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【05】 - in spring - 「茜も小百合ももう寝なさいよ、あんまり根詰めないで」 階下から聞こえた母親の声に、隣の部屋で受験生の姉が返事をしたのがわかった。小百合のように理解力や記憶力が抜群に良いというわけではないものの堅実でしっかり者の姉は電車一本で通える国立大学を目指して勉強している最中だった。しかし小百合はといえば、明日に迫ったテスト初日を前に授業の復習もすべて済ませ、ころりとベッドに横になってうつらうつらとしている。 (歯磨きしてこよ……) 茜にとってはまだそう遅くはない時間なのだろうが、日付が変わってから床に就くと翌朝必ず起き上がれなくなる小百合は今にもくっつきそうなまぶたの奥で考える。 這うようにして部屋を出ると、同じく危なっかしい足取りで階段を降り、ようやく洗面所までたどり着いた。 しこしこと歯を磨いていると、小百合とよく似ていると言われる顔にほんの少し疲れが見える茜が洗面所へ入ってきた。 「さゆりは明日からテストだっけ?」 「うん、明日から四日ね」 「それが終わったら夏休み……だったよね」 「そうだね……」 何気ない茜の言葉に、小百合は中三が始まってからの三か月間を頭に思い巡らせた。 四月からは結局、理帆と聖に加えて達矢と創一も一緒に行動するようになっている。最初のきっかけはもちろん小百合と達矢が隣同士の席だったことだが、理帆と創一に――活動は別々だが――同じバスケ部ということで、もとからかなりの交流があったのも大きな理由のひとつだ。 小百合としてもふたりといるのは楽しいし、創一や達矢が彼女たちと一緒にいることを苦痛に思わないでいるのならば喜ばしいことだ。 特に、自分の意に添わないことはきれいさっぱり無視するであろう達矢に『認められた』ことが小百合は嬉しかった。 彼は今でも小百合たちや、ひょっとすると親友である創一にも驚くほど愛想のない態度をとっているが、それでも慣れればわずかな動きから彼の機嫌や感情を読み取ることができ、また小百合がもともと無意識のうちにそういったサインを感知するのに長けていたために創一から大滝の無愛想思考翻訳機などと言われていた。 「早いよね、夏休みって」 「あんたは遊んでられるんだからいいじゃない。聖ちゃんと理帆ちゃんとも同じクラスになったんでしょ?」 「確かにさゆは暇だけど、りっちゃんとひーちゃんはクラブがあるから」 「そっか、クラブか……さゆりもやればいいのに」 「だってー、ピアノばっか弾いてられるクラブなんかないもん」 姉の茜はどちらかというと父親に似ている。趣味嗜好も、しっかり者なところは同じだが母より少し物静かな性格も。小百合にはそういった母親の性格は伝わらなかったのだが、天真爛漫なところと何よりピアノに情熱を賭けているところは同じだった。 小百合のことをただのぽややんだと思っている達矢や創一が目にしたら驚愕で口がふさがらないだろうと、小百合は自分でも思うのだ。それくらい教会でも自宅でもピアノを弾いているときはそれに入れ込んでいて、周りのすべてが目に入らない。 それが子供特有の呆れるほどの真摯さによるものなのか、大人の目線と思考を持ってこれが自分の一番没頭できる趣味だと胸を張れるのか、それはまだ小百合には判断がつかなかった。 「……ねえおねえちゃん、さゆって子供なのかな」 「え? どうしていきなりそんなこと」 姉と、鏡の中の自分へ呟いた言葉に、茜は首をひねった。 「わかんないよ、でも……さゆの周りには大人が多すぎる」 「聖ちゃんとか、理帆ちゃんとかでしょ?」 「うん、そう」 学年全体を見回してみても特に目立つふたりの親友の姿を思い出す。どちらも、違った意味ではあるが人目を惹き、それに見合ったそれぞれの実力を持っている。 「ああ、じゃあ……久しぶりにしようか、『真面目な話』」 洗濯機に寄りかかり、茜は言った。小百合がまだ小さな子供だったころから、三つ年上の姉はよく言った。「真面目な話をしよう」と。それはその言葉があるかないかの違いだけで父や母が示してくれる彼女たちなりの経験談にも似た話で、小百合の人格形成に少なからず影響を及ぼしている。 