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【04】 - in spring -


 六月三十日、四時間目、数学。
 そろそろ気温も湿度も高くなってきた頃で、達矢の座る窓際の席は高くあがった陽に照らされて暑いくらいだった。カーテンを閉め、一応冷房も入ってはいるのだが、遮断しきれない熱が伝わってくる。
 冬の窓際というのは、ぽかぽかとした陽射しが眠気を誘う当たり席なのだが、夏はきわめて人気がない。教室の真ん中あたりにふたつあるエアコンからも遠いからだろう。
 達矢は少しくらいの暑さならば耐えられる――むしろ、寒いほうがつらい――ため、いつもの憎たらしいくらいに涼しげな表情で数学教師の猛攻を受け流していたが、隣で申し訳程度にノートと教科書を広げる小百合は両手を頬に添えてうつむき加減に肘を立てている。少し視線をずらせば、その両目が閉じられているのがわかる。寝ているのだ。
 もちろん少しくらい居眠りしたところで小百合の成績が落ちるものではないとわかっている。聖や理帆いわく、小百合は母や姉の影響で予習復習はきっちりとやるという習慣が身についているので、授業には楽々とついていけるし、もともと素質があるところへそれを怠らないものだから他の生徒のようにテスト前にがむしゃらに勉強しなくともいいのだそうだ。
 けれどもクラスメイトたちの心証と教師受けを考えるならば、堂々と授業中に眠るのはやめたほうがいいと思う。小百合はそのぽやんとした雰囲気で、信頼とはまた別の好意を寄せられることが多いが、それでも自分たちがあくせくと勉強している横で安らかな寝息を立てられるのはいい気持ちのするものではないだろう。理帆や創一、聖なども、朝からクラブがあったためによく一時間目は起きていられるものではないとぼやいているが、小百合はクラブ活動はしていないはずだ。
「……じゃあ青江君から番号順に問七の一から問八の三……宇野さんまで出てきて板書して」
 新任の数学教師はまだ大学を出たばかりということで、若々しい声をクラス中に響き渡らせた。彼女は達矢たちの担任である宮森の最初の教え子だったのだという。水郷には、大学部で教師をめざす生徒たちが教育実習で中等部、高等部に来ることや、母校に就職する――生徒間で『出戻り』と呼ばれている――ことがよくあるので、こういった教師の中での師弟関係が多発するのだ。
 達矢の周りで、当てられた生徒たちがわらわらと立ち上がった。彼自身も、ノートを手にしてその後に続……こうとしたのだが。
 同じく当たっているはずの小百合は、うつむいた姿勢で寝たままだった。
(こいつなら問題見ただけで即解けるんだろうけど……)
 とりあえず、肩を揺すってみる。
「宇野、起きろ宇野、当たってるぞ」
 教師に見つからないよう小声で囁く。目を閉じると、いつものあどけない表情が急に大人びて見える。
「宇野っ」
 肩を叩いても起きないので、達矢は仕方なく――あくまでも仕方なく、である――夏のセーラー服の袖からのびる腕を払った。
 次の瞬間、がくんと小百合の上半身が崩れた。ゆっくりと頭が持ち上がり、ぼんやりとした瞳であたりを見回す。
「……?」
「宇野、当たってるぞ」
「うそうそ、どこ?」
 小百合は目を見開いて達矢に問い掛けた。面白い奴だと内心思いながら教科書を指さす。
「ここの三番。やってあるだろ」
「うん、いちおやってるけど……」
 ノートを覗き込むと、わりあいに複雑な問題のはずが数行の式であっさりと済まされて並んでいた。達矢にはその思考過程がよく理解できたし、テストで評価されないということもないだろうが、教師が模範解答として示すものとはほど遠い。
 ただ、小百合が前に出て問題を解くのも何回か見てきたので、黒板に板書するときはきちんと式のほかの部分も補完することがわかっていた。
 達矢の見ている前で、小百合はふらりふらりとした足取りで前に向かう。その後ろを歩きながら、達矢は思う。
 どうも、小百合にはぼんやりとして頼りないところがある。けれども類は友を呼ぶというのだろうか、変に成績などにこだわらず、自分の本当にやりたいことを削ってまで勉強はしないというマイペースなところが、小百合とは反対にしっかりしている聖や理帆にも共通するところだったので――と、自分のことは棚に上げて考える――、それが一部の人々の反感を買ってはいるようだ。
