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【08】 - Red and Black -


 母や姉に、日焼け止めはきちんと塗れと言われてはいた。けれども小百合は皮膚に何かを塗りたくるのが苦手で、実はそれを持ってきてすらいない。遊んでいる途中で落ちることにも構わず、とりあえず最初は対策をしている聖とはそこが決定的にちがった。
 理帆は最初からやや浅黒い肌をしているうえにクラブで炎天下を走り回っているから、いまさら気にすることもない。聖は太陽の下で遊んでいても皮膚が赤くなるだけ、あるいは焼けても夏の終わりにはまたもとの白い肌に戻っているというから、一番中途半端なのは小百合である。
 もとが黒いというわけではないが、陽射しを浴びれば浴びたぶんだけ焼けてしまう。小百合自身は日に焼けてもいっこうに構わないのだが、聖ほどではないにしろほっそりと白い身体をしている母は娘たちにもそれを要求しているのだ。
「さゆ、塗るんなら貸すけど……いい?」
「うん、なるべく日陰にいるようにするから大丈夫。ひーちゃんみたいに、保護指定入るほどきれいでもないし」
「何言ってんの」
 聖は苦笑して小百合の腕をはたいた。
 着ていたものはロッカーに預けてきたため、貴重品とタオル、少量の菓子類くらいしか荷物はなかった。小百合と茜は小さいころよく両親に浮き輪を膨らませてもらい、それで遊んだものだったが、もうそんな年ではないし小百合が自分で浮き輪を膨らませようと思うと膨大な時間がかかることは間違いない。
 今回滑って回って落ちる系が好きな小百合が楽しみにしているのは、もちろん八つのコースが揃えられているというウォータースライダーである。風を切る音、水飛沫が跳ね上がる音、人々の歓声。それを思い出すと、楽しみでならない。
 達矢と創一、空晴と合流したあと、人の多いプールサイドで空晴が見つけてきた空きスペースに荷物を置き、小百合はにっこりと笑って言った。
「それで、どうするの? さゆ、お腹空いたんだけど誰か買いに行かない?」
「先にお昼にすればいいんでしょ、誰が荷物見てる?」
 小百合の言葉を受けて、理帆は少女にしては高めの場所から視線をぐるりとめぐらせた。
「あたし待ってる。理帆、これでペットボトルと……何か適当に買ってきてよ」
「いいの?」
「だって、ご飯買ってくるだけでしょ」
 首をかしげてレジャーシートの上に座り込んだ聖から千円札を一枚受け取り、理帆はうなずいた。やや顔をしかめて、理帆が無言で突っ立っている弟と友人たちをうながした。
「じゃあ行ってくるね。なるべく早く帰ってくるから、動かないでよ」
 涼しい顔でうなずく聖にくどいほどに念を押し、理帆が先頭に立って売店へ向かう。
 流水プールの際に陣取った六人だったが、売店からは遠かった。ちょうど反対側に見えている売店を目指して楕円型のプールの周りを歩く。
 途中の分かれ道で、小百合は満面の笑みを浮かべて言った。
「ここ曲がったらスライダーだねー」
 行列はさほど長くはなかった。そのことに、小百合はほっと息をつく。さすがに混雑のピークは極めていないものの、やはり人は多く、彼女の立てていた計画に多少の誤差が生じていたのだ。この分なら、うまく混み具合を見定めていけばスムーズにウォータースライダーを制覇していくことができるだろう。
 機嫌がますます上を向く小百合の横で、彼女よりもずっと高い位置に目線のある空晴がうなずいた。
「さっちゃん、飯食ったら行く?」
 小百合に負けず劣らずの浮つきで言う。空晴が必要以上に声を弾ませる理由には微塵も気づかず、小百合はシャワーを浴びてぺたりと肩に張り付いた髪の毛を払った。
「うん、そうだね。さゆはあれに乗りに来たんだし」
 おそらく誰よりも今回の遊園地を謳歌しているだろう小百合の言葉に、達矢を除く三人が笑みを誘われた。
 売店にはほんの少しの行列ができていて、五人は散り散りにわかれて列に並んだ。じりじりと進みながら、小百合は聖の分まで買い物をしている理帆を横目で見つめた。大学生くらいの売り子は額に汗を浮かべながら客に相対しており、必死なのはわかるがどうも手つきが慣れていない。何度もつまづきかける売り子を、小百合はわがことのような気持ちで見守った。彼女もよく、家族にからかわれているのだ。――そんなにそそっかしくちゃあ、どこも使ってくれないと。
