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妖 精 の 道 - Fairy Tale - |
(1)「妖精の道」(前編) お父さんが私の側から消えてしまった、その直前のこと。 道は妖精が作るんだって、聞いた。 人間の工事夫は、ただそれをなぞっているだけなんだって。 道は、妖精が作ってくれる。 ――でも、妖精の作った道を曲げることは、人間にはできない。 「アヤ、そろそろ川へ行こうか」 幼なじみのリキの言葉に、アヤはしいっと指を立てて後ろを振り向いた。アヤがたった今まで向けていた視線の先には、まだ一歳にもならない彼女の娘。ミサと名づけられた、父親を持たない無邪気な子供である。 アヤは、誰にも気付かれないうちに子供を作っていた。相手が誰なのか、リキや母親が問うても決して口を割らなかった。その男を愛しているとも、恨んでいるとも言わなかった。 彼女は自分も五つのときに父親を失ったためか、たった一つ、ミサを父親のない子供にしてしまったことだけを悔やんでいるようだった。ごめんね……とアヤが呟くのを、リキは何度も見た。五年分、損したねと優しくささやくアヤを見るたびに彼は思う。相手の男は案外、やむをえない事情があってアヤとミサを捨てたのかもしれないと。アヤを孕ませ、子供ができたと知ると途端に逃げ出すような無責任な男ではないのかもしれないと。 「行きましょう、リキ」 リキはアヤにうながされて外に出た。 そこでは、顔なじみの若者たちがアヤとリキを出迎えた。皆幼いころからの友人たちで、互いを大切に思っている若者だ。アヤが身ごもったとき、激昂して暴れた友人もいるが、今は皆ミサをかわいがり、子育てを手伝ってくれている。 今日の留守番はレナということで話が決まったようだ。彼女自身は夫を持っているが、まだ子供はいない。アヤの友人の中でも、特にミサをかわいがっている少女だ。 「レナ、ごめんね、ミサをお願い。なるべく早く帰ってくるから」 「別にいいわよ、ゆっくりしてきて」 レナは小さいころから子供好きで知られていた。ミサを抱き、アヤよりもはるかに母親らしい表情で手を振る。 「よろしくね」 「心配性ね、お母さん。大丈夫よ」 レナの苦笑に見送られて、一行は川へ出かけた。 ――世界の律を定める妖精が生み出したと言われる貴石、即ち『妖精石』を採りに。 妖精は人と同じかたちをしているが、その美しさは人間とはくらべものにならないという。美しさだけでなく、気高さ、雄々しさ、愛らしさといった、人に好意的な感情を抱かせる要素すべてにおいて、妖精は人を超越している。 そして彼らは、決してそのままの姿で人の前に現れることはない。じかに見たならば目がつぶれるとも言われる、高貴な妖精の姿を仮面の下に隠し、並外れて美しくはあるものの人の範囲を越えてはいない麗人の姿で人間の世界へ降りてくるのだ。 妖精の力を疑う者は、この世界には誰もいない。彼らがはじまりの神から世界をゆだねられたことは厳然とした事実であり、彼らの力によって神亡きあとの世界はその形を保って存続しているのだから。 この空もあの川も道も人もすべて、作り出したのは、妖精なのだから――。 ――すべての道は、妖精が敷いたものなんだよ―― アヤたち村の子供は、くりかえし大人たちに言い聞かされた。 人の手ではどうしようもできない、絶対の「道」の存在を。 ――妖精の道を曲げることは、誰にもできないの―― 「……妖精になら、道を曲げられるの?」 こみ上げてくる思いのままに、アヤは呟いた。リキがぎょっとしたように足を止める。ミサを生んでから――否、正確にはミサの父親である男と出会ってから、どこか妖精に魂を奪われたような発言をくりかえすことがあるのは自覚していたし、人一倍アヤのようすに気をつかってくれているリキがそれに気付いていることも知っていた。 「どうしたら、道は曲げられるの?」 体から魂が遊離してしまったような気分で呟いたアヤの袖を、裏の家に住むケイがひいた。 「アヤ、気分悪いなら帰ったほうがいいんじゃない?」 「ありがとう――ケイ、でも大丈夫」 アヤの言葉に、ケイはわずかに不満そうな顔を見せる。 「あんた、ミサがいるんだからね。具合が悪かったら、早めにあたしたちに言ってちゃんと治さなきゃだめなのよ」 「わかってるわ。ありがとう、大丈夫よ」 妖精石は、村の貴重な資源だった。光を受けると虹色に輝く貴石は、どんなに小さくとも驚くほどの高値で取引される。