NEXT GAME - きみには負けない - |
【01】 - in spring - 朝八時の三坂通り。 武骨な電柱と時折薄紅の花弁を降らせる桜の樹とが交互に立ち並ぶ歩道を駆ける、一台の自転車があった。 肩を越す長さの黒い髪の毛を乱れさせて一心不乱に自転車をこぐ少女の姿はその必死さがかえってこっけいでもあり、周りの人々の微笑を誘ったのだが、少女のほうはそんなことに構っていられない。ひたすら目的地を目指して愛車を飛ばす。 彼女の目指す先は私立水郷学院中等部、三坂通りの奥の奥、通りが終わる突き当たりに校門を構える進学校である。少女の自宅からは自転車で二十分という、彼女にとってだけすばらしく良い立地条件のもとにある学校。 四月八日、新入生の入学式を昨日終え、在校生の始業式が行われるこの日、少女はいつになく焦りの表情を濃くして遠くに見える校舎を見つめていた。 式の始まる十分前ともなると、優等生ばかりの水郷院の生徒はもう三坂通りを歩いてなどいない。鬼気迫る表情で全力疾走する少女の姿は、とりあえず彼女の名前と顔を知る人間には見られることがなかった。 「初日から遅刻なんてかっこわるいこと……」 できるわけない。 口の奥で呟き、少女はまた頬を引き締めた。 昨年度遅刻回数ナンバーワンの称号……というよりも汚名を与えられてしまったからには、今年はできるだけみっともない姿を晒さないようにしなくては。 できるだけ、というところに彼女の弱気がうかがえるのだが、本人いたって真面目である。 ちらりと時計を見れば、時刻は八時三分。 ――――間に合う、まだ間に合う。 それを合言葉に、二年間の自転車通学で鍛えられた足腰をフル活用して、少女は走る。 九十秒後、自分が予想もしていなかった災難に遭遇するなどということは、彼女のよくできた頭の中にはまったく存在しなかった予想だった。 「せんせい、いわたせんせい、痛いでえす……」 水郷学院の保健室の火元責任者、つまりは若いながら三人の保健医の中で中心的な位置を占めるギリギリ二十代の磐田祥子は、始業式の朝も変わらず保健室に詰めていた。 朝っぱらから保健室に担ぎ込まれるバカもいなかろうという前提のもとに皆で始業式に列席しようとしないのは、ときどきいるからである。 今窓を叩いた中三B組女子三番、宇野小百合のようなバカが。 「……今日はどうしたの」 「転びましたぁ」 間延びした口調で言った小百合の額には、赤い血が滲んでいた。流れ落ちるとまではいかないが、なかなかに痛そうだ。 祥子は顔をしかめ、なぜだか机の脇に置いてある、ごく一般的な家庭のダイニングキッチンにでもぽんと置いてありそうな椅子に小百合を座らせた。ガーゼと消毒薬を取り出すと、小百合が見るからに嫌そうに顔をそむけた。 「磐田先生、それかなり染みるでしょ」 「あったりまえでしょ?」 「やだなぁ、ほっといたら治らない?」 「あんたバカじゃないの? ずきずきしない? 傷、かなり広いんだけど」 ほうと溜息をついて、小百合が祥子を見上げる。滑らかな額に広がる擦り傷がなんとも痛々しい。入学以来小百合は怪我、病気を問わず頻繁に保健室の世話になっていたはずだが、これほどひどいのは初めてだった。 「そうだろうねえ、結構痛いよ」 「自転車通学だったわよね。どんな運転してたの、普通自転車で転んで額なんて擦りむく? あんまり乱暴にしてると、自転車の許可取り消されるかもしれないってわかってる?」 「わかってるよ、でも遅刻したくなかったんだもん」 「どうせもう始まってるわよ、HRに移動してから合流すればいいじゃない。……で、どうして転んだの?」 小百合はきまり悪そうに微笑んだ。少しあどけない感じのする顔立ちは、笑うとぱっと花が咲いたように華やかになる。それとはまた違った種類の笑みだったが、いたずらを叱られた子どものような表情に祥子も吹き出した。 「ほら、言いなさい」 「……ぼーっとしてたらふらーってなって、電柱にぶつかったの」 しばしの沈黙、そして直後、祥子は何かがはじけたように笑い出した。 「っ……馬鹿じゃないの、あんた、電柱にぶつかったってさ……ほんとに?」 「うん、情けないけど」 小百合がどこか夢見がちでぼんやりとした性格であることを理解するくらいには、彼女は保健室の常連だった。教師らしからぬさばさばとした言動の祥子にもよく懐いている。 「あんたももう少ししっかりしなよ。