NEXT GAME - きみには負けない -



【03】 - in spring -


 駐輪場にはそう多くの自転車は止まっていない。もっと二十三区を外れたほうにある学校の中には駅からとんでもない距離があるところもあり、駅前の駐輪場と契約して六年間自転車をそこへ置いておく人間もいると聞いたことがあったが、水郷学院は都心を走る大通りと垂直にまじわって郊外へのびる三坂通りに平行して走る私鉄の、特急電車が止まる赤瀬駅が近いため、ほとんどの生徒がそこを利用していた。
 小百合のように、中学受験をして、地元の学校に行かずに選んだ中学校が自転車で通学できるほど近くにあるケースは稀だった。聖だって電車を二本乗り継いで赤瀬駅まで来ているのだし、理帆も三十分以上電車に揺られていると聞いた。他の生徒たちも、だいたいそんなものだ。
 都心から郊外へ向かう方向の電車なため、朝は空いているのが救いだという。
 利用者が極端に少ないことから、駐輪場は正門とは反対側、職員玄関のほうに位置しており、生徒用玄関へ行くにはやや遠回りなのが難点だった。
 始業式の感動的な遅刻翌日に進級祝いと称してふたつめの目覚し時計を買い与えられた小百合は、四月の十九日、寝起きは最悪ながらも人並みな時間に目を覚まし、始業時間に十分な余裕を持って登校していた。校門をくぐる生徒の数が一番多い時間帯である。
 靴箱に向かう人の流れの中にひときわ目立つ長身を認め、小百合は小走りにその姿に向かっていった。
「――りっちゃんおはよう、朝練は?」
「今日は休み。通常授業じゃないでしょ」
「そっか、身体測定かあ。……楽しみだね、りっちゃんいくつになっただろ」
 小百合はずいぶんと高い位置にある、キレイというよりも凛々しいとすらいえる理帆の顔を見上げ、黒い目を輝かせて呟いた。
 昨年の身体測定で百七十に少しばかり届かなかった長身は、その成長の度合いが衰えることなくすくすくと育って今にいたる。今年こそ百七十の大台を突破しているだろうと思うと、期待に胸が弾んだ。同学年では、男子の中にも理帆より背の高い者は少ないし、女子にいたってはダントツで理帆がいちばんの長身である。
 鋭角的な頬のラインと程よく日焼けした肌はお世辞にも少女らしいとは言えなかったが、吉野理帆が人目を惹く見目をしているというのは誰にも否定できない事実だった。
「まあ、伸びた分がムダになるわけでもないし、どんどん行ってくださいって感じだけど――来年はもうそんなに伸びないだろうね。これからは、どんどん男子に追い抜かれてくよ」
「あ、そっか……イヤだなー、なんか悔しい」
「あんたが悔しがる必要なんてないでしょうに」
 理帆は苦笑しながら小百合の手をぎゅっと握った。毎日毎日ボールを扱って少し固くなった手のひらが、小百合の細く器用な指先の熱を奪い取って陶然とする。小百合が理帆や聖と肉体的なコミュニケーションをとりたがる傾向にあるのはいつものことだが、小百合の暖かい身体に触れてもっとも安らぎを得るのは小百合ではなく彼女たちのほうであるかもしれなかった。


「ひーちゃん身長いくつだった?」
「百五十九……なんだけど、あたしは小学生のとき伸びなかったから、まだいけると思う。さゆは?」
「五十六。でもどうせひーちゃんのほうが軽いんだもんね、不公平だよ」
 その長身に見合ったしなやかな筋肉をつけた理帆と違い、聖は正真正銘華奢という言葉の似合う人間だった。演劇部もそれなりに鍛えてはいるらしいが、体質として筋力のつきにくい身体をしているのだ。
 当然ながら体重も小百合より軽く、足も細く(おまけに小百合と身長はそう違わないのに彼女よりもずっと長い)、理帆とは違った意味で中学生には見えない。小百合はふたりを見ると、どうも自分だけがガキのような気がしてしまっておもしろくない。水郷学院のテストを楽々潜り抜けていけるだけの頭脳を授かっておいてそれはさすがに欲張りすぎかとも思うのだが、小学生の頃など頭は良いくせに無邪気を装っているところがかわいげがないなどと中傷されていたのだからいいことなどなかった。小百合の場合、無邪気を装っている、ではなく単に天然なだけなのだから、それはまったく根拠のない、というか見る目のない子供たちの陰口であった。