アヤのように、年老いた母と赤ん坊を抱えていながら夫を持たない少女にとっては、重要な生活資金源だ。定期的に川へ行き、妖精石を見つけ出して――そう頻繁に見つかるものではないのだが――それを売る。それで、三人が充分暮らしていける金になる。 子供を連れていてもいいという男と結婚しろ、と言われることもあった。しかしアヤはそのすべてを拒み、一人でミサを育てている。 ――あの人は、妖精なのよ―― アヤは口唇を噛み締め、ひっそりと胸中で呟いた。 ――だから、あんなに急に消えてしまった―― 妖精のような、と形容されることは、人々にとって最大級の褒め言葉だった。 妖精のように美しい娘。妖精並みの知性を備えた賢者。そのような人間達が、お伽話には頻繁に登場する。 しかしアヤは幼い頃から、滅多に妖精についての言及をしなかった。 人の歩む道を定め、絶対の力をもって人の世界を支配する、神に代わる存在。彼らの定めた道は、決して曲げることはできない。――そんな、人間とはあまりにも違う存在が、怖かった。妖精の道は絶対のものだと、そうアヤに教えてくれた直後に失踪した父親を思い出すたびに、おそろしくなった。事故の痕もなく、人と争った形跡もなく、かといって村を出て行きたい素振りなどまったく見せなかった父が消えたのは、妖精の祟りのような気がして。そして、そう考える自分もまた、妖精達に忌み嫌われているのではないかと思って。 妖精の機嫌を損ねてしまったら、アヤの道など簡単に奈落に続く暗の道と化すのではないかと怯えて。 そんな、いつまでも終わりのない恐怖に、そろそろ耐えられなくなっていたときだった。 まるで妖精のように美しい――アヤが生まれて初めて妖精という存在を褒め称えた、妖精を正のものとして捉えられるようになった、一人の若者に、アヤは出会った。 アヤと同じくらいに長い、けれども荒れたアヤの黒髪とは比べものにならないくらいに輝いた亜麻色の髪の毛を一瞬の風に攫わせて。濃い、闇の中で黒々と溶けそうな青い目で、アヤを見つめていた。後ろ姿だけを見たときは、女性だと思ったその人はその印象が恥ずかしいくらいに長身で、それでも月に照らされて体内の血の道さえ浮き上がる白い肌をしていた。 吊り上った目で、アヤを見た。しかし、睨んでいるのではない。どこか、慈しむような、光を反射するような眼差しで、うっすらと笑った。 アヤを含めた村人達の殆どが暗色の外見をしている中で、光のあたる場所で驚くくらいに輝く色彩を身に纏っていた。アヤは黒瞳を見開いて、音を立てないように身を翻した。 わずかでも足音を立てたら、その人は消えてしまうような気がして。 ――待って…―― 青年はややうわずった声でアヤを呼び止めた。懇願しているような、意思を込めた強い囁きだった。聞こえない振りをしても、よかった。それだけの理由はある。実際に、どうしてあの距離でアヤの耳に届いたのか不思議に思ってしまう小さな声だった。無視してしまえばよかった。そうすれば、いつまでも平静な、昼と夜が順序良く並ぶ日々を続けていくことができたというのに。 ――お願い、待って―― アヤは足を止めた。 振り返ってはいけない。振り返ったら、消えてしまう。青年の存在が確固たるものだというのは、発せられた声で分かった。 青年ではない、アヤの平穏な日々が、長い間に培われてきたアヤの思いが、消えてしまう。 この人は妖精なんだ、とアヤは全身で悟っていた。今振り返ったら、妖精というものに対する印象が塗り替えられてしまう。そうしたら、父を思い出すことができなくなる。 アヤから父親を取り上げた妖精達に対する、憎しみが消えてしまう。 なのにどうして振り向いてしまったのだろう。 母が父の失踪を受け入れるのを拒んだ今、アヤの天秤さえも妖精に傾いてしまったら…あまりにも、父が哀れだ。 ――あたしの夫は、妖精の怒りに触れたんだ―― そう言って、父を忘れようとした母。 アヤにも、お父さんのことは忘れなさいと言った母。 妖精の怒りが自分に向くのを怖れ、夫を忘れた母。 自分が、妖精を振り向いてしまったら、父はもうどこにもいけなくなる。どこにも戻ってこられなくなる。 だから、振り向いてはいけないのに。 アヤは首をひねり、おそるおそる青年を見つめた。アヤの目を凝視した青年が、月に似せて口唇を持ち上げ、柔らかに微笑む。 その仕草は不思議と父親に似ていて――アヤは、急速に濃くなる絶望と、その中心から溢れ出るうすっぺらい歓喜を覚えた。 きっと、この青年は自分から父親を取り上げるために姿を見せたのだろうと――妖精に背いた人間をいつまでも思っているアヤを罰するために現れたのだろうと、涙が零れる。 ――あなたは妖精なの?―― ――妖精?―― 青年はアヤの言葉に小さな声をあげて笑った。おそらく、他の――この青年以外の人物に同じように笑われたら、彼女は嘲笑われていると思い込んだことだろう。しかし彼の響きに嘲りはないと確信できた。出会ったのは、つい先刻のこと。青年は、そのときからアヤに対して負の感情を向けてきたことがない。むしろアヤを求めていたような、哀切な響きでアヤを呼び止め、アヤの疑問に稚拙さを感じているようでありながらそれを受け入れている。 ――それは嬉しいことだね。貴女のようなお嬢さんに、妖精などと形容されるのは―― そのときのアヤは、その言葉を単なる世辞としか受け取らなかった。綺麗なお嬢さん、気立てのいい娘さん。それと同義の言葉なのだと思った。しかし、振り返ればあれは青年が予めアヤのことを知っていたということの裏づけになる。妖精に反感すら持っているアヤに、妖精かと聞かれたのが嬉しいと、アヤの感情の裏に押し隠していたものを揶揄したのかもしれなかった。 ――あなたは、妖精?―― 是とも否とも答えない青年に、アヤはもう一度問い返す。 青年は端麗な貌に薄い笑みを貼り付けたままで、真っ青な目でアヤを見つめた。 まるで――青年が月に糸をつけて操っているようだ。天の月を、自らを美しく――それこそ妖精のように――見せるために照明として用い、さらには月を操り二人の影を止める。 その瞬間、確かに時間は止まっていたのだと、アヤは思った。 時間は必要なかったのかもしれないとも思った。 いつも、そうなのかもしれない。時間さえ経たなければ、誰も、傷つくことはない。時間が傷を癒すと同時に、時間は人を傷つける。 ――妖精であることに、何の意味があるだろう? 妖精とは何なのだろう? ……基準が違えば、結論もまた異なる。もしかしたら、私は妖精かもしれない。もしかしたら、貴女も妖精なのかもしれない―― ――そんなわけはないわ―― 妖精とは、すべての道を定め、操るもの。彼女にそんな力があったら、きっと……父は戻ってきてくれた。父の道を曲げてでも、戻ってきてもらった。 ――そんなわけは、ないの。おかしなことを言わないで下さい。村のお客様なら、広場に面して宿がございます。長の家は、その奥。私は失礼します、もう遅い―― こころなしかいつもより一回り大きな満月が、既に空のもっとも高いところにあった。こんな真夜中に歩いているなど、おかしな人間だ。彼女は、母親の突然の狂声に薬師のもとを訪れ、指示されたとおりの薬草を採って帰るところだった。村近く、至るところに生えている薬草だが、精神の錯乱に驚くほどの効果を発揮する。……と言っても、小さく平和な村のこと、滅多にそれが活用されることはなかった。 ――ちょっと、待って……。ご一緒してもよろしいですか? こんな真夜中に一人で歩いていては危ない―― 青年はにっこりと笑ってアヤに手を差し出した。 それが、当然のような仕草だった。 ――あなたの名前は何て言うの?―― ――私? 私は……マオ。マオ、と言う―― ――マオ? そう……それはいい名前なのかしら?―― ――それは、貴女次第だと思うよ―― ――アヤ、貴女は私を忘れたい?―― ――妖精の道が忘却を指し示すなら、私はどんなことでも忘れてしまうわ―― ――でもね、私はあなたのこと、忘れたくはないのよ―― ――道を捻じ曲げるなんて……本来、簡単なことのはずなんだ―― ――あなたはやっぱり妖精なの? 道を、曲げられるの?―― ――さあ……どうだろう―― ――貴女の道なら、私の目にはっきりと映る―― ――映る……? 私の道が? 嫌だ、あなたはやっぱり妖精なんじゃない―― ――そう思う? おかしな話だね―― ――何が? マオ、何がおかしいの?―― 水の飛沫が跳ね上がるのを避けつつ、アヤは川の中を素足で上流に向かった。 彼女は本来、大勢の人間がいる場所を厭う気質の持ち主だった。父は村で生まれ育ったのではない、余所者で、家の裏の畑からは外に出ようとしなかった。アヤも、五つになるまでは父にべったりで、友達もいないような生活を送っていたのだ。 父がいなくなってから、ずっと、泣かないように、笑っていられるように、明るく陽気でいられるように、欺いてきたけれど――自分も、周りも。 妖精石はむしろ上流には少ない。しかし、アヤはミサを産んでからいくつもの妖精石を母親のところへ持ち帰った。 おそらく、ミサの父親――マオの、おかげなのだと思う。 妖精は、今でもアヤを見ているのだろう。