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【06】 - Red and Black -


 八月に入ってすぐのその日は格別に暑いというわけでもなく、どちらかといえば日本の夏には珍しいほどじめじめしたところのない過ごしやすい日だった。陽射しを避けて日陰にさえ逃げ込めば空気はひんやりとしていて気持ちがいい。
 もちろんこれから正午に近づくにつれて気温もあがり陽射しがきつくなってくるのだろうが、朝八時の駅のホームで考えてみると、つくづく自分たちは運が良いと思うのだ。
 昨日からの不機嫌が絵に描いたような真っ青な空に払拭されていくような気がして、理帆は電車を待ちながら内心嘆息した。
 そんな姉の姿がよっぽどご機嫌に見えるのか(実際はまったく正反対の心境がだんだんと上向いてきただけなのだが)、弟の空晴は目に見えて膨れっ面だった。
「……ちょっとー、ハル何拗ねてんの」
 その原因には心当たりがあったが、そんなに機嫌を曲げられるようなことではないはずだった。自分だって、空晴には想像もできないような理由でせっかく遊びに行く前夜にずんと落ち込んでしまったのだから、少しくらいのわがままは許されてもいいではないか。
「だって理帆がさ……」
「あんた向こうに着いたら呼び捨てはやめてよ」
「わかってるよ、桜井さんも来るんだろ」
 中学男バスの中でも特に強い創一にやたらと懐いている空晴は、彼の前では大人しい。
「……それより、これだよ」
「これってさー、だから別にいいじゃん、そんないいもんでもないでしょ? たいして新しくもないし、あたしだって何回も着たし」
「そういう問題じゃねえだろ、まったく理帆は……」
 どんなに図体がでかくなってもこいつはあたしの弟だ、と実感する。水郷に入ったばかりで、まだ幼さが抜けなくて、すぐ拗ねる。
 空晴が昨夜からずっとぐちぐちと理帆に文句を言っているのは、今彼女が着ている濃いグレーのタンクトップについてだった。春に空晴が買ってきたもので、理帆がときどき弟のたんすから引っ張り出して使っている。
 昨日は理帆が一番に風呂を使い、あがったその足で空晴の部屋へと入ってタンクトップを出してきたのだ。そのあと、部屋でぼーっとしていたところへ空晴が怒鳴り込んできた。どうやら、遊びに行くのにそれを着ていこうと思ったらしい。
 別にそうこだわることでもないだろうと言ったら、久しぶりに喧嘩になりかけた。隣の部屋から大学生の兄明陸が出てきて仲裁してくれたためにことなきをえたが、そうでなければ今日の予定は取りやめになっていたかもしれない。
 同じ、中学生というカテゴリに分類された理帆と空晴とは違い、兄の明陸はそのさらに上、高校生を通り越してもう大学生である。さすがにふたりとも、明陸には逆らえない。明陸のほうでも中学生の理帆や空晴にちょっかいをかけても仕方ないと思っているらしく、長兄と下ふたりの関係は穏やかに流れていた。
「あたしだってさ、前から今日はハルにこれ借りてこうって思ってたんだもん。しょうがないでしょ? たまたま昨日は、あたしが先にお風呂入って寝ようとしたから」
 ついこの間まで小学生だった――そのわりには図体のでかい――弟を、理帆は懸命になだめる。到着した電車に乗り込むと、見慣れた広告の渦がふたりを出迎えた。途中まではいつも通学に使っている電車で、赤瀬の前に急行の止まる駅から西へ伸びる電車へ乗り換えて現地集合だ。
 もともとが郊外行きの電車なのでいつも辟易するほど混んでいるというわけではないのだが、今日はまた格別に空いていた。クラブに行くのだろう水郷学院の生徒の姿もちらほらと見られるが、今回の一行の半分を占める人数が在籍しているバスケ部はたまたま女子バス、男バスともに練習がなかった。それに聖の都合もあわせて今日という日に決定したのだ。
「ん……そういえば……」
 小百合はピアノのレッスンに彼女たちのクラブ活動と同じくらいの時間と、そして情熱とを注いでるため、どこのクラブにも入っていないが、達矢はどうなのだろう。理帆から見るとなかなかしっかりした身体つきをしているのだが、彼が運動部で汗を流している姿などあまり想像できない。案外、彼も帰宅部の可能性が高いか。