 小百合がやや丸っこい、けれども丁寧な字で達矢の横に式を綴っていく。軽く笑みを浮かべた唇がかすかに動いていた。――何か歌っているような感じだ。
 数学の授業中とは思えない楽しげな態度に、達矢は内心で吹き出した。ここでそれを表に出さないところが、達矢が寡黙で近寄りがたいとされる原因なのだが、もともと内心の感動が顔面の筋肉と直結しないタイプなのだ。
 小百合に出会ってから、いろいろとペースを乱されてどうも困る。
 けれども、それは決して不快なものではなかったのだ。


 最近では、小百合は聖と理帆のほかに達矢と創一をまじえた五人で昼食を摂るのがすっかり恒例と化していた。理帆と創一は大抵弁当の半分を休み時間のうちに食べてしまうので――朝校門が開いてから始業までが長いので、クラブでは昼よりも朝の個人練習が盛んである――、連れ立って購買へ買出しに行ってから食事にするのだが、小百合も聖も体格のわりにはよく食べる。もしかしたら育ち盛りの少年である達矢と同じくらいの量があるのではなかろうかという弁当を持参しているのだ。
「さゆ、さっきすっごい寝てたでしょ」
「うん。ひーちゃんわかった?」
「丸分かり。多分センセイも知ってたと思うけど……当てられたの解けたから、とりあえず許してくれたんじゃないの?」
「む……やっばいなー、テスト近いのに」
「そういえば明日から一週間前だもんね。理帆なんかは個人練するみたいだけど。でもあんたはいまさらじたばたするような子じゃないでしょ?」
「別にじたばたしてるわけじゃなくて、やっぱ良心の呵責がというかなんというか」
 箸を加えて眉を寄せる。小百合には食事中に箸を噛む癖があった。何度も何度も母や姉に叱られているが、どうしても治らないのだ。父にも若い頃同じ癖があったらしく、妙なところが遺伝したと溜息をつかれた。
「ちゃんと毎日寝てはいるんだけど、どうしても眠くなっちゃうんだよね」
 小百合は苦笑し、黙々と昼食を摂る達矢に向き直った。
「そういえば大滝君、起こしてくれてありがと。助かったよー」
「普通起こすだろ、当たってんだから」
「ん、でもね。大滝君が起こしてくれなかったら絶対気づかなかったし」
 うんうんとうなずく小百合に、達矢がいかにもふと気になったと言いたげに問い掛けた。
「宇野、板書してたとき何か歌ってなかったか?」
「歌……? ああうん、歌ってたよ」
 小百合には思いっきり心当たりがあった。
「あれ、日本語でも英語でもなかったように思うんだけど……」
 小百合は達矢の言葉に、にっこりと笑って指を立てた。
「ご名答! あれは実はドイツ語でーす」
「……ドイツ、語……?」
「うん。べつにさゆがドイツ語話せるとかそういうわけじゃなくって。話せば長いことながら、うち父親がクリスチャンなの。それで、お姉ちゃんがまだちっちゃい頃に洗礼受けさせちゃってね……お母さん、ものすごい恋愛結婚でお姉ちゃんよりさゆよりお父さんのほうが大切なはずなんだけど、そういう、人の意思を無視した行動とるとすっごく怒る人だから、日本は宗教的にごった煮状態なんだからその中で本人が適切な判断力を身につけるまで宗教には浸けるなってお父さんを怒鳴りつけちゃったらしいよ。さゆはその頃まだ生まれてなかったけど。まあ、お姉ちゃんは小さい頃からお父さんと一緒に教会に通ってて、少なくともさゆとかお母さんとかよりもよっぽどなんていうの……信仰心が篤いから、よかったんだけど」
 それとドイツ語と、どう関係があるのかわからないとでも言いたいのか、達矢は眉根を寄せた。
「それでね、さゆが今の家に引越してきたのは八つのときで、お母さんにも貯金があったから今ではローンも残ってないんだけど、お母さん、引越しのときおばあちゃんに借金して一室防音にして、グランドピアノを入れたのね? あ、ちなみにこれももう全額おばあちゃんに返したんだけど。――お母さん、昔からピアノが趣味で、ピアノの先生になるつもりがどっかで間違えて就職しちゃった人なんだけど、お姉ちゃんがまったくピアノに興味を示さなかったからさゆに教えてたの。で、さゆもまあピアノ弾くのは嫌いじゃないし、ずーっと習ってたのね。それでここからが本題なんだけど、うちの近くに教会があって、そこお父さんとお姉ちゃんが日曜日に通ってるとこなんだけど、幼稚園児とか小学生とかのクラスがあるの。そこの子供とちょっと遊んだり、子供の礼拝に出たりしてから、大人の礼拝で奏楽させてもらってて。で、今度弾く賛美歌がもともとドイツのだから、ついつい原語で歌っちゃったの」