喧嘩もほとんどしない姉妹だった。茜が大人びているとか、小百合が子供っぽいとか、そういうわけではなくて――ただ、茜は姉で小百合は妹だったのだ。 「あんたは子供だの大人だのっていうけど、それを決める、っていうか決定するのは、つまり集団生活にどれだけ馴染んでるかでしょう」 「そう……なのかな」 「よく言うよね、四月の、入学式前なんかに生まれた子と三月の終わりに生まれた子は、同学年でも一年の開きがあるって。あれは、確かに成長期なんかは身体的にすっごく違うと思うよ、でもね、どっちが大人かって言ったら――それは本人の学習能力と周りの環境によるでしょう。だって、幼稚園やら学校やらっていう『社会』にいる時間は同じなんだから」 不思議な空間だった。風呂場へとつながっているために少し湿っぽい洗面所。小百合は洗面台と横の壁にもたれ、茜は洗濯機に寄りかかって立っている。 そんな中で、茜は続ける。 「学校も社会だよ、人は社会がないと生きられないんだ。人間は世界の中で生きてるんじゃない、社会の一員として生きてるんだから」 「世界と社会って、お姉ちゃんの中ではどう違うの?」 「たとえばね――ロビンソン・クルーソーがひとりで生活してた無人島は、世界。彼の故郷は、社会。本来、人は無人島なんかじゃ生活できないはずだよ。いくらサバイバル生活を生き延びる能力があってもね。少なくとも、今の日本にロビンソン・クルーソーはひとりもいないでしょう。ホームレスにだって社会がある。日本の人間よりはるかに文明水準の劣った生活をしている第三世界の人にだって、社会がある。日本が空っぽになったら、どんな人間だって生きていけないよ、きっと。社会がないと。それぞれが自分の役割を負って、他人の役割から来る恩恵を受けて、打算的でも助け合って生きてくの」 「人は寂しいと死んじゃうんだもんね」 家族の中で誰よりも甘えたがりな小百合は、姉の言葉を受けてぽつりと呟いた。 「学校も社会でしょう、もちろん大学出て働いて、そこで経験するものとはまったく違うんだろうけど、でも社会だよ。それなりに序列はある。年功序列のところもあるし、実力主義のところだって。学校のクラブっていったって、ひとつ運営するのはなかなか大変らしいじゃない? 年齢が上がってくれば、後輩の面倒見て、衝突しないようにうまく調整して、気苦労も多い。前に読んだことがあるんだよね、社会人と学生の違いはっていうと、自分の感情を素直に吐き出して許されるか許されないかだって。でも違うよね、学生だって自分をそのまま押し出せることなんてめったにない。確かに社会に比べたら生温いのかもしれないけど、相手との兼ね合いがあることには変わりないよ」 茜の持論が、小百合は好きだった。 自分を正当化しているようで、その実若さと夢と情熱が詰め込まれた熱っぽい言葉。それを聞くのが、好きだった。 これが、自分の姉なのだ。 「小百合は子供じゃないよ――表面的なことも、性格も、なんにも関係ない。無邪気と大人は、矛盾した存在じゃないんだから」 「おねえちゃんにそう言ってもらえるとほっとする」 「本当はね、自分で大人だって公言したっていいんだと思うよ。だって――大人の部分と子供の部分、共存してて当然なんだから。で、子供の部分を隠して社会で生きていくことは悪いことなんかじゃない」 言い切った茜の言葉に、小百合は笑顔でうなずいた。手に持っていたブラシをようやく動かし、パーマをかけた黒髪を梳かして戻す。 「最近ちょっと不安だったの。でももう大丈夫」 だって、情けは人のためならずと言うではないか。 けれども理帆や聖の行為は小百合になんの見返りも求めていないから、――だから、子供のままに見えても彼女が少しずつ返していけばいいものなのだ。 いつでもそうやって、いればいい……。 ふと気づいて茜の、寝る直前まで外さないという腕時計を覗き込めば、いましも日付が変わろうとしている時間だった。 「じゃあ……さゆ、もう寝るね」 「あんた明日起きられるの? テスト受けられなかったら八ガケでしょ?」 「大丈夫だよー、ギリギリにでもおかあさん起こしてもらえれば、HRの間に着けるもん」 「そういう問題じゃないよ、春休みに中三になったら遅刻しないって決意してたくせに、始業式の日から遅刻したんだって?」 