NEXT GAME - きみには負けない -



【02】 - in spring -


 宮森がHRを再開しても、教室は完全に静まるというわけにはいかなかった。もう子どもではないのだからといっても、やはり新しい学年が始まれば気持ちが引き締まると同時に浮かれ出すし、そう大人しく話など聞いていられるものではない。
 小百合と達矢の周りでも、クラスメイトたちの騒々しい声が行き交っていたが、そんな中だからこそふたりの無言はひときわ目立っていた。
(なんかこのひと、愛想悪いなあ……)
 小百合は特に寡黙で思慮深い性格をしているというわけではなく、どちらかというと普段は饒舌でうるさいくらいの少女だったが、隣で黙りこくっている大滝達矢のような人間――しかも初対面の――を前にしていつものハイテンションを発揮できるわけがなかった。
 愛想が悪いも何も、教師が前に立って話を始めている以上、達矢の反応こそが学徒が示すべき当然のものだったのだが、これはどんなに教師が注意を呼びかけたところでおさまるはずもない興奮だ。
 教師のほうでも、ここの生徒たちが本当に大切な話は聞き逃さない賢さを持っていると知っているため、なかば諦めた形で放置している。
 宮森は苦笑すると本格的な授業開始までの予定表を配り、それから向き直って告げた。
「ところで、そこに書いてある諸々の決定事項のために、まずクラス委員を決めたいんだが」
 宮森の言葉に、生徒たちの間から盛大な溜息が漏れた。恒例行事と呼べないこともないそれは、特に中三ともなっては班会議、遠足、教師との連絡、はては文化祭クラス参加イベントの責任者という厄介ごとまで引き受けなければならないため、他の委員会と比べても飛びぬけて生徒たちに人気がない。
 せめて教師の連絡役や文化祭責任者はクラス委員の責務からすればいいのにと小百合は思うのだが、あくまでも思うだけであった。中一のときも中二のときも、小百合のような成績はよくとも面倒くさがりな人間がぼーっとなりゆきを眺めているだけで、奉仕精神旺盛な誰かが引き受けてくれていたからだ。
 小百合は、今年もすっかり傍観者を決め込んでいた。
「……ねえ大滝君」
 隣で教師の話に耳を傾ける達矢に、小百合は小首をかしげて問い掛けた。
「なんだよ」
「大滝君、クラス委員やらないの?」
 まったく他意のない言葉に、しかし達矢はむっと小百合を睨みつける。
「やるわけないだろ、そんな面倒なの」
「ふうん、もったいない」
「おいおい、じゃあお前はやるのか?」
「ううん、さゆには向いてないもん」
 ほんわりと微笑んであっさりと首を振る。
「だったら人のこと言ってんじゃねえよ」
「うん、そうだね。……大滝君って、下の名前なんていうの」
 やけに無愛想な態度にもめげずに次の質問を繰り出すと、達矢は信じられないといった驚きの表情を浮かべ、こづくりな幼い顔を見返した。
 それはそうだろう、この二年間、大滝達矢という名前は貼り出される成績表において常に宇野小百合のすぐ上かすぐ下にあったのだから。
「さゆはね、宇宙の野原の小さな百合って書くの」
「知ってるよ」
「え、ほんとー?」
 小百合がやったやったといって喜んでいると、達矢が呆れたように呟く。
「宇野のこと知らない奴なんて学年にいるかよ」
「ありがと。大滝君もそうだよね、さゆはよく知らなかったけど。で、下の名前なんて言うの? ……ちょっと待ってね、今思い出すから」
 初めてその名前を見たときに、何かを連想した気がするのだ。
 小百合は顎の下に指を押し付けてううんと唸ったが、その正体を掴むには時間がかかりそうだった。
「宇野、何やってるんだ?」
「あのね、やっぱり思い出せないの。教えてもらえる?」
 もやもやとした記憶を辿っていると、声をかけられた。小百合が達矢のことを最初に意識したのは水郷に入って最初の定期試験の結果発表だったから、あのとき感じた何かのイメージはもう二年近くの年月を経て風化してしまっているのだ。
 そんな小百合を見て、達矢はふうと息を吐き出しながら言った。
「達矢……大滝達矢、だよ」
「――――ああ、そうだった」
 ぱちんと何かがはじけるような、記憶を仕舞い込んでしまっていた黒い膜を突き破ったような……そんな感覚とともに、小百合の脳裏にその映像が広がった。
「竜神様だと、思ったんだ」
 ざわりと鳴る鱗、ゆうるりとはばたく羽、人知を超えた想いの詰まった咆哮。