もう中三なんだからさ」 「磐田先生、おかあさんみたいなこと言わないで」 「おかあさんてあんた……」 「だって、今日起きたときも言われたよ。もう中三なんだから、ひとりで起きられるようになれって」 「今まで起こしてもらってたわけね」 何の臆面もなくうなずく小百合が、傷口に染みる消毒液に眉を寄せた。 祥子の手当ては、容赦がない。 ガーゼを乗せて固定し、祥子は壁にかかっている非装飾的きわまりない時計を見上げた。 「今から教室行けば、ちょうどいいくらいじゃない?」 「でもさゆ、クラス割り知らないんだけど」 口をとがらせた小百合に、祥子は職員に配布されたクラス割り表を取り出してひらひらと振った。 「あんたはB組。おもしろいクラスだよ」 「どうして磐田先生が知ってるの?」 「おもしろいクラスだと思ったから」 「……? どこがおもしろいの?」 「行けばわかるよ」 なかなかに強烈なメンバーの集まるクラスだった。 だからこそ、祥子の記憶に残っていたのだ。 小百合が首をかしげていると、始業式の後のHR開始のチャイムが鳴りはじめた。 「ほら行きな、HR、いろいろやることあるんだから」 「はぁい」 小百合が鞄を掴み立ち上がる。 保健室を出て行く足取りがわずかにふらついているのに気づき、祥子は溜息をついた。 ――貧血気味なんだったら、休んで構わないってのに。 始業式の時点で既に、彼は自分の隣にいるべき人間がいないことに気づいていた。 中三B組男子三番、大滝達矢。 宇野小百合とともにレベルの高い水郷学院で学年トップの成績を維持し続ける少年である。 彼と小百合とのデッドヒートはテストのたびに他の学生たちの注目の的で、三位以下を占める優等生集団もこのふたりは別格なのだと入学早々諦めた。しかし達矢自身は、抜きつ抜かれつの攻防にはさしたる興味もなかったし、宇野小百合という存在とも今まで接する機会がなかった。 どうやらふたりは面倒くさがりという点で酷似しているらしく――どちらかといえば、小百合のほうがその傾向が強いようだ――、昨年度末に生徒会役員にまつりあげられそうになったときにもその誘いを一蹴していたし、委員やら係やらをやっていることもあまりなかった。 テストの順位など気にしてはいないと言っても、やはり自分と同じ位置にいる少女のことには興味がある。 特に、天真爛漫でおおらか、いたって無邪気という過大評価にもきこえる評判を耳にしているから、なおさらだ。 今までの二年間達矢が小百合と同じクラスになったことがないのも、委員会などでかちあったことがないのも、生徒数の多い水郷学院においてはすべて偶然であたりまえのことだ。今回彼と小百合とがたまたま出席番号順で隣同士の席に座ることになったのも、偶然。 けれども今、達矢の隣は空席だった。 「……宇野は欠席の連絡は出てないな……誰か見たか?」 担任の宮森が席に着いた生徒たちを眺め回して問い掛けた。 誰も、彼には答えない。 そこにあるのは、ただ宮森と同じように首をかしげる子どもたちだった。 「じゃあちょっと教員室で確認してくるから、あんまり騒ぎすぎるなよ」 そう言って、宮森が教室の戸を引いたときだった。 彼が開けたのとは反対――つまり教室の後ろに位置する扉を、勢いよく音を立てて引き開けた小柄な影。 比較的自由な校則のせいでクラスの中にも髪の毛を染めている者は見られたが、彼女のそれは光を吸い込んで輝く漆黒だった。くるくると波打っているのは、おそらくパーマをかけているのだろう。 その外見からは、彼女が進学校のテストで毎回一位二位をキープしていることなど想像もできない。ほんわりとした、現実離れした容姿だと思った。 そして今朝は、その……額の。 「……宇野? どうしたんだ?」 「朝転んで、始業式の間保健室にいましたあ。これ、磐田先生のサインね。先生、さゆの席ってどこですか?」 朗らかに言った小百合の額には、白いガーゼがぺたりと張り付いていた。 転んであそこが傷つくものだろうか、と達矢は疑問に思う。 「大滝の隣だ。仲良くしろよ」 「はぁい」 何が楽しいのだか知らないが、小百合はなんとも情けない姿で子どものような返事をすると、達矢の座る横の机へ鞄を置いた。 達矢のほうなど見ず、着席すると机に肘をついて宮森の話を聞き始める。 彼もまた、小百合に対する興味を押し殺して担任の姿に視線を集中した。 |
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