 主にやたらと力を誇示したがった男子の口から出ていた数々の言葉は、小百合がおぼろげながら感じていた性差別の存在を裏付けているようで不愉快だった。要するに、女のくせにどうしてお前は俺より頭のできがいいんだ、という、ぶつけられる本人にしてみれば言いがかりもはなはだしい嫉妬である。
――お母さんとお父さんが結婚するときにね、お腹の中に茜がいたのよ。でも会社の雰囲気的に産休育休でずっと休んでたら辞めさせられそうだったの……ひどいとこでしょ。お母さん仕事したかったからそれをお父さんに言ったら、茜は自分が育てるから君は産休だけ取りなさいってそう言ってくれてね、とりあえず産休とって茜を産んだわけ。で、茜はお父さんに任せてさあ仕事に戻りましょうってときにね、上司が言ったのよ。子供を育てるのは君の役目だろう、どうして宇野君が休むんだ、ってね。もう二十年近く前の話でさ、男が育休とるのなんて珍しかったわけ。でもそんなのどうだっていいじゃない、お母さんは働きたかった、お父さんは家事ができた。だからあたしが働く。それでいいでしょ? なのにその上司がそのことねちねち言ってきたから、とうとうお母さんキレて退職したの。――
 小百合が幼い頃に布団の中で母親から聞かされた話といえば、桃太郎でも白雪姫でもなく、母が父と社内恋愛の末に結婚したときのエピソードだった。
 女性軽視の風潮を簡潔に体現したそのできごとに今でも不満が残るらしい母は、小百合が零す数々の泣き言をやりすぎなくらい親身になって聞き、慰めてくれたものだが、娘のほうはといえば母親ほどの気概を持てず、一晩寝れば自分が何に憤っていたのか忘れているようなありさまで、その気楽さがかえって母に申し訳なく思えたくらいだった。
「……ひーちゃんはいいよね、キレイでさ」
 小百合が漏らした言葉に、聖が首をかしげた。
「なんなの、急に」
「だって、ひーちゃんなら玉の輿も狙えるでしょ?」
 勉強ができたって社会に出てうまくやっていけるわけでもなし、ただ一部を除いた回りの反感を買うだけである。さすがに水郷にそんな幼稚なことをする人間はいなかったが、それでもテスト前でもまったく緊張感のない、呆れるくらいに奔放な小百合の態度にいらついている者がいるのも確かで、学校は小百合にとって完璧に居心地のよいところではなかった。
 一方聖はといえば、全人類の半分を占める種類の人間の好意を得られることが確定しているような美しい容姿と、残りの半分の嫉妬など笑って受け流せるくらいの自信を持っている。
 それは聖が鈍感で小百合が繊細と言っているわけではなく――むしろ、その逆のほうが正しい――、小百合はどうしても勉強しかできない、頭でっかちの自分に少しの不満を持ってしまうだけなのだ。その弱さは完全に小百合の内部の問題であり、聖を羨む暇があるならそのコンプレックスをどうにかするよう努力するべきであった。
 小百合が今までの不精から心機一転してクラス委員などというものを引き受けたのも、どうにか背を伸ばそうと(せめて百六十は欲しいところだ)毎日せっせと『寝る子は育つ』を実践しているのも、その思いが根底にあってのものだった。
「別に狙いたいわけじゃないけど……」
「うん、わかってる」
 困惑気味の聖を見返し、小百合は小さくうなずいた。眼科や耳鼻科などの検診の前に昼食を摂ろうと、教室に戻る。一日かけて全校いっせいに実施される検診のせいで、廊下には中学生から高校生まで水郷の生徒で溢れていた。
 ふたりの後ろからは理帆と、聖が強引に引っ張ってきた達矢と創一の姿とがあった。小百合も聖も理帆も、形は違えど自分の決めたことは最後まで貫き通す意志が強い人物で、人当たりの良い創一と愛想のない達矢では彼女たちの猛攻を耐え切ることは難しい。
 もともと創一と理帆とは男女の差はあれど同じバスケットボール部に所属していて、それなりに交流もあった。今までは創一を引っ張ればもれなく達矢がついてくる、などということはなかったのだが、今年は違う。五人が五人とも、同じクラスになったのだ。
 目立たないわけでも閉鎖的でもない彼女たちは、しかし目立ちすぎるがゆえに周りとさほどの交流がなかった。多数で群れるのは鬱陶しいと考えるマイペース型の人間ばかり集まってしまった集団なのだが、その個性はうまくかみあって滑らかな回転を続けている。口数の少ない達矢だって、本当に気に入らなければかしましい少女たちと馴れ合って身体測定や検診などに同行しているわけがないのだ。たとえ創一が理帆や聖への気遣いから彼女たちと離れなかったとしても、彼女たちと一緒にいるのが嫌ならば達矢は単独行動をとる。それは決して自分勝手なのではなく、達矢と創一の関係がそれくらいで壊れることがないからこそできるわがままだ。
