NEXT GAME - きみには負けない -



【09】 - Red and Black -


「……あれ?」
 改めて眺めた人の波の流れは、案外速いものだった。自分がその中にいると気がつかないが、外から見渡すと本当に自分もこんなふうに歩いていたのだろうかというほどめまぐるしい。
 小百合はいつのまにかはぐれてしまった連れを探すのがもはや不可能となりはてている事実に、途方にくれた声を発した。
 つい先刻まで隣には達矢と空晴がいたはずなのに、小百合の視界からふたりの姿はとうに消えていた。彼女が考えごとをしていたのは、長いように思えてその実一分にも満たない短い時間だったはずなのに、その間にふたりはまるで魔法にかかったように忽然と消えうせてしまったのだ。
 もちろんふたりとも人並みはずれてぼんやりとした小百合のことを気にかけていてくれたに違いないのだが、いかんせん人が多すぎる。平日なのがまだ救いだが、夏休みの最中ということもあって三歩まっすぐに進めば人にぶつかってしまうという状況が生まれていた。
 どこ行っちゃったんだろう……。
 とりあえず彼らの向かいそうなところを考えてみようと思うのだが、達矢と空晴が目指していた売店はどれなのかわからないし、かといって荷物のところに戻っているとも思えない。
 しばらく悩んだすえ、小百合は荷物を置いてあるプールサイドに戻ることに決めた。自分は目的があって売店へ向かっていたわけではなく、達矢たちについていっただけなのだからかまわないだろう。
 そう思って身を翻した小百合に、聞き慣れた声がかけられた。
「さゆ、何やってんのよ!」
「……あ、ひーちゃん。よかったあ、さゆ大滝君たちとはぐれちゃって」
「そんなことだろうと思った。ほら、帰ろう」
 子供を諌める母親のような表情を見せた聖は、ほっそりと白い手を伸ばして小百合の手のひらを握った。まるで迷子になった子供のようだが、小百合は心底ほっとする。
 そんな彼女の背中へ、またしても――今度は嬉しいものではなく、すぐに聖が険しい表情を見せた――声がかかった。
「あの、ちょっと」
 優美な顔をあからさまにそらして小百合の手を引っ張った聖をよそに、小百合は愛想良くその声に応じた。
「はい、なんですか?」
「ここからいちばん近いコインロッカーって、どこだかわかる?」
「ええと、ちょっと待ってくださいね」
 小百合や聖といくらも年の変わらない学生だった。日に焼けた肌をしたふたり連れで、創一と同じくらいの身長をしている。
 聖の不機嫌な表情に気づかないまま、小百合はあたりを見回した。
「あそこに表示が出てますよ」
「どこ? ごめんね、近視がひどくて。よかったら……」
「ちょっと、小百合! 早くしてよ、創一が待ってるんだから!」
 声を荒げた聖を、小百合と、相手の少年たちとが凝視した。それぞれ驚きに彩られた表情を見せている。
 どうして聖が創一のことを名前で呼ぶのか、小百合の頭にあるのはそのことだけだった。自分がいない間に何かあったのだろうか。
「ひーちゃん……?」
「大滝君だって怒るでしょ、時間にはうるさいから。――コインロッカーはここから百二十メートルほどまっすぐ行って、右に折れたところです。それじゃあ」
 とげとげしい声音で少年たちに告げ、聖は背を向けて歩き出してしまった。根が真面目でお人よしである小百合は後ろ髪を引かれる思いで聖についていく。
 整った顔をゆがめた聖はいつになく不機嫌に見えて、小百合はそれが少し恐ろしかった。
「……ねえひーちゃん、どうしたの? 今の人たち、何かした?」
 ためらいがちにたずねると、聖はやや表情を緩めて言った。
「あのね、あんたあたしが来なかったらどうしてたの。あんな頭の軽そうな男に引っかかって」
「別に、引っかかったわけじゃないけど……」
「どう見たってナンパじゃない。もうちょっと周りに気を配ってあるくの、わかった?」
「うん、今度からね。……そっか、ああいうのナンパっていうんだ。さゆ、初めて見た」
 勉強になったよ、と笑った小百合を、聖があきれた目で眺めた。
 本当のことを言うと、小百合は聖が怖かったのだ。……今の、険しい表情が。
 あれは中一のとき、同じ教室の中におとぎ話の中からさまよい出てきたお姫様を見たかと思った印象に似ている。昔の聖は近寄りがたい美貌ですました表情をしていて、とても小百合などに太刀打ちできる相手ではなかったのだ。
