝の気持ちが存在するなら、今度テスト前にまたお泊りさせてよぉ」
「テスト前って、どれくらい前?」
 小百合が問うと、聖は唇をちょっと尖らせた。
「一週間前から前日までよりどりみどり。一夜漬けはダメだよ、聖」
「なによ、あんただってさゆのことあてにしてるくせに。前日でも直前の週末でもいつでもいいの。とにかく、この状態だと二学期の成績表がおっかないのよあたしは」
 口を挟みいれた理帆に二倍言い返し、聖はミシンの前に座る。コンセントをさしっぱなしに、スイッチだけ切られていたのを上げると、何もしていないのに針のすぐ側の電球がついた。どうやら電気を消さないままスイッチだけ切ったらしい。
「続けようっと。ほら理帆、糸買ってきたからあんたもやりなさい」
 理帆は笑いをこらえるようにして新しいミシン糸で下糸を巻き始めた。日に焼けた大きな手のひらはとても器用で、バスケットボール大のものから小さなビーズまでなんでも気軽に扱ってしまえる。やや指が短いかな、という自分の手を眺めて、きれいな人間は指先から頭のてっぺんまできれいなのだなと小百合は思った。聖の手も、白くて細くてすらっとしていて、爪のかたちがとてもいい。理帆の手は運動部員の中でも飛びぬけて骨ばっていて、あまり女性的とは言えないかもしれないが、長い指にうっすらと浮き上がった関節に触れたときの感触などとてもしあわせだと彼女は思うのだ。
「さゆ、先生にはんこもらってくる。……大滝君、よろしくね」
 小百合は一枚の紙切れを持って立ち上がった。何かわけのわからない衝動に突き動かされて、いてもたってもいられなくなったのだ。
 達矢があまりに唐突なその動きに怪訝そうな顔をしたのを見て、小百合はその場に立ち尽くして目をぱちぱちと瞬かせた。節の骨ばった指に書類を取り上げられる。達矢のチェックが終わると、くるりと身をひるがえして廊下に出た。
 自分には好きな人がたくさんいる。
 それはまぎれもなく、小百合が幸せであるということを意味している。
 けれど彼女は、一瞬それを見失ったような気がした。
――正確には、それはジグソーパズルのピースのようにバラバラの欠片となって飛び散って、いったいどのような絵柄を構成しているのかがわからなくなってしまったのだ。



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