 そんなものが渾然一体となって頭の中に押し寄せるその名前を、どうして今まで忘れていられたのか……それが不思議なほどだった。
 しかし達矢は小百合の夢想をぶち壊すように言う。
「そりゃあ竜の字違いだろうよ」
「そうなんだけど、いいでしょ別に」
 満足げな表情でうなずき、小百合は机に突っ伏した。疑問が解けたからには、クラス委員が決まるまでだらりとしているのがいい。
 けれどもそんな小百合に、ざわめきに支配された教室の前方から声がかかった。
「宇野、大滝、お前らふたりでやったらどうだ」
 どうやら宮森は、思ったよりもほのぼのとした、ある意味いい感じの雰囲気を作り上げているふたりに目をつけたらしい。
 生来の面倒くさがりがふたりを役職から遠ざけてはいるが、本気になれば――達矢などに言わせれば、『本気になる』という才能が自分には欠落しているのだといったところだが――なんだってそつなくこなせる実力をふたりともが備えているはずだった。
「でも先生、面倒くさいです〜」
 まず始めに、小百合が抗議する。彼女としては今年も高みの見物を決め込む気でいたのだ、それを邪魔されて気分のいいはずもない。
「他に候補はいないんですか」
 一方達矢は、クラス中をぐるりと見回して……というよりも睨みまわして、他に候補者を見出そうと躍起になっていた。しかし、こんな仕事が多いばかりの委員をやりたがる人間などそうはいない。皆宮森の関心が達矢と小百合に向いたのを見るや、今まで彼らがいた傍観者という位置をあっさりとかっさらっていってしまった。
「このクラスで誰よりもふさわしいのがお前たちだろうが」
「それはどういう意味でですか」
 精一杯の反抗を試みるが、ちょっと成績がいいだけの青二才が十年目のベテラン教師に敵うわけもない。
「もちろん能力面だろう」
「でも、宝の持ち腐れという言葉もありますが」
「お前たちが宝を持ってる、それだけでいいんだよ。それを取り出すのは他の人間がやってくれる」
 宮森が視線をやった先には、達矢の進学塾に通っていた頃からの友人の他に、日常生活を営む上で著しい才能の欠陥が見られる小百合の『保護者』であるふたりの少女がいた。
 小百合と達矢を動かすことができる人物がひとクラスに集まったのに着目したのだ。
「……大滝君、やる?」
「はあ? どうしてだよ」
「大滝君がやるなら、さゆやってもいいかなって思うんだけど。その代わり、さゆが委員引き受けたら大滝君のことたっちゃんって呼んでもいい?」
 ごくごくナチュラルに繰り出された台詞に不穏分子を嗅ぎ取り、達矢は眉根を寄せた。
「ちょっと待てよ、それってフィフティフィフティじゃないだろ。どう考えても、お前のメリットのほうが大きいぞ」
――利害のキャッチボールがわずかにつりあっていなかった。小百合が達矢に出した条件はふたつ、けれども達矢が受けられる見返りはたったひとつ。しかも、彼に示された条件のひとつと均しい重さを持つものだ。
 それに、たっちゃん、などという呼称で指されることも、小百合と一緒にクラス委員をやることも、どちらも達矢にとって愉快な事態ではなかった。
「あれ、バレた?」
 にへらっと笑った小百合に、かすかな苛立ちを覚える。
「でもさ、大滝君とならやるっていうのは本当。ねえやろうよ、やろうよ」
 隣の席の少年の肩を掴んでゆすぶり、小百合は駄々をこねる子供のように言った。
「勝手にやってりゃいいだろ、俺は嫌だからな」
「大滝君と一緒じゃなきゃやらないもーん」
 ふいっと顔を背ける小百合に、達矢は思う。
 別に自分は、小百合がクラス委員をやろうがやるまいがどうでもいいのだ。ならばここはひたすら無視するに限る、と。
 しかしそこで黙っていないのが、宮森である。
「宇野、お前は大滝と一緒だったらやるんだな?」
「はぁい」
「じゃあ大滝が妥協しろ。――クラス委員を宇野と大滝に任せる者手を上げろ」
 宮森の言葉に、達矢と小百合を除いた三十八名の生徒がいっせいに挙手した。
 達矢を見つめてにっこりと笑う小百合の顔を睨み返し、彼はこっそりと嘆息した。
――――今年はどうやら、最悪の一年になりそうだ。


 次の休み時間、結局、わけのわからないままにクラス委員になってしまった達矢と小百合のもとに、それぞれ友人たちがやってきた。