 同情を禁じえない小百合だったが、客の目からしてみれば苛立ちが募るのも仕方のないことで、まだ二三人の客が並んでいる小百合の列を尻目に理帆と創一、空晴は買い物を終えている。
 思わず溜息をついてしまった小百合だったが、そのとき、頭上から声がかかって小百合は顔を上げた。
「宇野」
「え?」
 小百合が尋ね返すと、声変わりの終わった低いそれをさらに低めて達矢は言った。
「何に?」
 思いがけない言葉に、一瞬小百合は空気の塊を飲みこんだ。たどたどしい手つきでレジを打つ売り子を横目で眺め、慌ててメニューに目を走らせた。
「ええっとね、ちょっと待って――」
「待てない。あと三秒。三、二、一、……」
「待ってよ、さゆは……ホットドックとポテト。マスタード抜き。頼んでくれるの?」
 計ったとおりきっちり三秒で順番を迎えた達矢が、小百合の分まで注文を伝える。こちらの売り子はきびきびとした動作の男性で、手早くふたりの注文品を用意してくれた。――三百四十円と二百二十円、税込み五百八十八円。列からするりと抜け出した小百合は、それを財布から取り出して釣りのないように達矢に渡した。
「ありがと、大滝君。助かったよー」
「……どういたしまして」
 ささやかでさりげなくて無愛想な気遣いに、小百合はにっこりと微笑んだ。こういうやりとりが達矢と交わせるようになったのも、最初のころから見れば信じられないことだ。やたらと無愛想で、クラス委員の仕事をしていたときも最低限のことしか口にしなかった達矢だが、その最低限のことは彼が学年一の頭で選りすぐったものばかりで、小百合としてもとても仕事がやりやすかったのを覚えている。
 時折かすかにでも笑顔を見せてくれるようになったこの関係まで、春からたどってきた道筋を思うと小百合は思わず自分を褒めてやりたくなるのだが、それは創一をはじめ周りの人間がたいそう協力的だったことにも勝因がある。
 彼らはいまだかつて創一以外の誰も為しえなかった――というよりも手をつけようとすらしなかった「大滝達矢とフレンドリーに遊ぶ」ということに果敢にも挑戦している小百合に惜しみない支援の手を差し伸べており、それはたとえ面白がってはやし立てているだけだとしても小百合にとってありがたいものだったのだ。
 創一はもうずっと達矢と付き合ってきていて、無愛想にも負けず彼を自分のペースに巻き込む方法を習得しているからいいとして、正直小百合も達矢がここまで雰囲気を和らげてくれるとは思っていなかった。表情はまだ、中身も外見もなかなかレベルの高い顔に浮かんではいないのだが、かけてくれる言葉は明らかに優しく、余計な装飾を一切取り払った鋭いものではなくて多少の遊びが含まれている。
 小百合の、度重なる拒絶にもめげない涙ぐましい努力による、懐柔と呼んでもいいほどの進歩だった。
 再びプールの周囲を戻りながら、小百合は達矢の横にぴったりとくっついて歩いた。困惑の表情を見せながらも小百合の歩調に合わせてくれる。じりじりと前を行くバスケ部の三人に遅れ始め、達矢のことだから苛ついていないはずはないのに何の不満も表に出さなかった。
 その気遣いは、もう長く深い付き合いになる聖や理帆が見せるものと同じで、小百合はそれにほんの少しの自信を持った。自分は彼の『特別』なのだと、頭がはっきり理解する。自惚れかもしれないけれど、達矢は確かにそれだけのものを彼女に与えているのだ。
「……ねえ、大滝君。ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんだよ」
 短い返答があった。小百合はさしたる気負いもなくその要求を口にした。
「携帯、持ってるでしょ。学校では使ったことないみたいだけど」
「一応、禁止されてるからな」
 水郷では、始業時間から終業までは携帯電話の電源を切っておくことになっている。朝校門をくぐるまでと放課後は自由だが、それ以外の時間に使っているところを教師に見つかると没収ということになっている。けれど中には見て見ぬ振りの教師もいないではないし、休み時間には平気な顔をして使っている者がたくさんいる。