 まあ、そんなことは着いてから聞いてみればいいことだ。
 それよりも、吉野理帆にとっての当面の問題は――――
(高橋さん、大学どこ行くんだろ……)
 昨日の夜突如としてかかってきた電話を思い返し、理帆はMDを取り出した空晴の隣で目を閉じた。
 高橋恭介――水郷学院高等部三年、前高校男子バスケットボール部長。
 れっきとした、理帆の恋人……である。
 彼は、理帆や空晴と同じように中学から水郷に通っていた兄明陸が、理帆が小学生のとき――つまり恭介が中学に入ったばかりの頃から家の中で絶賛していたプレイヤーだった。顔は見たことがなかったもののその頃からバスケをやっていた理帆の中に強い印象を植え付けた名前の持ち主と初めて顔をあわせたのが、入学してしばらく経ち、理帆が女子バスに入部したとき。
 男バスの、しかも高校生なんてほとんど顔をあわせる機会がなかったのだが、明陸が理帆と恭介とを引き合わせたのだ。
 そして……はれて、というよりほとんどなし崩しで付き合いはじめたのが理帆が中二になってから。既に引退していた明陸は知らないはずだ。
 あの頃は、恭介も最高学年で忙しかったとはいえまだよかった。放課後はクラブがあり、理帆はそれを眺め、ときには訪ねることもできたからだ。今は彼は受験勉強中で、電話もメールも途切れがち、夏休みもほとんど会える見通しが立っていない。
 だから昨日の電話は、嬉しかったといえばもちろん嬉しかったのだが。
『もしもし――理帆? この間は本当ごめん、どうしても都合つかなくて』
『ううん、平気……』
『かわりにさ、もし明日あいてたら会えないか? 明日は俺、一日何もないんだけど』
『あ――――』
 自分の間の悪さに、理帆は壁に向かって顔をしかめた。会いたい、恭介に会いたい気持ちは今にも喉の奥から飛び出てきそうなくらいに高まっている。けれども小百合たちとの約束は、六人の予定を調整してやっと決めた遊園地行きだった。それをすっぽかすわけにはいかない。
 溜息をついて、理帆は電話の向こうの恭介へ答えた。
『ごめんなさい、あたし明日は遊びに行く予定が入ってて。高橋さんが貴重な休みにあたしのこと誘ってくれたのはものすごく嬉しいんだけど、断れないから。ごめんなさい、またひと段落ついたら誘ってください。勉強、がんばって。受験の邪魔になるようだったら来年まで大人しくしてますから』
 常の自分とはあまりに異なる顔に、理帆自身驚いている。恭介の前では、素の、粗暴さが目に付く自分を出したくないのだ。彼の目に映る自分になりたいと思っているし、その努力もしている。理帆をこのような思いに追い込む人間は彼だけで、それこそが恋愛の証なのだ。
『ああ……もとはと言えば俺がキャンセルしたのが悪いんだもんな。それじゃあ、また』
 低い余韻を残してふっと切られたその電話。
 誰が悪いわけでもないのに、気分が滅入った。
(今度連絡ついたら聞いてみよう……バスケは多分続けるだろうなあ。どこがあるだろう……)
 兄の通っている大学をはじめとして、恭介の志望を考えてみる。成績は悪くはないようだから、学力は問題ないだろう。
 ややあって、傍目には寝ているとしか思えない理帆の頭の中に、ひとつ、どうしても認めたくない可能性が浮かんできた。
(東京出られたら……終わるかも)
 自分で示唆した遠距離恋愛の可能性。
 それがぎゅっと胸を締め付けるのに耐えながら、理帆はいつしか空晴の肩に頭を預けて眠っていた。


「……あれ」
 乗り換え駅の改札を出て、右に折れると次乗る路線の切符売り場が見える。そこに立つ華奢な少女には有り余るほどの見覚えがあった。学年一……それどころか、彼が生まれてこのかた彼女以上に美しい少女を見たことがないというほどの器量を持った、河東聖の横顔だった。
 創一は自分も切符を買うために聖の隣の券売機へ並んだ。聖が路線図を見ていた視線を下へ向ける。
「おはよう、桜井」
「はよ。河東、小箸までいくら?」
「百八十円。……やだなあ、金欠」