 理帆が同学年には珍しく、彼女と同じ目線で会話のできる人間である桜井創一を振り返り、いたずらっぽい口調で尋ねる。
「桜井、百七十まで行った?」
「お前は?」
 ふたりとも、かなり体格がいい。理帆はあくまでも女性らしさをそこなわない程度に力強い、敏捷さを備えたしなやかな肢体で身軽に進み、隣に立つ創一は好もしく思える武骨さを人懐こい、愛嬌のある表情で覆ってさらに親しみやすさをかもし出している。友人も多いのだが、普段彼が行動をともにするのは大滝達矢ひとりだけだ。いわく、あいつに付き合ってやれるのは俺だけだから、とのことだが、はたから見てもふたりのコンビネーションは抜群で、達矢という人間ひとりを受け止めてやれる創一の度量というのはこんなにも大きいものなのかと再確認する。
「百七十……と、八ミリ。もうここらで限界かなって思うんだけど」
「――まだおっつかねえか」
「あれ、そうなの。よかったあ……でも、百七十は越えたんでしょ」
「おかげさまでな。俺はまだまだイケるかな」
「まあ、しょうがないんだけどね」
 近頃は百六十くらいなら軽々と越えるのがあたりまえになってきたとはいえ、理帆ほどの長身を持つ者はほとんどいない。これからも細々と伸び続けるとは思うが、理帆が創一に見下ろされるようになる日が来るのも近いだろう。
 それは苦笑、というには少し揺らいだ声音だった。けれども理帆の表情はみじんもそれを感じさせず、いつもどおり泰然として歩いている。
 よほど注意深く観察していないとわからないであろう、わずかな震え。それは聖や小百合にしかわからないような小さなものだったが、まぎれもなく理帆の『弱点』だった。
 そしてその瞬間、小百合は達矢と同じクラスになって以来抱えていた、すっかり浄化したはずの悩みを再び昇華させた。
 外から見れば凛と立っているように見える理帆もまた、もどかしさと歯がゆさとを抱えているということを悟ったから。


 そもそも自分をこんな面倒くさい対人関係のさなかに引きずり込んだのは、唯一側に置いても気に障ることのない人間だったはずの創一だった。そのことで創一への直接の評価が削られるわけではないにしても、極端な言い方をしてしまえば達矢の逆鱗を避けるのがとんでもなく巧い男が今回に限ってこんなやかましい少女たちにくっついている。達矢としては、創一がどうしても三人を振り払えないというなら親友と距離をとってもかまわなかったのだが、それこそが狙いだとでもいうふうに創一は彼を掴んで離さない。
 それとも、と達矢は思う。それとも、自分は無意識のうちに彼女たちの存在を許容しているのだろうかと。達矢の無表情と沈黙とに怯まず、立ち去ろうとしない豪胆な三人を認めているのか、と。
 達矢が興味を示せない事柄や人物に対して冷淡な態度をとるのは、もうほとんどやめられない癖なのだが、それは人間嫌いでもすべてに無頓着なのではなく、単にそれだけの価値がないものに余計な労力を割くのが惜しい、つまるところ面倒だからだ。望まない会話や付き合いで潰すには時間は貴重すぎ、それによって溜まる疲労は大きすぎる。ならばしたくないことはしなければいいのだと、悟るのにそう長い時間は必要なかった。周りから見ればたいそうかわいげのない子供だろうが、消極的ではないにしろ社交的とはほど遠い達矢にとってそれは自然で、かつ必要な措置だったのだ。
 理解されがたいだけで他人と何も変わらないひとつの人格。今までそれを受け入れてくれたのは家族と創一だけだったが、もしかしたらふたつ寄せた机を囲んで昼食をともにする三人の少女たちもそうなのかもしれない、と考えた。
 三人は皆、自分とはかけはなれたものでも懐に抱き込み、それを受け入れる寛容さを持っている。自らの聖域《サンクチュアリ》が侵されない限り、彼女たちは等しく目の前の存在を見つめ、その領域《テリトリー》の中で自由を与えることができる。
 偏狭さとは無縁の、清冽なトライアングルはなるほど、確かに見ていて気持ちの良いものではあった。水郷の中でも稀有な素質だと思う。朱に交わればというか、類は友をというべきか。自分や創一が三人に『似た者』だと考えるほどにはまだ三人のことを知らないが、まあ彼女たちとなら馴れ合いもいいのではないだろうか。