 そんな中で、達矢は鞄の奥に持ってはいるものの鳴らしたことはないようだった。むっとした顔をしたのは、小百合の情報源が創一だと理解したからだろう。
「もともと、家族との連絡用だし。……それがどうした?」
「番号、教えて。そのほうが便利だよ」
「どこが、どういうふうに便利なんだよ」
 特に達矢と連絡を取り合いたいわけではない。用件は理帆と創一を通せばいいだけの話で、それに手間がかかるわけでもない。ふたりには迷惑がかかっているだろうが、理帆も創一もそれくらいの手間は惜しまないだろう。
 ならばなぜ知りたいのか――ときかれると、それは小百合にもうまく説明ができない。そう思ったのは発作的なことで、おそらく彼女は他人を通してではない、自分だけの達矢とのつながりが欲しかったのだと思う。
 達矢は小百合に、何の気負ったところもない、淡々とした態度で接してくるという点で他の男子生徒とは一線を画した存在だった。彼が小百合と同じ立場にいるからなのかもしれない。すべての教科、すべての単元で高得点を取り続けるのは並大抵の努力で為しえることではなく、小百合も何もしなくてもある程度までは理解できる頭に助けられてはいるものの日々の予習復習を怠ったことはない。けれどどうやら周りの人間、理帆や聖を除いた大多数の人々は小百合が今の成績を何の努力もなく手に入れたと思っているようで、彼らが言い募る言葉にはもううんざりしていた。
 おそらく学校で唯一、小百合のこんな思いを理解してくれるのが達矢なのだ。彼もまた小百合と同じように、少しできの良い頭と努力をいとわない勤勉な性格とを持った、ただの少年であるのだから。
「ねえ、お願い。教えてくれるだけでいいから」
 昼食を抱えたまま、両手を合わせた。見上げると、達矢は仕方ないなという顔で彼女を見下ろしている。
 結局のところ、小百合も彼にとって同じ位置付けにいるのだろう。互いに理解しあうことはおそらくは可能であり、今まで辿ってきた道のりを思えばたいした困難ではない。
「……あとでな。荷物の中に、あるから」
「ありがと、本当にありがとう。……うわぁ、嬉しい……」
 頬が緩むのを止められるにっこりと笑った小百合を、達矢は面食らった表情で見つめた。
 なぜだろうか、彼女にもわからないけれど、嬉しくて仕方がなかったのだった。


 ひっそりと息を殺し、レジャーシートの上から目の前を通り過ぎていく人々を観察する。ともすれば彼女のほうがよほど観察対象としては優れているというのに、うまく座っているせいでまったく目立たない。うつむき加減の上目遣いで周りを見ていると、長い髪の毛に顔の半ばが隠れているのだ。
 聖は昼食を買いに行った五人の荷物を眺めながら、それにあらわれているみごとなまでの性格の違いに目を瞠った。――面白い。
 理帆の荷物は大きなスポーツバッグに収められている。もとが几帳面な彼女だから、タオルだけを外に出し、バッグに被せて置いてあった。小百合はああ見えて案外横着者で、トートバッグの外ポケットに小物をすべて詰め込んであり、必要なときにはすぐにも取り出せるようになっている。普段使わないところは整えられているのだが、使用頻度の多いものはすぐに手の届くところに置いてあるのだ。彼女の自宅の部屋もそうである。
 創一はとにかく荷物が大きく、しかも本人はそれを苦にしていない。クラブで慣れているからか、それとも生来使うものすべてをそろえていないと落ち着かないのか、いずれにしても世話焼きで面倒見の良い、理帆に似たタイプだ。
 空晴は姉には似ず極めて大雑把で、けれどもなぜか見苦しいところはない。持ち物が全体的に大きめだからだろうか。
 そして――聖にとっては少し堅苦しすぎるように感じられるのが、達矢のバッグだった。
 ごく普通のリュックサックなのだが、ポケットに定期券と携帯電話が入っているほかに外に出ているものはない。先刻彼が開けたときにちらりと中をのぞいたが、折り畳み傘を端のほうに立て、大きなタオルをたたんで底に引いてあった。その上にさまざまな小物が乗っていたところを見ると、ロッカーは使用していないらしい。
 几帳面なのと大雑把なのと、みごとに分かれた荷物の様子に、聖はうつむいたままで微笑んだ。
 生い茂った木の葉をすり抜けて落ちてきた陽射しが熱すぎると思った、そのときだった。