「あれは事故だもーん」 本格的に意識の霞んできた小百合は、洗面所から出ると淡い照明のともった階段を上っていった。 制服が壁にかかっているのを確認し、テストが始まるためたいして荷物もない――弁当がないというのが大きい――鞄の中身を点検してからベッドに潜り込む。 あっという間に意識が眠りに落ちていく、その寝つきの良さは、幼稚園の芋掘り遠足前夜から変わっていなかった。 テスト科目は現国、古文、英語、公民、数学AB、理T理U、さらに期末は家庭科や音楽の試験も加わる。三二三二で四日間、七月八日の木曜日から始まるテスト期間は、土日を挟んでいることもあってなかなかにやりやすいと評判だ。 一日目、数学Bと音楽、公民というとりあわせのテストを終え、小百合は帰り支度をしながら、欠席者なしということで持ち帰りの許可された問題用紙を見て記憶を頼りに自己採点していた。 「ねえ大滝君、さゆの答案おかしいの」 首をかしげて呟く小百合へ、隣の達矢は無言でこちらを向いた。 「数Bの問7の1が、どうしてもあわないの。……っていうか、今出した答えが正解で、さっき書いたのは間違ってるっぽい」 「7の1? 宇野が悩むような問題じゃないだろ?」 「いつものうっかりかも……ええと変形して最後の式って、2ルート……2ルート……3二乗プラスマイナスルート7……」 「直線Lイコール12±ルート7、に俺はなったけど」 達矢の答えに、小百合は真剣な面持ちでうなずいた。 「やっぱりさゆ間違えてるよー、多分、ルート3二乗を9にしちゃったんだと思う」 「お前、それって……」 ルート計算を習い始めたばっかりの奴がよくするミスだとか外見どおりそそっかしいのなとか、達矢はいろいろと口に出した。確かに、彼ならばこんなミスをすることは決してないだろう。 「……なあに、さゆまたやっちゃったの?」 机に突っ伏して落ち込んでいた小百合の背中に、突然聖がかぶさった。また、という言葉の示すとおり、こういったうっかりミスはしょっちゅうのことだった。達矢にはバレていないが、中間テストのときもやっている。 「うん……その他はだいたいできてると思うんだけど」 「その他はだいたいってあんたねえ、そんなことあたしの前で言わないでよ」 自分だってそんなに悲惨な成績はとっていないくせに、聖は整った顔をゆがめて言った。張り出される成績表に何度も名前が連ねられているのを小百合は見たことがある。 「ひーちゃんだって、どうせできたんでしょ」 「あんたに言われるとすっごい腹たつの!」 「そんなこと言われてもー」 口をとがらせる小百合の机の上に座り込み、聖は大きな溜息をついた。 「だいたいさ、テストなんて答案が回収されちゃえば戻ってくるまで待つしかないんだもん。終わった瞬間から忘れなきゃダメでしょ」 ちなみに水郷では、期末テストは答えが配られず、基本的には自分で解き直して答えを見つけるしかない。長期休みに入る前にすべてのテストが直せなかった場合は、夏休みクラブがあろうとなかろうと教師のところまで修正済みの答案を持っていかなければならないため皆必死である。 小百合や達矢の場合は、たいした時間もかからず答案直しが終わるのだが、ひどい者だと七月丸々つぶれることになる。もちろんそんなケースは稀で、どの生徒も臨機応変、要領よく直しを済ませてくるのだが。 「早く夏休みにならないかな……ね、さゆ、遊びに行きたいよねー。あたしプール入りたいな、遊園地行こうよ小箸の」 「河東、まだテスト初日だろ」 早くも頭が夏休みへ向かって一直線の聖とそれににこにこと相槌を打っている小百合に、達矢はぼそりと忠告した。 小百合はさらっと聞き流したが、聖のほうは目をいたずらっぽく瞬かせて達矢を横目で見た。この大滝達矢が、頼まれても人の話に首を突っ込んでなどこない達矢が、聖の言葉に突っ込んでくるとは。 「すっごいわー……」 「ん? ひーちゃん、何が?」 当の小百合はわけもわからず首をかしげる。 「いいのいいの、別になんでもないから。それよりさゆ、小箸の遊園地行こうね、大滝も連れて」 「……はあ? どうしていきなりそういう話になるんだよ」 聖に掴まれた肩を迷惑そうに振り払い――だから聖は、達矢には無造作なまでに軽々しく触れることができるのだ――、達矢は顔をしかめた。 