 聖が変わったのは、六月の中ごろ……演劇部に入ってしばらくしてからだった。ぎこちないながら周りに微笑んでみせるようになり、入学当初たたえていた愛想のような笑みとは違うその表情に小百合は吸い寄せられた。小百合と聖と、そして理帆が一緒に行動するようになったのは夏休み直前からで、おのおの興味深い性格をしている三人は互いをもっと知りたいとねがって夏休みも暇を見つけては会っていた。その時間が結果的に三人の結びつきを強固なものにしたのだ。
 硬い蕾が潤い、ほころびるように聖は変わった。
 花に水を与えたのは小百合と理帆だが、美しい花をひらかせた別の人間もいる。その正体を小百合は知らなかったし、それが悔しくもあった。
 けれども、たとえ誰が花を咲かせようと、今小百合の隣に聖がいるというのはまぎれもない事実なのだと、そう思えるようになったのはいつだっただろうか……。
 聖が校内と校外とをとおしてもっとも大切な友人と位置付けているのは小百合と理帆だけだ。小百合は聖のことを、自分が工場で量産されているプラスチックの指人形なら、聖は有名な職人が丹精こめてつくりあげたような造作のアンティークドールのようなものだとさえ思える美しい少女だと思っているが、小百合はその奇跡のような人の隣にいることを許されている数少ない人間のうちひとりなのだ。
 その事実は小百合にとってかけがえのないものだが、それが存在する現在は聖が持つ無数の過去が連なってできたものだ。ならば自分は、聖の過去ごと、彼女をまるごと好きと言える。
 彼女が昔どんな人間だったかなど、関係ないのだ。
「ねえ、ひーちゃん」
「何?」
「今度、ひーちゃんが小さいころの写真持ってきてよ。すごーくかわいいんだろうなぁ」
「さゆが持ってくるんならね」
「うん、持ってくるよ、小さいころはよく、ぬいぐるみみたいな顔してるって言われてたけど」
 聖は黒々とした目を見開き、声をたてて笑った。きっと今でもぬいぐるみのようだと考えているのだろう。
「理帆にも、桜井たちにも持ってこさせるのがいいかな。二学期になると思うけど」
 小百合なりに考え抜いてした提案だったのだが、聖はその苦悩をかけらも察することなく機嫌の良い顔を見せていた。
 やはり聖は笑っているほうがいい。機嫌の悪い顔をしていると、関係ないはずの小百合まで恐ろしくなってくるのだから始末に終えないのだ。
 ふたりは一度荷物が置いてあるプールサイドまで戻り、誰かが戻ってくるのを待った。


「……あれ?」
 ふと後ろを振り向いた空晴は、そこにいるはずの小百合の姿を探して視線をさまよわせた。彼よりも背が低く可憐なまなざしをした姉の友人は、確かに空晴と、隣にいる大滝達矢という先輩のあとをついてきていたはずなのだが……。
「大滝さん、さっちゃんがいませんよ」
「……はぁ? はぐれたのか?」
「多分……」
 顔をしかめて問い掛けた達矢に、空晴は上の空で答えた。人がかなり多い中から、パーマをかけた黒い頭を探そうとする。
 しかしこの人ごみの中で一度はぐれた人間があっさりと見つかるはずもなく、空晴は達矢ともはぐれてしまいそうになったのを慌てて軌道修正した。
「どうしましょうか、大滝さん」
「そうだな……」
 いつも小百合と学年のトップを争っているという達矢は、わずかに考え込むそぶりを見せてから空晴に言った。
「とりあえず、早く用を済ませて荷物のところに帰ろう。宇野は売店に用があったわけじゃないんだから、はぐれたらひとりでシートまで戻ってるだろ」
「そうですね……」
 足を速めた達矢に遅れないよう、空晴は自らも速度を上げた。達矢は女にしては大きな姉の理帆には及ばないが、自分よりも少し背が高い。
 空晴は小百合がレベルの高い水郷にあってどれだけの成績をおさめているかはよく知っているが、だからこそその小百合と張り合う人間だということだけで達矢のレベルが知れた。
 ふたりは混みあった売店で飲み物と菓子を調達し、荷物置き場への帰り道を急いだ。
 空晴は胸中複雑な思いでかたわらの達矢を見上げ、内心嘆息した。達矢は空晴の気持ちなど知らない涼しげな表情ですたすたと歩いていく。
 彼は小百合と同じレベルにいて、同じ教室で机を並べて勉強することができる。また自分よりもずっと落ち着いていて度量が大きい人間でもある。
 空晴には、それが不安だった。
 姉が小百合と聖を家に連れてきたのは、もう二年前のことになる。空晴はまだ小学生で、受験勉強の最中だった。