「大滝って、きょうだいいるの?」
 達矢よりも少し背の高い吉野理帆が、二段重ねの弁当箱を制覇しながら達矢に尋ねた。持参の弁当のほかにも、購買で売っているパンを隣に置いている。体格に似合った健啖家だ。運動部員だということも関係しているのだろうか、もしかしたら達矢よりも食べるのではないだろうか。
「大学生の姉がひとり」
 簡潔に答え、教室へ戻る途中で買った購買のパンに視線を落とした。そういえば理帆とは同じクラスだったこともあるが、家族構成まで把握しているほど親しい付き合いではなかった。
 そ知らぬ顔で弁当をたいらげていく小百合をじとりとにらみつけた。創一も悪いがこのボケボケ女も悪い。達矢のファーストネームも知らなかったくせに、竜神様だのなんだのとうるさい、それでも頭だけは良いはずの少女。彼女が達矢に興味を示したから、もれなく理帆や聖といった学年内でも目立つふたりがくっついてきたのだ。
 その存在を徐々に受け入れはじめている自分も、一方で自覚してはいるのだが。
「さゆにもいるよ、お姉ちゃん」
「茜ちゃんっていうの、高三なんだけど。さゆにすっごく似てるよ」
「外見がね」
 聖の言葉に理帆が加えた注釈に、小百合がこっくりとうなずいた。
「双子みたいなの、お父さん似なんでしょ?」
「でも性格はもっとしっかりしててね、そう……茜ちゃんの性格はお母さんにそっくりなんだよね」
「そうなのー、でもそうしたら、さゆは誰に似たのかわかんないんだよね。おとうさんだって、ボケてるわけじゃないし」
 いきなり家族ネタに走られ、達矢と創一は顔を見合わせた。はっきりいって、小百合の家族に興味はない。どういう家庭で育てば小百合のように頭はやたらと良いくせに社会の一員として欠陥のある人間になるのか、ということにはいささか好奇心が芽生えていたりもするのだが――父も母も姉もしっかり者らしいその家庭で、なぜ小百合だけがこんなにふにゃりとしているのかは大いなる謎である――、とりあえず彼らには話の半ばは理解できない。
「そうだよね、さゆってあの家族の中でひとりだけ浮いてるし」
「なんていうの――みにくいアヒルの子?」
「でも、あのアヒルって結局は白鳥だったんでしょ」
 さゆはアヒルじゃないだのなんだの、と騒ぎ出す三人を見つめ、黙々と食事に戻る。
 騒ぎどころを心得ているのが、三人が単にやかましいだけの女と一線を画しているゆえんだ。見る者の目を楽しませる容貌もさることながら、それを内面の醜さや未熟さでそこなうことがない。生まれ持った資質におぼれないその態度は、誰の目から見ても好ましいものであるに違いなかった。
 つまり、自分は彼女たちを受け入れているし、彼女たちのほうでも大滝達矢という人間を認めているのだ。
 それならば、ことさらに三人を拒絶してみせる必要はない。
 彼はただ戸惑っていただけだ。数年前に創一が突き破って以来誰も越えることのなかった無意識の壁を、軽々と乗り越えてきた少女たちに。そして、彼がそう思える人間は貴重で、なおかつ深い友好関係が期待できる者たちのはずだった。
 そう考え、達矢はこれもいいかと朝小百合たちが彼とその親友を誘いにきてから今にいたるまでのできごとを丁寧になぞりはじめた。
 考えてみれば、彼はただ困惑しているだけであって、彼女たちの行動によって不快感をもったことなどないのだ。
 そんな、『クラスメイトから親しい友人』までのプロセスを義務教育中の子供《ガキ》にしては珍しいほどの理屈っぽさで辿った達矢は、うっすらと微笑んだ。
……けれども。
「でもでもっ、アヒルってすっごくかわいいんだよ、小学校で飼っててね、歩き方が! 小さい頃はお姉ちゃんとお風呂入るときおそろいのアヒルの水鉄砲とか……」
「小学校で飼ってるっていったらウサギでしょうが! ときどきカラスに襲われたりして」
「ちょっとうちなんにも飼ってなかったんだけど。金魚とかカブトムシとか以外は」
 いつのまにやら小学校で飼っていたペットの話題へと移っていた会話に夢中になっていた少女たちにその微笑が目撃されることはなかったのだった。

 


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