小百合はおっとりとした顔に満面の笑みを浮かべて聖に賛同する。 「いいねー、行こうよ大滝君」 「行かねえよ」 「えー、つまんないよ、せっかくの夏休みでしょ? みんなで遊びに行こうよー」 「別にお前たちと遊びに行く理由にはならないだろ」 小百合がむっと眉を寄せ、じゃあ、となにやら怪しげな譲歩の姿勢を見せる。 「電車賃くらいは出してあげるから」 「出さなくていい」 「ひーちゃんと一緒にジェットコースター乗っていいよ、あとお化け屋敷も。ほんとはさゆがひーちゃんと乗りたいけど」 「譲られても嬉しくないな」 「……失礼な奴」 次々と展開する条件とそれをあっさり一蹴する達矢に聖が密かな怒りを込めて呟いた。そこいらの男子生徒になら今の小百合の条件は最高のもののはずだというのに。 「――じゃあ、さゆと一緒にジェットコースターに乗ってもいいけど? お化け屋敷と観覧車とね。本当はあたしと理帆で公正なじゃんけんで決める予定なんだけど、あんたが来るっていうなら特別に譲ってあげる」 「だから俺は行かないって言ってるだろ? だいたいお化け屋敷も観覧車も三人で入れるじゃないか」 そう言い捨て、今度こそ達矢は顔を背けた。そのまま立ち上がり、席から離れるどころか教室から出て行く。 「……さゆ、絶対連れてくよあいつ」 「はぁい」 「理帆、りーほー!」 声を張り上げて呼ぶ声に、出席番号の関係で一番離れた席にいた理帆が立ち上がる。ずば抜けた長身。セーラー服のスカートから伸びた足はしなやかな筋肉に覆われていて、歩き方ひとつとっても跳ねるようなその美しさ敏捷さがうかがえる。 「何、どうかしたの?」 「小箸の遊園地に行くの。いい、あんたの役目は誰だろうがなんだろうが持てる手段をすべて使って大滝を引っ張り出すことだからね」 ちょっぴりご機嫌ななめらしい聖の言葉の意味をすぐに汲み取り、理帆は苦笑した。 「わかったよ、ハルも連れて行っていいんでしょ?」 「いいよ。だってサトさんとか茜ちゃんとか連れてくわけにもいかないでしょ」 了解、と呟き、理帆は日溜りのような笑顔を浮かべた。 それから四日後のことである。 テスト最終日に向けラストスパートをかけていた達矢は机の上でぴろぴろと音楽を流す携帯の通話ボタンをぽちりと押した。 『もしもし達矢?』 彼を名前で呼ぶ、そして彼が名前で呼ぶ唯一の友人が、おい本当にテスト勉強してるかと疑いたくなるような陽気な声音で言う。 「何の用だよ創一、明日の古文か?」 『違うよ。――達矢、お前夏休み入ったら小箸行くよな? いやこれもう決定事項なんでよろしく』 「それって前に河東たちが言ってた奴か? 俺行かないって言ったはずだけど」 『お前が行かなくても俺は行くし、俺はお前を連れてくんだよ。だいたい、どうして行きたくないなんて言うんだよ。連れがイヤなのか、それとも遊園地がイヤなのか夏がダメなのか』 そう問われて、そういえばなんだろうといったん達矢は考え込んだ。 確かに小百合たち三人は今自分が学年でもっとも認めている女子であるし、別に遊園地も嫌いではない。子供っぽいなどと言って否定する気には、ならないのだ。さらに言うなら、彼は暑さにも強い。真冬にディズニーランドに行けと言われるほうがよっぽどつらい。 その三要素を認めてしまえば、達矢が断る理由は何もないはずなのに、なぜ――――。 「でもお前、俺が行ったら五人なんて半端な人数に」 『そりゃあお前が心配することじゃないよ。吉野の弟がな、今年水郷に入ってきてさ。俺の後輩なんだよ、男バスの。そいつが行くらしいからさ、ほらちょうど三対三だ』 最後の砦とも言うべきものを打ち砕かれ、達矢は溜息をついた。 いくらイヤだイヤだと言っても、最終的には創一に引っ張られて遊園地へ向かうことになるの。ならば……ここいらで陥落するのもいいだろう。 「わかったよ……行けばいいんだろ」 その代わり電車賃は宇野に出させる。 そう考えた達矢を翌朝待っていたのは、創一・理帆経由で話が伝わったらしい小百合と聖の爆発的な歓声だった。 |
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