 小百合たちは受験生を抱える理帆の家には行かないよう遠慮していたらしいが、それを理帆が連れてきたのだ。空晴にとってもいい息抜きになったし、小百合や聖のようなかわいらしい女の子を見て気分が悪くなるはずもない。
 小百合は一学期の中間、期末ともに定期テストのトップを飾ったとは思えないほどやわらかな笑みを浮かべていて、その小柄な姿は当時から大きかった空晴にとってはまだ同級生のようにも見えた。近寄りがたいほどの美貌を誇っていた聖よりも、小百合のほうに親近感を持ったのはあたりまえの話だ。
 彼女に対する空晴の好意は、時を重ねるごとに増していった。兄姉ともに水郷に合格した空晴に期待をかけつつも彼の成績では無理だと落胆していた塾の教師を説き伏せて、水郷レベルの対策クラスに入れてもらったほどだ。
 眠る時間を削ってでも水郷に入りたかったのは、少しでも小百合に近づくため。
 そのため、中学校に入った今では小百合の成績とは比べるのも難しいような順位ばかりをとるようになってしまったし、授業についていくのも一苦労だったが、彼には明陸や理帆がいた。
 バスケ部に入り、小百合ともこうして――理帆のおまけとはいえ――遊びに来られるようになり、空晴の計画はおおむね順調だった。
 この、大滝達矢という男の存在を除いては。
 理帆の話によると、小百合は三年になって初めて自分とトップを競り合う人間の顔を知ったのだという。入学式の日、同じクラスだった達矢と小百合は、出席番号の関係で席が隣だったのだ。まだ、席替えはしていないはずである。
 のみならずクラス委員まで小百合と一緒に引き受けることになった達矢の存在は、空晴にとっては脅威であった。
彼は頭も良いし、顔も悪くはない。無愛想に見えるが、小百合は彼に懐いている。小百合という存在のために水郷に来た空晴は、思うようにいかないもどかしさにこの四か月というもの悔しさに歯噛みしてきたのだ。
 大きく息を吐き、空晴は顔を上げた。やや前方に、達矢の姿が見える。はぐれた小百合のようなことにはならないだろうが、それでもなるべく距離を開けないほうがいいだろう。
 そう思いながら足を速めた空晴の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「……芦屋、はぐれるなよ」
「わかってるってば。あなたの足が速いんでしょ」
「足が長いって言ってくれ」
 数人の高校生の中に、ひときわ目立つ見慣れた姿。背が高くがっしりとした体躯は人々の中から飛びぬけて見える。
 空晴の兄、明陸が以前からひいきにしているバスケ部の後輩であり、空晴がクラブに入ったときにはもう引退していたものの家では何度か会ったことのある、高三の高橋恭介だった。
「……高橋さん」
 とっさに呼びかけようとした声は、その距離に阻まれて消えていった。物理的な距離で言っても、同級生と遊びに来ている様子からみても、空晴が声をかけていい場面ではないのだ。
 恭介は隣に並んだ少女の頭を大きな手のひらで叩いた。その親密さに、空晴は目をみはる。
……彼女、なのかな……。
 首をかしげて視線を戻すと、視界には小百合と聖、そして姉の理帆の姿があった。空晴はバスケ部の先輩でもある桜井創一の持ってきた大きなビニールシートの、小百合の隣に陣取る。
「さっちゃん、途中ではぐれたでしょ?」
「あ、うん、ごめんね。心配してくれたの?」
「心配したよ、あたりまえだろ」
 こちらを覗き込む瞳からさりげなく目をそらし、空晴はうなずいた。小百合はにっこりと笑ってかすかに頭を下げ、聖と買ってきたらしいいちご味のかき氷を口に運び始めた。
 ふわふわと揺れる黒髪を間近に見て、空晴は幸せな気分に浸る。
 夢を見ているような暖かな感触をしばし味わったあと、空晴は昔から好きだったレモンのかき氷を食べている理帆を見上げて呟いた。
「なあ、理帆」
 空晴たち姉弟に共通の茶色い瞳で睨まれ、空晴は慌てて訂正した。そういえば、友人たちの前では呼び捨てにするなと言われていた。
「姉貴、俺、高橋さんを見たよ」
「……高橋さんを? ここで?」
「うん――息抜きにでも来たのかな」
 受験生であるはずの彼は、夏休みにのんきに遊んでいられる身分ではないのだ……よほどの成績をとっていなければ高校へ進学するのに何の障害もない理帆たち中学生とは違って。
「たぶんそうでしょ。毎日勉強勉強じゃ、頭がいかれちゃう」
「そうだよなあ……デートだって、したいだろうし」
「デート? 高橋さん、彼女いたんだ」