 聖が黒い財布をのぞき込み、ふっと溜息をついた。
「河東に金欠って似合わないな」
「どういうこと? まさか金が湧いて出るとでも思ってるの? ……確かに普段はあんまり不自由しないよ、親は共働きなのにお金かける子供はひとりしかいないんだもん。でもさ、うち結構出張が多いから。さきおとといからお母さんもお父さんも家にいなくてさ、昨日帰ってきたらシャワー浴びてそのまま寝ちゃったわけよ。だから今日の軍資金調達の予定が崩れて、ありったけの家に置いてある貯金かき集めてきたから。あとで請求するつもりではいるけどね」
 そこまでをひといきに語り終え、聖は五百円玉を入れてボタンを押した。その滑らかな口調はさすが演劇部の部長だ。
「結構寂しい生活だなあ……」
「そう? でもあの両親、一応娘のことはかわいがってくれてるけど。お金だけくれといてほっとくような親なら、買い物に連れまわしたりしないよね」
 肩をすくめて呟いた聖の隣に並んでホームへの階段を上る。なりゆき上連れ立って歩くことになったが、周りからはいったいどう思われているだろう。バスケをやっているためそこそこ体格はいいと自負しているから、後ろ指をさされるほど似合っていないということはないだろうが――いかんせん、聖の容貌が中学生離れしているため不安が募る。
 知り合いのうち聖に懸想している輩をざっと思い浮かべ、創一は苦笑した。このことを話したらさぞかし羨まれることだろう。
 別に、躍起になって聖に近づこうとしていたわけではないが、理帆と前から交流があったこと、達矢と小百合が隣同士だったことは大きかった。今までまったくと言っていいほど接点のなかった聖と、あろうことか小箸までふたりきりなのだ。その状態をラッキーだと思うくらいの甲斐性はあったし、そう思わなければかえって聖に失礼だ。
「でも河東って遊園地とか行くんだな」
「意外? けっこう好きなんだけど。――桜井、高いのと回るのと落ちるのって平気?」
「まあ、進んで乗りたがるほどじゃないけど平気だな」
「大滝は?」
「あいつは――いつもどおりだよ、けろっとした顔で乗ってる」
 ふうんとうなずいた聖をうながして電車に乗った。小箸に行く者はたいていこれを使うはずだったが、そう混んではいない。
「さゆも理帆も、強いよ。さゆは特に、ほんとはしゃいでる。付き合ってやってよ」
「河東は?」
「乗れって言われれば乗るけど、あんまり回数はこなせないなー」
 いつも背中に流している髪の毛は遊びに行くからだろう、後頭部で結われ、垂らされていた。中に水色のキャミソールを着込んだ白いパーカーにデニムのミニスカート。どうでもいいが、この格好でジェットコースターに乗ったりするのだろうか。
「好きだよ、遊園地。でもよく言われる。似合わない……って。ひどいよね、あたしの何と遊園地が似合わないっていうんだろ」
 その言葉に、創一は胸をつかれて黙り込んだ。
 河東聖、このどこか現実離れした美しい少女に、家族向けのテーマパークが似合わないと感じていたのは彼も同じだったからだ。
 けれども本人がそれを負担に思っていることは、少ない言葉で十分感じられて……。
 中三になって聖という人間に近づいてから、感じる視線の数が急増した、それには気づいていた。
 今はその突き刺すような視線が五人に分散されているからいいようなものの、聖は今までそれをたったひとりで背負ってきたのだ。彼は、そのことを考えなければならなかった。
「……あ、河東……」
 掠れた呟きが届いたのか、どうか。
 聖は染められた髪の毛とは違って吸い込まれそうなほど黒い瞳を創一へ向け、二三度瞬いた。
「あたしの偶像《イメージ》がひとり歩きするのは別に構わないんだ、でもそういう奴はたいてい、そのイメージに合わない行動をとるとあたしのことを非難する」
 脆いところも子供の部分もあって当然なのに、それを無視して騒ぎ立てる。
 今のように親しくなる前から、創一の耳にも聖の噂は入ってきていた。完璧に作られた人形のような美貌と隙のない立ち居振る舞い。大人びた魅力の大輪の華のような少女。