 最初に言ったとおりに長引いてしまった説明に、達矢がふうっと溜息をついた。
「お前、もう少し簡潔にものごとを説明できるようになれよ」
「はあい」
 小百合は肩をすくめて食事に戻る。作文などのできは決して悪くないのだが、話し言葉に間延びした印象があるためどうしても口で説明しようとすると長くなってしまうのだ。
 黙って立っていればいいのにとよく言われる。口調がひどく子供っぽくて、頭のできとのギャップに苛つくと言われたこともある。
 けれどももうずっとこれで通してきたのだから、いまさら変えろと言われてもそれは無理だ。周りの都合で、自分を形成する確かな要素を変えたくもない。これが一番楽だったし、口調だけで中身まで判断する人間には誤解させておけばいいと思っていた。
「適当に聞き流せばいいでしょ、さゆの話はキーワードで理解するんだから」
 黙って食事を続けていた聖が、涼しげな顔で達矢に向かって呟いた。
 小学生の頃から友人だったという達矢と創一ほどではないが、長い付き合いだ。ともに過ごしてきた時間のわりには密度の濃い関係を築いていることを自覚している。
 自分を丸ごと受け入れて、人との距離のとり方を教えてくれて、甘えさせたり叱ったり頼ったり頼らせたり、気持ちのいい付き合いができている。それはすべて聖や理帆の力で、ふたりは小百合の目線に立ってものごとを進めてくれているだけなのだ。自分は自分のままでいて、ふたりに負担を強いて。
 こんな関係は情けなかったし、これでいいのかと悩むこともしょっちゅうだ。理帆も聖も、小百合の前ではどうしても保護者の立場に回ってしまって、本来あるべき姿をさらしきれていない気がする。
 それはただ小百合のわがままに過ぎなくて、受け止めきれるわけのない尊いものに焦がれる気持ちはまだ分不相応なものなのだが、それでも求めてしまうことは止められなかった。
「それが気に入らないなら、大滝がどっか行けばいいでしょ? さゆは確かにぽややんだけど、本質までそうだと思ってたら大間違いなんだから」
 整った横顔をこっそりとうかがった。今の台詞には、前半にも後半にも突っ込みどころが満載だ。小百合の席、ということはその隣は達矢の席で、彼はそこに座っているのだし、小百合の本質が天然ではないというのも彼女自身が首をかしげてしまう。
「――ひーちゃんはあいかわらずきっついねえ」
 椅子に座っている小百合と聖のはるか上から、笑い混じりの言葉が降ってきた。
 理帆が購買のサンドイッチとパックのオレンジジュースを持って、聖の頭に腕を乗せている。日に焼けた腕をぺちぺちとはたき、聖は言った。
「そんなにきつい? 誰だって心の中では思ってることじゃないの?」
「……まあ、それを口に出すところが聖なんだけどね」
 自分たちは慣れているからいいのだが、他の人間に聞かせると誤解を招くことがある。三人の中で一番付き合いが広く、自分の行動が周りにもたらす結果をきちんと計算して動いているのは理帆だろう。小百合も聖も、それぞれ違った意味で他人の心情には無頓着だ。
「しょうがないでしょ、うちではそうしないと生き残れないんだから」
 たとえば目線で訴えるとか、なにげない所作で感情を伝えるとか、そんな甘ったれたことはできない家庭なのだという。両親ともに強引で放任で、けれども娘を容赦なく振り回すとんでもなくタフな性格(と常人離れした美貌)を持っていると聞いたし、実際その現場を見たこともある。
「そりゃ知ってるけどさ」
 理帆は軽く頭を振り、聖の隣に引っ張ってきていた椅子に腰をおろした。
「だったらいいじゃない、今までずっとそうしてきたんだし」
 聖は嫣然と微笑んで水筒から冷えた紅茶を注いだ。適度に伸ばされた爪のかたちが美しく、さらに指を長く見せている。
 指が短いわけではないがピアノを弾くために爪は短く、丸く切り揃えられている。なんとなく短く見える自分の手を、小百合はじっと見つめたのだった。