 かすかに眉を寄せ、理帆は呟いた。次の瞬間には困惑げな表情は消え、空晴はその白昼夢のように雰囲気のがらりと変わった一瞬に首をかしげた。
「同じ学校の人?」
「俺が知るわけないだろ、高校生の顔なんて。ただ、なんとなく見たことあるような気はしたから――多分水郷生。きれいな人だったな」
「ふうん」
 鮮やかなレモン色の氷水を飲み干し、理帆は立ち上がった。百七十センチを超える長身に、すらりとした体躯。筋肉のついた長い手足はほっそりとしているようで鍛えられており、空晴の成長しはじめた身体はまだ姉との男女差を埋められていない。
 どことなく不機嫌な空気を感じ取り、空晴は肩をすくめた。
「あ、りっちゃん、待って」
 小百合は乾ききった身体で立ち上がり、理帆の肩にかるく手をかけた。
 そのまま緩く首をめぐらせ、呟く。
「もう三時だね」
 そろそろ出ない? と、小百合は誰にとはなしに尋ねた。空晴もそれには賛成だったが、今日は姉のおまけとして来ている身だし、同じクラブの――普段はこんなに軽々しく接することはできない――先輩もいる。ここは先輩の決定に従うほうがいい。
「そうだね……」
 理帆はごみ箱の付近まで裸足で歩いていった小百合には頓着せず、氷のひとかけらまで腹の中へおさめたかき氷のカップを放り投げた。
 手首を敏捷に使い、三日月のような弧を描いてカップを飛ばす。彼と兄姉は皆小学生のころからバスケをやっているが、男女の別や経験を考えなければ理帆がもっとも上手かった。
「それじゃあ帰ろうか」
 理帆が自分の荷物に手を伸ばした。
 八月の午後、三時の日ざしはまだ暑い。けれどこと遊びの範疇に入ることとなると、彼らは少し気温が高いくらいでめげたりはしないのであった。


「あ」
 小百合がポケットの中で震えた携帯電話を開くと、そこにはメールの着信があった。似合わないとさんざん言われたワインレッドの小さな電話。色は抜きにしてひとめで気に入ってしまった機種に赤黒白の三色しか色がなかったのだから、小百合の好きなパステルピンクやオレンジではなくても仕方がない。
 メールの送信元は、小百合の電話帳には登録のないアドレスだった。空のメールに首をかしげてそれを聖と理帆に見せようとしたところで、小百合はふと顔をあげた。
 今向かっている先、男子更衣室と女子更衣室にわかれる遊歩道の根元で、達矢が黒い携帯電話を荷物の中に戻したところだった。
「大滝君、ねえそれちょっと見せて!」
 小百合は濡れ髪を乾かさないままに駆け出した。――こんなもの、どうせすぐに乾いてしまう。
「大滝君の、さゆのと同じじゃない? 買いに行ったとき、黒いの見たもん!」
 興奮して腕にまとわりつく小百合に、達矢は苦笑した。
「ああ、同じだな」
 いつになく身にまとう雰囲気がなごやかな達矢の姿に、小百合はくすくすと笑った。
「これ、大滝君が送ってくれたんだよね? どうしてさゆのアドレス知ってるの?」
「創一に聞いた。創一は――吉野から入手したらしい」
 それでは、さっき理帆が更衣室で送っていたメールは創一にあてたものだったのだ。得心がいった顔で小百合はうなずいた。
「そっかぁ……ありがと、大滝君。ねえ、『たっちゃん』で登録しちゃだめ?」
「……やめろ」
 めずらしく機嫌がいいと人目でわかる顔をしていた達矢は、小百合の言葉に顔をしかめた。
「やっぱりだめか。じゃあいいや、普通にしとくね。……あ、来た」
 空晴と創一がこちらへ走ってくる。小百合は、次は何に乗ろうかと思案した。
「……そういえば」
 達矢が低く呟いた。そのあとに続く言葉を、小百合は突然思いつく。
 夏休みが終われば、小百合と達矢は文化祭のクラス参加イベントの責任者として働かなくてはいけない。そうなれば、いつでも連絡がとれるように互いの携帯電話の番号くらい知っていなければならなかった。
 九月になれば、どうせ知れる。焦らなくてもよかったが、小百合はなぜか、なるべく早く達矢を知りたかった。
 電話番号やメールアドレスではなく、その連絡手段を通すことによって得られる彼についての情報が、欲しくてたまらなかったのだ。
「どうして、だろ」
 いつもの彼女なら、なりゆきまかせで自然と番号交換の流れになるまで待っていただろうに、それなのに、なぜ……。
 自分の気持ちに首をかしげたまま、小百合は歩き出した。


前へ / 目次 / 次へ
螺旋機構 / サイト案内へ



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送