 けれども実際に接してみた聖は、無邪気に笑い転げもするし冗談も皮肉も言うし、ちょっと気が強くて意地っ張りなごく普通の中学生に過ぎなかった。
 理帆が学校では下級生に懐かれ、慕われている姿とは違って家では男兄弟ふたりに振り回され、小百合がその特別仕様の頭脳を裏切るぽやんとした外見と性格をしているように、聖もまた常人とは一線を画しているのはその容貌だけで、中身は一般的な少女と変わらない。
 それに今まで気づかなかったうかつさに、創一は歯噛みする。
「あんまり気にしてもしょうがないからねー、無視はしてるけど。……馬鹿、なんでそんな表情してるの」
「え?」
「桜井が深刻ぶることないでしょ。あんたはあたしを知ってるんだから」
 うっすらと微笑んだ聖の言葉に、創一はテーマパーク到着を目前にして暗く沈んだ気持ちを再浮上させた。我ながら単純な性格だと思う。
「あたしはさ、そういうのがひとりでもいれば、他はどうでもいい性格してるんだよ」
 それきり、聖は向かいの窓から見える何の変哲もない住宅街に目をやって、駅につくまで口を開くことはなかった。
 電車の走る音だけが聞こえる中で、創一の身に走る緊張感は程よく、沈黙は心地良いものだった。


 駅の前では、同じように待ち合わせをしているのだろう人々がひしめきあっていた。その中に背の高い、茶色い頭を見出し、ふたりは足を急がせた。
「あたしたちが最後?」
「そうだよ。さゆが今、向こうに飲み物買いに行ったけど」
 理帆が遊園地への客で賑わっているコンビニを指さした。聖が顔を向けると、ちょうど小百合が出てきたところだ。
「じゃあ、大滝は?」
「奴はチケットブースに並んでる。ただ、ここからは見えないからふたりで残ってただけで」
「へえ……ああ吉野、おはよう」
 ちなみに弟の、空晴のほうである。
 いくら姉の友人だからといって先輩ばかりの――しかも同じクラブの先輩もいる――中に混ざって平気な顔をしているのは、並大抵の神経ではない。ただ、そう親しくはなかったが空晴と理帆の兄、明陸のほうもこんな感じだったような気がする。
「おはようございます、桜井さん。……あっちの大滝さん、桜井さんが連れてきたんですよね?」
「昔っからの腐れ縁だからな。塾が一緒だったんだよ」
「そうなんですか。すごい頭いいんでしょう? さっちゃんと張るくらいだって聞きました」
「さっちゃん……ってああ、宇野のことか。まあ、両方とも俺から見れば雲の上だし、入学してから一位二位とっかえながらきてるのは本当のことだけど」
 感心したように大きくうなずく空晴の肩を、創一は片手で押した。見れば、理帆と聖は帰ってきた小百合と合流し、達矢の並んでいるというチケットブースへ向かっている。
 なぜだろう――売り場が少ないからだろうか、行列はそこそこの長さで蛇のようにくねっていた。平日であるため家族連れはそう見ないが、人の数は多い。総コース数八つのウォータースライダーのせいだろうかとあたりをつけて創一は溜息をついた。かくいう彼らもしっかりと水着は持参しているのだが、午前中はとりあえずアトラクションを堪能するつもりでいた。
「……陽射し、強いよねえ」
「あんまり焼けるとお母さんに叱られるんだけどな……」
「あんたはそうだろうね、あたしは気にしないけど」
「だって理帆はもともとが黒いでしょ」
 三人ひとかたまりになって歩く少女たちを見やり、そのあとに続く。周りの、水郷のほかのグループと比べても三人はべったりしているように見えるのだが、それがとても自然で美しく見えた。
「お前、宇野とか河東とも仲良いんだろう?」
「理帆……姉がよく家に連れてきますからねー。ふたりとも、すっごいフレンドリーに接してくれますし」
 その理由のひとつに、この人懐こい空晴の性格もあるのだろう。自分だって、クラブのときこそ他の後輩に接するように厳しい態度をとっているが、今日はそれを忘れたいと思う。
 うんざりした表情で列に並ぶ達矢がいる。その友人の仏頂面に笑みを零し、創一は足を速めた。
 


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