「――河東さーん、河ちゃーん」
 底抜けに響いた明るい声に、聖はぱっと顔を上げた。さらりと肩の上を滑り落ちる髪の毛の流れにあわせるような動きは静かでいながら人目を惹く。
 熱い背中に陰を作るようにして立っていたのは、もと演劇部で今は受験勉強中の先輩だった。芦屋小夜子というその人は去年の高校部長で、聖もかなりかわいがってもらったのを覚えている。どこか近寄りがたい人形めいた美貌の中学生を河ちゃんだの河子だのと呼び、その存在を一気に演劇部へ溶け込ませた聖の恩人だ。彼女がいなかったら、おそらく、どんなに顔が良かろうと演技ができようとクラブでやっていくことはできなかっただろう。
「さよ先輩……どうしたんですか、勉強は?」
「うん、今日はね、息抜きよ。受験生ったってたまには遊ばないと、頭が破裂しちゃうからね。ねえ河ちゃん、公演の準備、進んでる? まなちゃんはどう?」
 小夜子の次に衣装責をしている高二の名前を出され、聖は咄嗟にうなずいた。衣装、音響、演出などに分かれた演劇部で、聖は衣装ではないため小夜子の言った衣装責とはあまり縁がない。ただ、きちんと整えられた衣装案が演出のところへ提出されているのを七月に見たため、仕事は順調なのだろうと思った。
 ただ、小夜子が衣装責をしていた去年よりは質が落ちたなというのが聖の辛くも正しい見方だった。小夜子は国立大の教育学部に進むのだと聞いたが、服飾を目指さないのが不思議なくらいデザインや縫製が達者だった。明らかに家庭科の授業やクラブ活動の域を越えている技術に驚いて尋ねてみたところ、着るもの何でも仕立ててしまう祖母と手芸全般を趣味にしている母親に仕込まれたのだという。仕事として裁縫をしている姿は見たことがないから、服飾の仕事には魅力を感じたことはないと。あくまでも、趣味で自分の好きなものを作るのが楽しいのだと。
 その言葉に聖は、母親の知り合いである女性たちと小夜子の微妙な違いを感じ、そこに納得もして引き下がったのだった。
「渡辺先輩もよくやってらっしゃると思いますよ。さよ先輩の後じゃプレッシャー感じるのもわかるけど」
「えー、そんなつもりじゃなかったんだけどなあ。あ、当日は差し入れに行くね。三年生は暇だからさ」
「楽しみにしてます。……ところでさよ先輩」
 聖は声を低め、小夜子の後ろに立っている背の高い人物を指した。
「あのひと、先輩の彼氏ですか?」
「ううん、クラスの奴。よく図書室で一緒になるの。今日せっかく遊べる日なのに、彼女に予定が入ってたっていうから、あたしが引っ張ってきたの。涼子とかもいるけど」
 なかなか精悍で見られる顔をしているその生徒は、口をつぐんで小夜子と後輩が話しているところを見つめていた。小夜子はややきつい目元が最初気の強そうな印象を与えるが、話してみれば至極温和でしかも家庭的、とても魅力的な人だ。恋人くらいいてもよさそうなものだが、小夜子は首を振る。
「ふうん、そうなんだ……それじゃさよ先輩、また遊びに来てくださいね。楽しみにしてますから」
 聖の言葉に、小夜子は目を細めて微笑んだ。
「ありがと。皆にもよろしくね」
「わかりました」
 うなずいて、小夜子と男が立ち去るのを黙って見送った。彼女を見ると、昔の、協調性などまるでなかったころの自分を思い出してしまう。
 かろうじて周りの人間にあわせ、先輩の指示どおりにメニューをこなすという習慣はつけたが、小夜子がいなければいつまでも周りが自分にあわせるのが当然と思っていた聖のままだっただろう。事実、理帆や小百合と過ごしていても変わらなかった気質がやわらいだのは小夜子と関わるようになってからだ。
 昔の友人にも言われた。このごろ、優しくなった――と。聖のやや冷たかった性格にもめげずに付き合い、いつもわがままを通してくれていた友人たちだった。小百合たちとの関係がまだ流動的で修復可能なうちに自分という人間を正すことができたのは小夜子のおかげだ。
 そしていま――彼女は恋をしている。
 自分から求めなくてもすべてが与えられていた彼女が生まれて初めて、その美しさと聡明さとを捧げられると思った、真摯な思いだった。


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