 真ん中でわけられた前髪から現れる額のガーゼに手をやって嘆息しているのは、小百合よりもだいぶ背の高い女子バスケ部の吉野理帆だった。天然の柔らかい茶髪を短くそろえ、浅黒い肌とやや彫りの深い顔立ちとを持つ理帆はよくハーフですかそれともクォータなどと聞かれるのだが、江戸時代以前に異人さんの血が混じっていない限り、間違いなく生粋の日本人であることが立証されている。百七十に手が届く長身は女子バスケ部の中でも飛びぬけており、またプレイの技術も中バスでは一二を争うという評判だ。
「さゆ、どうしたのここ」
 はたから見ればたいそう間抜けな姿なのだろう、小百合の額を指さして笑ったのは、河東聖。彼女は中学演劇部の部長で、中高合同講演はともかく中学生だけの舞台では脚本の調整を手がけたあとに部内オーディションでヒロイン役をさらっているらしい。こちらは中学校に入ったときに染めたという茶色い髪の毛を長く伸ばしている。栄養をとっても脂肪にならずに髪の毛がキレイになるのとは本人の言だが、明らかにそれは間違いであると思う。――その長さで茶色くしているわりに毛先まで滑らかなのは事実だったが。
 ふたりともに、小百合とは中一のときからの付き合いで、人一倍とろい彼女にしっかり者がふたりがかりで世話を焼いているような感じだった。
「なんか遅刻しそうになっちゃって。急いでたら、電柱にぶつかってひっくり返っちゃったの」
「あっぶないなあ……」
 理帆が顔をゆがめて小百合の頭をぽんと叩いた。
 遅刻しそうになって自転車で転倒ということになると、自転車通学許可を取り消されるおそれもある。
 聖もそのことを考えていたようで、こちらははっきりと口に出した。
「気をつけたほうがいいよ、今年の生活指導は祥子ちゃんじゃないんだから。あんたの家駅遠いでしょ、自転車と電車、そう通学時間変わらないんじゃないの」
 確かに、小百合の最寄り駅から水郷学院近くの赤瀬駅までは三駅だが、自宅から最寄り駅までは自転車でも十分ほどの時間を有する。
 それを考えると、今聖が言ったことは正しかった。
「知ってるよ、磐田先生保健室に残ってたもん。浅野先生だよね、やっばいなー……」
「まあ、クラス委員も引き受けたんだし点数上げとけばいいでしょ」
 と、自身成績では小百合に及ばないもののクラブの後輩たちに慕われ、裏表のない闊達な性格で先輩や教師、もちろん同級生にも受けのいい理帆は言った。
「うん。さゆ、こういうのってはじめてなんだけど」
「そうだよね、そういえば」
 まあ、成績と役職とがなんの関連性も持っていない水郷学院において、それはさほど不思議なことでもなかった。理帆などは二年間ずっと体育委員を続けてきているが、小百合にそこまでの勤勉さを求めても無理だと理帆も聖も思っていたのだ。
 それがここにきて、急に厄介で面倒なクラス委員である。小百合の普段の言動からは考えられないことだった。
 本人の言っていたとおり、「大滝君がやるならさゆもやる」ということなら、ここは是非ともそのことについて問いたださねばならない。
 ふたりはそっとアイコンタクトをとりあうと、隣の席でしゃべっている達矢とその親友、桜井創一を横目で眺めて小百合の腕をとった。
 いくらなんでも、達矢自身が隣の席に座っているこの状況で彼について話すわけにもいかないだろう。
「さゆさゆ、お手洗い行こ」
「うん」
「桜井、ここ座っててもいいよ」
「ああ」
 小柄な身体が立ち上がる。もうこれ以上は成長しなかろうというほどに育っている理帆はもちろん、全体的に華奢なつくりの聖と比べても小百合は身長が低かった。
 指は手のひら大きさのわりには長いが手も足も小さいし、身長の伸びもいまいちだ。もう自分の成長期は終わったのだろうと、小百合は見切っていた。
 理帆の長身や聖のバランスがとれた身体が羨ましくないといえば嘘になるが、生活能力ゼロ、容姿も十人並みときてはかの有名な『天は二物を与えず』との言は真実を指摘していたのだなと思ってしまっても仕方がない。
 もっとも、世間の者から見れば水郷学院で学んでいるというそのひとつだけで『一物』は与えられているのであって、その中でトップの成績を誇る小百合も運動神経に抜きん出た理帆も年齢よりも大人びて見える整った顔立ちの聖も、皆その言葉を裏切っていることになるのだが。
 女子の手洗いに聖が足を踏み入れ、しばらくしてからハンドタオルで手を拭きながら小百合と理帆のもとに帰ってきた。小百合とは違った意味で貧血症状を起こしているらしい。ただでさえ白い肌が透き抜けるような儚さをともなってひるがえる。
 小百合は十四年間生きてきて、これほど容姿の美しい少女を見たことがなかった。