 水郷学院のほとんどの生徒にとって気の重い期末テストは、刻一刻と近づいてきていた。それが終われば夏休みとはいえ、それまでに強いられる苦労を考えると気が滅入るという生徒も多い。
 けれども彼女たちにとってそれは一種のイベントを伴った、単なる恒例行事にすぎなかった。
「……おかあさん? 昨日帰ってこなかったから言わなかったんだけど、今日はさゆの家に泊まってくから……知らないよ、おとうさんのご飯なんて。だいたい非常識じゃないそんなの……」
 やや顔をしかめて聖が母親に電話をしていた。コンビニの隅で理帆が開けたボックスから流れてくる冷気を受けながらなにやら揉めているようだ。
「――ごめん理帆、終わった」
 通話を切り、聖はペットボトルの紅茶を取り出した。
「母親がさ、昨日帰ってこなかったんだよね。それでさ、今電話してみたら夕方の便で大阪に出張だっていうから。父親のご飯はどうするって言われたんだけど、そんなことあたしに言われても知るわけないよね」
 理帆が同じくペットボトルの、レモンティを掴んで外へ出す。テスト前に小百合の家へ泊りがけで勉強しに行くときには、ペットボトルを買って持っていくのが恒例だった。――いや、儀式と言ったほうがいいだろうか。聖はストレート、理帆がレモン、そして自宅で待つ小百合は冷蔵庫の中にミルクティを用意している。同じ銘柄の三本並んだ紅茶は、締め切られ冷房のかかった小百合の部屋の雰囲気を象徴するものだった。
「うちは明兄が友達連れてくるらしくて、喜んで追い出されたよ」
「彼女じゃなくて?」
「いるのかなあいつ。見たことも聞いたこともないけど」
「そう? でも、そこそこ格好いいお兄さんじゃない?」
「性格を抜きにすればね。だいたい、バスケしてる姿にだまされてふらふらっと寄ってくるんだけど」
 理帆には大学生の兄明陸《あきさと》と、中一になった弟の空晴《あきはる》がいる。三人の中で一番名前が無難だと理帆は喜んでいたが、聖はその名前が好きだった。
 兄は百八十超、弟も中一ながら百七十近い長身を誇り、理帆のそれがまぎれもない遺伝であることを示していた。
「でもまあ、聖にそう言われるんだから外見だけはいいんだろうね」
「理帆のところって、ほんと兄弟よく似てるよね弟君も、将来が楽しみじゃない? あたしの好みじゃあないけど」
「うちの奴らじゃ聖にはつりあわないって」
 レジでふたり分の会計をし、理帆が聖から小銭を受け取る。涼しい店内から燦々とした太陽に照らされた外へ出ると、七月の熱気がふたりに押し寄せた。
 瞬間、理帆のスポーツバッグの中から携帯の鳴る音がした。軽快な音楽は普段理帆が好んで聴く洋楽のアルバムの一曲だった。
「あ……メールだわ」
「あとでいいの?」
「うん、別にそんな重大なのじゃ……」
 手元のディスプレイに目を落とす。もう数え切れないくらいにメールのやりとりをした人から来た一週間ぶりのメール。それはおそらく、美しく楽しい夏になるであろうこれからの理帆の季節を憂鬱にするもの。
 けれども着信の事実だけで心が弾む、どうしようもない感情が湧きあがるそんなメールだった。
「……理帆、メールいいなら行こうよ。こんなとこで突っ立っててもしかたないでしょ」
「そうだね」
 敏い友人はきっと、理帆の変調に気づいている。何も言わないのは無関心を装った彼女の優しさで、理帆はそれをむだにしてはならないのだ。
「いちいち落ち込んでられないもんね」
 駅からはそう近くもない小百合の家。見慣れた住宅街をすり抜けて、そろそろ灰色がかってきた壁の二階立ての門にかかる宇野の表札。
 駐車場にはダークブルーの国産車、そして自転車が三台置いてある。一番傷の多いのが小百合のものだ。
 インターフォンを押すと、応《いら》えはなかったがぱたぱたと軽い足音が聞こえた。窓から理帆と聖の姿を確認した小百合がドアを開ける。
「早かったね、ふたりとも。今おかあさんいないんだけど、上がって」
「茜ちゃんは?」
「お姉ちゃんは部屋にいるよ。受験生だしね」
 にこりと笑った小百合に、理帆も笑顔を返した。小百合といると、やっかいなことなど忘れてほっと一息つける。
「それじゃあさゆ、今回もお願いします」
 一夜の勉強会は、もちろんいつでも小百合がリードするものだ。

 


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