消えてしまっても、いつもミサは父親に見護られている。少し距離をおいて娘を見つめれば、ゆらゆらとたちのぼる陽炎のような光にミサが護られているのが分かる。 そしてアヤもまた、護られていることを感じる。 マオが消えたのは、アヤに愛想を尽かしたわけでも子供が疎ましかったわけでもなく――ただ、彼が妖精だからなのだと、それが理解できる。 いつか、アヤが独りで居るとき、彼は戻ってきてくれる。 アヤが泣いていたら、マオは慰めに来てくれる。 そう、思っていた。 しかし、泣くことは出来ない。自分でもなぜだか分からないが、泣くことはできない。おそらくアヤは、一人では泣けないのだ。だからと言って、マオを呼ぶためだけに泣くことはできない。弱い人間は、妖精にとっては要らない存在だ。 おそらく、アヤがマオのために泣くとき、ミサのために泣くとき、そのときには、マオはきっと慰めに来てくれる。 今まで、独りを必要としない少女を置き去りにしたことに罪悪感を感じながら。 「私……泣いてない……」 アヤは裾を持ち上げていた手を下ろし、衣が水に浸かるのも構わず川をさかのぼっていった。 「私泣いてなんかいないわよ……なのに、どうしてここにいるのよ――!」 男は困った顔でアヤの投げた石を受け止め、無造作に投げ捨てた。 人が求めてやまない、神秘の石を。 「ここにいては……いけない?」 「いけないわ、私まだ一人でも大丈夫だったのに――なのに戻ってくるなんて……」 自分はまだ不完全なままだ。 立ち上がれないままに時を過ごし、再び手をとってくれる人に縋ろうとしているのだから。 このままで、彼を受け入れられるとは思えない。それなのに、彼は帰ってきてしまった。 「会いたかったから」 マオは明るい陽の下でにこりと微笑み、アヤの手をとった。思ったとおりだ。彼はいつでもアヤを支えてくれている。 「貴女に、会いたかったから。だから来た。いけない?」 「……私は……あなたがそうしたいのなら、止める権利なんてないのよ。私は私の希望を伝えるだけ、あなたはあなたがしたいことをするだけだわ」 「そうだね。アヤの言うとおりだ」 マオはアヤを連れて岸に上がると彼女の裾を絞り、うっすらと指を発光させて――その手を、アヤが握った。強張った表情で首を振る。 「いけないのよ、ここでは。こんな些細なことで力を使っては」 「分かった」 アヤの裾を乾かそうと手のひらを広げたマオは、アヤの叱責にあっさりと手を引き、大きな石の上に座り込んだ。 「赤ちゃんは元気?」 「……当たり前でしょう。私があの子をほうって来たなんて思わないでちょうだいね、ちゃんと他の人が面倒を見てくれているんだから」 「名前はなんていった?」 「ミサ、でしょう。あなたがつけたのよ」 「そうか……ミサ、か」 忘れていたわけではないよ、と眉を下げてマオが言った。 アヤはマオの隣に座って膝の上に顔を伏せ、わずかな視界の端でマオの表情を見つめていた。誰にも――誰にも見えない場所に隠された口元が、かすかに微笑む。 「アヤ、置いていってごめんなさい。でも……コウは見つかったよ」 マオがさらりと口にした言葉に、アヤが肩を震わせて顔を上げた。 「――会ったの!?」 「会った。彼は元気だよ」 短い情報に、アヤは立ち上がってマオを睨みつける。 「それで、どうしたの? まさか、会っただけだなんて言わないでしょうね! だから――だから言ったのよ、私も連れて行ってちょうだいって……」 アヤが涙を堪える努力もしないで泣き出したのを見て、マオが哀しげに顔を背けた。 いつもいつも、彼は穏やかに笑んでいるだけだった。慰めるときも、怒りを露にするときも。まるですべてが仕方のないことであるかのように、ただ黙って微笑んでいるだけだった。 「もう、会えないの? もう一度そこへ行くことは出来ないの? 私はお父さんに会えないの?」 「コウ……に、会うことなら、できる。私が、彼を呼んでくることはできるよ」 マオの言葉にうなずいて、アヤがそっと囁く。 「また、いなくなるの?」 「違うよ、すぐだ。すぐに帰ってくる。日が暮れないうちに。アヤ、ここで待っていて」 日が沈むまであと一刻もない。それほどまで近くにアヤの探し求めていた人を連れてきていながら、どうして彼は父――コウを待たせたりしたのだろう。 アヤはわずかな不満の表情でマオを送り出し、大きく張り出した木の陰でいつしかまどろんでいた。 |
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