 テレビや雑誌に姿を見せるタレントも容姿のすばらしさを絶賛されることでは同じだが、小百合のすぐ隣に立っている生身の聖には、画面越しに見るものとは比較できない美しさが備わっているのだ。
「ひーちゃん大丈夫?」
「今日はもうだいぶ平気。それよりさゆこそ大丈夫なの?」
「おでこのこと? 磐田先生が手当てしてくれたし、病院行けとも言われなかったから多分たいしたことないとは思うんだけど……お風呂のとき、見てみよっかな」
 額のガーゼをぺたぺたと触り、小百合はひとりでうなずいた。ガーゼは救急箱の中に常備されているはずだし、薬も家にある軟膏でいいのだろう。病院は待ち時間が長いため、小百合は嫌いだった。
「これからは気をつけるんだよ、頭打ったりしたらいつ馬鹿になるかわかんないでしょ」
「そうだよね、馬鹿になるのは困るよねー」
 ただでさえ、家族に「勉強のほかはてんでお子様」と言われてしまっているのだ。これで成績まで落としてしまったら本当に単なるバカである。
 自分に勉強しかとりえがないなどと思ったことはないが、やはり少ない勉強で要点が理解できると、いろいろと生きやすかった。何よりも自由な時間が多いのが嬉しい。
 勉強が本分の学生とはいえ、その勉強に拘束されて息苦しいではなんのために生きているのだかわからない。
「……それでさ、さゆ」
 廊下に背中を預けて、理帆は短い茶髪をかきあげる。後輩に見られたら、また女子バスマネージャーの志願者が増えそうな勢いだ。
「なあに、りっちゃん」
「聞きたいことあるんだけど」
「うん、いいよ。何?」
「大滝ってどんな感じ?」
 正面で小百合の瞳をのぞきこむ聖に、小百合は隣に立った理帆の高いところにある肩にこてんと頭を預けて首をかしげた。
「どんな感じって言われても、まだ一時間隣にいただけだし……」
 そんなに会話していたわけでもないし……。
 どんな感じなんだろう。
 小百合は達矢とははじめて言葉を交わしたのだから、彼女のほうが彼がどんな感じなのか教えてほしいくらいだった。
「ふたりとも、大滝君と同じクラスになったことないの?」
「あたしは去年、同じだったけど」
「だったらりっちゃん教えてよ」
「――そうじゃなくって」
 聖が小百合の頬をつついて首を振った。
「あんたと大滝はどんな感じ、って聞いてんの」
「さゆと大滝君? なんで?」
 客観的に見て自分の言った言葉が少女たちの関心を引きまくることに気づいていない小百合は、聖の言葉に二重まぶたの下の目を瞬かせた。
 この馬鹿と天才はなんとやらを地で行く少女は、言葉のひとつひとつが天然なのだが、それが小百合を理帆や聖ほどに知らない人間には限りなく問題な発言に聞こえてしまうのだということを、そろそろ悟ったほうがいいかもしれない。
「大滝と一緒なら委員やってもいいなんて言ってたでしょ、あれはどういうこと?」
「ああ――聞こえてたの? あれはね、大滝君なら、さゆがさぼってても文句は言わないかなー、なんて思ったから」
「さぼってても、ってあんたさぼる気?」
「っていうか、大滝だろうが誰だろうがさぼってれば怒ると思うけど」
「ううん、それでもいいの。だって大滝君がさゆを怒るためには、大滝君がきちんと働いてないとだめでしょ」
 無邪気な表情の下で計算しているらしい小百合は、でもね、と続ける。
「大滝君悪い人じゃないと思うし、頭もいいし、さゆよりはしっかりしてると思うし。他の男子とやるよりはいいかなーと思って」
「悪い奴じゃあないしさゆよりはしっかりしてるしあんたと大滝が並んでるとある意味迫力あるけど……」
 つまんないなあ……と聖が零す。
「別に大滝が好きってわけじゃないんだ」
「そんなこと言ったって、今日会ったばっかりだし」
「……さゆはとぼけてるからねえ……」
 まあ別に、ふたりも本当に小百合が達矢に『好き』という感情を持っているなどと疑っているわけではなかったから構わないのだが。
「……聖、もうチャイム鳴るから戻ろう」
「うん、ああそうだ、さゆ、今日さゆのお家に行ってもいい?」
「多分平気だけど」
「よかった。じゃあさゆの初っ端からの遅刻を祝して騒ぎましょうか」
「えー、それってなんか違うと思うんだけど」
 小百合は聖と理帆を順に睨み、一瞬の後にぱっと破顔した。
――――今年はどうやら、最高の時間を過ごせそうだ。
 それが三人に共通する思いだった。



前へ / 目次 / 次へ
螺旋機構 / サイト案内へ



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送